雪に親しむこともないままなのも残念で、快晴の15日(金)、4月に山行リーダーを務める予定の日照岳に下見に。
日照岳は、標高1,751m、白山連峰の別山から東に派生する尾根が庄川で尽きる、その最後のピーク。
山名は、御母衣ダム湖に沈んだ、かつての上白川郷岩瀬集落から見て、最初に朝日が照らす山だったことが由来になっている。
登山道はない山だが、国道156号線から直接登り出せるので、残雪期には日帰り・往復5時間程度で登れる山として、雪山登山入門の山として、あるいは最近はバックカントリー・スキーの山として人気がある。
―とはいうものの、平日ともなると、登山者はなし。
156号線の、ダムに沈んだ村のものだっただろう墓や記念碑のある駐車場が取り付き口。7:45出発。
いったん雪が消えた後、まとまって新雪が積もったらしく、見かけと違い、まったく締まっておらず、つぼ足も無理なくらい沈むので、最初からわかんを装着。
この山は3度目になるが、最初からラッセルというのは初めて。
このルートは、途中まで送電線巡視路が使えるところがいいところだけれど、今回はまったく見えない。
重い新雪は、わかんを履いていてもかなり沈むので、しっかりラッセルさせられる。
赤テープを確かめながら、一回沢をまたぎ、9:30、ようやく鉄塔脇を通過。
標高を上げれば雪は締まってくるといいのだが。。
9:40 ようやく目印となる1,160mポイントのある尾根に出る。日照岳のピークが遠く見える。
10:15 ようやく1,160mポイントに出る。
小腹が空いて握り飯を食べていたら、山スキーヤーが二人上がって来た。
先に行っちゃうのかなと思ったら、帰路にスキーの跡を見たら、ここで引き返していた。このあと、人に出会うことはなかった。
雪はぜんぜん締まってくれることはないばかりか、より深くなり、2mくらい新雪の層がある。
しかもこんなに急だったかなと記憶を疑うくらいの急斜面。
一歩足を進めることが難しくてピッケルを突き刺してよじ登ったり、大きな空洞に体が埋まって脱出に手間取ったり、時間ばかり経過する。
もっとも、もともとラッセルしに来たんだから、文句言う筋合いじゃない。ひたすら修行あるのみ。
振り返ると、御母衣ダム湖(御母衣湖)の向こうに御嶽山が見えてきた。
場所を移すと、乗鞍岳、穂高連峰も顔を出してくれた。
13:30 ようやく日照岳のメインとなる稜線上に出る。
見たとこ、締まった雪のようでも、相変わらズブズブ沈む。いやはや。。
コースタイム往復5時間程度のはずが、ここまで6時間近く。
振り返ってみれば、奥美濃など、両白山地の山々で、まったくの新雪のラッセルは初めて。
ま、今回は登頂というより、雪深い山の空気を味わいに来たんだから、これもよし。
北に、荒々しい岩肌を見せる三方崩山(2,059m:中央)と、奥三方岳(2,150m:左)が眺められる。
奥三方岳は登ったことがないので、行ってみたいけれど、日照岳でこんなに苦労するようでは、なかなかむつかしいかなあ。。
13:45 1,534mポイントに到達。1,160mポイントから、374m標高を稼ぐのに3時間30分余りかかっている。
体力的にはぜんぜん行けそうだけれど、ここまでのピッチを見るとまだ2〜3時間はかかりそうなので、ここで撤退を決断。
遅い昼食を取り、地球温暖化の中で貴重な時間となりつつある、新雪のブナの森のひと時を名残りおしく味わう。
下山は、魔法が解けたように楽。
雪の落とし穴に幾度となくもがいたのが嘘のよう。
登り6時間のところを、下りは1時間50分。15:50登山終了。
両白山地の新雪を甘く見るなという、いい教訓ができました。以上でラッセル修行終了。
<登山記録> (−:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2024年3月15日(金) 快晴 単独行
自宅5:00−荘川I.C.―国道156号線取り付き点(駐車)7:45…1,160mポイント10:15…1,534mポイント13:45〜14:00…取り付き点15:50
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そこで、登山の往復目にしながら、「気になっているけれど登るまでないかな」と思っていた、美濃地方北部の2山を登ることに。
あわせてこの2山の往来に、「円空の冒険」プチ踏査もすることに。
1山目は、美濃市の古城山(437m)。
美濃市市街地の北東に接する山で、その名のとおり、戦国時代末期に佐藤氏が三代にわたって鉈尾山城を構えていた場所。
江戸時代になると、高山城主金森長近が加封され、小倉山に城を築き、鉈尾山城は廃城となっている。
東海北陸自動車道の古城山トンネルに入る直前、ポコンとした山容が気になる山であります。
美濃市運動公園の外れから、画像左手のピークを目指して 7:20登山開始。
さすが市民に親しまれる山だけあって、登山口には案内板なども整備されている。山頂まで時計回りで周回することに。
案内板で見ると、なんかややこしそうなルートに見えるけど、さて実際はどんなでしょう。
案ずるより産むがやすし。林道などとの交差部分には標識がきちんとあり、迷うことはなかった。
スギやヒノキの植林に覆われた山だけど、沢沿いに付けられた登山道沿いは落葉樹も交じる。
それにしても、けっこうな急登の連続。「ポコンとした山」というのは、急斜面ということでもあるんだな。。
登山道沿いの薄い層を重ねた岩肌はチャートで、放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が海底に堆積してできたもの。
金華山などもこの岩でできており、日本地質学会によって「岐阜県の石」にも選ばれている。岐阜県民には親しい岩石。
8:15 古城山山頂に到着。山上は平らで、城跡らしいたたずまい。「史跡 鉈尾山城跡」の案内板もあった。
山頂全体は木立に包まれているものの、南西方面は視界が確保され、右側に誕生山、天王山、そして長良川の流れの向こうに、百々ヶ峰や金華山、そして遥かに白い伊吹山や、養老山地、鈴鹿山脈の山々が展望できる。
「円空の冒険」追跡中のぼっちとしては、円空が幾度となく往来した場所として目に映る。
山頂を後に、南に向かう登山道に入ると、稜線に沿って石塁など、古城の名残りがそこかしこに見られる。
大きな岩の上に立つと、東に恵那山などが眺められた。北の御嶽山などの方向は雲の中。
途中で北に折れ、往路と合流し、9:15登山口に戻る。
2山目は、郡上市和良町のシンボルともいえる和良岳。
その登山口に向かう途中、少々迂回をして、関市雁曽礼の白山神社に立ち寄る。
同神社のご神体は、円空の初期パトロンともいえる西神頭家当主のしたためた棟札で寛文9年作と制作年代が明確に分かる円空の白山三神像(実際には仏像)。
長良川沿いを北上、西神頭家のある郡上市美並町下田から、馬越峠を越えて雁曽礼集落を目指す。
ただし、この馬越峠は、正徳年間に大矢の河合孫右衛門が開いたと伝えられ、今も正徳2(1712)年銘のお地蔵さまが立つ。
寛文9年にはまだ開かれていないことになるが、西神頭家は、津保川側の雁曽礼までかなり広範に氏子を持っていたことになる。
峠を下り、津保川の支流、武儀倉川沿いに点在する穏やかなたたずまいの、雁曽礼の集落に出る。
雁曽礼(がんそれ)という変わった地名の、「ソレ」とは、「ソリ」などとともに焼畑をさす言葉だったのだとか。
白山神社は、集落の中央部に位置し、ま新しい注連飾りがされるなど、しっかり信仰が守られている感じ。
ご神体の円空の白山三神像を直接拝することはできないけれど、祀られる場所に立つと、とても身近に感じる。
和良岳に向かうには、いったん津保川本流まで出て北上、その最も奥の集落が鳥屋市で、不動堂には有名な「尼僧像」をはじめ、円空像が21体も伝えられていた。
過去形なのは、平成17(2005)年、すべてそっくり盗難されたため。何とかお戻りいただきたいもの。
鳥屋市の集落を後に、県道85号金山上之保線の放生峠を経て戸川に沿って金山町側に下る。
円空は、尾張藩領である金山にたびたび訪れているので、このルートは円空も通っていたはず。
戸川が間瀬川に合流した地点で「円空霊告薬師」との石碑がある。
調べるとそこは晩年の薬師三尊で知られる、金山町祖師野の薬師堂ではないか(勝手に飛騨川沿いかと思っていた)。
時系列で円空を追いかけているので、いきなりタイムワープした気分。。
よく吠える犬に警戒されつつ、薬師堂を訪問。
しっかり鍵の掛けられた格子戸越しに薬師三尊像、手前の男神像の形をした十二神将像6体(あと1体は模刻とか)、仁王像、観音像などを拝むことができた。
さらに、堂には多くの棟札がある中で、文政9(1826)年3月17日の日付がある、「圓空上人ノ来由ヲ尋ルニ、当国竹ヶ鼻在ノ生マレニシテ、幼歳ヨリ仏道修行ノ志深ク、蛍雪ノ功ヲ積ミテ、終ニ妙法ノ淵底ヲ究メ、名利ノ塵埃ヲ離テ山野ヲ栖トシ、常ニ國々ヲ経回シ、数体ノ仏像ヲ鉈作リシテ、普ク衆生済度ヲ求メ玉フ。或ハ海底ニ入テ枝珊瑚ヲ採渇テ、鳳闕ニ奉ツル。叡感不斜。方一町ノ梵地ヲ寄附シ玉フ。上人其地ニ一字ヲ建立シ玉ヘリト云フ。」と記された棟札(矢印)もしっかり拝見できた。
後半は荒唐無稽ながら、生まれが「竹ヶ鼻」(現羽島市)とされていることで、生誕地論争で注目されている。
思わぬ円空像対面に感動しながら、馬瀬川の支流和良川沿いの国道256号線を西進し、郡上市和良町下洞集落の和良岳登山口へ。
民家の敷地に、ちゃんと登山口の標識もあるので、安心して取り付くことができる。11:45登山開始。
ヒノキを中心にした植林帯の急斜面をよじ登る。
2万5千分の1地形図に登山道は記されないが、「和良岳」の標識が要所要所にあり、踏み跡はしっかりしているので、登りのルート取りは問題なし。
ただし、上部は雪に覆われ、下山時には思わぬ尾根に迷い込むリスクがあることを意識しておかねば。。
12:50 和良岳山頂に到着。最後まで植林の中。
「続ぎふ百山」には、このような山が多い。しかし、時間が許せばやっぱり全部登っておきたいもの。
和良岳ってこんな山だったんだなあと、好奇心を満たす経験としては、楽しい。
三角点と共に、地元の小学校の5年生が毎年集団登山をした折の立札がいくつも雪の中にあった。
だからこそ、登山道も整備されているんでしょう。
山麓から眺める和良岳。この奥に岐阜百秀山でもあります大洞山(1,035m)など立派な山もあるけれど、村に接する円錐形の独立峰として、やはり和良町民にとってのシンボルの山といえば和良岳といえましょう。
2山登山を終え、長良川側に戻るため、国道256号線をしばし西へ進みかけ、ちょっとストップ。
立派なスギの巨木と、「戸隠神社」の石柱が気になってしまった。
由緒書によると、鎌倉時代以降「九頭宮」と称された宮とのことで、慶長12(1607)年、郡上藩主遠藤慶隆によって社殿が再興され、以後領主や藩主から篤く崇敬されたという。
さらに、拝殿脇の石碑の説明書きによると、建治元(1275)年、橘頼納により大般若経600巻が奉納され、その大部分は飛騨の三木自綱が和良に出兵したとき持ち帰り、天正元(1573)年、千光寺へ寄進したという。
円空は、九頭竜権現を崇敬していたし、祖師野薬師堂からは10?余りしか離れていないから、円空が立ち寄ろうと思えば立ち寄れたはずなのに、円空の像などその形跡がみられないみたいなのはどうしてだろう。
円空の冒険を追いかけると、松前藩、弘前藩、尾張藩など各藩の上層部と(よかれあしかれ)関りがあったと考えられるのに、郡上藩との関りが、ここまでの調査では全く見えてこないのは、もし円空の生誕地がかの五来重氏が提唱されるように郡上藩内だとするなら、やはり不自然に思われる。せめて、西神頭家と郡上藩の関わりだけでももう少し調査してみたい。
そして15:00 美並町粥川の星宮神社の社域に建つ、円空仏が常時92体拝める、美並ふるさと館へ。
今回は、寛文年間後半に集中する民間に授与したと考えられる裳懸坐の小像を確認するのが目的。
いろいろ理解が進むと、10?内外の小さな像にも物語が感じられ、1時間程ガラスケースの前にかじりついておりました。
体も頭もしっかり使ったので、最後に円空の極初期像が多数伝わる子安神社に近い「みなみ子宝温泉」でサウナやマッサージチェアでしっかりメンテナンス。
結果して、今日も(やっぱり)気ぜわしくあちこちうろついているように見えちゃうでしょうが、ブログタイトルがWALKあばうとなので、ご容赦ください (ロ。ロ)/
<登山等記録> (ー:車、…:徒歩)
2024年3月10日(日) 晴 単独行動
自宅5:30−美濃市運動公園(駐車)7:20…古城山山頂8:15〜8:25…運動公園9:15ー馬越峠9:55ー雁曽礼白山神社10:05ー鳥屋市不動堂10:50ー祖師野薬師堂11:10〜11:20ー和良岳登山口(駐車)11:45…和良岳山頂12:50〜13:05…登山口13:45ー星宮神社15:05〜15:55ーみなみ子宝温泉16:20〜17:20ー自宅18:50
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南側の大峠から古光山、後古光山を経て長尾峠に下り、大峠に戻る周回コース。
9:00大峠から登山開始。斎場とソーラーパネルに挟まれた登山口はちょっと微妙。。
メンバー10名ながら、リーダー役で先頭を歩くので同行者の画像少な目であります。前回に比べ天気は格段にいい。
いきなりの霜柱にうっすら雪のかかった急斜面に、メンバーはちょっとひるみ気味。
「コースタイムは短いけれど、岩場の急登・急降下が連続するし、登山道の両側が切れ落ちているので、気を引き締めていきましょう。」
約50分で南峰に到着。
「ここから眺められる室生火山群は、1500万年前にできたと言われるきわめて古い火山で、当時と地形は全く変わっているはず。
左から、住塚山(1,009m)、国見山(1,016m)その手前が柱状節理の屏風岩、そして兜岳、鎧岳(894m)も柱状節理が見事。
今夏のルートでは、ここが一番見晴らしがいいから、山頂狭いけど、よく見ておいてください。」
「行く手に見えるのが、古光山本峰で、その先の三角形のピークが後古光山、さらにその先に亀山(849m)、倶留尊山(1,037m)が続きます。さあ、これからまず大下り。気を引き締めて滑らないようにいきましょう。」
うっすら積もった雪が滑りやすく、皆さん慎重に下られる。
10:15 古光山山頂に到着。冬枯れしているので、東に展望は得られるものの、見晴らしはあまりよくない。
「さあここから後古光山までは、大下りの後、ピークまで岩登り。北斜面は滑りやすいので、ストックをしまって、ロープも使いながら、慎重に。」
鞍部のフタカワ(770m)で小休憩。
「さあ、ここからは、後古光山への最後の登り。ほとんど岩登りなので三点支持で。
山頂まで行けば、あと長尾峠の下りは岩場ないので、頑張りましょう。」
11:15 後古光山山頂に到着。
東側の展望が得られ、尼ヶ岳(957m)、大洞山(985m)、そして伊勢街道を挟んだ南に学能堂山(1,021m:画像)。
その背後は局ヶ岳(1,029m)。三角錐の局ヶ岳は、山座同定のポイントになる。
山頂は冷たい風がもろに吹き付けるので、少し下ると出会う廃林道で昼食。日当たりが良く、風も来なくていい場所だった。
長尾峠までの下りは、木の階段。わずかな雪で滑りやすいので慎重に下る。
12:30 中尾峠に降り立つ。
あとはのんびりおしゃべりしながら林道を歩き、13:20大峠手前の駐車地点に戻る。
帰路御杖村の道の駅に併設される「みつえ温泉姫石の湯」で温まり、山行を終えたのでありました。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2024年3月3日 晴 メンバー:Nu,Mz,Ta,St,Oo,Mg,Na,Mu,Go,botti
大垣6:00ー伊賀IC8:10ー大峠(駐車)8:50〜9:00…南峰9:50…古光山10:15…後古光山11:15…(昼食11:35〜12:10)…長尾峠12:30…大峠駐車地13:20ー(みつえ温泉姫石の湯入湯)―大垣(解散)17:40
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頑張らねばと意気込んでいったら、まさかの雪ほとんどなし。。
いつも無人の期間には見かけない軒のツララがすだれ状で、暖かかった今冬を象徴するよう。
雪下ろしのために戸口に置いておいた、スノーダンプの名機「クマ武」も寂しそうにしておりました。
余った時間と精力は、小屋に閉じこもり円空研究に没頭。
連れ合いは、久しぶりに尺八(←なにげに大師範)を磨いておりました。
翌24日は長野市内に下り、午前中は連れ合いのお気に入りのYouTube「tekitouの食堂探訪」に出てきたという、「お食事処川端」へ。
「もつ焼き定食」など、働くおじさんの味方といったメニューで、おいしかったです。
午後は、山に戻り、戸隠スキー場で半日滑りまくり。
連れ合いは小屋に戻り、半日尺八三昧。
ゲレンデの最高点、瑪瑙山(1,748m)の上空は晴れているけれど、飯縄山さえ見えなかった。
本当はここからの、戸隠連峰の展望を楽しみにしていたんですが。。
23日の夜は、チーズフォンデュで白ワインを、24日の夜はストーブで煮込んだビーフシチューで赤ワインを。
大量に制作したビーフシチューは、帰った日の夕飯にもなる。
25日は、クローバーのケーキを買い早めに帰ろうとしたら、雪に。
なかなか、ままならないもんです。
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最近、頼もしい新人さんたちも入会して、Nuリーダー、Stサブリーダーはじめ12名が参加。
渋の湯登山口から7:45登山開始。
針葉樹林の斜面を登ると、唐沢鉱泉からの道と合流。
10:00 黒百合ヒュッテに到着。快晴無風の絶好のコンディションなので、1日目に天狗岳山頂に立つことに。
小屋宿泊組8名は休憩、ぼっちを含むテント泊組4名はテントを設営、11:40天狗岳を目指し出発。
Nuリーダーの「雪山は最短距離で登りルートを取るのが原則」とのご説明に従い、ヒュッテ前から直登。
もちろん、木が生えていないような雪崩のリスクがある斜面は避ける必要がありますが。
天狗の奥庭を通るルートに入る。
天狗岳は、三角点のある頭の丸い西天狗岳(右:2,646m)と、岩の頂きの東天狗岳(2,640m)と、個性の違うピークが並び立つ。
東天狗岳の方を、八ヶ岳連峰の中山峠を経由する主縦走路が通っている。
まずは、東天狗岳ピークを目指す。冬山で、これだけ好コンディションの日はなかなかない。
13:10東天狗岳山頂に立ち、北を仰ぐ。
北八ヶ岳の針葉樹林深い森の向こうに、蓼科山がそびえる。その左手には、霧ヶ峰から美ケ原の高原地帯が展開。
東天狗岳を後に、西天狗岳をめざす。快晴無風の今日は何ということもないが、吹雪かれると大変なところ。
13:40、西天狗岳山頂に立ち、南西を望むと、硫黄岳(2,760m)の向こうに、主峰赤岳(2,899m)、阿弥陀岳(2,805m)。
さらに、背後には赤石山脈の甲斐駒ヶ岳や仙丈ケ岳が。
北東には、煙を吐く浅間山。
八ヶ岳の核心部は、久しぶり。やはり時々はこの場所からの景色を目にしておかないと、記憶だけじゃもったいないな。。
戻りは、山腹を巻いていく。その途中、滑落しかけた跡と、訳の分からない沢に下っていくトレースがあった。
天狗の奥庭の全容を目の当たりにしながら、中山峠を通る主縦走路に合流。
中山峠の手前から南東方向に、山頂の真っ白な金峰山はじめ秩父山地の稜線が眺められた。
奥秩父稜線を2018年秋にたどったのも、いい思い出。
15:10 黒百合平に帰着。小屋で夕べの懇親をした後、テント組はマイナス15度越しのテント泊。
翌12日、早朝は少し雪も降ったが、7時を過ぎると晴れあがる。
昨日山頂は極めたので、7:30〜9:00雪上訓練。
K2隊のレジェンドNuリーダーの総括指導、昨年バットレスを極めたサブリーダーStさんの指導の下で滑落停止訓練。
アイゼンも付けて訓練するのかなと思ったが「初心者が多いので、アイゼンを絡めて捻挫する危険もあるので」なしでとのご判断。
体幹を使って、反動で瞬時に体を伏せ、両手で斜めに持ったピッケルを雪面に突き立てる。
体が自然に動けるよう、毎年おさらいをすることも大事。
訓練後テントを撤収し、温泉に入り、トンカツを食って、みんな大満足で帰路に就いたのでありました。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2024年2月11日(土)、12日(月振休) メンバー:Nu(L),St(SL),Ka,Kit,Kim,Sa,Si,Ta,Na,Ho,Ya,botti
11日 大垣集合3:00−茅野I.C.―渋温泉登山口(駐車)7:45…唐沢鉱泉分岐…黒百合平(昼食・テント設営)10:00〜11:40…東天狗岳13:10〜13:20…西天狗岳13:40〜13:50…中山峠15:03…黒百合平15:10(テント泊)
12日 雪上訓練7:30〜8:50(テント撤収)9:35…渋温泉11:00…(尖石温泉縄文の湯入湯、昼食後帰路)
<余談1>
調べてみたら、前回天狗岳を訪れたのは2009年1月だった(マイナス20度超の山頂―天狗岳)。
その時の画像と比べると、雪の量が歴然と違う。地球温暖化を目の当たりにした気分。
<余禄2>
三連休は、ずっと好天だったのに、10日天狗岳周辺では3件の遭難があった(2/11 長野放送ニュースより)。
3連休は概ね好天となりそうですが八ヶ岳連峰では遭難が相次ぎました。
?根石岳では10日、横浜市の会社員の男性(64)が東麓の南牧村の山小屋に宿泊する予定で下山中、樹林帯で道に迷い救助を要請しました。警察と地元の遭難防止対策協会のメンバーが11日早朝から救助に向かい、午前11時前に男性を発見しましたが、心肺停止の状態だったということです。
?また天狗岳では、10日に2人パーティーで入山した茨城県つくばみらい市の会社員の男性(41)が山小屋近くのテント場に向かう途中で仲間とはぐれ、行方がわからなくなりました。家族から要請を受けた警察などが11日午前8時過ぎに男性を救助しました。自力で歩行できるものの手に軽い凍傷を負ったと見られています。
警察によりますと茨城県の41歳の男性は10日、2人で八ケ岳連峰・天狗岳の登山口から入山し、東天狗岳山頂を目指していましたが、疲労から遅れたということです。その後待ち合わせ場所の山荘に着かなかったため、午後6時ごろ同行者から連絡を受けた男性の家族が警察に通報しました。
?東京都の会社員の男性(59)も10日午後に天狗岳から下山中に日没になり、11日午後救助されました。凍傷などの疑いがありヘリコプターで松本市内の病院に搬送され手当てを受けています。
いずれの山も八ヶ岳の中では冬山の入門コースとされていますが、警察は自分の体力やスキルを考慮した上、十分な準備と天候判断の上で入山してほしいと呼びかけています。
われわれが天狗岳に登高中、ヘリコプターが飛んでいたのは、?の救助のものだったよう。意味不明のトレースは、早く下山しようと地図も見ないで谷に下ってしまったのだろうか。
2人で入山し、「疲労から遅れ」がちな人と別行動をとるのは原則やってはいけないこと。ましてSOSを日没後に出すのは遅すぎ。
当日の天候、ルートを考慮すると、せめてどの場所にいろと指定し、小屋に助けに行くなどを、15:00くらいにしないと死亡事故になってもおかしくない。
?は、踏み跡をたどって元の場所に戻るという基本行動をどうしてとれなかったのだろう? また、道迷いのGPSを持って(スマホにGPSアプリを入れて)いなかったのだろうか? ?は無理な行程だったのでしょう。いずれも単独行。
長野放送の解説の通り、「自分の(冬山を前提とした)体力やスキルを考慮した上、十分な準備と天候判断の上で入山してほしい」とおもいます (ロ。ロ)/
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天井脇のトタンがめくれ、外気と接するたぶんマイナス10度を超える夜だったけれど、ダウンジャケットを着こんで冬用の寝袋に入っていたのと、普段の睡眠不足から、2日18:30から早朝4:30まで夢の中。
マグロやぼっちと同様、「動いていないと死んでしまう」人だっただろう円空は、越年の大峯山籠といっても、きっと山中を巡りながら修行をしていたはず。
それでも、歳の末から新年の頃ともなると、雪に振り込められて身動きがとれない日も続いたはず。
たぶん、鬱々とした日々だっただろう32歳までの前半生の後、西神頭家のもとで造仏を始めた寛文3(1663)年以降、蝦夷への冒険行、戸隠での窟修行、張振甫のもとでの鉈薬師の造仏、法隆寺での血脈拝受、中観音堂での諸像造顕、そして大峯での過酷な修行など、火が付いたように活動した10年あまりの歳月を、ようやく立ち止まり概観する夜もあったのでは―半ば夢でそんなことをぼんやり考えておりました。
2月初めの夜明けは遅い。待ちかねて小屋を出ると、月が竜ヶ岳−小篠の山上から、冴え冴えと光を届かせる。
「大峯や 神の使も 守らん 照ル月清キ 我庵」
この歌は、断崖の笙ノ窟ではなく、やはり、小笹ノ宿にふさわしい歌ではないだろうか。
6:00 薄明の中、小笹ノ宿を後に下山にかかる。
ヘッドランプが照らし出した、奥駈道沿いの空ろを抱いたモミの老木。
円空もきっとこの木を見上げたんだろうなと、ふとその息遣いを感じた心になる。
山上ヶ岳への登りで夜明けを迎える。大日山の岩峰を控えさせた稲村ヶ岳が朝日に輝く。
大峯山寺に戻ってまいりました。
7:30、山上蔵王堂とも呼ばれる本堂の前で一服。
行動食も木喰に心がけ、木の実のバーにしてみました。でも、よく見ると穀物のパフも含まれていた。。
大峯山寺を後に、宿坊の間を下り始める。
信者が大勢泊まるのだろう大規模な宿坊もすべて雪に埋もれて人影はない。
円空の年越し修行をした頃は、防寒も困難だっただろうから、雪中の大峯山寺周辺には人はほとんどいなかっただろうし、まして小笹ノ宿となると、今より修行の場として整ってはいただろうけれど、年越しするのは、相当過酷で孤独だったはず。
まあ、円空の場合、孤独は生来のもので、修行と共にカミホトケを身近に感じられるようにはなっていたのでしょうが。
下りは新道を使う。こちらは踏み跡があり、階段が多い。
土曜日なので、ここではじめて登ってくる登山者と出会った。
洞辻の茶屋で一服。参詣を証す張り紙などがあちこちに見られ、現在も生きた信仰の山なんだなと感じる。
大下りして11:00、母公堂に戻る。
お堂のお守りをされつつ、駐車場の管理もされている方に、淹れていただいたコーヒーをすすりながら、しばしお話し。
関西では、円空はあまり知られておらず、ましてや格式ある寺院などでは、どこか軽んじた反応が暗に返ってくることもある。
そんなこともあって、「円空のことを漂泊の乞食坊主なんて思っておられるる人もありますが」と前置きまを口にしたら、ムッとした気配が伝わった。
もちろん「しかし、そうではなくて、蝦夷の松前藩に呼ばれたり、しかるべき山岳修験僧で、遊行を始めたのは、修行を積んだ後のことではないかと思います」と話は続けたのではありますが―その「ムッ」としたニュアンスから、円空を敬愛されているのが伝わって、なんだか嬉しくなった。
お堂では、「円空彫り」の小さなお守りも頒布されていた。
洞川温泉まで引き返す。
温泉としての歴史は短いが、大峯山登山の拠点としての歴史は、その起源は役小角に従った後鬼の末裔によって起こされたと伝承されるほど長い。
一回ゆっくり泊まって、栃尾観音堂など天川をじっくり巡ってみたいなあと思いつつ、厳冬期踏査の今回は、和佐又を目指す。
14:10 和佐又ヒュッテ前に車をとめ、笙ノ窟をめざす。何とか、日没前には戻ってきたいもの。
以前は、スキー場だったというのに、山上ヶ岳側に比べると雪は少ない。
冬枯れの木々の間に大普賢岳や笙ノ窟のある日本岳方面が透かし見える。
さあて、夕暮れまでには戻らねば。。
一回積もって溶けかけた雪は、柔らかく、天川側のように凍結してはいない。
奥駈道の通る大峯山脈主稜線は同じ標高でも雪に埋もれているのと、対照的。
雪がめいっぱい積もって、滑落の危険があるような状態かと思った崖の道も、雪がなくて気抜けしてしまう。
大普賢岳を往復してきたパーティーとすれ違ったが、「こんなに雪の少ない年は珍しい」とのこと。
15:10 笙ノ窟に到着。手前のブナの木は相当な巨木であることを前提にこの画像を見てください。
いずれにしても。窟の前に平らな部分はほんの少ししかないから、積雪以前の時期にしても薪を確保したりするのは困難。
笙ノ窟の内部。今は不動明王の祠があるだけだが、かつて修行の堂があった痕跡が確認されているという。
窟の中に湧き水があるのが、ここを修行の好適地としているけれど、暖冬で雪のない今年でさえ、石筍状態に凍結していた。
水を確保するためには、氷を融かす薪がいるし、この場所に薪をストックしておくのも大変。
平安時代初期の日蔵上人から、高僧が笙ノ窟で修業をしたが、それを支えたのが、上北山村の天ケ瀬集落だったという。
また、逆に言えば、天ケ瀬集落は、笙ノ窟の周辺の修行の場を支えることで成り立っていたともいえる。
円空が、仮に冬越しの修行を笙ノ窟でするとしたら、水を確保するための薪の調達など、天ケ瀬の人びとに頼る必要がある。
しかし、天ケ瀬をはじめ大峰山脈主稜線東側の上北山村には円空の像は伝わらない。
やはり円空の冬越しの拠点は、円空の像が多く残る天川村が支えていた小笹ノ宿なのではないだろうか。
もっとも、円空が、笙ノ窟で修行したことは、次のような歌で明らか。
ただし、572の歌にある「ミそき(禊)」は、厳冬期では難しかったのでは。
570:こけむしろ 笙(の)窟にしきのへて 長夜のこる のりのとほしミ
571:□唐衣 笙(の)窟に打染て このよはかりハ すミそめのそで
572:千和屋振る 笙(の)窟に ミそきして 深山の神も よろこひにけり
日没も迫るので、鷲ノ窟までは足を延ばさず、引き返し。
登山口の、修行僧が残した和歌を詠むと、西行作も含め、どれも大袈裟だったり、概念的だったりする中で、円空の歌、素直に実感を表わしていて、一番しっくりくる。
かつて奈良県では希少なスキー場だった斜面を下り、16:35 和佐又ヒュッテまで帰着。
駐車料金1,000円払ったヒュッテに、戻りましたよ、と報告し、少々お話する。
やはり、こんなに雪の少ない年は珍しいそうで、数年前多い時は50〜60?積もったそう。
下山後、北山川と、支流天ケ瀬川の合流点に位置する天ケ瀬の集落へ立ち寄ってみる。
すでに廃村になって久しいようだった。
2万5千分の1地形図で見ると、この天ケ瀬から尾根伝いに笙ノ窟まで山道が通じていたのが分かる。
また、現在は国道309号線が天川村との間を大峰主稜線越に繋いでいる(冬季は通行止)。かつても峠道があったことでしょう。
地形図を見ても、天ケ瀬が重要な山岳修験の基地だったことがしのばれる。
今回は、天川村の里の部分を踏査することができなかった。(前回調査 2021年6月27日 円空ゆかりの大峰山麓天川へ)
また、大峯山寺は3度行っているが、戸開期間には訪れたことがないし、今回も本堂裏手の、伊吹山の行場と同じ名前の平等岩を確認することができなかった。
5月頃に天川村栃尾観音堂などを再訪して、円空の大峯修行のレポートをまとめたいと思います(ロ。ロ)/
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↑地図クリックで拡大)
2024年2月2日(金) 晴時々曇 単独行
自宅4:30―天川村母公堂(駐車)9:10…清浄大橋9:40…洞辻茶屋12:25…山上ヶ岳14:30…小笹の宿(テント泊)16:00
3日(土) 快晴
小笹の宿6:00…山上ヶ岳7:30…洞辻茶屋8:55…母公堂11:00―和佐又ヒュッテ(駐車)14:10…笙の窟15:25〜15:45…和佐又ヒュッテ16:35−天ケ瀬集落17:10−(上北山温泉薬師湯入湯後帰路)
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目下、円空の山岳修行のハイライトでありながら、はっきりとした足取りがつかみにくい大峰山での修行について追跡中。
円空が、大峯山中で厳冬期年越しの修行をしているのは残された和歌で分かっているのだけれど、それが山上ヶ岳に近い「小笹(小篠)ノ宿(おざさのしゅく)」だったのか、大普賢岳に近い「笙ノ窟」だったのかの特定がポイント。
その論点および11月23日に下調査したレポート:大峯・小篠ノ宿・笙ノ窟・鷲ノ窟踏査行
その調査のため今回は、旧暦の年越しの時期に当たる2月2日(金)天川村洞川から山上ヶ岳を経て小笹ノ宿で一泊し、翌3日(土)下山後上北山村和佐又から笙ノ窟を往復する計画。
まずは、一日目となる2日のレポートから。(↓地図クリックで拡大)
山上ヶ岳登山基地のなる天川村洞川(どろかわ)。
冬季は、大峯で修行した役行者の母を祀った母公堂(標高889m)の先で車は通行止めとなる。
愛車奥地君を有料駐車場にとめ、9:10出発。路面が凍ってツルツル状態。
9:40、清浄大橋たもとの大橋茶屋を通過。大駐車場があり、夏場は賑わうのだろう場所。
谷の向こうに大峯奥駈道の稜線を眺め、大橋を渡る。
橋を渡ったところが女人結界。稜線までずっとスギ植林の中の単調な登りが続く。
10:50 一本松茶屋を通過。戸のないトンネルのような造りの小屋で、中に縁台がベンチ代わりに置かれている。
天皇陛下が皇太子時代にお越しになっているようで、あちこちで記念の碑を見かけた。
一本松小屋を過ぎると尾根道となり、次第に雪が覆い始める。
グレーチングの橋を滑らないように用心しながら何回も渡る。
ようやく、スギ植林帯を抜けると、霧氷に覆われた広葉樹林帯となる。
12:25、洞川からの道が大峯主稜線の奥駈道と合流する洞辻茶屋に出る。
2014年に大峯奥駈大縦走をした時に通った場所で、懐かしい。
もう2つの茶屋を過ぎたところでアイゼンを装着し、しばらくで行者道と新道の分岐に出る。
ここは、円空をしのんで行者道を選択。小規模な雪崩跡も見られた。
大峯山上には登山道沿いの表行場と、本堂裏手の裏行場がある。
まず、表行場の鐘掛岩と対面。霧氷をまとって迫力あります。
お亀石を経て等覚門をくぐる。いよいよ大峯に来たなと実感する。
ちなみに「等覚」とは、(諸仏の覚悟は平等一如であるところから)仏のことで、この意味が転じて、 修行が満ち、正覚(しょうがく)の仏と等しくなった菩薩ぼさつの最高位をさすんだとか。
次に登場するのが、行場のハイライト、西の覗き。
西に向かう断崖で、ここから足をもって下ろされて懺悔するんだとか。
とても見晴らしがよく、北には、今登ってきた奥駈道が、樹氷の白をまとって眺められる。
閉ざされた大きな宿坊群の間を通って、大峯山寺に出る。
平日のためか、ここまで誰とも出会わなかった。さみしいので堂前にザックを置いてみました。
本堂の南が山上ヶ岳の山頂で一等三角点と、役行者が蔵王大権現を感得した場所とされる湧出岩が、石の柵に囲われてある。
円空も間違いなく立った場所でありましょう。
南に弥山、八経ヶ岳方面が望まれる。
本堂の先から東方面を見る。樹林に包まれた小笹ノ宿のある竜ヶ岳(1,726m)と、その先に白い大普賢岳(1,780m)が。
まずは大下りして、小笹ノ宿に向かう尾根道に入る。
雪は深く、つぼ足で静寂の中をもくもく進む。
16:00、小笹ノ宿に到着。ここを訪れるのも3度目ともなると、懐かしい気持ちになる。
赤い行者堂の先に、現在の「小笹ノ宿」がある。
雪が深くてこたが仕えないことも想定し、テントも持参したけれど、まったく大丈夫でありました。
今は積雪40?程というところだけれど、地球温暖化する前の円空の頃、雪は、1mはあったのでは。背後が竜ヶ岳。
これだけ標高が高く寒いのに、沢水が凍らずにある。これは、竜ヶ岳からの湧水がここに湧き出るためらしい。
冬でも確実に水が得られるのは、得難いことだったでしょう。
今年の干支の山でもあるので、竜ヶ岳(1,726m)にも登ってみた。
円空が「昨日今日 小篠(の)山二 降(る)雪ハ。 年の終(り)の 神の形(かげ)かも」と詠んだ小篠の山は、竜ヶ岳でほぼ間違いと確信が得られた。
夕食は、円空をしのんで五穀断ちで、「そばがき」にしてみた。
味付けの「しょうゆ糀」に、米糀が使われていたのは不覚。。
行者堂の前から西に日没を拝む。稲村岳が最後に赤く染められる。
さて、今夜は寒そう。しっかり着込んで寝よう。
((2)に続く)
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「猪」の付く山はあまり多くないので、亥年には多くの登山者がある。
ちなみに、十二支本来の「亥」の付く山は極まてまれで、三重県尾鷲市の亥谷山しかないのでは。
国道368号線を西進し、松阪市飯南町深野に入る。
ここは見事な石垣が積まれた「深野のだんだん田」で知られ、日本棚田百選にもなっている。
棚田の中の細い道の向こうに、白猪山が見えてくる。
深野の最奥、夏明という集落の山の入口に白猪山の夏明登山口がある。
駐車場に愛車奥地君をとめ、登山届ポストに届けを出して、13:10登山開始。
少し進むと、矢下集落からはじまる矢下登山口とをつなぐ連絡路を右手に分ける。
棚田の石垣を積む関係もあってか、登山道はずっとセメントで舗装されている。
橋を渡ったところに不動小屋というトタン張りの小屋がある。
登山道脇の、炭焼窯の石組みも、他所のものよりしっかりしている。セメント張りの登山道はなおも続く。
単純なスギ植林の中に、広葉樹林を見つけるとほっとする。
矢下からの登山道と合流する場所が二ノ峰で、石尊大権現が祀られている。
宝暦9(1759)年に「今の神奈川県大山寺より迎えまつられた。本尊は不動明王である。」とある(<余禄>参照)。
石尊大権現の祠の脇に南無妙法蓮華経と彫られた六部供養碑があった。
六部とは、日本廻国大乗妙典六十六部経聖を俗に略したもので、法華経を66部写経し、日本全国を巡って66の国々の寺社に納経する修行者のことをいう。
行き倒れになるものの多かったようで、この碑も、そのような六部を供養したものらしい。
石尊大権現と道を挟んだ東が裸地にされていて、櫛田川をはさんで南に大台山地の山々が重畳する。
二ノ峰から山頂まで、登山道沿いは刈り払われている。大きなモミの木がわずかに残されていた。
14:20、登山開始から70分で二等三角点のある白猪山山頂に到着。
ふる里の山といったたたずまい、伊勢の国が広く眺められる。
『勢陽五鈴遺書』には、「近郡ノ高嶽ナリ。堀坂嶽、局嶽及ヒ白猪嶽ノ三嶽ヲ海東ヲ渉ル運舶ノ的トナス、船人三ツ(伊勢ノ三星)ト称ス」と記されるので、遠く伊勢湾からも船乗りの目当てとなったらしい。
下山途中、見落としていた石の祠を確認。祠前の灯籠に、宝暦14年の年号があるので、石尊大権現が祀られた少し後のもののよう。
「廓(?:読めない)代」と彫られているのが気にかかる。
往路に立ち寄らなかった不動の滝も拝んだ。不動信仰の山だったんだな。。
矢下へのルートで下山しようかとも思ったけれど、大事を取って同じ道を引き返し、15:30下山。
再び見事な石垣の棚田の間を下っていく。
これだけ何代もかけて造られた見事な石組みも、石尊大権現の信仰と、どこかで通じているのかもしれない。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2024年1月27日(土)曇時々晴 単独行
自宅4:30ー長尾峠(MTB 駐輪)8:00―大峠(駐車)8:25…南峰(960m)9:05…古光山9:25…後古光山10:20…長尾峠11:00=大峠11:30―夏明登山口(駐車)13:10…二ノ峰14:05…白猪山14:20〜14:30…夏明登山口15:30―(帰路)
<余談>
石尊大権現という存在を知らなかったので調べてみた。
たしかに大山寺の本尊は不動明王なのだが、これと石尊大権現は別で、十一面観音が本地仏だとのこと。
ただ、このような取り違いは、他所でもあるようです。
「新編相模国風土記稿」巻之五十一(村里部 大住郡巻之十)「石尊社 当山(=大山)の本宮にして山頂にあり 【延喜式神名帳】に載せし、阿部利神社是なり、 祭神鳥石楠船尊、 神躰秘して開扉せず(縁起に載せし往昔彩光を発せし像是なりと云)、 本地十一面観音(坂本村観音寺境内に置)」「坂本村観音寺 (中略)本地堂 大山石尊の本地仏、十一面観音(長七尺余行基作)を置」。
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奈良県宇陀郡曽爾村と御杖村を中心に、宇陀市東北部および三重県名張市南部にかけて広がる山地で、約1500万年前のというたいへん古い時代の火山活動がベースになって形成された山々。
火山といっても次のような存在だそう。↓「HP:火山学者に聞いてみよう」より
Q 三重県に住んでいます。三重県と奈良県とにまたがって室生火山群というのがありますが、何故こんな所に火山が生まれたのか、もう火山とも分類されないような存在らしいですが、今後再び活動をする可能性はないのでしょうか。教えて下さい。
中学時代は火山学者を夢見てたおじさん。:公務員:40
A 室生火山岩群は1500万年前頃に日本列島で活発に活動していた火山の噴出物で あり、西日本に点々と残っているもののひとつです。何故こんな所に火山が生まれたのかについてはあまりわかっていません。現在日本で噴火している火山 とか今後噴火の可能性のある火山は、およそ200万年よりあとに日本列島を縦断して形成された火山帯の上にできています。室生火山はこれらの位置からは ずれており、また火山活動がはるか以前に終わっていますので、今後活動する可能性は全くないと思います。
鎌田浩毅(地質調査所大阪地域地質センター)
この山域の主な山としては、西部の室生川と青蓮寺川の間に連なる住塚山(1009.4m)、曽爾三山: 屏風岩、鎧岳、兜岳(893.9m)、東部の名張川より東に連なる尼ヶ岳(957.4m)、大洞山: 雄岳(1013m)、雌岳(985.1m)、そして中央部の青蓮寺川と名張川の間に連なる、倶留尊山(1037.6m)、亀山(849m)、古光山(952.7m)がある。
火山岩の柱状節理など、低山ながらなかなか迫力と個性があるこの山域を巡ってきて、そのラストの山、古光山(こごやま)に、1月27日(土)を訪問。
大峠から登り出し、最高地点の南峰(960m)を経て、三角点のある古光山(952m)、後古光山をつなぎ長尾峠に下る、プチ縦走。
長尾峠にMTBのジャイアン号を待たせ、大峠から、8:25登山開始。
斎場と太陽光発電に挟まれた登山口であります。。
植林帯を抜けるとコナラやリョウブ、アセビなどの樹林帯の中の稜線となる。
約40分で南峰に到着。三角点はないけれど岩峰なので見晴らしは大変良好。
西側には青蓮寺川沿いに展開する曽爾村をはさんで、住塚山、国見山、曽爾三山と呼ばれる柱状節理の見事な 屏風岩、鎧岳、兜岳が並ぶ。
行く手には、古光山、後古光山、ススキの原のある亀山、倶留尊山と縦走路が続く。
南峰からの急な下降には、雪もあるので慎重に下る。
9:25、ちょうど大峠から1時間で三等三角点のある古光山山頂に着く。
西側は植林帯、東側は落葉樹林なので木の間越しに、尼ヶ岳、大洞山、そして火山群からは外れるが学能洞山が連なる。
実は、ここから後古光山の間の急下降、急登がクセモノで、ロープは張られているものの、雪などあると初心者は大変そう。
後古光山への登り返しは、岩の急登。
後古光山から先は、樹林帯の中の鎖の手すり付きの長い階段。
11:00長尾峠に到着。少し先に待たせたジャイアン号で大峠へ引き返す。
途中、南峰から古光山本峰がよく眺められる、もっと麓から見ると、なかなかかっこいい連山に見えることでしょう。
大峠の手前にある御杖村側には、みつえ高原牧場が広がり、その向こうに雪を被った三峰山(1,235m)が。
ほんの3時間の行程だけど、展望も良く、ほどよく岩稜の緊張感も味わえる好ルートでありました。
今回で、室生火山群の主だった山を制覇できたのも嬉しかったです。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩)
2024年1月27日(土)曇時々晴 単独行
自宅4:30ー長尾峠(MTB 駐輪)8:00―大峠(駐車)8:25…南峰(960m)9:05…古光山9:25…後古光山10:20…長尾峠11:00=大峠11:30―夏明登山口(駐車)13:10…二ノ峰14:05…白猪山14:20〜14:30…夏明登山口15:30―(帰路)
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マグロのように動いていないと死んでしまうぼっちの悲しき習性ゆえ、円空探訪の方に精を出しておりました。
13日(土):長間薬師寺訪問記
同 日 :中観音堂訪問記(1回目)
同 日 :天喜寺訪問記
そして、20日は知多半島の先端南知多町、21日は渥美半島の先端田原市に遠出。
20日の場合、ぼっち家の年中行事、「冬の日間賀島フグツアー」が先にあったんですがね。
知多半島の先端の南知多町には、慈光寺の宇賀弁財天像、如意輪寺の薬師如来立像、成願寺の善女竜王像と三体の円空像が伝わる。
そのうち、20日午前中に、まず浄土宗西山派の臨海山慈光寺を訪問。
山号のとおり内海港に向かい合う山際に位置する。
本堂の、宇賀弁財天とご対面。
中尊は、弁財天の頭上に宇賀神、そして稲荷の鳥居を付けて稲荷神と習合したお姿で、ご利益が拡大。
弁財天は、海の女神である市杵島姫命の本地仏とされ、海難避けの仏として、江の島などにも祀られている。
そこに、水の神宇賀神、農耕や商売の神稲荷神が習合しているありがたい像。
眷属の十五童子や大黒天、毘沙門天、さらには宇賀弁財天の八本の腕のうち宝珠を抱く2本の腕以外、そして持物や宝冠は後で補われたものだが、この厨子の群像は、戸隠九頭龍権現の本地仏として伝わる像ときわめてよく似ている。
ちなみに、南知多町の図書室で『南知多町史』を確認したところ、このお厨子の群像は「大善院管理者より寄贈」されたとあった。
慈光寺の下手にあったお堂に納められていたようで、おそらく円空と懇意だった船主のために造られた像ではないだろうか。
慈光院の石段下には、明治初期の建築になるが、尾州廻船内海船船主内田佐七家、その船頭として活躍し、佐七家の娘婿となった分家の内田佐平二家の家屋が並び建つ。慈光院は彼ら船主の菩提寺だった。
円空の活動期にあたる寛文年間には、知多郡8カ村に144艘の廻船があったという(シリーズ愛知『知多の歴史』福岡猛志著)。
慈光寺を後に、知多半島先端の師崎港で家族と合流、日間賀島に渡りフグ三昧。
画像にはヒレ酒が映っておりますが、午後の拝観があるので、ぼっちはノンアルコール・ビールを飲んでおりました。
日間賀島にも弁財天の赤い幟(のぼり)が並んでいた。
午後は、同じく南知多町片名港に近い、曹洞宗神光寺成願寺を訪問。
善女竜王像とご対面。像高91.6?の龍と一体化したような迫力ある御像であります。
翌21日は、渥美半島の田原市福江町に位置する浄土宗間宮山栖了院(せいりょういん)へ。
同地の旗本だった間宮家の菩提寺で、間宮家はその後尾張藩士に転身。
そして、家老職を務めた間宮大隅守が寛文8(1668)年に没し、その下屋敷が尾張藩第2代藩主徳川光義から張振甫に与えられ、そこに鉈薬師が建立された。
張振甫を介して、間宮家と円空は関わりがあったと考えられ、鉈薬師での造像と近い時期に造られた如来像と不動像が、間宮家に祀られてきた。そして、昭和3年に如来像が、同43年に不動明王像が、ご子孫から、栖了院に寄進されたといういきさつ。
円空が直接渥美半島を訪れた足跡は確認されていない。
ご住職が、庫裏の一室に2体の円空像を出してくださり、ありがたく拝ませていただいた。
鉈薬師の諸像に接する時期に造られたと考えられる様式。
丁寧な彫りの如来像は像高45.5?、鉈薬師の十二神将像につながるざっくりした彫りの不動明王像は59.5?。
円空の不動明王像は、現在分かっている限りでは、本像が一番古い。
お寺に伺い、円空の像を拝し、ご住職などに由緒などを伺うには、相当なエネルギーが必要。
寺を辞して、呑海という食堂で、鯛の煮つけ定食と、穴子フライ定食と、単品カキフライ3個を注文。
カキフライは、3個くらいのカキを一つにまとめて揚げてあるボリュームたっぷりなもの。
すべておいしくいただきました。
腹ごなしに、伊良湖灯台まで足を延ばし、伊勢湾に浮かぶ神島をみはるかす。
神島には円空の像は確認されていないが、伊勢や二見ヶ浦の和歌とともに、次の4首の神島の和歌を、詠んでいる。
677 :神嶋や 朝日の山の 花ならば 折<ヲル>度事二 香起(こせ)よ
898 :神嶋や はマの沙<マサコヲ> <カソヘ>ツゝ 通へる鳥ハ 玉かとそミる
1289:神嶋の 宮の主の 薬子は 命ヲのふる<ノブル> 事の<コトノ>の初めに<ハジメニ>
1297:神嶋や 祭る主(の) 玉なれや 心の内の 六の清きに
円空は、名古屋では熱田神宮を拠点にしていたようで、和歌や漢詩を残している。
熱田神宮のある宮宿は、東海道最大の宿場で、ここから分岐する美濃路で中山道ともつながっていたし、桑名への渡しもあった陸運・海運の要所。
円空は、伊勢に幾度か訪れ、志摩にも足跡を残している。
尾張から伊勢国への陸路には、円空像は移入像以外残っておらず、唯一の例外が、港町津市下弁財町の真教寺閻魔堂に伝わる十一面観音像。
それに対し、尾張藩領である知多半島側には、南知多町の像をはじめ東海市などにも円空の像が伝わる。
円空は、伊勢・志摩への往来、あるいは津経由で大和に向かう折には、尾張藩領の知多側の廻船などに乗せてもらっていたのでは―そんな気付きもあった週末でありました。
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その恒例が、昨年は新型コロナに罹ってできずじまい。その結果かどうか、直後、大きなトラブルに見舞われた。
今年こそは、わくわくドキドキはしつつも、平穏無事に過ごせますように、ということで雪の伊吹山をながめつつ、京都へ。
まずは、北野天満宮。初詣のピークも過ぎて、のんびりお参りができるのも、なかなかいいもの。
現在の壮麗な社殿は、慶長12(1607)年に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したもので国宝。
屋根には雪が残り、梅の花弁は固かった。
北野天満宮にお参りしたら、名物長五郎餅をいただくのも恒例。
天正15(1587)年、北野天満宮で豊臣秀吉が開いた北野大茶会で、初代・河内屋長五郎が献上した餅が気に入られたことから、この名を名乗ることを命名されたという由緒ある餅菓子であります。
参道脇の、北野天満宮の神宮寺だった観音寺にも立ち寄り。
本堂脇の行者堂は、山仙人をめざすものとして、ご挨拶をしておかないわけにはいかない。
明治時代を中心とした、大峯修験にまつわる石碑や額が多くみられる。
バスで祇園に移動、八坂神社に向かう途中、抹茶パフェの名店・祇園小石の席が空いていたので、抹茶パフェ愛好家としては、立ち寄らないわけにはいかない。
新型コロナウイルスの行動制限も一段落し、京都へ当たり前に行けて、当たり前に抹茶パフェを食べられる幸せを嚙みしめる。
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さて、京都で厄除けといえば、ここ八坂神社。
昨年の大きなトラブルの後、お祓いをしてもらい、何とかその後は無事に過ごせたので、そのお礼も兼ねて初詣で。
明治初年の神仏分離以前は、祇園精舎を護る牛頭天王を祀っており、祇園社、祇園感神院、祇園天神社、牛頭天王社などとも呼ばれていた。
現在の本殿は、承応3(1654)年、徳川家綱により再建されたもので、国宝。
一般の神社では別棟とする本殿と拝殿を1つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式である「祇園造」で建てられている。
大谷本廟を経て、浄土宗総本山の知恩院へ。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院であります。
ただし、現在のような大規模な伽藍は、浄土宗徒であった徳川家康が慶長8(1603)年に知恩院を永代菩提所と定めて寺領703石余を寄進したうえ、翌9年に隣接する青蓮院の地を割いて知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行って以降となる。造営は2代将軍秀忠に引き継がれ、現在の三門は元和7(1621)年に建設されている。
中心となる法然像を本尊とする御影堂は、寛永10(1633)年の焼失後、同16(1639)年に3代家光によって再建されたもの。
久しぶりに、中に入ってお参りしたが、圧倒的なスケールの建物、法然上人像の左側に安置された於大の方(徳川家康の生母)、家康、秀忠の巨大な厨子などがあり、幕府の宗教政策によって法然の想いとはずいぶん違う方向にいってしまったんだなあと感じてしまった。
巨大な三門の柱はケヤキ材、ほかはヒノキ材の巨木が惜しげもなく使われている。
戦国時代末期から江戸前期にかけての約百年で、城郭建築、そしてこのような巨大建築のために列島のほとんどの高木林が裸にされた。
17世紀には、木材不足が顕著になり、伐採の規制がはじまったが対策としてはまったく不十分で、18世紀になりようやく造林技術が広まってくる(コンラッド・タットマン著『日本人はどのように森をつくってきたのか』)。
円空が生きたのは、ものすごい勢いで木材が消費され、木材を求めて秋田、青森、北海道にまで伐採が進み、これに伴い海運が盛んになっていく、そんな時代だった。
そんな貴重な木材でできた巨大建物は、日本の木材を使っては、もはや再現不可能、まさに「国宝」であります。
東山を後に、鴨川を三条大橋で渡って、寺町通の下御霊神社と革堂にもお参り。これで、恒例の初詣では無事終了。
久しぶりに、寺町通の茶舗一保堂に入り、紅梅のお菓子と煎茶で一服。
煎茶をゆっくりいただく時間的余裕が、貧乏性のぼっちは普段なかなか得られない。
そんな時間も大切に味わわせていただく。
以上、近世巨大建築三昧+甘味三昧の京都初詣行でありました。
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1月6日(土)〜7(日)、長野市の飯綱高原に位置する大坐小屋に被害はなかったか確認に。
おかげさまで、倒木もなく、ひと安心。それにしても、1月でこれだけ雪が少ないことも珍しい。
雪下ろしの必要もないので、一の鳥居をくぐって飯縄山に初登り。今回は、登山靴ではなく、長靴にしてみた。
登山道沿いの道標がわりの十三仏もすべて顔を出している。
十三仏とは、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる十三の仏(正確には如来と菩薩)で、十三回の追善供養を司る仏でもある。飯縄山のものは、文化13(1816)年に建立されている(阿弥陀、阿閦は後補)。
飯縄山や戸隠山周辺の石造物は、文化・文政期のものが多くみられ、化政期の市民文化が花開いた頃、飯縄や戸隠の信仰も広がっていたことがしのばれる。
ほかに、高妻山〜乙妻山、高杜山などにも十三仏がある。
樹林帯を抜け、振り返ると旧戸隠村(長野市戸隠)一帯が眺められる。
山中に平があって、田畑や村落が営まれている。隠れ里の風情。
飯縄神社のある南峰(1,909m)から、一夜山〜西岳〜戸隠山〜高妻山を望む。
12:40に登り始め、14:30に山頂(北峰:1,917m)に到着。背景は四阿山から浅間山。
豪雪の年は、大きな山名標が雪に埋もれてしまうのに、今年がすべて露出し、さらに三角点の標石さえ頭を出していた。
地球温暖化が進むと、山岳風景も、登山のスタイルも変わってしまうのかな。。
翌7日は、天気も今一歩なので、戸隠神社の中社に初詣をして、戸隠蕎麦の名店「うずら家」へ。
周辺は、大規模な宿坊などが多く、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
うずら屋の脇には、樹齢800年ともいわれる中社の三本杉の一本がそびえる。
円空が戸隠を訪れているとすれば、この杉を見上げていたはず。
今回は家族6人で来ているので、大盛ざるそば2枚分の大権現盛りや、きのこの天婦羅などを注文。
蕎麦を小さく分けて盛るのを、ぼっちの名前の由来の一つでもある「ぼっち盛り」という。
ぼっちには、法師という意味が背景にあるそうで、さらには、伝説の大男ダイダラボッチにも通じる。
いずれにしても、最近気付かされたのは、戸隠の名の由来を、「天照大神が隠れた天岩戸を天手力雄命が投げ飛ばした場所が、現在の戸隠山である」とするのは、明治の神仏分離を経て戸隠神社になってから強調されたもので、もう一つの由来、『戸隠山顕光寺流記』にある、「嘉祥3(850)年、学門行者が、信濃飯綱山で祈念したのち、霊地をもとめて金剛杵を投げた。その落ちた場所の岩屋で読誦すると、九頭竜が顕れ、伽藍をたてよと告げて岩屋に入り戸をとじて姿を消した。この地に寺をたてて戸隠寺とし、山に戸隠山と名づけた」の方が、往年は一般的だったこと。
円空も、こちらの伝承を念頭に置いていたはずで、戸隠を詠んだ3首の和歌では「戸隠」ではなく、「戸蔵」の文字を使っている。
240:天戸をわ<チワヤフル> 九頭の龍王 擁護して 形なれや 戸蔵す神の 幾夜経らん 御形なりけり
552:くりからの のめる刃(つるぎ)の 形も哉 あまねく守る 戸蔵(とかくし)の神
561:ちわやふる 天岩戸を ひきあけて 権(かり)にそかわる 戸蔵の神
なお、戸隠村の名は、明治になってからのもので、宿坊のあったあたりの集落は、「戸隠山門前」と呼ばれていたらしい。
ーどうしても、心はすぐに円空の時代に飛んでしまって、すみません。
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標高200mあまりで、「続ぎふ百山」になっている。ぼっちの家の文字どおり裏山。
山上に役行者が持統天皇の勅命で開いたとの言い伝えがある古寺:真言宗の明星輪寺がある、中山道赤坂宿に面した歴史ある山。
しかし良質の石灰岩でできた山なので、急ピッチで削り取られ、今は明星輪寺と、そこに至る参道だけが残され、ほとんどすべて削りつくされた状態。「標高200mあまり」としたのは、現在の標高不明のため。
下図のように、これだけ岩崖と窪地の地図記号で埋め尽くされた2万5千分の1地形図もあまりないでしょう。
ただし、濃尾平野の西端に断層活動でそそり立つ山だけに展望の良さは、今も昔も変わらず、ご来光を仰ぐには格好。
夜明け前の6:00集合、途中までは鉱山道路、後半は参道になり、鎌倉時代の仁王像がにらむ寺門をくぐる。
本堂奥の岩窟に本尊虚空蔵菩薩を祀る明星輪寺の本堂にお参りした後、境内裏手の岩ノ巣公園の上に向かう。
岩ノ巣とは、カルスト地形の一種であるピナクル(石灰岩柱)と岩石表面のカッレンフェルト(溶食水溝)からなる地形を、そのように名付けたもので。この岩上が、格好のご来光展望場所となる。
今年は、新型コロナも5類になったせいか、ここ5年くらいでは例がないほど、ご来光を待つ人―特に若者が多かった。
今年は快晴で、暖かく、心穏やかに初日の出を待つことができた。スマホやカメラを構えながら、東の地平線に登るご来光を仰ぐ。
振り返れば、昨年は新型コロナで元旦は臥せっていた。今年は元気で過ごせますように。。
少し北西に目を向けると、高層ビルの建つ岐阜市と、その背後に恵那山、手前に金華山、百々ヶ峰、そして12月29日に登り納めに行った如来ヶ岳、その背後に木曽山脈。その北の御嶽山は雲の中。
岩ノ巣公園の奇岩の間を通って、無事下山。今年も安全登山でいきましょう。よろしくお願いします。
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ぼっちの名は、伝説の山の巨人 ダイダラボッチから頂いたもの。
しかし、日本300名山など全国的に有名な山はほぼ登りつくし、日本最大の山岳百科事典「新日本山岳誌」(日本山岳会編)掲載の、全国約(あばうと)4000山を山修行の場に定めてからは、独りぼっち我が道を行く方の、ぼっち、といった方がいいのかもしれない。
性格は、全般には、まめで淡泊な方じゃないかとおもうけど、こと山に関してだけは、まめで執念深い。
5年かけて岐阜県の山岳454山の半数以上を登り、2021年に『岐阜百秀山』(ナカニシヤ出版)を刊行。
現在は、2022年から5カ年かけて、山岳修験僧円空の足取りを「『円空の冒険』追跡」と銘うって追いかけている最中。
そんな山馬鹿の、2024年の山修行目標、いってみます。
目標1:行けるところから「WALKあばうと日本4000山」
・地元山の会のリーダーを仰せつかることが多いので、すでに登った山が多くなる。それもまたよし。
・それでも登ったことのない日本4000山には、挑み続けたい。
3月末で仕事をリタイアする予定なので、「ぼっち登山」にて、高島トレイル踏破、飛騨百山、関西百名山などを登っていきたい。
・あと、地球温暖化で積雪確保できるか分からないけれど、懸案の県境稜線の屏風山周辺、仙人窟岳〜笈ヶ岳も挑んでみたい。
目標2:「『円空の冒険』追跡」3年目完遂
・「円空仏」で知られる江戸前期の山岳修行僧円空は、山岳登攀においても卓越した存在だった。
2024年は、その円空の足取りを「『円空の冒険』追跡」として5カ年計画で追いかける3年目に入る。
・円空が本領を発揮する、寛文後期、延宝、天和という時期を追いかけることになり、山岳関係では大峯山の厳冬期修行、戸隠や日光での山岳修行などを含む。
円空は、めちゃくちゃアクティブなので、約30年の活動期間を5年で追いかけていくのは相当過酷なんだけど、その分、わくわくドキドキも沢山体験できそうなので、なんとか食らいついていく所存。
目標3:登攀修行続行
・こと登攀については、登山を楽しむ、登山技術を磨くというより、「『円空の冒険』追跡」に不可欠なスキルを身に着けたいということに尽きる。
今後伊吹山不動の滝の崖や、円空飛騨山脈登攀ルートと想定される双六谷溪谷遡行などに挑む必要があるので、地元山の会の講習や山行に積極的に参加し、精進したい。
以上、体調管理をし、安全登山に心がけながら、進める予定。
今年もよろしくお付き合いください (ロ。ロ)/
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2023年新年早々新型コロナに感染、臥せりながら立てた登山目標は次の三点。さて、実際はどうだったか。
目標1:原点に返って「WALKあばうと日本4000山」
・新型コロナ禍の行動制限で、知らない土地の知らない山を登るドキドキ感、ワクワク感から少々遠ざかり気味。
今年こそ東西南北いろんな場所の、高山・低山・珍名の山を巡ってみたい。
目標2:「『円空の冒険』追跡」2年目完遂
・5カ年計画でその足取りを追う2年目は、寛文6(1666)年蝦夷地に渡り、延宝元(1673)年〜2年頃にかけて厳冬の大峯山中で越年修行をするまでで、かなりハードな踏査になりそう。円空の登った山、籠った場所で追体験もしてみたい。
目標3:登攀修行続行
・昨年に引き続き、地元の山の会で登攀修行に励み、剱岳に挑戦してみたい。
<1月>
8日(日)、病から回復し、ようやく遅ればせに金生山初登り。
<2月>
5日(日)、地元山の会で一度積雪期に行きたかった、北飛騨好展望の猪臥山(1,519m)に雪を踏む。
11日(土)〜12日(日)、飯田〜岡谷が積雪通行止めとなり、東海環状自動車道〜東海北陸自動車道〜北陸道〜上信越道と大回り、所要7時間。ー2月の大坐小屋たより−遠回りの雪下ろし。
25日(土)〜26日(日)、地元山の会でテント泊の能郷白山・磯倉登山を計画。ただし16日は視界不良で能郷白山までの往復に。
<3月>
3月4日(土)〜7日(火)は、『円空の冒険』追跡調査行で連れ合いと青森・函館へ。機上船上からの冬山観察にわくわく。
19日(日)は、日本山岳会東海支部の行事として、大日ヶ岳でイグルー講習会。
地球温暖化で、貧雪に悩まされ、積雪期に計画していた県境の縦走は、できずじまい。そのかわり、21日(火祝)は、イグルー講習会で大日ヶ岳に行った折、稜線にたっぷり雪が残っているのが確認できたので、急遽、懸案だった芦倉山の南鞍部〜天狗山〜大日ヶ岳の稜線を縦走。天狗山〜大日ヶ岳―鳩居十宿中央部周回。
25日(土)〜26日(日)は、冬じまいに大坐小屋へ。森の杏の花盛りに出会えた。3月の大坐小屋たより−遅い春の早い春。
<4月>
1日(土)は、ふらりと単独行で室生古火山帯の山々へ。桜の季節に―尼ヶ岳・大洞山・学能堂山。
9日(日)は、地元の山の会のメンバーを飛騨山脈へご案内。紺碧+純白の十石山(2525m)。
16日(日)は、大峯奥駈道から外れるため登り残していた、大峰山脈懸案の山―稲村ヶ岳(1,726m)へ。
大峯山は、円空が寛文12〜13(1672〜1673)年頃に厳しい修行を行った場所でもあるので、踏査下見も兼ねて。
23日(日)は、地元山の会で市民登山のサポート、市民登山−三十三間山〜ろくろ山周回。
<5月>
1日(月)は、三十三間山登山で知った、高島トレイルに第1回目の挑戦。高島トレイル<その1>―乗鞍岳〜赤坂山〜大谷山。
2024年はその続きにも挑戦したい。
2023年5月3日(水祝)〜5日(金祝)は、地元山の会で春山合宿ー蝶ヶ岳・常念岳。
20日(土)は、連れ合いと桂離宮に行ったついでに、円空ゆかりの地でもある石清水八幡宮・鳩ヶ峰(142.4m)へ。
<6月>
4日(日)は、本来3日〜4日で、地元山の会で別山を往復する予定が、2日線状降水帯の影響から、日帰りで銚子ヶ峰までを往復。
2023年の夏は円空の蝦夷での活動を追う3回の追跡行で登山は二の次になりがちでありました。
8日(木)〜12日(月)、北海道渡島半島の日本海側に「円空の冒険」追跡のため約250?をMTBでツーリング。
24日(土)〜25日(日)は、緊張の単独北海道ツーリングも無事完了し、大坐小屋へ。6月の大坐小屋たより−ヤマネ君棲みつく。
<7月>
2日(日)は、地元山の会で近江のかつて名高い山岳寺院のあった山へ。山岳寺院の記憶−己高山(こだかみやま:922.5m)。
7月14日(金)〜17日(月祝)は、旧松前藩東半分を中心に、「円空の冒険」第2回北海道踏査に行ってました。
今回は連れ合いと自動車利用で、またまた登山はなし。
22日(日)は、地元山の会で芥見権現山登攀訓練。
29日(土)〜30日(日)は、地元の山の会で奥美濃の千回沢山を入谷から遡行、久しぶりの旧徳山村門入は、より寂しくなっておりました。奥美濃の奥の奥―千回沢山。
28日は、山仲間のTuboさんがクマに襲われるという大事件も発生。
幸い回復されたけれど、本当にクマの出没が相次いだ年でありました。【重要】山仲間へのクマ襲撃から学ぶこと。
<8月>
3日(木)〜8日(火)は、第3回「円空の冒険」として、円空が和人の領域:松前藩を離れ、アイヌ人の土地:蝦夷地を巡った足取りを踏査。今回は、単独行で、山岳調査もやりました。Tuboさんのクマ被害を聞いた直後なので、緊張感が高かった。
「円空の冒険」蝦夷地踏査(1)―砂原岳(1,112m)ー円空が初登頂を像の背銘に記録した「うちうら乃たけ」
「円空の冒険」蝦夷地踏査(2)−小幌の窟(いわや)ーヒグマの恐怖と闘いながら円空が籠った窟屋に一夜を明かす
「円空の冒険」蝦夷地踏査(3)−有珠山(宇須嶽)ー円空は寛文3年に噴火して間もない有珠山に初登頂している
「円空の冒険」蝦夷地踏査(4)−寿都町海神社ー円空が初めて山名を付けたと考えられる山々を眺めて円空のご神体のある神社へ
「円空の冒険」蝦夷地踏査(5)−八雲町山越諏訪神社ー早朝豪雨の中を移動
「円空の冒険」蝦夷地踏査(6)−恵山(えさん:618m)ー登頂の記録は残らないが、足取りを想定すると登った可能性がある活火山
「円空の冒険」蝦夷地踏査(7)−権現山内浦神社ー先に登った「うちうら乃たけ」をご神体とする神社で、菅江真澄が有珠善光寺で拝した、「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給」の背銘のある像、そのものが、今は本神社に移され、その実物と感動の対面
「円空の冒険」蝦夷地踏査(8)−江差町笹山ー第1回調査で懸案になっていた、円空の神体像がかつて置かれていたという笹山(611m)を踏査。ここも、夏場は人の気配がまったくなく、ヒグマ怖かったなあ。。
珍名の山の極北−貧乏山(501m)ー蝦夷地踏査も一区切り。珍名の山が多い北海道でも、ぼっちが長い間憧れていた貧乏山に。ここも、結果してヒグマの恐怖半端なし。。
「円空の冒険」蝦夷地踏査(9)−乙部町三ツ谷観音像ー天候不順な第3回踏査の最終日、第1回調査で見残した松前藩日本海側のお像を見納めに。
11日(金・山の日)〜13日(日)は、地元の山の会で、黒部の赤木沢を遡行する計画が台風の影響を考慮し直前に中止。
どこも行かないのも忍びなく、12日白馬岳を大雪渓で日帰り往復。遭難救助するというおまけがつきました。
20日(日)は、播隆ゆかりの「播隆地蔵祭」が8月20日(日)、揖斐川町春日笹又で新型コロナ禍後5年ぶりに復活、日本山岳会東海支部が協賛させていただくことになったので、参加してきました。槍ヶ岳開山:播隆地蔵祭復活。
<9月>
2日(土)〜3日(日)は、大坐小屋管理人として年間で最も大変で大切な作業、敷地の草刈りに、連れ合いと孫ぼっち君と出向。
9日(土)〜10日(日)は、岐阜県民スポーツ大会の山岳競技が関市の本城山で開催。各都市対抗になっていて、地元の山の会も出場。ぼっちは応援後本城山に登る。この山域にも円空ゆかりの円空洞がある。県民スポーツ大会山岳競技:関市本城山。
・今夏3回に及ぶ円空の蝦夷地踏査を終え、秋は2回に分け、青森・秋田・宮城各県の円空帰還ルート踏査する予定。
まず1回目は、7日(木)夜〜18日(月祝)で青森下北半島から秋田本荘までを踏査。
ついでに、なかなか行けない登山道が廃道状態の下北半島の東北百名山、袴腰岳(707m)の登山も計画。
津軽半島の東北百名山ー袴腰岳(707m)ーここも、熊の生息域に突っ込むような単独行。円空踏査の合間を縫ってなので山頂までは行けなかったけれど、まあ、時間内に、よく生きて帰れたもんだ。
青森〜秋田帰還ルート踏査(3)ー梵珠山の円空像ーかつて梵珠山に置かれていたという元光寺の円空釈迦如来像を拝んだ後も梵珠山(468.4m)にも登る。ブナの巨木が覆う、掘り出し物のいい山だった。それにしても、袴腰岳と梵珠山に登って、道の駅で車中泊。タフな一日でありました。
青森〜秋田帰還ルート踏査(6)ー能代湊・土崎湊ー円空が湯殿山信仰に触れたのが土崎湊に近い龍泉寺だったと知る。
23日(土)〜24日(日)は、この夏円空が忙しくて、山らしい山は登らなかったなあという心残りから、懸案だった白山加賀禅定道の長丁場を1泊2日で。
<10月>
7日(土)〜9日(月・スポーツの日)の三連休は、ぼっちがリーダーで地元の山の会で北岳に行く計画が、またしても悪天予報。
予定を変更し、7日(土)日帰りで、北岳の拝める静岡の山へ―安倍奥の秋−八紘嶺(1,918m)。
14日(土)〜15日(日)は、大坐小屋管理人の秋作業ー10月の大坐小屋だより―薪つくり。
21日(土)〜22日(日)は、地元じゃない方の山の会でTuboさんのクマ襲撃からの快気祝いも兼ねて―蕪山(1,069m)+芋煮会
28日(土)は、『播隆院一心寺と播隆上人』展(揖斐川町歴史民俗資料館)へ。播隆の念持仏の円空作観音象とも対面。
29日(日)は、地元山の会のSさんをしのんで、養老山(859m) 追悼登山。
<11月>
3日(金祝)〜6日(月)は、「円空の冒険」蝦夷からの帰還ルート踏査の第2回目として青森・秋田・山形・宮城各県を巡る。
23日(木祝)は、円空の大峯山での冬修行追体験の下見へ。現地に立つのはやはり大切ー笙ノ窟〜小笹の宿〜山上ヶ岳偵察山行。
<12月>
2日(土)〜3日(日)、大坐小屋の冬支度のついでに、円空戸隠修行の手がかりを探しにー12月の大坐小屋たより−初冬の戸隠探訪。
29日(金)は、地元じゃない方の山の会で、登り納めは一等三角点ー如来ヶ岳(276m)。
<反省会>
目標1:原点に返って「WALKあばうと日本4000山」
・新型コロナ禍で行動制限が続き、知らない土地の知らない山を登るドキドキ感、ワクワク感から少々遠ざかり気味。
今年こそ東西南北いろんな場所の、高山・低山・珍名の山を巡ってみたい。
→地元山の会での登山が中心で、自律的に初めて登る山、初めて通るルートは少なかった。
そのかわり、「『円空の冒険』追跡」に関連しての踏査や登山は、クマの恐怖との戦いも含めドキドキ感、ワクワク感一杯だった。
珍名の山ハントは、数こそ少なかったが、長い間訪れたかった「貧乏山」に登れたのがうれしかった。
目標2:「『円空の冒険』追跡」2年目完遂
・5カ年計画でその足取りを追う2年目は、寛文6(1666)年蝦夷地に渡り、延宝元(1673)年〜2年頃にかけて厳冬の大峯山中で越年修行をするまでで、かなりハードな踏査になりそう。円空の登った山、籠った場所で追体験もしてみたい。
→当初の想定以上に充実した踏査ができたつもり。多くの発見があり、多くの出会いもあり、感謝でいっぱい。
目標3:登攀修行続行
・昨年に引き続き、地元の山の会で登攀修行に励み、剱岳に挑戦してみたい。
→芥見権現での訓練と、千回沢山での沢登りのみとなり、赤木沢は中止、剱岳は予定が合わず中途半端となった。
以上、2023年は、5月に新型コロナウイルスが5類化し、また「円空の冒険」踏査で北海道や東北に何度も通うなど、久しぶりに「WALK あばうと」できた1年となった。ただし、「4000山」へのチャレンジは、あまりできなかったのが反省事項。
また、全国的にクマの被害が深刻化した年だったが、身近にクマの被害者が出て、その恐怖は他人ごとではなかった。
また、白馬大雪渓での遭難救助を通じて、「ただ体調がよくないだけ」という危機感の乏しい遭難の怖さというのも知らされた。
そんな経験も踏まえながら、2024年の登山計画を立てていきたい。
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岐阜市と山県市の境に位置する、如来ヶ岳(にょらいがたけ:276m)は、後者の典型といってもいい山。
「続ぎふ百山」にもなっている(「続ぎふ百山」は、このような岐阜市近郊などの地味な低山が数多く含まれる)。
一度登ってみたいと思っていながら、なかなか時間を割いて行く機会がないままなのが近郊低山の宿命。
今回、山の会の登り納めの対象となったので、ちょうどいい機会と、12月28日、参加してきました。
岐阜市畜産センター公園にメンバー9名が、9:30集合・出発。
岐阜市の市民公園に隣接する低山の一等三角点の山だから、標識など、ばっちり整備されているのかなと思ったらなにもなし。
少々刈り払われた路肩から入山。この刈り払いすら、送電線巡視路としての使用目的のものらしい。
いつも思うんだけど、「清流の国」岐阜県は、こと登山に関しては「意識低い系」みたい。。
シイなどを中心とした二次林の中を行く。
標高276mということで、あなどっていたけれど、どうして。なかなかの急登が続く。
地味ながら、木の階段があるのがありがたい。
関西電力の送電鉄塔直下に出る。真正面に岐阜市の最高峰百々ヶ峰(417.9m)が。
今日一番の展望だった。
さらに標高を稼ぐと、次第に緩やかな尾根上の道となり、「済法寺跡地」の標識に出会う。
調べたところ、済法寺は、貞観3(861)年に慈覚大師円仁により、如来ヶ岳の山頂に天台宗の寺院として創建されたと伝わる。
その後、保元年間(1156〜1158年)に現在地に移転したが、天正の頃に兵火にかかって荒廃する。元和8(1622)年に唯道恵定和尚が南化玄興を開山に招いて臨済宗妙心寺派の寺院として再興したという。
この寺院が、如来ヶ岳の山名の由来になっているらしい。
―江戸の平和な時代になり、庶民が菩提寺を求めるようになり、幕府のキリシタン対策も含めた宗教統制も相まって、古い山岳寺院が、山から下って臨済宗妙心寺派の寺院として再興され、そこに円空仏があるなんてパターンが美濃地方には多い。
登山開始から1時間10分ほどで、如来ヶ岳山頂に到着。やはり一等三角点の標石はでかい。
みんなで、一等三角点を前に記念撮影。
そそくさ下山し、火気を使わなくてすむ車載移動バッテリーの電磁調理器でこしらえた鍋で温まりながら、来年の登山計画を調整。
お疲れさまでした。来年も健康で登りましょう!
<登山記録> (…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2023年12月29日(金)晴 メンバー:Nj,Ue,Tubo,Hi,Su,Is,Hd,Na,botti
岐阜市畜産センター公園(集合・駐車)9:30〜9:45…登山入口9:55…鉄塔10:35…如来ヶ岳山頂10:55〜11:10…公園11:50
<メモ>
岐阜市近郊の低山で送電鉄塔巡視路と重なる登山道はおおむね整備されている。
ただし、標識はまったくなく、いろいろな分岐があるので、低山道迷いには注意。
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もう、紅葉も果て、根雪になりそうな雪が数センチ積もっていた。
前回10月に来た時、薪づくりなど冬支度を一通り完了しているので、今回は凍結防止のため、水道の水抜きをすればいいだけ。
いつもは何か外仕事があるもんだけれど、今回はゆったりできて、昼は郷土食「おやき」をこしらえてみた。
長野県内だとスーパーに「おやきミックス」が売っているので、水を入れて捏ねて寝かし、丸めて「あん」を入れ、焼いて蒸す。
中に「あん」として入れたのは、葱味噌、舞茸、野沢菜、切り干し大根。
焼いて蒸す工程は、ホットプレートを使えば、ほとんど餃子と同じ手間で作ることができる。焼きたてはうまいもんです。
午後には、ストーブの火でビーフシチューも制作。これで明日帰宅後の夕飯もOK。
翌3日は、「『円空の冒険』追跡」のため、戸隠を探訪することに。
今さらだけど、戸隠山(1,904m)は長野市(旧戸隠村)に位置する、修験道場として知られた山。
山名は、アマテラスオオミカミが、高天ヶ原の天の岩戸に隠れたとき、タジカラノオノミコトが、岩戸をここまで投げ飛ばし、世に光を取り戻したとの伝説による。円空は和歌で「戸蔵山」としており、このような表記方法もあったとのこと。
中腹に戸隠神社(奥社)があり、廃仏毀釈までは聖観音菩薩を祀っていたほか、摂社に地主神の九頭龍社が祀られている。
羽島市中観音堂の十一面観音の像内納入品として戸隠神社の印のある起請文が発見されているので、円空が戸隠山に登ったのはほぼ間違いない。
戸隠神社は明治初年の神仏分離以前、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺で、江戸時代は、徳川家康に所領を与えられ、東叡山寛永寺の末寺となっていた。
廃仏毀釈で、仏教的な要素は徹底的に排除されているせいか、当地で円空仏は発見されていないが次の歌を残している。
円空は、造像後「御形再拝」などと和歌を詠むので(662、668など)、戸隠でも九頭龍権現の像などを造顕したのではないだろうか。
240:天戸をわ<チワヤフル> 九頭の龍王 擁護して 形なれや 戸蔵す神の 幾夜経らん 御形なりけり
548:栄術鞍馬 栄意平野 和足戸蔵 道足富士 編達白山
二 三 四
549:知結熊野 命印羽黒 仁命大山 悲順日光 堂里足金峯
552:くりからの のめる刃(つるぎ)の 形も哉 あまねく守る 戸蔵(とかくし)の神
561:ちわやふる 天岩戸を ひきあけて 権(かり)にそかわる 戸蔵の神
さらに、約10?東南に位置し、大坐小屋が位置する飯縄山(1,917m)も、飯縄権現を祀る霊山で、円空は次の和歌を残している。
543:かなわすハ とにもかくにも 峯々の 飯縄の神の守りの 誓(ひ)ましませ
553:飯縄<深山二>にハ 人住(む)事(は) なけれとも たがたき立る 神のけむりそ
557:[ ]露に 袖打(ち)払う 山伏ミテゝ 飯縄の守れる神の 初(め)成けり
現在の戸隠の、特に奥社のあたりは、深い森に包まれた古式ゆかしき神社に見える。
しかし、江戸末期の『信州戸隠山惣略絵図』などをみると、参道には多くの僧房がにぎやかに並び、仏教色が強かった。
さらに、奥院御本社(現在の奥社)と並ぶ戸隠の地主神九頭龍大権現(同九頭龍社)は、水を司る神で、江戸時代には、戸隠信仰の中心だったようで、二代目安藤広重も、『諸国名所百景』では「信州戸隠山九頭龍大権現」を描いている。
今は忘れ去られているが、戸隠三十三窟と呼ばれる多くの窟(いわや)が、修験者の修行の場であったという。
そんな、事前知識を念頭に、円空当時の姿をしのんでみるため、奥社(奥の院)、九頭龍社(九頭龍大権現社)、そして戸隠三十三窟のひとつで、不動明王の摩崖仏が残るという不動窟を回ってみることにした。
まだ何とか車が入れる鏡池の畔に愛車奥地君をとめ、朝焼けに染まる戸隠山(右)と、西岳(左)を拝みながら踏査開始。
ちなみに、鏡池は戸隠連峰の湧水を稲作に利用するために、いったん貯水し水を温める機能を持つ農業用の温水ため池として昭和40年代に県営事業で造られたものだそうで、円空当時にはありません。
木立の中の道をたどって奥社参道中ほどの随身門の前に出る。ここはかつて仁王門だった。
現在の門は、宝永7(1710)年建立のもので、奥社でもっとも古い建造物だけど、円空当時よりは時代が下る。
往年は、仁王門から九頭龍権現社、奥の院の間に、天台宗系の多くの僧房が建ち並んでいた。
見事な杉並木沿いに僧房が続いていた。樹齢400年ほどというから、円空当時は樹齢50年余りのまだ若い樹だったんでしょう。
奥社のあたりはずいぶん雪が深くなっていた。
戸隠山の岩壁の直下にあるだけに雪崩に遭いやすく、奥社・九頭龍社は何度も建て替えられている。
現在の奥社の社殿は、昭和53(1978)年の雪崩で流失した翌年、岩盤をうがちコンクリート製の神殿を中に納める方式再建されたもの。
それほど雪崩が多い場所に造られ続けているのは、奥社と九頭龍社にはそれぞれ窟の前に建てられ、窟が信仰の対象だったため。
現在の奥社の建物を横から見ると窟に埋め込むように建てられているのが分かる。
雪囲いされた九頭龍社。
鎌倉中期の建治元(1275)年に編纂された『阿裟縛抄諸寺略記』によると、平安前期の嘉祥2(849)年、学問行者が飯綱山で七日間の西の大嵩(これが戸隠山になる)に向かって修行をしていたところ、九頭一尾の鬼が出現し、悪事によりこのような姿になったと告げると、学問は法華経を唱えその竜を岩窟に封じ大磐石で穴をふさいだとされる。
この鬼が雨と水を司る善神、九頭龍権現に転じ、信仰を集めるようになったという。
現在の九頭龍神社は、この伝説の窟の前に建つ。
ちなみに、白山に登頂した泰澄の前に、十一面観音の化身である九頭竜王が翠ケ池から現れたと伝わるなど、九頭龍権現と白山の関わりも深い。
参道脇の僧房は廃仏毀釈で失われたけれど、宝永2(1705)年に建立された「法華多宝塔」が残る。
九頭龍伝説といい、戸隠は、法華経信仰の霊地という側面があったのでしょう。
鏡池に戻る途中、不動窟の分岐に入る。60分とあるけれど、たどり着けるかは雪と時間次第。
鏡池の西側から雪の中でも明確な尾根道に入る。カモシカの足跡がたくさんあって、軽くラッセルしてくれている。
30分あまり尾根を登ると、小屋が見えてくる。
行者用の小屋だったのだろうか、囲炉裏が切られ、神棚がある。
開いた戸口には、筵(むしろ)か何かを戸代わりにしていたのかも。
そんなに古い建物ではないけれど、円空もこんな小屋に寝泊まりしたことも多かったんでしょう。
小屋から先、もう30分足らずで不動窟にたどり着けそうな位置なんだけど、道がネマガリタケを被り、ルートファインディングに時間がかかりそう。
今回は下見ということで、ここで引き返すことにする。
鏡池まで降り立つと、もう雪で戸隠山は見えなくなっていた。
帰路、中社(かつての中院)にも立ち寄ってみる。
建物は新しいけれど、「信州戸隠山惣略絵図」をみると、建物様式は江戸時代とあまり変わっていないよう。
いったん大坐小屋に戻り連れ合い+孫ぼっちくんと合流し、戸隠蕎麦を食べに「大久保の茶屋」へ。緑がかった新蕎麦。
戸隠というと、蕎麦と辛味の強い大根が名産だけど、かつては伊吹山の太平寺集落も、蕎麦と辛味大根が名産で、たぶんこちらの方が古いはず。
修験僧は修行にあたって「五穀絶ち」をする。その時は蕎麦粉が主食となるという。
そんなことも修験の霊場、戸隠や伊吹山が蕎麦が名産となる背景にはあったんでしょう。
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木下氏は「まえがき」で、「『山の国』飛彈は『峠の国』でもある。他国へ行くためだけではなく、飛彈国内の移動でも山を越えなければならず、昔から多くの峠があった。他国と結ぶ人と物の流通路として、日常では杣(そま)仕事や炭焼き、漁など生活の道として、多くの人や牛馬が行き交った。近代以降主なものはそのまま自動車道になったが、そのほかは長年の役目を終えて草に埋もれ、山に還ろうとしている。そして今や人々の記憶からも消えようとしている。そんな文化遺産である峠道がいとおしくて、15年ほど前から地図を片手にヤブをこいで探査を行ってきた。おそらく最後の旅人として。」と記される。
そして本書には、郡上街道の峠、江戸街道の峠、高山市丹生川町の峠、高山市国府町の峠、山之村(飛騨市神岡町)の峠、飛騨市神岡町の峠、高山市上宝町蔵柱の峠、飛騨山脈を越える峠、その他高山市の峠、下呂市の峠、旧東山道飛騨支路にある峠と、多様な峠の探査記録が収録されている。そこには、飛彈国から他国へ越えていく国境の峠もあれば、集落と集落を結ぶ生活の峠もある。飛騨の歴史に詳しい木下氏ならではの峠の由緒の説明と、それに続けて実際の探査記録が記される。2万5千分の1地形図からも消え去った廃道になって久しいルートも多く、ルート特定やヤブに埋もれた道探査に苦労され、一度ではたどり着けない峠も、執念で確認されている。それは、奥美濃のヤブ山登山にも通じる、踏み跡すら自然の中に消えようとしているがゆえに、懐かしさもひとしおという二律背反の心を誘われるようなチャレンジだったのではないだろうか。
さらに、峠への道すがら出会った人々との会話が、方言も交えて丁寧に記される。フィールドワークというより四方山話といった風情なのだが、そのようなやりとりが、かえって峠の過去・現在を浮かび上がらせている。そんな会話も、木下氏の蘊蓄の深さとお人柄があって成り立つものだったろう。
焼岳をまたぐ中尾峠や、武田信玄の軍が攻め入り、ウエストンが3度越えた古安房峠など、岳人であれば訪れてみたい峠もあれば、飛彈人(ひだびと)でなければ地理感がつかめないような峠もある。かえってそのような寡黙な峠こそが飛彈人の心には響くのではないだろうか。しかし、土地勘も働かない他国者であっても、あの峠、この峠と読み進めていくうち、いつしか自然と共に生きてきた日本人の原像が目の前に浮かび上がってくる。それは、木下氏の味わい深い文章の力によることはもちろんだが、飛彈という土地とその山岳に対する氏の深い愛情、失われつつある峠を悼む想いがあってのものだろう。
なお、木下氏は2007年9月、チベットのモンタ・カンリ峰(6,425m)を初登頂されているが、巻末には、その偵察時に立たれたモンタ・ラ(峠)(5,388m)の様子も加えられている。日本とチベットの風土の違いが象徴的に表れ、興味深かった。
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しかし、次なる難関が控えている。それは、「大峯山(注)での冬籠り追体験」。
(注)大峯山(大峰山)は、奈良県の南部に位置し、現在では広義には大峰山脈を、狭義には大峰山寺のある山上ヶ岳を指す。歴史的には、大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ:小笹)から熊野までの峰々の呼び名だった。これに対し、小篠から山上ヶ岳を含み尾根沿いに吉野川河岸までを金峰山といった。
円空は、大峯一帯を次のようにいくつもの歌に詠んでいる。
534:大峯や 神の使も 守(る)らん 照ル月清キ 我庵
843:大峯や 神の使(ひ)の ある物を かつワらべの 北にこそ行け
867:大峯や 天<ノヲ>川に 年をへて 又くる春に 花を見(る)らん
1441:守れ只 大峯山の 神なれや 心の内の 印計(ばか)りに
570:こけむしろ 笙(の)窟にしきのへて 長夜のこる のりのとほしミ
571:□唐衣 笙(の)窟に打染て このよはかりハ すミそめのそで
572:千和屋振る 笙(の)窟に ミそきして 深山の神も よろこひにけり
641:しつかなる 鷲窟(わしのいはや)に 住みなれて 心の内は 苔ノむしろ[ ]
886:昨日今日 小篠(の)山二 降(る)雪ハ。 年の終(り)の 神の形(かげ)かも
867の歌にあるように、大峰山麓の天川で年越しをしていること、天川栃尾観音堂にある諸像が寛文13年頃の様式を示していることから、寛文12,13(1672,1673)年、大峯山修業をしたと推定されている。
歌にある笙ノ窟、鷲ノ窟は、大普賢岳(1,780m)にある霊場で、円空はここでも厳しい修行を行ったと考えられる。
一泊でいいから円空の冬籠りの修行を体感したいと思うのだけれど、いきなりはリスキーなので11月23日(木祝)に下見に。
笙ノ窟への最短路、奈良県上北山村の和佐又から入山。
奈良県で数少ないスキー場があったところで、最近ヒュッテが新装なり、キャンプをメインとするらしい。
大普賢岳、大台ヶ原の新たな登山基地が開業。和佐又ヒュッテがリニューアル - 山と溪谷オンライン (yamakei-online.com)
ヒュッテのそばの駐車場は有料で、少し下の駐車場は無料。ヒュッテのそばの登山口で届けを出し、しばらく林道を歩く。
林道終点が、本当の登山口。ここに、笙ノ窟の歴史や、修行した上人たちの和歌が記された案内板がある。
平安時代の伝説的な修験僧日蔵や、西行などとともに円空の和歌(上記570)もあって、ちょっとうれしい。
和佐又山と大普賢岳の間の鞍部からはおだやかな尾根となり、ブナやモミの巨木、赤くつややかなヒメシャラなどの原生林となる。
ぼっちの知る限り、関西では最も見事な原生林ではないだろうか。
はやすべて葉を落とした梢越しに、八経ヶ岳や仏生嶽など修験者の修行の道:奥駈道の通る稜線が眺められる。
シタン窟という小さめの窟屋を過ぎると、岩壁に張り付くような道となる。冬場の通行はきつそう。。
この一帯は日本岳(文殊岳)という岩峰の南斜面にあたり、チャートの岩壁にできた洞窟群が大峯山屈指の修行の場となっている。
朝日窟、ここは比較的大きくて、修験者の木札と、大峯満山護法善神の小石碑があった、
そして、いよいよ笙ノ窟。大峯山の行所(修行スポット)である七十五靡(なびき)のうち、六十二靡とされる。
窟の上のそそり立つ岩壁が楽器の笙のような形をしていることが名前の由来。
手前にあるモミの木は相当な巨木であるということを物差しに、そのスケール感じていただければ。
窟屋の中には不動明王三尊の石像の祠があり、奥行きは5mくらい横幅は15mくらいあるのではないだろうか。
かつてはここに鎌倉時代の不動明王像が置かれており(現在は奈良国立博物館)、修行のための建物もあった可能性があるという。
大峯山での修行でも、最も過酷であったのが、9月9日(2023年なら新暦の10月23日)から正月3日(同2月12日)までの百日間、五穀を断っての厳寒修行で、これを成し遂げた行者は晦日山伏と呼ばれ大変な尊崇を集めたという。
さらにすごい千日籠もなされていたという。これらの修行を、山麓の天ケ瀬の人びとが支えたという。
窟の右手の壁からは水がしたたり落ちており、奥駈の行場では貴重な水が確保できる。
笙ノ窟のさらに数百m先に鷲ノ窟がある。
かなり浅めで、役行者・前鬼・後鬼三尊の石像にお札が手向けられていた。
窟群を過ぎると、鎖場で岩場をよじ登り、日本岳の鞍部に出る。
日本岳もなかなか珍しい山名なので立ち寄ってみたかったけれど、今回は先を急ごう。
大普賢岳への鉄梯子を登りながら日本岳を振り返る。
岩峰の南斜面が切り立った崖となり、そこにある窟が修行の地となったのがよくわかる。
まだまだ梯子は連続。
最後の鞍部に出ると、大普賢岳山頂部は、すっかり雪に覆われていた。
9:15 三等三角点の大普賢岳(1,780m)山頂に。
谷を挟んで右手に大峰山(1,719m)と、左手に岩峰大日山を従えた稲村ヶ岳(1,726m)が並び立つ。
2014年に大峯奥駈の大縦走で大峯山系はほとんど登った中、ルートから外れた稲村ヶ岳に、今年4月にようやく登ることができた。
感慨深い展望であります。
山頂で出会ったカップルは、奥駈ルートを南に、国見岳(1,655m)、七曜岳(1,584m)までたどって、和佐又へと周回されるそう。
その先、さらに弥山、八経ヶ岳、仏生嶽と奥駈の峰々が連続。
ぼっちは、奥駈道を北に取る。
おだやかな原生林の中を進むと、脇ノ宿跡を経て柏木集落からの道と合流し、そこが女人結界となっている。
竜ヶ岳方向に登り返し、下りに差し掛かったところに小笹ノ宿がある。
沢が流れ込み、水場の少ない奥駈道の中では数少ない豊かな水が確保できる場所。
赤い行者堂と、最近復興された不動明王像と護摩壇、そしてトタンの定員3名程度の小屋がささやかに立つ。
大峯山中の行場(靡)などが克明に描かれた『大峯々中秘密絵巻』(天明7(1787)年 大峯山護寺院櫻本坊所蔵)の小篠の宿の部分には、47棟もの建物が描かれ、行者堂、聖宝堂、番所それに宿坊と先達の仲間宿などがあったという。
それらは失われ、今は石垣を残すのみ。
小笹ノ宿に11:25と早めに着くことができたので、山上が岳まで足を延ばすこととする。
最後のひと登りの途中、下って来た単独行の女性登山者とすれ違い、いつものように「こんにちは」と挨拶し、しばらくしてから「??!」となる。
12:15 山上ヶ岳の大峯山寺に到着。洞川から登ってこられた登山者がちらほらおられる。
現在の本堂は、元禄4(1691)年に再建されたもの。
円空当時の本堂は、天文3(1534)年に一向宗本善寺の門徒に焼き討ちされた後、元和2(1616)年に木食快元により再建された建物だっだはず。
5月3日に戸開式があり9月23日に戸閉式が行われるということで、今は扉は閉ざされている。
陽だまりの本堂前でそそくさ昼食を食べ、下山にかかりますか。
何とか、16:50真っ暗になる前、和佐又に降り立つ。
今回、下見のつもりで山上ヶ岳まで往復したことで、冒頭の円空の歌の意味がだいぶん理解できた。
それをもとに、冬場の踏査に臨みたいと思います(ロ。ロ)/
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2023年11月23日(木祝) 快晴、単独行
自宅2:30―和佐又ヒュッテ無料駐車場(駐車)6:45…登山口7:00…シタン窟7:48…朝日窟7:55…笙ノ窟8:00…鷲ノ窟8:07…大普賢岳9:15…結界10:45…小笹ノ宿11:25…山上ヶ岳12:15〜12:35…小笹ノ宿13:15…鷲ノ窟15:45…駐車場16:50―(大宇陀温泉あきのの湯入湯)ー自宅21:50
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そのダイジェストをご紹介。
2日(木) 名古屋16:50−大坐小屋(泊)22:00
3日(金祝) 大坐小屋4:00−信濃町I.C.−昭和男鹿半島I.C. ―赤神神社五社堂14:00〜15:30―増川八幡神社16:00―男鹿市立図書館17:00―秋田18:30(泊)
今回のメインは、なかなか拝観できない男鹿半島赤神神社五社堂の十一面観音立像を拝むこと。
運転好きの連れ合い運転の愛車アウトバックの奥地君で、大坐小屋経由14時間ほどで男鹿半島に到着。
道の駅の巨大なまはげと対面。
999段の石段を登り、赤神神社五社堂にお約束の14:00に到着。
五社堂の由来は、「72年(景行天皇2年)(80年(景行天皇10年)とも81年(景行天皇11年)ともいう)、赤神と称した漢の孝武帝が天から降りてきたという伝説がある。一方、縁起によると、860年(貞観2年)、慈覚大師円仁が当地に来て赤神山日積寺永禅院(永禅坊とも)を創建したのに始まり、1216年(建保4年)、比叡山の山王七社を勧請して造営されたが、うち2社が廃れたため五社堂となったとする。」とされる。
男鹿半島の有名な年中行事なまはげは、この五社堂に関わるとされ、「なまはげは、当地に来訪した武帝が連れてきた鬼であったとする伝説がある。鬼の乱暴を止めるために村人が申し出た『一晩に千段の石段を作れるならば娘を差し出す、出来なければ山に帰ること』という賭けを承諾した鬼たちが、999段まで作り終えたところで、村人の一人が鶏の鳴き真似をして乱暴を止めさせたと言われている。」鶏の鳴き声を真似したのは、天邪鬼との異説もあるそう。
また、五社堂についても、五匹の鬼を祀ったものとの異説もある。
中世を通じて橘氏、安東氏の崇敬を受け、近世に入ると久保田藩主佐竹氏により領内12社のうちに選ばれ、篤く信仰された。
現在は、正面入母屋造、背面切妻造の社殿が5棟、横一列に並ぶ。
向かって右から三の宮堂、客人権現堂(まろうどごんげんどう)、赤神権現堂(中央堂)、八王子堂、十禅師堂と呼ばれる。
現在の建物は宝永7(1710)年建立だが、赤神権現堂内の厨子は室町時代までさかのぼるそう。
明治初年の神仏分離前は、向かって右から普賢菩薩、十一面観音菩薩、釈迦如来と阿弥陀如来、千手観音菩薩、地蔵菩薩を祀っていた。
円空の十一面観音立像は、右から2番目、客人権現堂に納められている。
宮司さまにお願いして拝ませていただいた十一面観音立像は、客仏扱いではなく、まさにご神体・ご本尊として中央に立たれていた(撮影禁止)。
像高170?、材はシナノキ、左右相称で、右手に持つ水瓶は肩の線より上に出ている。白毫と眼点が小さく墨で記される。
完成度が高く、微笑んでおられるが、カミとしての像のせいか、神秘的な雰囲気をたたえておられる。
現地に来るまで知らなかったのだが、堂の脇からは、本山(715m)〜真山(567m)を経て真山神社に至る修験の道があり、当日も登山者の姿があった。
円空来訪当時に近い、正保4(1647)年幕府が各藩に作らせた正保の国絵図の写しと考えられる『出羽一国御絵図』で見る限り、五社堂から真山神社のある半島北側への海岸沿いの道はないので、円空は山越えして五社堂に入ったのかもしれない。
今回たどる時間的余裕はなかったけれど、またたどってみたい。
広大な社域を、ほぼお一人でお守りされている宮司様、お世話になりありがとうございました。
999段の石段脇に、江戸初期の五社堂の様子を伝える狩野定信作男鹿図屏風(秋田県立博物館蔵)を模写・拡大した図があった。
今は失われてしまった多くの堂塔を描き、円空来訪時のたたずまいがイメージできる。
また、その信仰に山岳信仰的な要素が強かったこともしのばれる。
赤神神社から車で10?程西に移動した増川集落の増川八幡神社にも円空作の薬師如来坐像が伝わる。
像高34?、磐坐の上に蓮台を重ねる二重台座に、薬壺を持った坐像。
円空は、関市藤谷集落などで薬師如来坐像を造っているが、蝦夷への往復の旅においては、現存する中ではこの像が初めての薬師像となるのでは。
円空は、里人の要請を受けて、そのご本尊・ご神体としてこの像を造ったのだろう。
本像は一度盗難に遭い、台座の下部の磐坐を切られた状態で発見されたという事情もあり、お目にかかること叶わず残念。
他にもう一体、像高10.5?の阿弥陀如来坐像が個人蔵として伝わる。
男鹿半島を後に、秋田のホテルに素泊まりで投宿。
夕飯は、晩酌を兼ねて居酒屋で新米をつぶして団子状にしたものを入れた「だまこ汁」をいただく。
秋田というときりたんぽが有名だが、これは大館地区が発祥だそうで、だまこ汁は八郎潟周辺が発祥なのだとか。
秋田県知事がつい失言されちゃうほど、秋田の郷土料理と日本酒はおいしかった。
4日(土) 秋田6:30−能代(龍泉寺)―白瀑神社―鯵ヶ沢町延寿院10:45〜11:30−弘前−能代−(国道151号線)―真木神社―秋田(泊)
本日のメインは、青森県で見残した鯵ヶ沢町延寿院の観音菩薩坐像を拝ませていただくこと。
延寿院の像は、青森県の日本海に面した西海岸エリア唯一の円空像で、寺伝では寛文2(1662)年に、鰺ヶ沢沖で漁網にかかったものとされ、「海上漂流黒本尊」の別名がある。
円空が弘前藩から久保田藩へ入ったルートは、以前日本海側ルートも想定されていたが、大館の宗福寺で十一面観音立像が確認され、これと北秋田市綴子の阿弥陀如来坐像をつなぐと、羽州街道ルートの可能性が高くなった。
とはいうものの、念のために西海岸もドライブ調査。
円空には縁はなさそうと分かったが、円仁との関りも伝わる古社白瀑神社にも立ち寄り。
当地域に足をのばすなら、未踏の東北百名山白神山地の天狗岳も登りたいところだけれど、天狗峠への林道が長期間不通で断念。
そんな白神山地を海側から仰ぎ見る。
鯵ヶ沢町延寿院の観音菩薩坐像とご対面。ご住職にいろいろお話を伺う。
延寿院が曹洞宗の寺となったのは、明和3(1766)年の明和地震の後のことで、境内の明和地震供養塔は大地震とそれに伴う大津波の犠牲者を弔う為に建立されたものとのこと。
観音菩薩坐像は像高48?、磐座に蓮台を重ねる二重台座、右手の上に左手を重ねる定印に蓮華を載せる。頭は岩峰状の宝髻を結う。
腕の内側を深めに彫りくぼめて薄い材を立体的に見せているのは、蝦夷での後半から、津軽半島に戻ってからの像に共通する。
海に流された像であることは、最近のX線測定で塩分が検出されたことで裏付けられたとのこと。
また、背面を赤外線撮影させてもらったところ、真っ黒な増にもかかわらず、台座部分に3文字×2行の六種種子がくっきり読み取れる。そして両脇はやや損傷もあって読み取りにくいが空間がとられているので、数文字の種字が書かれていたと推測される。
これは津軽半島に戻ってからの観音菩薩坐像に共通することから、本像は津軽半島のどこかにあった像と推測される。
鯵ヶ沢は、ヒラメなど海の幸の産地。さらに、日本最大の最大級の淡水魚にして大変希少なイトウの養殖地でもある。
延寿院からも近い、日本海に面したドライブイン汐風で、そんなヒラメ丼(右)、イトウ丼(左)を頂く。
鯵ヶ沢から弘前に回り、円空がたどったと想定される羽州街道で久保田藩側に入り、大館、北秋田綴子集落、能代とたどる。
能代から赤神神社五社堂のある男鹿半島南部に向けた航路は、前記の『出羽一国御絵図』で見る限りなかったようで、そのかわり八郎潟の日本海沿いに当時から砂洲をたどる道があった。
現在の国道101号線がおおよそこれに重なり、男鹿半島の北浦に至る。
そして北浦から半島南側の五社堂に向けての沿岸には道はないが、北浦の真山神社から真山、本山を経由する修験者の道たどって五社堂に降り立つことができる。
明治の神仏分離以前は、真言宗の修験寺てある赤神山光飯寺で、ここも佐竹十二社のひとつ。
今の神社の本殿の左手に、仏殿があり、ここにかつての本尊だった南北朝時代の薬師如来が安置されている。
その脇から真山に向け長い石段がはじまり、五社殿がある。
古くは、その名の通り五つの社だったが、江戸後期に焼失してしまい、残った1社に合祀し、現在の場所に遷されたという。
秋田市に戻り、晩飯は創業寛文5年という文句にひかれて、「いろり屋川反店」へ。しょっつる鍋を頂く。
なまはげと、あきたびじんがおられました。
5日(日) 秋田6:30―本荘市街(大泉寺)−小栗山代内太子堂−湯沢市院内愛宕神社(非公開)11:00―院内銀山異人館―立石寺13:30〜15:00―女川温泉17:30(泊)
久保田藩内の円空想定ルートは、羽州街道で大館、綴子へ、そして能代で羽州街道を離れ、八郎潟の日本海側の畔を通って、男鹿半島北浦の光飯寺(真山神社)から山越しで五社堂に出て増川を経て、船川湊から土崎湊へ。そこで石名坂の龍泉寺に立ち寄ったところまでは、残された円空像と当時の交通事情を考えればおおむね間違いないと考えられる。
そして、久保田藩の南端、羽州街道の通る院内を経たことも、愛宕神社の十一面観音像から確認できる。
土崎から院内までは、次の2ルートが考えられる。
➀久保田城下を経る羽州街道で院内へ
➁土崎湊から本荘湊まで船で渡り、本荘藩か亀田藩の参勤交代ルートから羽州街道に入り院内へ
本荘城下残る2像のうち、大泉寺像は移入仏、蔵賢寺は漂流仏とされるので、円空が本荘を通った証拠とはならない。
そこに、本荘湊と羽州街道の中間にあたる小栗山代内太子堂にかつて円空像があったとの事前情報が。
太子堂の隣に住まわれる別当筋にあたられるTさんにいろいろお教えいただき、聖徳太子像も拝観させていただいた。
この太子堂の調査結果は、追って「円空の冒険」追跡ノートでご報告。
そして、院内の愛宕神社へ。拝観は8月の祭りの折だけということだったが、ちょうど雪囲い作業をされていた氏子の方から色々貴重な資料をいただいた。
院内は、現在の湯沢市としてみると南の端の一集落に過ぎないが、羽州街道が通り、久保田藩の国境という要諦に位置し、奥に大きな銀山があり、愛宕神社も佐竹12社のひとつだった。
円空が、五社堂や院内愛宕神社のような重要なポイントにご神体に準ずる大作の十一面観音像を残したことからして、久保田藩でもただの遊行僧と見られていたとは考えがたいなと感じさせられた。
その先、円空は松島瑞巌寺に立ち寄ったことは円空の釈迦如来坐像が残され、和歌も残していることから間違いないが、その間に円空像は見出されておらず、どのようなルートを取ったのかは不明。
Y師匠は仙台藩に繋がるいくつものルートを探索されたそうだけれど、形跡はまったく見出せなかったとのこと。
ぼっちとしては、羽州街道をそのまま南下して近江商人の出店のあった天童に入り、そこから瑞巌寺と共に天台宗円仁が開山したとされる立石寺に参拝し、関山街道で仙台藩領に入り松島をめざしたというルートも十分可能性があるのではと、立石寺に立ち寄った。
山寺の別称のとおり、紅葉に彩られた寺域は、荒々しい岩肌をさらし、そこに修験者の修行した岩窟がいくつも掘られている。
円空がここでひと時を修行に宛てたというのも、十分にありえるのではないだろうか。
6日(月) 女川8:00―女川市街−瑞巌寺9:30〜11:30―自宅22:30
時間の関係で関山街道は通らず、高速道路で松島の先、女川に投宿。
翌日は瑞巌寺に向かう前に、女川市街を訪問。津波で根こそぎ横転した旧女川警察署が震災遺跡として残されている。
女川は、仙台市からも近く、復興計画に基づいてずいぶん活気が戻り、多くの犠牲を無駄にはしない決意がひしひし感じられた。
そして松島へ。
臨済宗妙心寺派瑞巌寺は、伊達政宗が現在の壮麗な本堂や庫裏を建立している。
久しぶりに訪れた瑞巌寺の、これら建築の細部までの完成度、その美しさにほれぼれする。
それとともに、記憶には残っていなかったけれど、寺域に多くの石窟があり、立石寺のたたずまいと似ていることにおどろく。
そして、宝物館で、円空作の釈迦如来坐像と対面。
像高125?、ケヤキの切株の古材を使っていると思われる。
雨ざらしになったのか、全体に腐食が進んでいるが、切株の姿を活かした蓮台に載り、通肩の衣に定印を結んでいると伺える。
特徴的なのは頭に螺髪が松ぼっくり状に彫られていることで、これは関市天徳寺釈迦如来坐像、下北半島常楽寺の如来立像に共通する。この3体に共通することは、背面を省略することなく、ほぼ丸彫りで丁寧に仕上げられていることで、円空が特に改まって造顕した像なのでしょう。
この像については、瑞巌寺第六世夢庵如幻が享保元(1716)年に著した『松島諸勝記』に「叉二以円空法師所レ造釈迦鉅像一安二之中央一。扁日二于(千)仏閣一。于レ時庚戌之秋。」と記されている。
訳せば、「また、円空法師造るところの釈迦鉅像(大きい像の意)をもって、中央に安置し、千仏閣と名付けた。時に庚戌(寛文10年)の秋であった。」という意味になる。
この文章の前には、寛文9年に浄西という仏師がやってきて、住持に千仏を造り安置させてほしいと懇願したこと、住持は当山は岩も木も島も魚も、みなことごとく仏であり、生きた木を伐って仏像を彫り出すようなことは禅門として肯定できないと断ったが、再三泣いて哀願するのでこれを許したとの記述がある。
円空が通常使っていないケヤキの、それも切株らしき材を使ったのは、このような事情があってのことなんでしょう。
そして、この頃までヒノキなど、彫刻に適した材をもっぱら使っていたのに対し、材にこだわらなくなっていったのも、一木一草に仏が宿るとの思想を身に着けていったからなんでしょう。
以上で、青森〜宮城県踏査ダイジェストはおしまい。2600?に及ぶ運転を完遂した連れ合いに感謝。
詳しくは「『円空の冒険』追跡ノート」をご覧ください(ロ。ロ)/
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病に倒れられ、いったん山にも復帰されたものの、ついに帰らぬ人となられ、その追悼登山が10月29日(日)に計画された。
当初赤兎山〜大長山の計画が、北陸側の晩秋の不安的な天候で、野坂岳に変更、さらに当日朝養老山に再変更。
メンバー16名で、養老の滝の入口の無料駐車場から7:30登山開始。太平洋側はすこぶるいい天気。
養老の滝。地元では知らぬ人のない観光地のため、メンバーの多くは懐かしい記憶がよみがえるスポットでもあります。
滝脇の道を登るって出た有料駐車場が登山口となり、登山届を出す。
しばらく新道を進むと分岐があり、右手の直進は、もみじ峠を経て笙ケ岳に向かうルート。
われわれは左手に折れ、養老山をめざす。
養老の滝の上流にあたる沢をまたぐ。
沢の上手の大きな石組。
これは、明治初期オランダの技師にして日本の川を甦らせたヨハニス・デ・レイケの設計によるもの。
対岸に渡ると、ジグザグの登山道となる。
養老山地は、濃尾平野の西端に位置し、養老-桑名-四日市断層帯による逆断層活動によって形成されたために、標高は900mにも満たないが、なかなかの急登。
途中、平野側に張り出した三方山(720m)に立ち寄り。濃尾平野と木曽三川、その水源となる周辺の山々の展望がほしいまま。
笹原峠で養老山地の稜線上に出ると、アップダウンはゆるやかになり、あずま屋のある小倉山(841m)へ登る。
この周辺もシカがしっかりササなどを食い尽くしている。
小倉山を越えてしばらく進むと、左手に養老山の標識がある無舗装の林道に出る。
単独行の時は標識通り進むのだが、今日は皆さん林道を歩かれる。
くやしいことにこちらの方が、歩きやすく西や南の展望もいい。
10:00 養老山に到着。一等三角点ながら、樹林に覆われ、今は全く見晴らしがきかない。
山頂直下の林道で、Sさんの遺影にワンカップを備え、追悼式を行う。
今日はどうしても出席できなかったNu理事長の心のこもった哀悼の辞に、ほろりとする。
この場所からは北に霊仙山(1094m)その背後に琵琶湖、さらに奥にSさんの愛された滋賀・福井・美濃の山々が。
西から南にかけては、御池岳(1,247m)から藤原岳、そして御在所岳(1,209m)、奥に鋭い鎌ヶ岳(1,161m)、そして伊勢湾が。
養老山を後に、小倉山を経て下りかけると、東から北にかけてのパノラマが展開。
能郷白山とか、屏風山とか、高賀山とか、恵那山とか、Sさんはぎふ百山も、続ぎふ百山も完登されていたから、眼の届く限りの山ほとんどを登られたことでしょう。
帰路は、稜線を北にたどり、もみじ峠から下山にかかる。
養老山地は低山ながら急斜面なので、滑落しないよう慎重に進む。
13:00 無事林道に降り立つ。13:45往路での分岐に出て、14:15無事駐車場へ。
予定変更にはなったけれど、Sさんの愛した多くの山々を眺めつつ、追悼山行を滞りなく終了。
我家の近くから眺める養老山地。濃尾平野からは最高峰の笙ヶ岳(908m)は奥まった位置にあるため見えず、あとは標高がほぼ同じピークが続くので、どこが養老山山頂か、毎日のように眺めていても同定が難しい。
しかし中央部が標高が高く、左右が低い山地だから、遠近法が強調され標高以上に立派に見え、朝夕見飽きない。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2023年10月29日(日) 快晴 メンバー:T(L)、Ot、Oo,Sa,Se,Ta,Na,Ni,Ha,Fu×2,Fi,Mg,Mz,botti
大垣(集合)7:00―養老公園無料駐車場(駐車)7:30…養老の滝7:55…有料駐車場(登山届)…分岐8:05…三方山9:10…笹原峠9:20…小倉山9:40…養老山9:55〜10:05…養老山山頂下(追悼式〜昼食)10:10〜11:00…小倉山11:15〜11:30…笹原峠…もみじ峠12:50…林道出合13:10…分岐13:45…有料駐車場14:05―大垣(解散)
]]>播隆(天明6(1786)年〜天保11(1840)年)は、江戸後期の浄土宗の念仏行者であるとともに山岳修行を行い、槍ヶ岳を開山したことで知られる。
槍ヶ岳開山が長野県側だったため同県との関係がもっとも深そうに見えるけれど、信仰活動は主に岐阜県側で、その中心となったのが揖斐川町周辺だった。
播隆の山岳修行デビューは、文政2(1819)年の南宮山奥の院。
翌3年には、伊吹山での修行を始める。これを護持したのは揖斐川町春日笹又周辺の山里の人びと。
さらに同4(1821)年には、飛騨の「杓子の岩屋」で修行、翌5年には笠ヶ岳に登り『迦多賀嶽再興記』を記す。
同8(1825)年には、伊吹山で山籠修行をする播隆のために、信者たちによって池谷峰鞍部に「播隆屋敷」が建てられ、阿弥陀如来の石仏が安置される。(先行記事:「槍ヶ岳開山:播隆地蔵祭復活」参照)
同11(1828)年、当時信州側の工事が進んでいた飛騨新道を利用し、槍ヶ岳に登頂。
以降全5回に及ぶ槍ヶ岳登山を行うが、下界での拠点としていたのは旗本岡田家が治めていた揖斐だった。
同12(1829)年、播隆が播隆屋敷で山籠中、その徳を慕った岡田家の藩士長沢某らの要請で揖斐の長源寺で別時念仏を催行。
同年、長沢何某は、播隆の願いを受け、かつて西尾氏の揖斐城のあった城台山に庵を建てる。
翌天保元(1830)年、岡田家家老柴山氏が、城台山上に四間四方の本堂を建て、播隆を開祖として「城台山播隆院阿弥陀堂」とする。
その後、二世隆盤の代に「阿弥陀寺」、明治12年五世隆説の代に「一心寺」と改められる。
明治24年の濃尾地震で建物が倒壊し、その後同28年に現在の城台山中腹の地に再建された。それが現在の一心寺。
天保元年の阿弥陀堂建立の際には、京都の本光院から念仏祈願所の名代としての修行依頼を受け、後水尾天皇、東福門院、安国院(徳川家康)の位牌が残されている。
そこに関わった尼僧の御堂関白中御門大納言女(むすめ)は、播隆の熱心な信者だったと伝わる。
このように、播隆は貴賤に関わらず多くの信者を持ち、その徳は広く知られていた。
明治26年にはもっとも古い伝記『開山暁播隆大和上行略記』が出されている。
そこには、播隆上人の徳に打たれた熊たちが岩洞を明け渡すなんて逸話も。
円空に播隆にしろ、岩屋で修行する山岳修験僧に、熊は切っても切れない関係だったんでしょう。
播隆のしたためた六字名号の軸やそれをもとにした石碑が各地に多数残されていて、その足取りもつかみやすい。
そのあたりが、伝記もなく、廃仏毀釈の影響を受け、わずかな文献や像の背銘や様式から行動を伺うしかない、江戸前期の神仏習合の山岳修験僧円空とは違うところ。
連れ合いは、一心寺に伝わる地獄絵を幼少時の原体験としており、久方ぶりの再会に感動していた。
別の展示室では、播隆の身の廻りの品が展示されていた。
右から錫杖、墨染単衣の衣、そして笈(おいずる)に入れていたという円空の観音像、山刀、鉄の托鉢。
このように並べられると、播隆が円空をいかに慕っていたかが、しのばれる。
円空の観音菩薩像、比較的後期の様式の、闊達な彫りの立像。頭の岩峰型の宝髻が、特徴的。
館長さんに、資料集を見せていただいた中に、『円空学会だより』の本像の背銘についての山下立氏の寄稿があった。
墨書は三行あるようで、判読が難しいが、中央は「白山別山大権現」とあり、両側は、6字ほどの梵字が書かれているとのこと。
播隆の墨染の衣はいかにも薄く、質素なもの。
そんなほとんど物を持たない播隆が、そこそこ嵩ばる円空像を肌身離さず持ち歩いていたということからして、彼にとって円空は特別な存在だったことがよく分かる。
同展は、11月26日まで、播隆ファンも円空ファンも、足を運ばれてはいかがでしょう(ロ。ロ)/
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10月21日(土)、22日(日)、ぼっちの地元じゃない方の山の会で、鷲ヶ岳にあるYさんの山荘にて恒例の芋煮会を開催。
今回は、7月28日にクマに襲われ重傷を負ったTuboさんの快気祝いも兼ねている。→【重要】山仲間へのクマ襲撃から学ぶこと
芋煮会の前に、近くの山に登るのも恒例。
Tuboさん登山復帰の山行として、今回は、6名で関市板取の蕪山(1,069m)に。岐阜百秀山の一つであります。
登山口は、板取の「21世紀の森公園」。広い駐車場とトイレと案内板がある。熊鈴をつけて8:30登山開始。
林道を少し上ると、株杉の森となる。
株杉は、炭焼きのために伐採した木の幹から新たな芽が出て複数に枝分かれし、それが伐採更新されたもの。
全部で100本以上が確認され、幹の直径が1mを超すものだけでも30本あり、樹齢は古いもので400〜500年と推定されるそう。
一つの株から、多いものでは20本以上の木が伸びている。自然と人が長い時間の中で作り出した光景。
株杉エリアを抜けるとスギ植林帯の中の、沢沿いの急登となる。登山道はよく整備されている。
大きな岩を見て、さらにジグザグに登高すると紅葉の始まった広葉樹林の森に入る。
前回2017年4月29日に登った時は、まだ木々は葉を落としていて、見晴らしがきいたけれど、今回は途中展望はあまりきかない。
11:00蕪山山頂に到着。Tuboさん無事復帰されておめでとう。
山頂は前回は全面刈り払われていたけれど、今シーズンはススキがまだらに残されている。
風の中、微かに雨のまじる中、銀色の穂をかき分けて北を伺うと、虹がかかっていた。
雪の季節が近づくとこんな虹を目にすることが多くなる。ああ、長い暑い夏の後、季節は確実に進んでいるんだなあ。。
滝波山(1,412m)の頂きは鈍色の雲の中、さらに遥かな白山はまったく見えない。
南には、円空が晩年山籠もりした高賀山(1,224m)。蕪山より高く、白山遥拝の適地。
円空は、老いを感じる身で、焦がれるように白山を仰いだのだろうか。
前回は、下山に廃道になりかけた旧登山道の奥牧谷沿いを取った。
今回もこの道で下山しようと思っていたけれど、「必ず『蕪山自然観察道』を利用してください」と立札が出ていた。
このような標識があると、登山者はより少なくなり、踏み跡も薄いはず。今回は来た道を往復することにした。
13:30 株杉のある21世紀の森に下山。
蕪山はヒルの多い山で、ビビっている仲間もいたけれど、全くあわなくてよかった。
板取温泉バーデェハウスに入湯後、鷲ヶ岳中腹にあるYさんの山荘REGAハウスに移動。お邪魔します。
Yさん、Gan先輩はじめ、総勢10名となり、今回も、ぼっちが芋煮の仕込み役。
シイタケ栽培をしているTuboさんが、シイタケとマイタケを持参してくれたので、薫り高い芋煮になった。
Tuboさんのクマの襲撃を受けた貴重な経験談を伺いながら、懇親。
こうやって、みんなが生きて、集えるのも、当たり前じゃなく、すごく幸せなことなんだなあと、しみじみ噛みしめる。
翌22日の朝食は、ぼっち定番のキノコ汁と大きなオムレツ。
Tuboさんは、本日解散後、Iさんと釣りの方も復帰するそうで、毛鉤の作り方をご披露。
束ねた毛を糸でぐっと縛るとパッと広がるのなんか、面白そう。
8:30、来秋も芋煮会で再会しましょうということでお開き。ぼっちはしばし残って、四方山話(といって円空の話ばかり)。
10:30、山荘を後に山道を下りかけると、昨日は拝めなかった白山連峰(正面が別山、右の木立に白山)が真っ白な姿を現してくれた。
ゆったり時間があるので、円空ゆかりの法伝の滝経由で郡上市美並町の星宮神社と、円空像が90体以上拝める美並ふるさと館へ。
藤原高光が瓢ヶ岳の魔物を退治した時に使った矢を納めたことが名前の由来という神社奥の、矢納ヶ淵(やとがふち)の吸い込まれそうな水の色を拝み、帰途に。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2023年10月21日(土) メンバー:Tubo,Su,Ho,Is,Na,botti
板取21世紀の森(集合)8:30…蕪山山頂11:00〜11:20…21世紀の森13:30
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前回9月の第1週に草刈りを完了したので、さっぱりしております。
今回のミッションは、冬に向けて薪をつくること。
実は、秋山が忙しくて10月に小屋に来ることは珍しい。
例年は紅葉の果てた11月の勤労感謝の頃に、雪の前にと野沢菜漬けと薪づくりをしていることが多い。
今回は、せっかく紅葉の季節に来られたので、戸隠の鏡池に足を延ばす。
池の周りは、まだ少し早く、屏風を立てたような戸隠山から西岳にかけての岩壁を彩る紅葉が見頃。
とんぼ返りして、日没までにと薪づくりに精を出していたので、画像を撮っている暇なし。
無事、小屋の薪置き場を一杯に(二重に詰め込み)。
2019年の台風の大被害で小屋回りで倒れた木を軒下に乾かしていたものを、今年ようやくすべて薪にしてしまうことができた。
時間が少なかったので、夜は小屋の地下に貯蔵してあるジャガイモとニンニクを使用したジャーマンポテトで赤ワインを。
翌朝は、ホットケーキに定番のジャガイモ入り大きなオムレツ。
天気予報通り朝から雨のため、早めに帰路に。
高速道路に入る前、最近できて、気になっていた長野市のOYAKI FARMに寄ってみた。
おなじみ鬼無里いろは堂の囲炉裏端のおやきが、ロボットも利用して造られるようになったのはびっくり。
今のところ、まだ本店のカリッとした味には程遠いけれど(本店がよりおいしいということを言いたいのであって、ここのもそれなりにおいしいです)、包装の工夫などで湿気のコントロールなどができるようになれば、さらにおいしくなるのではと期待。
早めに帰れたので、購入した旬の紅玉リンゴでリンゴジャムと瓶詰めしたジャムの残りでアップルパイを製作。
長野県東信地方産の高麗人参で、高麗人参酢も作った。これは餃子用の酢として愛用している。
秋が収穫期で、6年物だと地元スーパーで千円ちょっと。
前回9月に来た時は、プルーンを買って、ジャムに。ジャムはアイスクリームにしてもうまい。
栗は、自分ちの畑のが今年は豊作で、1本の木で5?くらい採れたので、渋皮煮×4瓶と甘露煮×3瓶を製作。
特に渋皮煮の場合、皮に傷をつけないように剥くのにとても時間がかかる
「『丁寧な暮らし』って忙しそうだね」と娘には言われております。
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気象庁JPやてんきとくらすなど、それぞれ天気予報が違い迷ったけれど、後半崩れることを想定し中止。
大体案として、天気の安定した7日、静岡県安倍川最上流部の八紘嶺に日帰り登山する計画に変更し、8名で行ってきました。
岐阜県民の皆さんは、静岡県の八紘嶺なる山について、ご存知なかった。
「なぜ八紘嶺という山に?」というのがメンバー皆さん共通の疑問だったみたい。
「北岳に行けなかった代わりに南アルプスが展望できる往復5時間程度の手ごろな山で、静岡・山梨県境だから静岡百山+山梨百名山になっているお得な山」なんていっても、あまりピンときてもらえないみたい。
「富士山が見れて、登山口の梅ヶ島温泉に入れて、帰りに清水港の魚市場で海鮮丼を食べられます」というと、海なし岐阜県民の皆さんちょっと関心を持たれたみたい。3:30集合でいざ出発。
八紘嶺の登山口は、静岡市梅ヶ島と山梨県身延町を結ぶ、林道豊岡梅ヶ島線の県境安倍峠(標高約1,400m)が一般的(だった)。
しかし、静岡県側も山梨県側も台風などの影響で通行止めとなっており、復旧は令和7年くらいらしい。
そのため、梅ヶ島温泉側の910mくらいの地点の登山口から登ることになる。そんなこともあって早立ちにした次第。
7:30登山開始。最初はヒノキの植林帯の尾根をジグザグに急登していく。
8:25 いったん林道に出会う。ここも登山口になっているが、今は車が入れず、倒木などで道がふさがれている。
このあたりで植林帯は終わり、落葉広葉樹林が中心になる。
8:50、右手に安倍峠への道を分ける。
峠周辺は、オオイタヤメイゲツの大木が6ヘクタールにわたって群生していて、周辺は植物群落保護の国有林となっており、10月中旬には紅葉が美しいらしいので、峠だけを往復する人もあるみたい。
さらに尾根上の登山道を進む。右手は単調なシラビソの植林ながら、左手の谷側が原生林でテンション上昇。
9:00 県境稜線に出た富士見台というポイントで、見事な富士山と対面。岐阜県民のテンション急上昇。
「手前左手のピークが毛無山(1,964m)、右手が長者が岳(1,336m)と天子ヶ岳(1,330m)」なんて説明しても聞いてはいただけない。
ただし、ここは、崖っぷちの斜面を少しよじ登たないと絶景ポイントに立てないので注意。
オオイタヤメイゲツの古木も登場。イタヤカエデより葉がやや小ぶり。
もう2週間もすればすばらしい紅葉でしょう。
県境稜線は、登山道が不安定で急斜面なので、滑落注意で進んでもらう。
9:30 もう一カ所、足場もしっかりした絶好の富士山ビューポイントがあり、ここで大休止。
西側の安倍川をはさんで山伏(2,013m)側が眺められる。
「この安倍川の上流部の山々は『安倍奥』といって、静岡県の岳人からはちょうど岐阜県の『奥美濃』のように愛されているんですよ。」と、ご説明。これは、あまりピンと来られなかったみたい。
10:30 八紘嶺山頂に到着。11:10までゆっくりすることに。
樹林の向こうに赤石山脈の、赤石岳、聖岳、甲斐駒ヶ岳、そして北岳が眺められた。
ただし、枝が邪魔をして画像には収まらない。人間の目って、よくできているもんだ。
山頂でゆったりして、往路を下山。安倍川沿い・安倍奥の山々は、やはり「南アルプスの南」のスケール感を持っている。
富士山もしっかり見納めた。
下山路の立派な樹林帯。ブナやモミに交じって赤みがかってつやつやしたヒメシャラの樹などがみられるのも静岡の山らしい。
13:30 余裕をもって無事下山をできた。
下山してから、梅ヶ島の某日帰り入湯施設へ。お湯は、ぬるっとしていいお湯だった。
ただし湯上りに、下山後のお楽しみでソフトクリームを買ったら、下の画像のを渡された。
ぼっちの場合、山から下りてソフトクリームを食べるのが恒例になっているので、ショック大。
まあ、メンバーの笑いをとれたので、ぐっと我慢しましょう。
帰りは遅くなりそうなので、清水港の魚市場の食堂で海鮮丼と桜エビのかき揚げをおいしくいただく。
北岳は残念だったけど、海なし岐阜県民のメンバーは(それなりに)ご満足いただけたかと。。
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室堂にとまった多くの登山客がご来光を見るために4時台から列をなして御前峰山頂に向かっている。
5:00、ヘッドランプを点け、御前峰に向け室堂を出発。
途中、ぜひ拝んでおきたかったのが、この風化した石仏。
御前峰の本地仏十一面観音座像で、徹底的に廃仏毀釈された白山において、往時の信仰の姿をとどめる数少ない遺物。
何とか、日の出前に御前峰に到着。すでに多くの人が今かと待ち構えている。
天気は良かったのだけれど、スカイラインの薄い雲のおかげでご来光はスカッとは拝めず、みんな名残惜しそうに朝食時間に向け下山していく。
それでも、剱岳、立山、薬師岳から槍ヶ岳、穂高岳とつながる山々を一望できるのは、嬉しくもありがたいもの。
しばらくは、懐かしく眺めていた。
6:15 御前峰を後に、大汝峰を経て加賀禅定道に向かう。
剣ヶ峰の向こうに大汝峰。火口にはいくつもの池が散らばる。
白山も、円空の生きた時代である、万治2(1659)年以来噴火は起こっていないけれど、いつ活発化してもおかしくはない。
今回もお守りで、ヘルメットは携行してきた。
別山も見納め。その向こうには高賀山をはじめ美濃の山が重畳する。
翠ヶ池。このあたり、一昨年NHKのドローン班の方ががんばって撮影されていたのが、つい先日のことのよう。
大汝峰の祠に立ち寄る。祠の右下に着目。
廃仏毀釈で破壊されたのだろう石造物がいくつか片隅に寄せてある。
その断片を見ただけでも、雅な造形だったことがしのばれる。
これは、たぶん十一面観音菩薩と、傍に立つ僧形は、白山を開山した泰澄なのではないだろうか。
江戸中期:文政の文字の欠片もあるが、それと比較してもっと古そうなものが多い。
円空も目にしたのかもと想像をふくらませる。
大汝峰から飛騨山脈方向を見納める。御嶽山(右)や乗鞍岳(左)も裾野をのばす。
円空は白山でこれらの山を拝し、登頂しようと決意したのかもしれない。
名残りは尽きないけれども、7:45下山にかかる。
途中、ハイマツの下には、はや霜が降りていた。
中々再び来ることもなさそうな場所なので、ハイマツをかき分け、8:35 七倉山の山頂(2,557m)にも立っておく。
四塚山は、9:00通過。塚の西側に三角点のある尖ったピーク(2,519m)がある。
さあて、四塚山からの大下り。ハイマツの海にダイブするみたい。
振り返る四塚山。途中単独行の男性が登って来た。「今日白山まで日帰りで往復」とのこと。かないません。
ほかに2名単独行の男性。本日も長大なルートで3名とすれ違っただけ。
12:30 奥長倉の避難小屋が見えてくると、あと3分の1。というかまだ3分の1残っているというべきか。。
結局、登山口に降り立ったのは、16:10。大汝峰を後にしてからでも8時間30分。駐車場所には16:30到着。
まあ自分の脚力というのは、こんなもんなんでしょう。
二日間好天のうちに禅定道を歩き終えることができて、とにかくよかった。
帰路、通いなれた白峰の総湯で2日間の汗を流し、勝山市でこれも定番のおろし蕎麦+ソースかつ丼の定食。
後は、安全運転で帰りましょう。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩)
2023年9月23日(土)、24日(日) 晴 単独行
23日 自宅2:15−「白山スーパー林道開設碑」(駐車)5:45…ハライ谷檜新宮参道登山口6:00…檜新宮8:20…しかり場加賀新道合流点8:50…奥長倉避難小屋10:40〜10:50…美女坂の頭(1,968m)11:40…天池12:50…油池13:40…四塚山15:10…七倉山の辻15:35…大汝山16:50〜17:00…室堂18:00
24日 室堂5:00…御前峰5:30〜6:15…大汝峰7:30〜7:45…七倉山(2,557m)8:35…四塚山9:00…奥長倉避難小屋12:35〜12:45…ハライ谷檜新宮参道登山口16:10…駐車点16:30−白峰総湯(入湯)―勝山−(帰路)
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『白山之記』によれば、天長9(832)年には、禅定道の起点となり、信仰の拠点となる三馬場が開かれたとされ、発掘された遺物からもおおむね平安前期には三馬場、三禅定道が成立したと考えられている。
禅定道はいずれも、麓の里から登り始めるので、標高差の大きい長大なルート。
美濃禅定道、越前禅定道はたどったけれど、加賀禅定道はまだだったので、9月23日(土)、24日(日)単独行で往復してきました。
<石川県白山自然保護センター2001年『白山の禅定道』より>
加賀禅定道の正式な起点は、鶴来町の白山比?神社になるけれど、実質的な登拝路の入口は、白山市尾添の白山一里野となる。
コースタイムはおおよそ登り11時間、下りは9時間あまりで、標高差は2050mほど、一日で登れるほぼ限界。
23日2:00過ぎに自宅を出発、一里野温泉の先で国道360号線が白山白川郷ホワイトロード(360号線の代替路)と県道53号線の分岐点にある「白山スーパー林道開設碑」の駐車場に愛車奥地君を止め、5:45 熊鈴を鳴らし登山開始。
県道は土砂崩れで入口から通行止めとなっているので、檜新宮ルート登山口まで林道歩き。
今まで登ったいくつもの白山登山口のうちでも、もっとも静か。
かつてはハライ谷に禅定道が通っていたそうだが、今は谷の東側に檜新宮参道、西側にスキー場経由の加賀新道が通じており、今回は檜新宮参道をたどる。
尾根上に出るまではジグザグの急登。広葉樹林、3か所くらいスギの植林地を通過して次第にブナやミズナラの森になる。
御仏供水の分岐を通過。「お壺の水」ともいい、かつてはそこから檜新宮に向けて禅定道が上がってきていた。
8:20檜新宮に到着。あたりにはヒノキの古木が多い。
かつては、女人や体の弱い人が白山を遥拝する場所だったという。
今の宮は、1982年に復活したもの。かつてここにあったお堂に納められていた仏像が、山麓尾添の白山下山佛社に納められている。
そんな下山仏に交じって、白山での円空像がどこかに残されていないかなあ、なんて想像してしまう。
尾根上に上がると、白山方向の展望がひろがる。
8:50、加賀新道との合流点、しかり場(1,549m)に出る。
しかり場とは、「しかりば(は)る」からきており、この場所まで酒を売るため美女を連れて登ってきた老婆が、神の怒りに触れ、地が裂け、石になってしまったとの伝説がある。
なかなかレトロな案内板、まだ先は長そう。。
東側の視界も広がり、石川・岐阜県境の稜線が眺められる。
矢印の岩が突き出した山を三方岩岳と同定し、野谷荘司山、妙法山と確認していく。
樹林が灌木になっていく。行く手ははるかに遠し。
10:40 奥長倉避難小屋到着。ナナカマドの実が赤く色づいていた。
小屋から少し下り、美女坂を標高300mほど急登。老婆が連れてきた美女が岩にされた場所だそうであります。
途中、本日初めて、下山してきたカップルとすれ違う。その後単独行の男性。本日であった登山者は結局この3名だけ。
11:40 美女坂の頭(1,968m)に出る。ここからは穏やかな稜線歩きとなる。
左手の深い谷から一筋落ちる百四丈ノ滝。12:20 展望台に立ち寄ると、その全貌を眺められる。
百四丈というと、300m以上になるが、実際は落差90mほど。それでも水量が多く、見事な滝だなあとほれぼれ眺める。
湿原の木道なども出てきて、高山気分が高まってくる。湿原のお花は果て、草紅葉もまだなのでちょっと彩りに欠けますが。。
小さな平にある天池。13:40 かつて禅定道の宿泊所天池室があった場所に立つと、岩の囲いなどの遺構が往時をしのばせる。
行く手に見えるのは、四塚山(2,519m)。稜線を大きく巻いた後、まだまだ登り続けなければならない。
油池(2,090m)を経て、登りとなる。先が長いだけに、そろそろ夕暮れも気になり始める。
四塚山の登りの途中から、ハイマツの中から振り返ったところ。ずいぶん登ってきたもんだ。
15:10 四塚山(2,520m)に到着。室堂 4km、一里野 14kmの標識がある。
ここは、山麓の尾添で悪さをしていた4匹の猫を、白山を開山した泰澄の弟子浄定行者が封じ込めた場所と言われる。
15:35 七倉山の辻で新岩間温泉(温泉への県道53号線が不通となっているので臨時休業中)から始まる岩間道と合流。
いったん下り、大汝峰への登りの始まるところに「御手水鉢」という、窪みが天然の手水鉢になった岩がある。
画像は、大汝峰に登りながら、御手水鉢越しに七倉山、四塚山を振り返ったところ。
16:50 加賀禅定道のシンボル大汝峰(2,684m)に到着。岩室の中に祠がある。
昼間は大汝峰まで足を延ばす人は多いんだろうけれど、夕暮れ迫る時間、まったく人影がない。
このひととき、翠ヶ池を抱く剣ヶ峰(2,677m)、御前峰(2,702m)を独り拝めるのは最高のぜいたく。
御前峰は明日として、まだ残雪の残る千蛇ヶ池を経由する巻き道で室堂へと急ぐ。
行く手に雲をまとった別山と、赤い屋根の室堂が見えてきた。
18:00ちょうどに室堂センターに到着。売店は終了していてビールが買えなかったのが痛恨事(ウイスキーは持参したけど)。
休憩時間も含めて12時間15分。脚速くないなあと自分の実力を思い知らされつつも、長い禅定道をたどれてありがたさひとしお。
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由利本荘市は、秋田県南部に位置し、2005年本荘市と由利郡矢島町・岩城町・由利町・西目町・鳥海町・東由利町・大内町が合併してできた。合併によって人口は7万人余あるけれど、神奈川県の半分くらいと面積がやたら広いので、山あいののんびりした里という感じ。中心となるのは、子吉川の河口に位置する旧本荘市市街。
本荘には円空像が2体あり、子吉川の河口に本荘湊もあったので、円空が当地を訪れたか踏査するつもりで宿泊地とした次第。
由利地域は、関ヶ原の戦いのあと、最上氏が治めることになり、その家臣・楯岡満茂が慶長18(1613)年頃、本城城を築いたことによって、本格的な城下町としての機能を持つようになった。しかし、元和8(1622)年、最上氏の改易によって満茂も退去、その後1年間宇都宮城主本多正純が減転封されたが、この間に城は取り壊された。
元和9(1623)年、本城城には常陸国から六郷氏が入部し、2万石の大名として本荘藩を立藩。また、亀田(旧岩城町)には、岩城氏が亀田城を築き、2万石の亀田藩となった。さらに、矢島には、讃岐国高松藩の藩主だった生駒氏が生駒騒動により、1万石で移封され、ここに、由利地域は、本荘・亀田・矢島の3藩による統治が行われることとなった。
慶応4(1868)年、戊辰戦争が始まり、本荘・亀田・矢島の三藩は、奥羽越列藩同盟に参加。しかし、朝廷側から、幕府軍である鶴岡藩の征討を命じられ、当地は三藩と鶴岡藩との壮絶な戦いの場となり、やがて、敗色が濃厚となった三藩の城下は、焼け野原と化したという。
19:00頃到着した駅前通りには、提灯がつるされている。今日は八幡神社の祭礼だったのだとか。そういえば能代もそうだった。
おかげで、飲み屋は臨時閉店か、地元貸し切りが多く、ようやく「わらべ唄」というお好み焼き屋が開いているのを見つける。
地元名産の由利牛の焼いたのと、豚玉お好み焼きと、本荘の銘酒「雪の茅舎」をおいしくいただきながら、おかみさんと四方山話。
「円空ってご存知ですか」「さあ」
「円空像の伝わった、蔵賢寺と大泉寺ってご存知ですか」「本荘は寺町があるけど、聞いたことないお寺だわねえ」
「本城は何もないけれど、図書館だけは立派。ない本も取り寄せてくれて親切。私も週2回は行ってます」
今回文献調査もしたかったので、それは期待できそう。 ―ごちそうさまでした。
翌18日、踏査最終日。また帰りの700?以上の長い運転が控えているので、ゆっくり起き、朝食前に1時間ほど本荘の街を散歩。
まずは子吉川まで行ってみる。国道105号線の飛鳥大橋から、新山の方向を見る。この山も日和山として使われていたという。
その中腹に蔵賢寺にあった円空像が寄託された郷土資料館がある。
祭礼のあった八幡神社にも立ち寄り。
摂社の句須志神社の社前にある狛犬は、越前国足羽郡社村の笏谷石(火山礫凝灰岩)を使っており、16世紀中頃に遡る作で、寛文12年に西廻海運が成立する以前から当地が越前と海運で結ばれていたことを示すものという。
秋田県にはこの笏谷石の狛犬が、同市松ヶ崎八幡神社(旧亀田藩領の松ヶ崎湊にある)、男鹿市赤神神社、秋田市土崎金刀比羅神社、同市藤倉神社(太平山参道にある)に残されているそう。
由利橋のたもとの寺町の一角にある、円空像があったという曹洞宗蔵賢寺も確認。
そして9:00 由利本荘市郷土資料館にて、蔵賢寺に伝わった観音菩薩坐像と対面。
像高40.2?、磐座に蓮台を重ねた二重台座で、右手に左手を重ねた定印に蓮華を載せる。頭上は欠損し、宝髻の形状は確認できない。
左肩が大きくえぐれ、お顔などにも擦り傷がみられる。場所柄、漂流仏だったのかもしれない。
郷土資料館のカタログに背面の画像もあった。背銘は残されていないもよう。
円空像に添えられた解説を読むと、「半農半工民の次男」(美並村木地師出身説に立つ五来重氏説)「7歳の時に母を亡くし」(羽島出生説に立つ長谷川公茂氏説)「若狭の国小浜から北前船で津軽の鰺ヶ沢へ渡ります。」(北前船:西廻海運が成立するのは寛文12年で円空以降)「これは恐山を訪れ、イタコを通じて母と語り合い、仏像を造り納めたいという念願からだと伝えられています。」(五来氏説を否定する梅原氏の新説で伝承ではない。なお、当時はまだイタコはいなかった)「大湊・青森・弘前を通って、ニ厩から鰊船に乗って松前まで渡りました」(この説は聞いたことがないので、解説作成者の説か?ニ厩は三厩の誤り。鰊船については?)「寛文8年3月に松前から小泊を通って能代に着き、男鹿半島へ、そして秋田から本市の大内の太子堂を訪れて仏像を納め、湯沢市へ行きました」(寛文8年3月とする根拠は? 往復とも海路だとすれば、大館や北秋田に残る像は?)「翌年には尾張・美濃国に戻り」など、いろんな(それぞれ相矛盾する)論文を切り貼りしてあり、頭がグルグルになった。
―別にケチをつけたかったわけではなくて、学者先生のいうことはすべて正論と思いがちなので、一般的な円空認識とはこのような寄せ集めが実情なのかもと例示。
次に10:00にお約束してあった曹洞宗の大泉寺へ。
子吉川の河口に近い観音町にあり、本堂ではちょうど葬儀の準備をされていたので、お邪魔かなあと思いつつ訪問。
ご多忙の最中にもかかわらず、ご住職に挨拶していただき、後は庫裏の広間で奥さまが対応してくださった。
本当にありがとうございます。
大泉寺の観音菩薩坐像。
像高49.0?、磐座に蓮台を載せた二重台座、右手に左手を重ねる定印に蓮華を載せる。
頭上の岩峰状の宝髻は、だいぶん低く、折烏帽子のようなやや後ろになびかせた形で、自然な形。
蝦夷後期以降の坐像に共通する腕のところの深い彫り込みは、不自然さがなく、また衣や。蓮台の彫りも丁寧。
なにより、そのおだやかな微笑みをたたえた表情は、拝む者の心をやさしくしてくれる。
保存も良く、円空の蝦夷への往復の間に造顕された観音菩薩坐像の中でも最も完成度の高い作といえるでしょう。
背中の赤外線写真も撮らせていただいた。
郷土資料館のパンフレット写真も総合すると、墨書で 「奉寄進 観音象一尊 圓空作 沙門 孝圓」と読める。
ご住職が途中から来てくださり、いろいろお話を伺えた。
大泉寺は火災に遭っており、その後仏像をいろいろ買い求めた中に、このお像があり、由来は明確ではないとのこと。
円空が土崎あたりから、本荘の湊に来た可能性について伺ったところ、「本荘は、いい港ではないから」と、肯定的ではなかった。
お礼を申し上げ、寺を辞し、本荘の港に寄ってみる。
確かに、ずっと砂浜の海岸線で、ヨットハーバーはあるものの、素人目で見ても、あんまりいい港の条件ではないのが分かる。
ただし、円空訪問当時の交通事情に近いだろう正保4(1647)年の幕府が各藩に作らせた正保の国絵図の写しと考えられる『出羽一国御絵図』(秋田県公文書館蔵)をみると、本荘湊にも船便があったことが確認できる。
今回初めてその存在を知った、本市の内陸部大内にある太子堂の円空像が手掛かりになりそう。
残された時間を惜しみつつ、由利本荘市文化交流施設カダーレ内の図書館へ。
お好み焼き屋の奥さんが言われた通り、大変充実した図書館で、学生さんたちが真剣に机に向かうなど、「学び」の雰囲気が館内にあふれているのが印象的だった。
郷土資料も充実しており、『能代市史』『本荘市史』など海運関係の資料を中心にコピー。
おっと、もう11時を回っている。
最後に、ぼっちお気に入りの銘酒でもある「雪の茅舎」の蔵元直営の「発酵小路 田屋」でおさかなランチと甘酒味のソフトクリームをおいしくいただく。これもお好み焼き屋の奥さんおすすめのお店でありました。
売店で酒も買い込んで、それでは700?あまりがんばって帰還の途に就きますか。愛車奥地君よろしく。
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円空の十一面観音立像のある龍泉寺は、能代湊に近い日和山(ひよりやま)の山裾、今は能代公園の一角(北端)にある。
日和山とは、北前船時代にその日の天気を確かめるために使われた丘のことで、全国で同名の場所が80カ所ほど残るという。
ちょうど八幡さまの祭礼の日で、行列に注意しながら寺の石段の下に愛車奥地君を止める。
湯殿山龍泉寺は、真言宗智山派で、ご住職は木村祥泉さんとおっしゃる女性。
頂いた冊子には、IT系の専門学校を経てPCインストラクターの仕事に就いた直後に、お母様と先代住職が相次いで重病になり寺を継ぐことになったのだとあった。よろしくお願いします。
湯殿山龍泉寺の由来は、頂いた縁起を要約すると、次のとおり。
古く玉鳳と称する諸国回遊の僧侶が秋田の地に来て、庵を結び鳳凰庵と名付けた。養老2年8月行基菩薩が諸国を回る中当地を訪れ当庵に宿られる。その縁で、薬師如来を本尊とすると言い伝えられている。その後新潟の人、密雲海によって、湯殿山の能代出張所となり真言護摩を焚き、海上安全、大漁豊作の祈祷を修した。
しかし、明治2年に断行された廃仏毀釈によって、湯殿山は羽黒山、月山と共に神社へ転じたため、当寺はその縁を離れ(独立し)、市内の名刹鳳来山能代寺の大日如来を本尊に迎え、秋田市上新城の高倉山観音院龍泉寺と合併再興、真言宗湯殿山龍泉寺として現在に至る。
高倉山観音院龍泉寺の由緒もまた古く、養老年間舎人親王の御弟で阿彦三位浮房卿が、行基菩薩の跡を訪ねて諸国を行脚し、(現秋田市の)上新城石名坂で(行基)菩薩にめぐり会い、これを記念して館を作り出家した。その後延暦21年には慈覚大師円仁が当地を訪れた。高倉宰相永福卿が代官として秋田に下向した折、高倉山観音院宰相寺とした。そして、久保田藩初代藩主となる佐竹義宜が(常陸国から出羽国への)国替えのみぎりに、龍泉寺との寺号を賜り、高倉山観音院龍泉寺と称する。その後円空大師が行基菩薩の遺跡を尋ねて当寺に入り、大いに仏徳を感じ、十一面観音菩薩を刻み収めた。
つまり、円空の十一面観音立像は、秋田の高倉山観音院龍泉寺から移されてきたものということ。
現在のお堂には、内陣に「御沢仏」という、湯殿山の自然を神格化した約50体の仏像が安置される。
そして、右側の外陣に、薬師如来と円空の十一面観音が安置されている。
上新城の龍泉寺から移られてきた、円空作の十一面観音立像と対面。
直前に拝してきた大館宗福寺の十一面観音像と、受ける印象が全く違うことにおどろいた。
像容は、衣文が左右相称で、水瓶の首が肩の線より上に出ているところなど、共通する特徴をそなえている。
それにもかかわらず、衣の彫りが強く鋭く、円空の造像にあたった気魄が荒々しくも表出していて、圧倒される。
それは造形としての違いにとどまらず、本像を造顕している瞬間の、円空の過剰なほどの魂の熱量によるものと感じられる。
縦に引き伸ばされた水瓶、皴の刻まれた手のひら、乾いて固い甲虫の殻を思わせる衣文、それでいてお顔は緻密に彫られている。
神秘的なほほえみをたたえたご尊顔。
頭上の十一面を憤怒相などそれぞれ彫り分けているのは、ここまでの十一面観音像にはなかったこと。
円空は、上新城にあった龍泉寺で、何らかの強い宗教的インスピレーションを得たに違いない。
ちなみに、お顔の縦の線は、雨漏りのせいらしい。
真言宗で祈祷が中心だった当寺は、檀家を持たないので維持が大変とのことで、クラウドファンディングなどをなさっている。
引き続き、内陣にぎっしり並ぶ御沢仏のご説明を受ける。湯殿山信仰を知る上で、大変興味深かった。
さらに、左側の外陣には、一対の不思議な坐像が並べられている。
このうち左側の僧形の像は生前の姿、右側の湯殿山結びという独特な巻き方をした頭巾を被った像は、即身仏を表すのだという。
即身仏(そくしんぶつ)とは、主に僧侶のミイラのことで、頭巾を被った像の髭や髪が伸びているのは、即身仏になる過程でそのようになるのを表しているのだそう。
廃仏毀釈以前の湯殿山信仰の奥深い部分に、即身仏がある。
その宗教観によれば、即身仏になることで、僧は死なず、生死の境を超え弥勒菩薩出世の時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入る(入定)と考えられている。僧が入定した後、その肉体は現身のまま即ち仏になるため、即身仏と呼ばれる。
江戸時代には、疫病や飢饉に苦しむ衆生を救うべく、多くの僧が土中に埋められて入定したが、明治期には法律で禁止された。また入定後に肉体が完全に即身仏としてミイラ化するには長い年月を要したため、掘り出されずに埋まったままの即身仏も多数存在するといわれる。関市弥勒寺近くの入定塚に埋まっている円空もまた、同様の存在ということができる。
円空が修行した伊吹山は、弥勒信仰の山であり、「入定塚」なども残るが、即身仏そのものの風習が伝わるわけではない。
円空は、上新城の龍泉寺でこの即身仏の宗教観に初めて触れた可能性が高いのではないだろうか。
ご住職に、GoogleMapで同寺跡のおおよその場所を教えていただいた。
これはぜひ、上新城の現地を踏査しなくては。。
能代から上新城までは、約60?、車で行くと秋田北I.C.を降りて山の尾根に入っていくことになる。
ちょうど、石名坂の羽鳥沼というところにある畑で、耕している方に会い、龍泉寺のあった場所を伺うと、少し手前のT字路のところだとのこと。
おおよそここかなという場所にあったささやかな祠には、文政の年号のある石灯籠の棹石があった。
スマホで周辺の地形図を出して見ると、同地は秋田市のシンボル大平山(1,170m)への入口の山ということもできそう。
太平山にも独自の山岳信仰があるが、湯殿山と太平山、一体どのような関係なんだろう。。
もやもやした疑問を抱えたまま、龍泉寺跡を後に、秋田市の土崎港をめざす。
土崎湊は、水上では雄物川を通じて藩内有数の穀倉地帯である雄勝・平鹿・仙北三郡並びに久保田城下(現秋田市)と結ばれ、陸地では羽州街道で久保田とつながり、さらには日本海海運を通じて、西は若越・京・大坂と、北は蝦夷地と連結されていた。
円空が久保田藩を通過した寛文6〜7年頃は、寛文12年に西廻海運が成立し、蝦夷までつながる物資輸送の大動脈ができる前だった。
しかし、土崎湊はすでに物資や人の往来の中核地としての役割を果たしていたと考えられる。
秋田県の円空像の分布や由来を調べてみると、現在土崎に円空像は伝わらないものの、土崎周辺で買われたり何らかの縁があっただろう像がみられる。
逆に久保田城下であった秋田市に現在ある円空像で、確実に城下で造られたとみられる像はない。
Y師匠によると、明治維新のどさくさのような時期に、円空像を古道具屋のようなところに流す者がいて、売れるように顔を改変したりするようなこともされていたらしい。
そんなこともあって、秋田県の円空の足取りを追跡するには、(秋田市街ではなく)土崎に行ってみる必要と思った次第。
(↓表クリックで拡大)
龍泉寺のある上新城石名坂から土崎港へ愛車奥地君を走らせると、意外なことに山裾を下ったとたん、県道231号線で一直線に土崎に繋がっているではないか。距離も約9?に過ぎない。
上新城の龍泉寺も、能代の龍泉寺と同様、湯殿山の出張所のような機能を持ち、真言護摩を焚き、海上安全、大漁豊作の祈祷を修した場所だったと考えられるのではないだろうか。
そんなことから、円空は土崎湊および龍泉寺に立ち寄っていたことはほぼ間違いないと考えられる。
だからこそ、円空は当地に立ち寄り、いくつもの像を残していたものが各所に移され、発見されているのではないだろうか。
日没間際に、現在の土崎港(たぶん海岸は埋め立てられているはず)のポートタワーセリオンの展望階に上がってみる。
洋上風力発電機越しに、円空像のいくつも残る男鹿半島が眺められる。
円空は男鹿の船川湊から土崎湊までは、船を使ったのではないだろうか。男鹿半島は、次回11月訪問する予定。
タワーから上新城方向を見る。最も高く眺められるのが、大平山。
龍泉寺があるのは黄色く色づいた田園地帯に接する山際。
やはり、龍泉寺は、大平山というローカルな信仰拠点ではなく、庄内から越後や出羽に広がる湯殿山信仰の拠点と考えていいはずだし、円空はこの時点で湯殿山のある庄内(山形県日本海沿岸)地方を訪れたわけではないけれども、龍泉寺を介して、湯殿山の信仰に触れ、強い宗教的インスピレーションを受けたに違いがない。
それでは、日没迫る土崎を後に、今夜の宿泊地、由利本荘に向かいましょう。
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円空像は、北から大館市宗福寺の十一面観音立像、北秋田市綴子の阿弥陀如来坐像(集落有)、同市鷹巣の阿弥陀如来坐像(個人蔵)、能代市龍泉寺の十一面観音立像と残されている。
その分布は、羽州街道に沿っているとも、また米代川沿いともいえる。
米代川は当時から水運に使われていたので、秋田に入った円空は、羽州街道をたどったのか、それとも米代川を下ったのか、気にかかるところ。
宗福寺には、10:00に拝観をお願いしたので、その前に北秋田市鷹巣町綴子(旧綴子村)まで進み、9:00開館の「大太鼓の館」へ。
同館には綴子神社の祭礼で使われるギネス認定世界一の大太鼓が展示され、あわせて綴子に伝わる円空の阿弥陀坐像も拝観できる。
時間上、大太鼓はスルーし、円空像のもとへ直行。
線条の台座に蓮台を載せた二重台座に、来迎印を結んでおられるので阿弥陀如来坐像であるのは間違いない。
今回は確認できなかったけれど、図版によれば、背銘はないよう。
胸に金箔の、締め飾りのような後補の彩色が残る。
由来によると、このお像は、旧綴子村糠沢集落にあった真言宗の宝珠庵と呼ばれた庵寺に伝わったとある。
同寺は、糠沢開村(文安5(1448)年頃)時代に創立されたという。
円空像があったのは羽州街道の糠沢集落の糠沢川寄りの場所とのこと。現地も訪ねてみましょう。
国道7号線から、羽州街道沿いに入る。綴子一里塚までは分かったが、地元の人と出会わず、宝珠庵の跡までは確認できなかった。
やはり、国境から大館を経てこのあたりまでは、羽州街道を歩いていったのではないだろうか。
大館市まで戻り、10:00にお約束した市の中心部にある曹洞宗松峰山宗福寺へ。
常陸国五四万石を領していた名門佐竹家の当主義宣が関ケ原の合戦で西軍・東軍いずれにつくかあいまいな態度のままだったことが徳川家康の不興を買い、出羽国秋田に転封された折、血族である重臣小場義成も随行した。
義成は慶長15(1610)年、南部氏や津軽氏への抑えとして大館城を任され、知行5000石を給される(のちに佐竹西家と称する)。
元和2(1616)年に小場氏と共に常陸から随行した崇福寺の和尚が中心になって建立されたのが宗福寺。
江戸時代には佐竹西家の菩提寺となっていた格式ある寺院。ただし建物は昭和30年代に火災にあって以降のもの。
宗福寺の十一面観音像を円空作と鑑定したのがY師匠で、今回わざわざ電話を掛けておいてくださった。
おかげで、先代三十三世のご住職ご夫妻に丁重に迎えていただいた。よろしくお願いします。
本堂外陣左手側に、円空の十一面観音立像は納められていた。
十一面観音立像と対面。踏み割蓮台に乗る、左右相称の、全体に丁寧でおだやかな彫りの御像。
弘前西福寺の十一面観音像では水瓶の首が肩の線より低かったが、肩の線を越えているところが秋田の各像に共通する。
お顔のアップ。眉を下げ垂れ目で温厚。
先代ご住職によれば、昭和30年代の火災で本堂などを全焼したため、寺に文献などが残っておらず、この円空像の来歴や、どうして伝わったのかは分からないとのこと。
そんな事情もあって、この像は、秋田県の十一面観音像の中で、円空作と確認されたのが最も遅くなったらしい。
先に糠沢集落の阿弥陀如来像を見ていたので、「羽州街道沿いにあるこの御像も、もともと大館にあったのではないでしょうか」と申し上げる。
大変お世話になりました。Y師匠にもご報告します。
米代川は、青森・岩手・秋田三県境にある中岳周辺から流れ出て大館や北秋田を経て能代に流れ出る。
米代川流域には鉱山地帯が多く尾去沢鉱山、小坂鉱山、大葛鉱山、阿仁鉱山、太良鉱山などの鉱山から出る鉱石は米代川での舟運で運ばれた。そのうち阿仁鉱山などは、寛文年間にすでに開発されており、鉱山運営には近江商人も絡んでいたらしい。
また、この地区は優れた材木の産地でもあり、これらも米代川を使って運ばれた。
円空当時も船が行きかっていたはず、決め手はないけれど、どこかまで羽州街道を歩き、どこかで船に乗ったのでは。
今日もなかなかタイトなスケジュールなので、大館駅前で比内地鶏の鳥飯を求め、米代川堤防に愛車奥地君を止めて昼飯。
それでは、14:00にお約束してある下流の能代市龍泉寺に向かうとしましょう。
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『弘前藩庁日記』によれば、円空は往路、寛文6年1月「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」豪雪の弘前城下を追われるように青森から松前に向かった。
それに対して、蝦夷からの帰還はどのようだったのか、追いかけてみたい。
まずは、羽州街道浪岡から藤崎宿を経て弘前城下に向かう。円空はどんな思いで追われた城下に再び向かったのだろう。
弘前城下、旧長町の周辺。NHKの電波塔の奥が弘前城。
帰路の様式の十一面観音と、蝦夷往復の旅の間では唯一の作例となる地蔵菩薩像が残る、新寺町の浄土宗西福寺の前を通過。
新寺町は、慶安2(1649)年に寺町が火災で焼失後、弘前城の南方の防衛施設も兼ねて、翌3(1650)年に寺を移転させた戦略的な拠点でもある。円空像が最初から西福寺に伝わったかは不明だが、突き当りの浄土宗貞昌寺は、新寺町の中核をなす寺院で、藩主の生母などの菩提寺となっている新寺町の中核をなす格式ある寺。
もし、円空が帰路も往路と同じような存在だったとしたら、このような地区に像を置かせてもらえるとも、そもそも大作を制作させてもらえるとも思えない。
今回は、西福寺に伺う時間がなかったので、昨年10月訪問時の両像の画像。像高はいずれも約175?。
十一面観音像の衣文など、往路の例えば普門院像などに比べると、非常に良く整えられ、円空、腕を上げたなあと感じさせられる。
さらには、例えば田舎館弁天堂像のような試行錯誤の迷いなどは見られず、仕上がりを考慮して造られた像と見受けられる。
ここからは想像になるが、この二像は、弘前藩領を通過するにあたり、「松前藩での実績」の証しを立てるために造られたのではないだろうか。そして地蔵菩薩像も制作したのは、地蔵信仰の霊地である「恐山での実績」も示すためでは。
松前藩も何らかのお墨付きを与えていたのだろうけれど、両像を拝する限り、弘前城下の通過は平穏に行えたのだろう。
弘前城下の次に円空像が残るのは、平川市の沖舘八幡宮―地元では沖舘観音堂といった方が通りがいいみたい。
羽州街道からは5?ほど東にそれた場所で、現在はリンゴ畑の続く丘陵地帯の一角にひっそりとある。
沖舘八幡宮の境内。突き当りが八幡宮で、左手の鳥居奥が観音堂。完全に神仏習合状態。
歴史は古く、坂上田村麻呂が十一面観音を勧請したことにはじまるというから、神明宮というものの観音信仰がメインのよう。
慶長12(1608)年に野火で社殿が焼け、同14年に仮殿ができ、円空当時はこの仮殿の頃だったよう。
ただし寛文10(1670)年に僧円空菩薩像奉納とあるのは正確ではなく、同年、円空作の菩薩像を奉納したというのが正確なところ。
神仏分離令で、円空像はいったん弘前の寺院に移され、大正14(1925)年に「村中の女達が弘前市代行院に歩いて迎えに行く」とあるので、円空像は熱く迎えられたのでしょう。
(↓画像クリックで拡大)
像の台座には六種+二種(?)の種子、背中には下の画像の背銘が記される。<『円空さん』図録より>
銘にある月峰寺は、沖舘神明宮・観音堂のある裏山の上にあった曹洞宗の寺院で、その跡を示す標柱がリンゴ畑の中に立っていた。
円空はこの寺で観音像を造り、追って観音堂に納められたという経緯らしい。
像容は、磐座に蓮台を載せた二重台座の観音像で右手に左手を重ねた定印、蓮華は持たず、頭には岩峰状の宝髻を載せる。
現在の観音堂。ま新しいしめ飾りに、信仰が今も生きていることを感じさせられる。
羽州街道へ再び戻りかけると、刈田の向こうに岩木山が裾野をひく。岩木山も当分見納め。
大鰐温泉に入る。シンボル・中ノ橋を渡ったところに、真言宗の大円寺。
大鰐温泉は江戸時代には参勤交代のルートの途中になることもあり、津軽藩の湯治場として津軽氏の歴代藩主も訪れた。
同寺は慶安3年(1650年)、三代藩主津軽信義により別の場所にあった高伯寺という寺が鎌倉時代の作である本尊大日如来とともに現在地に移され、津軽藩主家の庇護を受けることになる。そして明治4(1871)年、神仏分離の際、弘前市から大円寺が移り、寺号を高伯寺から大円寺に改め、現在に至っている。
したがって、円空は高伯寺という名であったこの寺に手を合わせて行ったことでしょう。
沖舘からは17?ほどで、大鰐からは10?ほどで碇ヶ関に着く。
現在は、国道の一本西の、平川で行き止まりとなった道脇の民家の前に石碑と由来書があるだけ。
由来書によれば、この関は天正14(1586)年に津軽藩祖為信が作ったもので、『津軽一統志(由来書の「統一誌」は誤り)』に「屋建ての杉と云う大切所を切通し堺の此方に高陽の地あり関所を建て警固す今の碇ヶ関是なり」と記される。
国境は少し先(南)の矢口峠なのだが、この場所は、両側が山で狭まった(人工的に切り通しにした)うえに、平川が行く手を分断しているので、関所をここに置いたのだろう。
そして、寛文2(1662)年より藩主の江戸参勤交代の往還街道として使われたという。
円空当時より旅の通行は緩やかになったであろう天明8(1788)年の古河古松軒(古川は誤記)の『東遊雑記』には「武器を飾り厳重なこと中々箱根の御番所などの及ぶことにあらず」というので、円空がこの関を勝手に通過することは考えられなかったはず。
平穏に関所を通過し、久保田藩に入ったのでしょう。
国道7号線で碇ヶ関から秋田県に入ろうという途中から、矢立峠への街道に入ることができる。
番所跡の案内板によると、明治10年に新道が開かれたが、羽州街道の古道も残されているらしい。(↓画像クリックで拡大)
少し古道に入ってみる。舗装もなく草むした道が木漏れ日に光る。
円空はここを峠越えしていったんだなあ―ふっと円空が身近に感じられる瞬間。
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油川から始まる羽州街道は、弘前を経て碇ヶ関から久保田藩との国境の矢口峠に向かう。
現在の青森県の大動脈国道7号線に対し、旧道は県道247号線になっていて、おおよそこの道が羽州街道と重なっている。
旧羽州街道には、ところどころ案内板が出ていて、往時をしのぶことができる。
鶴ヶ坂手前のこのあたりなんか、かつての街道の面影が残っているのではないかと思う。
ここから先、羽州街道は県道と離れ、現在は山道となっている鶴ヶ坂の峠越えとなる。
菅江真澄が通った時は「津軽坂」と記している。鶴ヶ坂はその後の名らしい。
坂を越えると「大釈迦(だいしゃか)」という集落に入る。この地名は、梵珠山に由来するという。
その梵珠山の名の由来は、東北地方に奈良時代仏教を布教した法相宗の道昭上人が釈迦三尊の文殊菩薩の文殊に因み、当時からまたはその後造語として「梵珠」と名付けたとされるそうであります。
大釈迦駅前から西に向けて坂を上ったところに、梵珠山元光寺がある。
曹洞宗の大きなお寺で、お庭もよく手入れされ、清々としたたたずまい。寺はかつて羽州街道沿いにあったという。
ただし、もともとこの寺と円空に関わりがあったわけではなく、梵珠山にあった円空像が近年移されて安置されているもの。
予め電話で拝観をお願いしてあったので、庫裏にお声を掛けたら、ご自由に拝観してくださいとのこと。
それでは、よろしくお願いします。
本堂左側の外陣のお厨子におさめられた、梵珠山にあった円空像とご対面。
磐座に蓮台の二重台座に、右手の上に左手を重ねた定印で、蓮華は持たない。頭が岩峰状の宝髻ではなく、丸い頭。
これは、浄満院像などにも共通するもの。梵珠山にあったのならば釈迦如来ということでいいんでしょう。
両肩に衣を掛け、その肘の内側の部分が深く彫り窪めてあるのは、北海道後半〜津軽半島の円空座像に共通する。
顔面が大きく損傷し、首のところで継がれている。また右腕も焼け傷がある。
これ以上の損傷を避けるためにも、梵珠山から地元の元光寺に移されてきたんでしょう。
それにしても、頭と胴体が別材になっているのがどうにも気にかかる。
もしかしたら二体の像を一体にまとめたようなことはないのだろうか。
背面の赤外線写真も撮影させていただいた。
後で確認したところ、六種+二種の種子に、漢字の「大(釋?)」という文字も読める。
この漢字がどういう意味なのかが肝心なところなので、どうにかして確認できないものか(もう一回青森は遠いしなあ。。)
円空像が置かれているのは、奇しくも「和光龍女尊」の脇。
円空は龍女に、並々ならない信仰心を持っていたから、御像もいい場所を見つけられたことであります。
お礼を申し上げて寺を辞し、円空が訪れた可能性の高い梵珠山に登ってみる。
15:45 青森県立自然ふれあいセンター手前のミズバショウの道から登山開始。
山頂まで1時間程度らしいけれど、夕暮れ迫るので、クマがちょっと心配。。
途中、大きな洞(うろ)を持つ巨大なブナに出会う。
標高468.4mということで侮っていたけれど、ブナやミズナラやトチの老木が多く、すばらしい森。
円空のご縁がなければ登ることもなかったはずの山。こんな意外な出会いがあるから登山って楽しいんだよなあ。。
途中の展望台からは岩木山も眺められる。雲がかかっていました。
そして16:40 山頂に到着。陸奥湾と下北半島、津軽半島が眺められる。
円空は蝦夷、そして津軽、南部の旅を終えるにあたり、この山に登り見納めをしたのだろうか。
山頂広場には三等三角点と七観音の石像があった。ただし昭和4年の建立。
梵珠山頂から脇道があり「釈迦堂山」とある。
立ち寄ってみたところ、避難小屋と、その脇にお堂がある。
中を覗かせていただくと、石の地蔵など3体の像が納められ、地元のご婦人の様々な手工芸で飾られている。
ここに円空像もあったのだろうか。
梵珠山を開いたとされる道昭は、唐に渡り玄奘の弟子となった法相宗の重要な僧で、行基の師ともされる。
その一方で、遊行僧の元祖のような存在でもあったそうだから、円空にとっては、理想の存在だったはず。
あるいは、この道昭の故地と知って梵珠山を訪れたのではないだろうか。
下山はサワグルミの道を取り、17:38登山口に。古い鳥居があるのも神仏習合の名残りだろうか。
色づく秋の田の向こうに眺められる梵珠山。思わぬいい山だった。
ちなみに、かつてよく歌われた五所川原農学校スキー部部歌「シーハイルの歌」の梵珠嶺(ぼんじゅね)は梵珠山のことだそう。
「岩木の下ろしが吹くなら吹けよ 山から山へとわれらは走る 昨日は梵珠嶺 今日また阿闍羅 煙立てつつ おお シーハイル」
今夜は、車中泊。
浪岡のポパイ温泉で、長い一日の汗を流し、サンライズ食堂で鯵だしのラーメンを食べて、浪岡の道の駅でおやすみなさい。
いやはや、青森県の通になったもんだ。
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この松前街道沿いには三厩義経寺、外ヶ浜町平館昌寺、蓬田村正法院、青森市油川浄満寺に円空像が伝わる。
16日は、袴腰岳下山後、義経寺から23?ほど南下した平館集落の浪打山福昌寺を訪問。
松前街道に面した浄土宗の寺で、平館神社と隣り合っている。
福昌寺の門をくぐる。ご住職お待たせしました、よろしくお願いします。
本堂の内陣から、円空の観音像を運んでいただく。
磐座に蓮台を載せた二重台座に、右手に左手を重ねた定印に蓮華を持つ。
顔は摩耗したものを追刻しているようで、当初の面影は伺えない。当部が丸いのは当初からなのか、後の手によるものかは不明。
しかし、衣文や腕の所の深い彫り込みから、蝦夷からの帰還後の像と判じられる。
ご住職に寺の由緒を伺ったところ、この周辺にもともと寺はなく、先代の時に(←ここは正確に伺えていないかも)寺が建てられたそう。
先代は、弘前から来られ、円空の存在はご存知だったので、平館神社の床下にあった像が円空像らしいことに気付き、寺に移されたとのこと。神仏分離前は、平館神社のご神体だった可能性が高そう。
ご住職は、秋田から来られたそうで、秋田は曹洞宗が多く、浄土宗は少なかったが当地は浄土宗が多いですとおっしゃっていた。
背面の赤外線写真を撮らせていただいた。
微かに墨書の跡のようなものも見える気がするが、摩耗が烈しくて読み取れない。
台座部分を平滑にしていることからして、種子が書かれていた可能性は高い。
ご住職によると、梅原猛氏は何度もこの寺を訪れられたそう。色紙を見せていただいた。
円空仏が廃仏毀釈で雨ざらしになっても、子供の遊び相手になっても、350年あまりも伝わってきたのは、良質な材の一木造りで、造形もシンプルであったからであり、さらにはそれでも捨てがたい「何か」があったからなんでしょう。
平館神社は、江戸時代からあったと思われるが、詳細は確認できず、追って調べたい。
平館の港。向こうに下北半島が見える。
松前街道を約22?南下すると、3月に伺った蓬田村の正法院に差し掛かる。
「正法院は慶長18年(1613)、長勝寺(弘前市)の14世聖岩雲祝和尚によって開かれた曹洞宗の寺院です。正法院は初め奥内村にありましたが、蓬田村に信徒が多かったので、寛文2年(1662)に現在地に移転。松前候の参勤交代の休憩所として、航海の安全を祈願したという。」と蓬田村のHPにある。
やはり、松前藩とのご縁もあって、同寺に円空は逗留し、像を残したのでは。
時間があれば、お像を再度拝みたかったけれど今回は失礼。
正法院から14?程南下すると、松前街道の終点、油川に至る。
青森より古い歴史を持つ湊町で、浄土宗金台山浄満寺は、その中央に位置する。
副住職にご案内いただき、本堂左側の外陣に安置された円空像と対面。
寺では、釈迦如来像と伝えられており、文殊・普賢菩薩が脇侍として添えられている。
文化財に指定され、今は鍵のかかる厨子というか檻というかの中に入られている。
以前は、撫で仏のように、信者さんに撫でさすられ親しまれてきたのだそう。
磐座の上に蓮台を置いた二重台座に右手に左手を重ねた定印で、蓮の花は持たない。
背面には、六字+二字の種字が記されているそう。
頭は岩峰状の宝髻ではなく、如来に特徴的な丸い肉髻。表情は垂れ目で下に寄り、称名寺の観音像に近いような優しい表情。
檻の外で、親しくご対面したいものだなあと思う。
浄満寺は、正法院のように松前藩の参勤交代時の休憩所になったりしたのですかと伺ったところ、それはないとのこと。
ただし、古き湊町油川の中心寺院だけに、松前藩の寺院の住職をこの寺から輩出していたそう。
油川の中心。「田酒」で有名な西田酒造の店の前に松前街道・羽州街道合流点の碑がある。
(ただし、西田酒造の創業は明治11年。)
羽州街道は、ここから弘前を経て碇ヶ関を通過し出羽国に入り、桑折宿(福島県伊達郡桑折町)で奥州街道に合流する。
それでは、なるべく羽州街道をたどりながら、円空の足取りをさらに追いかけていきましょう。
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中でも津軽海峡周辺は、北海道渡島半島に?1山、?3山、下北半島に?1山、津軽半島に?2山と、この名の山が特異に多い。
このように海峡沿いに集中するのは、分かりやすい台形の山容が、船の目当てに使われてきたからではないだろうか。
そのうち、津軽半島には、五所川原市と蓬田村にまたがる袴腰岳(628m)と、今別町と外ヶ浜町にまたがる袴腰岳(708m)がある。
628m峰は蓬田村側からの登山道がよく踏まれている。一方、708m峰は東北百名山になっており、過去には登山道が整備されていたらしいけれども、ネット情報がきわめて限られ、ヤブ山に戻っているらしい。
なかなか訪れることのない津軽半島の東北百名山の708m峰を、円空踏査のついでに登ってみることに。
ただし、11:00過ぎに平館の福昌寺に円空像を拝観するお願いがしてあるので、それまでに戻る時間制限付き。
9月16日(土)4:55、外ヶ浜町平館不老不死温泉を出発。これ以上の早立ちは、クマが心配で。。
昨日下見をしておいた玉川沿いの林道に入る。
この林道がどこまで入れるか心配だったが、東北森林管理局が治山工事でブルドーザーを入れており、案ずるよりいい調子。
滝の沢・丸鳴の滝の標識を横にみる。
5:45、工事現場が近づいてきたので駐車して登山開始。ブルドーザーで道を塞いであった。
Tuboさんのクマ被害を念頭に、熊鈴、ホイッスル、クマ避けスプレーに加え、新調した鉈を腰に下げて、いざ出発。
6:00、分岐地点。ブルドーザーの道は沢に向けて右手に下っていき、ここから左手の放置状態の林道をたどっていくことになる。
いきなり土砂崩れ地帯を乗り越えていく。ただし、先行する単独行の足跡があった。
6:25、赤テープがいくつか付けられた地点に立つ。沢、あるいは尾根によじ登っていくルートが想定される。
しかし、地図だとまだ先まで進むようになっているので愚直に進む。
どこまでが林道なのか、もうよく分らん。。
地図上では林道がまだ続くけれど、ヤブがはびこり、たどることが難しくなる。
さらに、2万5千分の1地形図に記された崩落記号よりはるかに深く崩落が進み、廃林道はなくなっている。
崩落地の先に、林道の下に沢水を通した配水管が見える。そこまでたどり着ければ何とかなりそう。
転落しないように気を付けつつ崩落地をへつり、それが無理な箇所は激ヤブに突っ込むことを繰り返す。
気が付けば先行の足跡はなくなっている。どうやら早々と撤退されたもよう。
崩落地の先に袴腰岳のピークが見えてくる。
転落しないか心配しいしいよじ登り、7:30ようやく配管の上に立つ。
このあたりからは、なんとか林道の跡をたどれ、ピッチが上がる。
7:45、林道終了地点に立ち、袴腰岳登山口の看板を確認。行方不明者のはり紙付き。
ここからもヤブ漕ぎは続くが、踏み跡はそれなりにあるので、全く踏み跡のないヤブに比べるとずいぶん楽。
振り返ると、谷を挟んで丸屋形岳(718m)の姿が。
最初はあいまいな地形が、高度を上げながらヤブ漕ぎしていくうちに尾根らしくなる。
ブナの原生林の中に身を置く楽しさをようやく感じられる。
標高を上げると、踏み跡が薄くなる。これは、残雪期が登山適期の山にありがち。
その分、この辺りの木の幹には赤テープが何か所か巻かれている。補助的に、ササに赤テープを結んでいく。
8:50、標高620mか。。
もうあと1時間あれば確実に山頂に立て、半島の眺望をほしいままにできるはず。
しかし、自分なりにこの辺がタイムリミットと判断。下山にかかる。
このようなヤブ山では、下山のほうが方向を見失いがち。踏み跡もたどれないし、赤テープも数か所しかない。
地点を細かく確認しつつ下山。
崩落地まで降りる。ブナなどの森の向こうに少しだけ海が見える。山頂、立って眺めたかったなあ。。
この山、リベンジする機会がまた巡ってくるんだろうかなあ。。
10:45林道分岐に降り立つ。登りでは気が付かなかったけれど、ここからも山頂が見えた。
ただし、袴腰の名の台形の姿は結局拝むことはできずじまい。
まあ、今回はクマにも遭わず、滑落もせず、無事に帰ってこれたことが何よりとしておくべきなんでしょう。
前日、三厩義経寺から遠望した袴腰岳(中央)。ちゃんと袴腰に見えました。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2023年9月16日(土) 晴時々曇 単独行
平館不老不死温泉4:55−林道駐車5:44…林道分岐(以降荒廃)6:00…赤テープ地点6:25…(崩落地)…配管7:30…登山口7:45…標高620m地点(引き返し)8:50…分岐10:45…駐車点10:55−外ヶ浜町平館福昌寺(★円空像拝観)11:30〜12:00−湯の沢温泉ちゃぽらっと(入浴)―蓬田村正法院前13:10−青森市油川浄満寺(★)13:30〜14:00−同市浪岡元光寺(★)15:00〜15:20−青森県立梵珠少年自然の家(駐車)15:45…(みずばしょうの道)…梵珠山山頂16:40〜16:50…(サワグルミの道)…自然の家17:40−浪岡ポパイ温泉(入浴)…浪岡道の駅(車中泊)
<メモ>
・東北百名山であるが、ほとんど登られていない。ほぼ「道なき山」に還りかけている。
・かつては山居山を経由するルートがあったが、今は全く廃道状態で長丁場なのでおすすめしない。
・玉川沿いの林道から入山する方が現実的だが、この林道も崩落しがちで事前確認要。どこまで入れるかで所要時間は変わる。
・登山口までのヤブや崩落が著しい。登山口までくれば踏み跡も今は拾えるが、数年後はどうなっていることか。
・クマ注意。ヤブ漕ぎと崩落地のへつりのためにヘルメットを持参するといい。
・いずれにしても直前にいろいろ情報収集して行かれた方がいいです。
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まず1回目は、9月7日(木)夜〜18日(月祝)で青森下北半島から秋田本荘までを踏査する計画。
ついでに、なかなか行けない下北半島の東北百名山、袴腰岳(708m)にも登るつもりであります。
7日、仕事を時差勤務で終え、待たせてあった愛車奥地君に飛び乗り、長野飯綱高原の大坐小屋に向かい仮眠。
8日、3:20出発で、日本海沿いに北上、一路円空が蝦夷から戻ったと考えられる中泊町小泊をめざす。
日本海側は、新潟県村上市から山形〜秋田県内が断続的に高速道路ができていない部分があるので時間がかかる。
こけし愛好家でもあるぼっちとしては、7:45、山形県の玄関口、温海温泉で温海こけし君と対面し、東北に入ったなあと実感。
なるべく円空の帰還イメージを共有するため、小泊までの往路は、高速道路利用で印象を希薄にしておく。
12:30津軽インターを通過、前回3月は雪の中だった岩木山も、林檎の実りの季節を迎えつつある。腹減ったです。。
13:00津軽半島の中泊町に着き、町営施設でマグロ丼の昼食を取り、13:30役場の教育委員会へ。
事前調査で、小泊の円空作男神像のレプリカがあるとのことだったので伺うと、隣り合う中泊町博物館にあるそう。いざ、ご対面。
男神像は、円空の蝦夷往復の中で唯一のもの。像高30.7?は、青森県の円空像としては最も小振り。
帰還時と考えられる十一面観音像と同様、肩から腕にかけての衣文が左右相称で、造作もきびきびしている。
間近に拝すると、眼をかっといた強い表情が印象的。後年の民家に置いていった像とは違う、改まった像なのだろう。
円空は男神像を多く造っているし、不動尊などで眼を見開いた像も多く造っている。
しかし、眼を見開いた男神像となると、極初期の郡上市美並町根村の神明神社の2体と、この像以外ないのでは。
大事に祀られてきたことがレプリカでも分かり、廃仏毀釈で放置された像を個人が引き取ったという来歴は考えにくそう。
円空の蝦夷からの帰還は、寛文当時、松前藩が湊を限定する施策を取っていたことから、松前湊発で間違いないはず。
北海道南端の白神岬から津軽半島の北端龍飛岬までの22?は、中の潮・白神・龍飛といわれる三本の激しい潮流が流れており、航海上危険が多く、犠牲者も多かったので、近世初頭においてはこのル−トを避け、比較的に潮の流れの弱い日本海側の小泊(北津軽郡)と松前を結ぶルートが取られていた。いずれにしても航海が命がけだったことは想像に難くない。
円空は蝦夷往復の旅の間、観音と如来の坐像および十一面観音の立像(例外的に女神像のような小像2体あり)を中心に作っていた中で、この男神像は、丁寧な仕上げの、特別な意味を込めて作られた像と思われる。
このような像が、寺社の堂ではなく、個人蔵として伝わっているのはどうしてなのか、いろいろ想像がわく。
中泊町博物館の建物に図書館が併設されており、『小泊村史』を確認。
円空が松前藩に渡った寛文6(1666)年の翌7年には、幕府の巡見使(注)も、小泊からのルートを往路に利用し、帰路は南部藩に行くため青森に回っている。
円空の場合、往路は『弘前藩庁日記』に「青森へ罷越松前へ参由」とあるように青森から松前に渡り、帰路は津軽半島に蝦夷後半の像に特徴的な背銘に種子(梵字)の書かれた像が伝わることから、小泊から油川(青森市)から羽州街道に入り、弘前を経て碇ヶ関から秋田に入ったと推定される。
村史で小泊の寺社や文化財の情報も見たけれど、男神像がどこに置かれたと想定できる手掛かりはなかった。
注:諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使。寛永10年に実施後途絶えていたが、徳川家綱の代に入った寛文4年4月5日に全ての大名に対して領知朱印状が交付され(寛文印知)、同年に宗門改が全ての領主に対して義務付けられた。それらの実施状況を確かめる事を名目として寛文7年閏2月18日に諸国巡見使の制が導入されたもの。
小泊の港は、天然の良港だと素人見にも分かる。中泊町小泊支所でいろいろお話を伺う。
小泊の街並み。事前に把握していた所蔵者は、もう故人になられておられるもようで本物の像には対面かなわず。
ここからは想像になるが、男神像は、難所だった津軽海峡の航海の無事を祈るために造られたのではなかったのだろうか。
それも、寺社で祀るのなら、観音坐像などでも良かったはず。
さらに想像をたくましくするなら、藩主の渡航に使われるような重要な船の神棚に祀られ、その船が廃船となる時、神像が個人宅に引き取られたような可能性もあるのでは。
小泊から次は外ヶ浜町三厩(みんまや)に向かう。
小泊から三厩を山道でつなぐ国道339号線は、昭和47年度に小泊側から自衛隊により、同48年度に竜飛側から請負工事により道路改良がおこなわれ、昭和59年度に全面開通した道で、海岸沿いには今も道がなく、かつては船が交通手段だった。
吉田松陰は、幕末の嘉永5(1852)年、小泊から算用師峠を越えて三厩に至ったというが、この道は江戸前期にはなかったのでは。
ということで、円空は小泊から三厩までを船で渡ったと考えられる。
山の尾根を行き竜飛岬を経由する国道339号線は土砂崩れで通行止めのため、半島の付け根まで戻り大回りで17:00到着。
対岸に北海道渡島半島が眺められる港の背後の小高い部分に、円空像の伝わる義経寺がある。
急な石段の参道の下には、「松前街道終点の碑」が立つ。
碑の背後にあるのが、次のような伝承のある、三厩の地名の由来となった厩石。
「(頼朝に追われ)蝦夷へ渡ろうとした義経主従は、海が荒れていたため船を出すことが出来ない。そのため義経は守り本尊である観音像をこの巨石の上に置いて三日三晩祈った。すると白髪の老人が現れ、『三頭の竜馬を与えるので、それで海を渡ると良い』と告げた。岩を下りると、3つの岩穴にそれぞれ馬が繋がれており、海も穏やかとなって、義経主従は無事に蝦夷へ渡ることが出来たという。この不思議な伝説によってこの巨石は“厩石”と呼ばれ、さらにこの土地も“三厩”となったとされている。
この伝説から500年ほど経った江戸時代にこの地を訪れたのが、僧の円空である。寛文7年(1667年)に円空は義経ゆかりの厩石に上り、そこで小さな観音像を見つける。そしてその夜見た夢で、これが義経の守り本尊であることを知る。これをきっかけにして円空は観音像を彫り上げ、厩石を見下ろす小高い丘の上に庵を結びしばし滞在したとされる。これが義経寺の始まりとされる。」
それでは、いざ義経寺へ。
石段を登っていくと、厩石の向こうに、はるか下北半島が見える。手前の山並みの台形の山が明日登る予定の袴腰岳。
事前にお電話して、拝観は叶わないことは伺っていたので、境内から往時をしのぶこととする。
本堂手前に観音堂がある。
観音堂の背後に祠がある。ここに円空像が祀られているのだろうか。本堂のほか、金毘羅堂、弁天堂などが立ち並ぶ。
堂の先、崖の直上まで進むと、松前が眺められる。
円空作観音菩薩坐像の画像は、こちらのHPでご覧を。→青森円空街道
背銘には、円空直筆の種子と「みまや」、他人の筆になる「木像本何處青樹 成仏後経幾年数 唯今是佛心木心 化度衆生得化度 寛文七戌申仲夏中旬 朝岳游楽子」の背銘がある。
この背銘が、先に引用した伝承が円空の造像を寛文7年とする根拠だろうが、同年の干支は丁未であり、戌(正しくは戊)申は8年の干支。
仲夏は、旧暦5月のこと。どのような経緯で書かれたかも含めどうとらえていいか迷う銘文。後でもう少し掘り下げて考察したい。
長い一日の最後に、外泊町平館の「平館不老不死温泉」へ。
おっと、チェックインの前に、明日登る予定の袴腰岳の林道の下見をしておかねば。。
通行止めなどの立て札がないことに安心し、18:30ようやく投宿。
この宿は、かつて老夫婦の経営だったが、宿をしまうと知った愛用客の方が、もったいないと最近経営を引き継がれたとのこと。
仕入れに出かけるため、現在日帰り入湯はしていないとのこと(メンテ前のHPには日帰りかとの記載が残る)。
建物は古いけれど、ホタテやマグロの刺身、山菜ミズとホヤの和え物、ホタテのバター焼きなど、おいしくいただく。
こじんまりした風呂は、湯の肌あたりがとてもまろやかで、壁がヒバ材でいい香りがする。
明日は、今日以上にハードな計画、早めにおやすみなさい。
<追記>
義経寺観音坐像「木像本何處青樹 成仏後経幾年数 唯今是佛心木心 化度衆生得化度 寛文七戌申仲夏中旬 朝岳游楽子」の背銘について
・五来重氏は、寛文7年段階で「成仏後経幾年数」とあるので、本像を蝦夷に渡る前の像とし、円空は津軽半島から蝦夷に渡ったとされる。
・笠原幸雄氏は、「成仏後経幾年数」について、「これは青樹が伐り倒され『成仏(じょうぶつ)』(枯れて)から幾年数とは読めないだろうか。そう読むと次は文字通り『唯今』仏像に彫られて仏となり仏心木心である。要するに子の漢詩は、像が作られた直後に記されたものとすることも、あながち無理ではなさそうである。」とされる。
・小島梯次氏は、「五来氏の津軽半島からの渡道説の一つの根拠は、義経寺観音背面の漢詩の内容から、書かれている年号『寛文七戌申仲夏中旬』よりこの像はかなり以前に作像されたもの、とされていることである。円空が北海道にのこした像の背銘に書いた最後の年月日は『寛文六年八月十一日』であり、勿論これが北海道での最終作像ということはできないけれども、『寛文七年仲秋中旬』まで十ヶ月余の開きがあり、笠原氏が訳されたように漢詩中の『成仏』を”枯れて”と解して、義経寺像が北海道からの帰路に作像したとしても矛盾はないと思う。そして更にこの像に書かれている『寛文七戊申仲夏中旬』の干支・戌申(正しくは戊申)は、実は<寛文八年>の干支であり、年号と干支が違う場合干支の方をとるという通例に従うならば、この漢詩が書かれたのは『寛文八戊申仲夏中旬』ともう1年下ることになり、そうすれば漢詩の内容は五来氏のいわれる通りだと思うけれども、円空が義経寺の観音像を北海道の帰路に作像したとしても全く矛盾はなくなる。」とされる。
・ここにさらに、五来氏と小島氏の、北海道像に見られる六字種子と、義経寺の六字種子に2字加えたものを、どちらを前後ととらえるかという論点も加わる。
・ぼっちとしては、種子からすると、この議論の後に見つかった秋田の像などが六字種子に数字加わっていることなども考慮して、北海道より津軽半島の像の方が後でいいと思う。
・「成仏後経幾年数」の読み方は、仮に寛文8年としても、また漢詩が大げさな表現が使われがちだとしても「幾年数」も経っているとするのはおかしいとおもうし、「木像本何處青樹」と、もともとどこの青樹だったのだろう(分からない)ともいっているので、ここは笠原氏の説にひかれる。このあたり、本像が枯れて久しい材を使って彫られたのか、新しい材なのか、検証できるといいのでしょうが。
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県内各都市対抗になっていて、ぼっち地元の山の会も出場。ぼっちは応援要員で参加。
9日は前夜祭のようになっていて、「八滝ウッディランド」のバンガローで宿泊しての懇親会。
他の都市の山岳会とも声を掛け合い、旧交を温め合う。
4世帯のうち3世帯はバーベキューセットを持っているという岐阜県民、このような場面でバーベキューをしないはずはない。
飛騨牛の霜降りやホルモンを心置きなくいただきました。
翌10日は、2.5?の山岳マラソン競技が開催された。応援者も含め百人余りが参加。
林道を駆け上がる競技者を応援。飛騨山岳会がぶっちぎりに速い。
競技の後は、全員参加で日龍峯寺を起点に本城山登山。
昨年7月、円空極初期像の伝わる関市藤谷集落を訪れた折、富野北アルプス(高沢山〜大仏〜本城山)を周回したので、旧知のルート。
日龍峯寺は、当地きっての古刹で観音の霊場。北条政子が寄進したと伝わる多宝塔がある。
円空像は伝わらないけれども、次の3首の和歌を詠んでいるので、円空もここに立ったことでしょう。
1370:観世音 高沢や 閼伽井(あかい)の水(に) 形移す 三世(の)仏の 鏡成(り)けり
1384:高沢や アカ井ノ水(に) 形移(す) 濁(にごれる)水ワ 落(ち)て行(く)らん
1391:高沢や 梳器(の)水ヲ 手二結(ふ) 玉ノ手向ノ 忘(れ)形見に
寺のある高沢山(435m)から本城山までの途中までは、見坂峠からの参道なので、石のお地蔵さまが置かれ、歩きやすい。
参道を離れ、反射板が山頂に並ぶ大仏(434m)を経て本城山を目指す。
約2時間で本城山山頂(423m)に到着。小野城という戦国時代の城跡で、土塁や堀切などの遺構が残る。
眼下に見下ろすのが藤谷の集落。そして遥かにつながるのが各務原アルプス、いやここは関市なので別名「関南(かんなん)アルプス」と呼ぶべきなんでしょう。
暑かったけれど、普段は登山に集中してまったり懇親している余裕もないので、骨休みも兼ねた週末となった。
さて、来週は再びハードな、津軽半島〜秋田の「円空の冒険」追跡踏査。気を付けていってきます(ロ。ロ)/
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ぼっちの敷地のお隣さんは、全面伐採して畑をやるんだと意気込んでおられたけれど、結局続かず、5年ほどでジャングル状態になってしまった(タラの芽はしっかり出てるみたいですがね)。
かといって、植物が大きくなる前に徹底的に刈り込んだら、草はあまり生えなくなるだろうけど、それも面白くない。
ということで、2日は、12時30分から17時30分までかけて、草刈りに励む。
草や木の色がモスグリーンに見えるのは、秋が近づいてきた証拠。
大したことのない作業のように見えるけど、ウツギなどの灌木がびっしり生えているので、単なる草刈りに比べ力がいる。
この作業を1年怠ると、灌木は2年生えとなり、刈るのがさらに大変になるので、手は抜けない。
お隣みたいにびっしり茂った場所は、クマが身を隠して出没しやすくなるため、その対策でもある。
ちなみに、カラマツの倒木を丸太にして積んである矢印の場所には、白アリがいるらしく、クマが掘り起こした形跡があった。
少し燃料が残った分で、放置状態の両隣を含め、3区画分の前面の道路も刈っておいた。
ツタウルシなど、かぶれる草もひそんでいるので、作業終了後は、急いでむれ温泉天狗の館に汗を流しに行く。
翌3日は、何ごともせわしないぼっちにしてはゆっくり起きて、朝食を製作(小屋飯は専らぼっちが担当)。
ジャガイモ入りの大きなオムレツ+キノコ汁は、小屋の朝飯の定番。
その後、昨日の作業の続きで、木に絡みついたツタの類を鎌で切り、剥がしておく。
これをやらないと、ツタがどんどん太くなり、梢まで覆いかぶさって、木が弱ってしまう。
作業後、孫ぼっち君との宿題だった、大座法師池のスワンボートに乗船。
飯縄山山麓の飯綱高原は、雪不足が続いてスキー場が閉鎖になった代わりに、夏のキャンプブームを受け、大座法師池周辺にnagano forest villageとしてキャンプ場やさまざまな屋外・屋内活動の施設がおしゃれに整備されたので、かえって人気が出たみたい。
以前からある白鳥ボートも、アクティビティのひとつだというと、なんかかっこよく聞こえる。
といっても、乗ってるの、ぼっち家一行だけ。池畔の賑わいをのんびり眺めておりました。
夜に誕生会が控えているので、ボートから帰り、掃除をすませ、戸隠のクローバーでお願いしておいたバースデーケーキを受け取り、早めに帰路に。次回来る頃は、もう紅葉でしょう。
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その播隆ゆかりの「播隆地蔵祭」が8月20日(日)、揖斐川町春日笹又で新型コロナ禍後5年ぶりに復活、日本山岳会東海支部が協賛させていただくことになったので、参加してきました。
播隆の山岳修行は、まず文政6(1823)年頃から伊吹山の南、美濃一宮の南宮大社の神体山である南宮山(419m)での厳しい念仏修行から始まる。そして、「霊夢に大悲観世音の御告げあり、近江の伊吹の嶺頂にて千日の別時念仏を行すべし」として、修行の場所を伊吹山に求めた。
御告げのままに伊吹山の八合目の岩窟で千日におよぶ念仏修行に入ると、美濃側の伊吹山直下の笹又の集落では山上から鉦鼓を叩く音がするので、不思議に思い登ってみると、播隆が一心不乱に念仏を唱えていたので、笹又やその下の古谷集落の人たちは播隆に帰依し、毎日ソバ粉・水を運び、そして池谷峰に、三間に八間の庵を建てた。播隆はここに移って念仏三昧の日々を送り、地元ではこの山上の庵を「播隆屋敷」と呼ぶようになった。
播隆の噂は、美濃だけでなく、近江や尾張にまで広がり、浄土宗ばかりでなく、天台宗や禅宗の僧侶も来てともに念仏を唱えたという。この播隆屋敷に、文政8(1825)年正月3日、石工赤坂宇吉、願主播隆講中として、阿弥陀如来立像が安置された。
この石像は播隆亡き後、近江側の峠に置かれた後、笹又集落に下ろされ、毎年8月25日の夜、播隆の地蔵祭が昭和の初めごろまで行われていた。それが、復活した後、また新型コロナで中断したものを今回再復活したもの。
地蔵祭は11時からなので、その前に前夜泊した支部のメンバーで、揖斐川町の市街地に面した城台山にある播隆開山の一心寺を訪問。
揖斐川町は、江戸時代初期は、関ヶ原合戦で戦功を認められた西尾光教が、城台山上の揖斐城を本拠地に三万石を領した揖斐藩があった。しかし、跡取りに恵まれず、元和9(1623)年に揖斐藩は断絶、揖斐城が破棄されて幕府の直轄地となると、寛永8(1631)年に陣屋が置かれ、岡田善同(よしあつ)が旗本として入り、美濃国奉行として治める。
岡田家9代目当主善功(よしかつ)の時代の天保元(1830)年、家臣の芝山長兵衛が、当時伊吹山で念仏行を行っていた播隆の存在を知り、その寄進で城台山上にある揖斐城跡に城台山播隆院阿弥陀堂を建立した。その後明治12年に一心寺と改称され、同24年の濃尾大地震で堂宇が倒壊したことを契機に、城跡から少し南に位置する現在の場所に移転した。
そんな由来のある城台山(223m)の揖斐城址に登ってみる。
現在の一心寺は中腹にあり、「播隆さん」と呼ばれて親しまれてきた。
お彼岸には、地獄絵が掛けられ、連れ合いは子供の頃毎年おじいさん・おばあさんに連れられて行っていたそうであります。
本堂裏には、代々の住職の墓(卵塔)があり、その中央に「開山播隆和上」の墓がある。
天保11年、槍ヶ岳に念願だった鉄の鎖が掛けられたのを、病の身にあった播隆は松本玄向寺で聞き、小康を得て揖斐の阿弥陀堂に戻る途中、美濃太田宿脇本陣の林家で亡くなり、同所の祐泉寺にその墓がある。一心寺のものは分骨されたもの。
さて、地蔵祭の時間も迫って来たので、揖斐川町春日川合から長谷川を坂載っていくと、古屋の集落に出る。
この古屋とさらに上の笹又は、田ができず、炭焼や茶栽培、畑作とともに伊吹山の薬草採りで生計を立てていた。
相当な豪雪地帯でもあった。
さざれ石公園を経て標高500mあたりまで登ったところが笹又。
今は廃村になっていて、出作りで畑を営まれている。見上げると、伊吹山の稜線が見える。
播隆地蔵祭は、播隆の遺徳をしのぶとともに、笹又に住んでいた人々の再会の場ともなっている。
地蔵祭といいつつ、お堂のご本尊は阿弥陀如来の石像。
播隆は播隆屋敷にあったこの石像の前で念仏三昧の日々を送ったはず。
このお堂の脇に、日本山岳会が立てた「播隆上人と伊吹山山麓の人たち」の石碑がある。
平成14年に立てて毎年独自に記念祭をやっていたのが、世話役が亡くなられてしばらく中断。
今回播隆地蔵祭復活にあわせて協賛させていただいたという経緯。
世話人の挨拶、東海支部長の播隆の挨拶・説明の後、お坊さんの読経。
地蔵祭の儀式がひと区切りして、笹又の皆さんにまじってお世話役様の手作りの品々で、会食。
笹又で採れたジャガイモ、キュウリ汁、薬草の天婦羅、瓜のような味のする地元野菜のキュウリ。
ジャガイモは、山里で年々作れるような品種になっていて、小さいけれど味が濃く、ゆでた後炭火で焼いてあるので、とても香ばしい。
薬草は、ヨモギなどのほかイノコヅチといった珍しいものも使われていた。暑い中揚げていただいて感謝しつつおいしくいただく。
日本山岳会は、かき氷を提供、人気でした。
お昼過ぎに散会。笹又で畑をやっておられる方を中心としたお世話役は、これから打ち上げを盛大にやられるよう。
感謝の思いと共に、このような祭りが、細く長く続くといいなと思った次第。
伊吹山というと、どうしてもいま取り組んでいる円空との関わりを考えてしまう。
円空が修行の拠点としていたのは、美濃側ではなく近江側の太平寺集落から山頂直下の平等岩(行導岩)のあたり。
播隆屋敷とはかなり離れているので、播隆は円空の伊吹山での足跡は知っていたのかどうか、文献などは残らない。
円空は美濃の揖斐川流域にはほとんど足跡を残していないが、唯一春日に入る入口になる揖斐川町瑞岩寺集落の臨済宗の古刹、瑞巌寺には不思議なことに、北海道と同様、磐座に蓮台を重ねた台座で、手に蓮華を載せ、頭に岩峰状の宝髻を結った観音菩薩坐像を残している。もうひとつの疑問として、円空像の伝わる伊勢の中山寺、松島の瑞巌寺、そして揖斐川町の瑞巌寺、いずれも臨済宗の名僧愚堂東寔との関わりがあることが気にかかっている。
円空の足取りに従い、近々このお寺も訪問する予定だけど、併せて播隆と関わりがあったのかなかったのかなども伺ってみたいもの。
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どこも行かないのも忍びないけど、どこも小舎は一杯なので、12日白馬岳を大雪渓で日帰り往復することに。
早朝出発では猿倉の駐車場が確保できないかもしれないので、11日前夜車中泊。4:45出発。
猿倉荘の前には「登山相談所」が開設されている。
登山届を提出し、アイゼンなど必要装備を持っているか確認を受ける。
この時間帯、比較的若い登山者、3人くらいまでの登山者が多い。
5:50 猿倉から1時間あまりで白馬尻小屋の地点に着く。
今シーズン小屋はなく、トイレとテント場だけが開設されている。
さらに山道を登ると、白馬大雪渓の末端が見えてくる。記録的な猛暑といっても大雪渓はそこにあってくれる。
6:40アイゼンを装着、いよいよ大雪渓を登高する。
やはり、年に1回は「北アルプス」も来たいもんだなあ。。
7:30大雪渓上部に出てアイゼンを脱ぐ。
チングルマは終わり、ウサギギク、ミヤマタンポポ、クルマユリ、ヨツバシオガマ、ミソガワソウ、イワオウギなどがみられる。
避難小屋あたりからは、杓子岳、白馬鑓ヶ岳が眺められる。
9:25、白馬岳頂上宿舎で一服。あと1ピッチで山頂だ。
日本最大の山小屋白馬山荘から南を見る。後立山連峰の稜線越しに、剱方面が展望できる。
10:20 一等三角点の白馬岳(2,932.3m)に立つ。
今回は、昨年亡くなった母が「白馬に」と言い残していったので、その追悼登山でもあります。
日本百高山のひとつ朝日岳(2,867m)から清水岳(2,603m)を経て、祖母谷温泉、欅平へ降りるルートも懐かしいな。。
―としみじみしていたら、谷底から雲が上がってくる。10:45そろそろ下山にかかりますか。
往路と同じルートを下りかける時間帯は、年配者や団体者の登山のラッシュを迎え、やり過ごしに時間がかかる。
それも、一定の時間までで、13:20頃アイゼンを着けて大雪渓に差し掛かる頃は、登山者のピークは過ぎていた。
13:30頃、前を行くカップルが年配の夫婦の登山者に話しかけているところに差し掛かった。
どうやら、アイゼンもなしに大雪渓を下ろうとして動けなくなったらしい。
そもそも奥さんの方は、大雪渓に差し掛かる前に、何度も転倒してズボンが破けている。
蓮華温泉方向から登って、下りではじめて大雪渓に差し掛かったとのこと。
「アイゼンもいるかなと思ったけど、買わなかった」とおっしゃる。白馬山荘〜猿倉荘間でレンタルもあるのだが。。
カップルが片方ずつアイゼンを貸してあげ、「雪渓を降りきったところで返してください、待っていますから」と言われた。
どう見ても危なっかしいご夫婦なので、ぼっちも奥さんにヘルメットを貸してあげた。
そして、ご夫婦の様子を見ながら下山しかけたのだけれど、ほとんど動いている気配なし。
これでは、いつヘルメットを返してもらえるか分からないので、登り返し、お二人の様子を見ると、まったく「思考停止」の状態。
大雪渓の中間地点は、13時台だと人はたくさんいるけれど、あと1、2時間もすると登山者はほとんどいなくなる。
動き出さないとどうにもならないですよといっても、ご主人も含めぼんやりされたまま。
助けてくださいというメッセージすら自ら発信できない。
ああ、下るにせよ、登るにせよいくらでも助かる方法はあるのに無駄に時間を使って、「安易に遭難」するというのもあるんだなあとおどろき、幸い携帯電話が通じたので、110番通報を介して大町警察に連絡してもらった。
もうひとつ幸いも、大町警察の山岳遭難防止常駐隊のパトロールの方が近くで無線を受けられたので、その方に引継ぎをして、下山にかかれ、15:40猿倉荘に到着。
この時間になると、白馬尻あたりには、猿倉荘から散歩に来ている人を見かけたけれど、もう登りも下りも登山者はない。
結局、13:30に通報しても、救助は18:30と日没間際になったと、ネットニュースで知る。
あの時点で110番通報しておいてよかったなあと改めて思った次第。
新型コロナの行動制限がなくなり、また海外からの入山者も増加し、白馬大雪渓は、準備も覚悟もないまま救助される人が、この夏何度もあったらしい。
昼間人の多い時間は何でもないような場所でも、落石や、天候次第では低体温症などでけがや死に至ることもあることを承知の上で、十分準備をして入山されますように!
その際、「その山から安全に下山できる体力・体調が自分に備わっているか」を把握しないまま入山することは、大きな「甘え」と自覚してください。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩)
2023年8月12日(土) 快晴のち曇 単独行
猿倉(車中泊)4:45…猿倉荘4:50…白馬尻小屋跡5:50…頂上小屋9:25…白馬山荘9:55…白馬岳山頂10:20〜10:45…白馬山荘11:00〜11:30…大雪渓中間点13:30〜14:00…猿倉荘15:40−(大坐小屋へ)
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レンタカーは17時まで借りてあるけれど、北海道の天気はほぼ全域不安定。
今回、本当は羊蹄山に登り、円空の背銘にある山々がどのように見えるか確認したかったけれど、結局思うような天気の日はなし。
最終日も雨の予報なので、前日に前回乙部町花磯の龍寶寺の円空像拝観の時にお寺と調整をお願いした乙部町公民館の学芸員の方にお願いして、今は乙部町役場で保管されているという三ツ谷の観音菩薩坐像を拝ませていただくことに。
朝、函館のホテルを出発、途中はものすごい雷と雨。何とかお約束の11時に到着。
公民館のロビーに、厨子に入った、三ツ谷に伝わる観音像坐像を持ってきていただき、いざ拝観。
画像で見ていた通り、明治時代にカラフルに着色されたお姿。
像高31.3?、線条台座に蓮台を載せた二重台座に、右手の上に左手を重ねた定印に蓮台を載せ、頭上には岩峰型の宝髻を載せる。
ただし宝髻は、同じ乙部町でも元和八幡宮の観音菩薩坐像などと比べて、比較的低めなので、普通の菩薩像に見えるよう削られたのかもしれない。
背面(左)と側面。台座部分に金属板が当てられ、明治時代の銘文が残る。
銘文によると、江戸時代三ツ谷の八幡神社のご神体だった円空像が、王政復古で函館戦争終結後の明治3(1870)年8月、江差民政局からの神仏混淆の通達が出され、行き場を失った円空像を、明治22(1889)年、笹谷幸吉という村の篤志家が発案し、村中の助成を得ながら、10月に村内の吉祥寺に納めたということらしい。その際に素木の円空像は、現在のようにカラフルに彩色されてしまったという経緯なんでしょう。
吉祥寺もなくなり、村人が講を組んでお守りし、少し前までは漁民研修センターという集会所のような施設に置かれていたものが、同施設が「ふれあいセンター」に置き換わり、講でお守りもできなくなり、乙部町に寄託されたということらしい。
日本全体が人口減少する中で、特に北海道の海岸沿いなどは、いまこそ集落を形をとどめているけれど、高齢化が相当進んでいるのを今回の調査で目の当たりにした。
350年余りにわたって村人によって守られてきた北海道の円空像は、後10年後にはどのようになっているのだろう。。
銘文です。
公民館の学芸員さまには大変お世話になりありがとうございました。
いろいろ調査を経ての現状認識をお話し、学芸員の方の認識を伺う。
「乙部町の歴史は、世界史の中で見ないと分からない部分がある。」とおっしゃっていたけれど、「円空の冒険」も、いわゆる「円空仏」という「点」の研究をし、その点と点を歴史認識のない自分の持つ情報だけで結びつけようとしてもおかしなことになると思う。
特に寛政年間の蝦夷の円空の菅江真澄らによる「再発見」は、ロシアとの関係さえ影響しているのだと知らされた。
以上で、全3回の北海道の円空踏査は無事完了。お昼は函館に戻る途中、「ゆできび」を。
季節のトウモロコシは、味が濃くて一本で満たされました。
午後の時間は、函館市中央図書館で調査を踏まえてもう少し欲しくなった資料を時間を惜しみながらコピー。
16時に、函館丸井今井という百貨店で開催されている『ゴールデンカムイ展』を30分だけ見て、17:00レンタカーを返却。
18:25函館空港から家路についたのでありました。
いろいろ詰め込んだ踏査内容を、整理してご紹介するのは、兄弟ブログ「『円空の冒険」追跡ノート」でご覧ください。
8月8日(火)
ホテル9:00−乙部町公民館(三ツ谷観音菩薩像)11:00〜11:45―函館中央図書館14:00〜15:45―「ゴールデンカムイ展」16:00〜16:30−函館駅=函館空港18:25〜(ANA500)20:00中部国際空港20:37=名古屋=(自宅)
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なかなかタイトなスケジュールな中、珍名の山ハンターとしてはその合間を縫って、ぜひとも訪ねたい山があった。
北海道は珍名の山の宝庫なのだけれど、その中でも、極北と言えるのが、七飯町の貧乏山(びんぼうやま)。
大沼を挟んで円空ゆかりの内浦山(駒ケ岳)と向かい合う位置にあり、そこにどのような物語があったのか、いやがうえにも想像がかき立てられてしまう山であります。
しかも! この山は、1976年の小学館『小学四年生』9月号、10月号で「ふしぎな現象をおこす貧乏山 その山の中にUFOの基地が…!?」という大特集が組まれております。
「標高六百メートルほどの山であるが、魔の山とよばれ、登る人はほとんどいない。」「われわれ人間、いや地球の常識からかけ離れた山なのです。」とくると、怖いけれど、怖いからこそ、何とかして行ってみたくなる。
ただし、標高は「六百メートルほど」ではなく、501m。
またその読みは、「びんぼうさん」ではなく、「びんぼうやま」、やはり響きとしてはこちらの方が切なくていい。
念のため、点の記ご覧ください。
山頂直下まで林道が入っているようなので、林道が車で侵入できないとしても、割と楽勝で登れるんじゃないだろうか。。
取り付き口となる上軍川集落。牧場地帯でサイロがあったりして、山容も霧の中ながら岡って感じでは。。
苅澗川に沿って農道を進む。周辺はトウモロコシ畑。
森に入る323m地点くらいまで車がつかえた。
このまま車だと、登山ではなくなってしまうかもなので、レンタカーを置いて歩くことにする。
と思ったら、すぐに「カリマ川林道」入口でゲートが閉じられていた。
広いけれどさびしい霧の林道。クマ避けスプレーは今回持参していないので、熊鈴とホイッスルを鳴らしつつ進む。
岡かと思っていたら、原生林だった。。苅澗川を渡り、おおよそ450mの等高線あたりに沿って進んでいく。
取り付き点さえ見付ければ、高度30m分ほど登るだけと思っていたのに、直下を行き過ぎても取り付き点が見当たらず、引き返す。
ヤブだらけで、本当にあまり登られていない山なんだ。。
激ヤブで、倒木だらけの山。なるべく方角を定めて歩きたいのに、ヤブ漕ぎ、倒木またぎで、ままならない。
甘く見て赤布も持ってきていないので、赤い電工テープを代わりに目印にしながらヤブ漕ぎしていく。
クマ遭遇の恐怖との戦いでもある。
GPSで確認すると、このへんなんですが。。
地形的には、ピークをなしているわけではなく、斜面の一角でしかないので、方角がてんでつかめない。
道迷い遭難防止講習でやらせてもらったんだけれど、視界がきかないピーク感のないヤブ山というのは磁石で方角をつかむことが大事だと身をもって再認識。
頭を低くしてヤブの根元のあたりをかなり探しても、三角点の標石は見当たらない。もしかしたら倒木の下になっているのかも―なんてやっているうちに、赤テープを見失ってしまった。
ううむ、まずい。貧乏山が「魔の山」と言われていることを(?)舐めていた。。
本当はもう少し三角点を探してみたかったけれど、よけいに方角を見失いそうだし、クマ出没のリスクもあるので、このへんまで。
幸い、貧乏山のピークの回りを林道が通っているので、とにかく下に降りて行けば何とかなると、植林されて下を歩きやすい方向に下っていく。それも途中までで、またヤブ漕ぎ。急斜面になるのが分かっていても、ヤブは下りは楽なので、もう勢いで下る。
GPSの軌跡を見ると何やってんだかという感じ。クマの恐怖と背中合わせだったからとはいえ、修行不足を実感。
珍名の山ハンターとしては、モヤモヤ感の残る結末でありました。
林道に出てさえしまえば、なんということもない。
汗だくになりながらも、無事レンタカーの駐車場所に帰着。
そこから10分あまりで、山川牧場ミルクプラントへ立ち寄り、ソフトクリームを食べて一息つく。
函館方面は牧場併設なんかのソフトクリームがうまい店が多い中、その中でもここは、クリーム感、舌触り、かなりレベルが高い。
お腹を満たして、七飯町のアップル温泉で貧乏山の汗と厄(?)を落として、函館に向かったのでありました。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩)
2023年8月7日(月) 単独行
宿6:00―江差笹山登山口7:55…▲笹山(笹山稲荷)(611m)9:05…▲元山(522m)10:30〜10:45…登山口11:15―
大沼林道ゲート(駐車)13:40…▲貧乏山(501m)14:50…ゲート15:50−七飯町アップル温泉(入湯)―五稜郭ホテル17:45(泊)
]]>それは、「江差村」と「豊部村」の観音堂に「神体円空作」があった(現在は所在不明)こと。
現在、江差町に豊部という地区名はないが、江差の市街地に接して豊部内川の河口があり、江差町豊川町という集落があるので、このあたりかと思われる。江差との距離は1?あまり。
当時江差は、松前藩の政策で湊としての機能を奪われていたので、「からや(空家)有」という状態になっていたので、このような場所に2つも観音堂を置き、円空が神体像を造顕したのが不思議だった。
踏査から帰り、「諸社年譜並境内堂社部」を読み返してみると、「観音堂 豊部村 寛文五年造立。神体円空作。先年笹山ヨリ此ノ所へ移す。」とあった。
笹山は、豊部内川の上流部に位置する611mの山で、山頂には、道南五大霊場の一つである「笹山稲荷神社」の社殿があり、古くから住民の信仰が篤く、豊漁豊作祈願のお参りや、松前藩の祈願所となって代参も行われていたそう。
この笹山に円空がご神体を置いたのならば、つじつまが合うはず。現在も良く登られている山のようなので、第3回踏査の空き時間に登ってみることに。
現在の江差町市街から豊部内川の橋を渡ったところが新栄町で、そこに笹山稲荷神社の分社がある。
「神体円空作」の観音堂は、このあたりにあったのではないだろうか。
再び橋を江差側に渡りなおし、豊部内川に沿って遡行する。
豊部内川が、サダサ川と金堀ノ沢に分かれるところに、笹山稲荷の鳥居がある。
金堀というのは、きっと金山があり、金堀人夫たちが入っていたんでしょう。
鳥居をくぐっていく参道もありそうだけれど、今回は登山口のあるサダサ川沿いの林道でさらに奥に進んでいく。
笹山は、神社があり登山者も結構あるのかなと思ったら、いやはや、ササや背を越すイタドリなどが覆いかぶさり、レンタカーが悲鳴を上げておりました。すれ違いどころか、車を避ける場所もほとんどないので、要注意。
ようやく林道終点に到着。駐車スペースは2台くらいがやっとか。
車にとまった、アブの群れにご注目。
防虫ネットを被り、熊鈴、ホイッスルを鳴らしながら登山開始。
登山口には、笹山(611m)、八幡岳(665m)、元山(522m)を結ぶ登山道の案内板があった。
登山道の入口には注連縄が張られ、案外にすっきり整備されている。
笹山稲荷の例大祭が5月と9月にあるそうなので、その頃中心に登られているのかもしれない。
しばらく山道を進むと、車が通れるような立派な道に出た。この道はどこから始まっているのだろう。。
尾根上にも登山道があり、絡まり合うようにして山上に通じている。
次第に森は鬱蒼として、ブナなどの大木が多くなる。
途中直登する登山道と、少し大回りしてゆるめな太い登山道(あるいは参道)に分かれる。
今回は、クマが怖いので、見通しのきく登山道で進む。途中八幡岳への分岐があるが、今回は止めておく。
平坦な山上はササの切り開き道になり、登山口から1時間10分で笹山稲荷に到着。
道南五大霊場というだけあり、社務所などもしっかりしている。
ただし、円空が訪れた頃はどんなだったのだろう。もっと寂しい場所だったのは間違いないとして、あるいは円空が像を置いたので、稲荷が信仰を集めるようになったのかもしれない。
平坦で、ササや樹木に覆われ見晴らしもないので、山頂らしくない笹山を後に、社殿の前を左手にとって、見晴らしがいいという元山をめざす。
笹山山頂から少し先に行くとササ原になり、元山や眼下に江差の町が見える。
笹山と元山の間には二つのピークがあり、樹林帯のアップダウンを繰り返す。
元山の手前のピークから振り返ったところ。霧の中にあるのが笹山。
元山のピークの手前には反射板があり、そのあたりから樹木はなくカワラナデシコなどの咲く草原になる。
もっとも日本海側に近いので、強い風に木が生育を阻まれているのかもしれない。
右手に江差、左手に上ノ国を眺めながら、山頂を目指す。
笹山山頂から1時間30分ほどで元山山頂に到着。北海道とはいえ、低山で汗だらけになったけれど、360度の展望に気分は上々。
第1回踏査の折、MTBで往復約200?走った日本海側の風景をしみじみ眺める。
寛文当時も、笹山か、この元山あたりは見晴らしのいいササ原で、円空は神体像を造顕していく日本海沿いの集落や、鳴動した上ノ国の太平山を山上から眺めたのではないだろうか。
ただし、この場所にいる時点で、例えば同じく日本海寄りとはいえ45?程も離れた遊楽部岳を見て背銘に現在山越諏訪神社のご神体となっている「ゆうらつぷみたらしのたけ」という像を造ろうと発案したとは思われず、やはり遊楽部川が流れ込む内浦湾側、おそらく内浦山周辺で発案・造像したものだろう。
<登山記録>
2023年8月7日(月)
宿6:00―江差笹山登山口7:55…▲笹山(笹山稲荷)(611m)9:05…▲元山(522m)10:30〜10:45…登山口11:15―
大沼林道ゲート(駐車)13:40…▲貧乏山(501m)14:50…ゲート15:50−五稜郭ホテル17:45(泊)
]]>
第1回、第2回の「『円空の冒険』北海道踏査」では、旧松前藩内に残された円空像を数多く拝見してきた。
それに対し、今回第3回のアイヌ人の土地だった蝦夷地での踏査は、円空像の背銘や、それを見た寛政〜幕末の探検家の記録という「文字」を手掛かりにするのが中心で、実際の円空像を拝む機会はここまでなかった。
ようやく踏査3日目にして、森町砂原の権現山内浦神社で、山名の記された貴重な御像を拝見する機会がやって来た。
菅江真澄が有珠善光寺で拝した、「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給」の背銘のある像、そのものであります。
権現山内浦神社は、内浦岳(駒ケ岳)の山麓にあって、参拝者は砂原岳部分に向かい合い、内浦湾を背にする位置にある。
内浦神社のHPにある御由緒によると、「権現山内浦神社の創祀は詳らかではありませんが、内浦岳中腹岩窟内に内浦三所大権現として素盞嗚尊・稲田姫命・事代主命を祀られたことが始まりで、永禄年間(1558年〜)と伝えられております。
後に文化3年4月22日(1806年)内浦権現社として現在の地に遷座され箱館六箇場所(小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追)の松前藩祈願所として崇敬されます。」とのこと。
明治初年の神仏分離のフィルターがかかったご由緒ということになるんでしょうが、山越諏訪神社の創建が文化4年なので、ほぼ同じ頃に現在地に鎮座されたことになる。
大変立派な社殿で、狛犬の代わりに狛熊が置かれているのが、北海道らしいところ。
16:00、神主さまにお祓いをしていただき、神殿奥から白い晒しにまかれた御像を出して目の前に置いていただく。ありがたさひとしお。
像高49.6?、磐座に蓮台を重ねた二重台座に、右手の上に左手を重ねた定印に蓮華を載せ、両肩に衣を掛け、頭に岩峰状の宝髻を結った観音菩薩坐像。その表情は、日本海側の像のように厳しいものではなく、微かに微笑をたたえていらっしゃる。
神主さまによると、このお像は御神体ではなく、外から移されてきた客神(?)のような位置づけなので、拝観できるのだとのこと。
また、蓮華や膝前、蓮台あたりが削られているのは、病の折に削って飲むということがあったからだそう。それを除けば、全体に大変保存が良い。
正面、背面、側面と撮影させていただいた。
背面の台座部分は、肉眼でも「うちうらの」と刻まれ、「百年」「本地」と墨書され、両脇に微かながら六字種字が墨書されているのが読み取れる。
最近、ようやく扱い慣れてきた赤外線撮影の画像だと、両脇に六種種字が三文字ずつ記された間に、「こんけん うちうらの 山上 百年□□□ 本地」という文字が確認できる。六種種字の開き方からして、中の文字は造顕当初に記されたものに間違いない。
「本地」の後は、松前町白神神社像の背銘が、刻書「しまこまき山上大こんけん」墨書「本地観世音菩薩」となっていることが確認されている(『松前町史 通説編 巻一上』 P1002)ので、これと同様「観世音菩薩」でいいのでしょう。
帰ってからK先生に伺ったところ、先生も背銘を実見されており、百年以降は読み取れなかったものの、最上徳内一行『東蝦夷地道中日記』では「……のほりへつしりへつたけうちうらたけ三体各悉曇六字宛居楷書に百年の後有衍山上観世音菩薩と書きたり……」となっています、とのご示唆をいただいた。「衍」には「しく・ひろげる・ひろがる。」といった意味がある。
これらを総合すると、背銘は「こんけん うちうらのたけ山上百年後有衍 本地観世音菩薩」と記されていたと考えられる。
菅江真澄は、『蝦夷廼手布利』で、やや意訳して記載しているのだろう。
台座部分だけでなく、背中にも何か文字があるような気がしてならないのだけれど、赤外線撮影でも分からなかった。
いずれにしても、山岳修験僧円空の蝦夷地での山岳修行の核心を目の当たりにした思いがした。
神主さま、ご多忙中ありがとうございました。
神社を辞して、砂原漁港に立ち寄ってみる。このあたりでは相当規模の大きい、歴史ある漁港と見受けられた。
円空の像は、ふさわしい場所に鎮座され、当地の山と海を護っておられるのでしょう。
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8:45恵山のつつじ公園登山口に到着。標高618mに過ぎないからと予断を持って軽く見ていたけれど、どうして。
噴気に包まれた活火山のたたずまいに圧倒される。海からいきなり立ち上がる山だけに、山中にある噴火口を持つ山と比べても、遜色ないスケール感。
恵山は、「エ・サン」(溶岩が出る)というアイヌ語に由来し、新第三紀緑色凝灰岩層を基盤とする外輪山熔岩と円頂丘熔岩とからなる二重式火山になっている。
ここに恵山大権現が祀られ、江戸時代には、太田山・太田権現、有珠山・有珠善光寺とともに、幕府・松前藩もその参拝を特別許可していた蝦夷の三霊山の一つとされるそう。
円空がこの山に登った記録も、円空像も伝わっていないけれど、太田権現、有珠善光寺を訪れた円空が、活火山であるこの恵山に立ち寄る動機は十分にある。さらに、円空の足取りをみても、有珠山、内浦岳そして直線距離で20?あまり西の汐首に円空像が残るので、ルート的にも立ち寄る可能性は高そう。(参考:『函館市史』 第7編 宗教 / 第3章 現在の郷土の宗教 / 第1節 郷土の神社 6、恵山大権現)
それでは、登山開始。
登山道は、火口から数百mしか離れていないから迫力は半端ないけれど、北海道の火山の登山規制に関する基準が良くわからん。。
ゆっくり登って9:55、山頂に到着。
下山にかかる頃、霧が晴れて、火口原とその向こうに内浦湾が見えてきた。
海と火山がこんなに近い山岳風景、山馬鹿ぼっちにして、まったく知らなかった。
函館空港から車で1時間足らず、火山自体が海外では珍しかったりするから、国内外にもっと知られていいスポットではと思う。
火口原には、エゾヤマツヅジ、エゾイソツヅジなどが多いので、花時には見事でしょう。
また、地蔵の石像などがみられ、賽の河原と呼ばれているらしい。海を挟んだ下北半島の恐山にも通じるたたずまい。
ただし、ずっと明るい印象なのは、海が近いせいだろうか。
下山時、山頂が雲の中から現れる。
この山の有史以降の主な火山活動は、次のものだが、小規模な水蒸気噴火などは、明和元年以降たびたびあった。
明和元(1764)年 旧暦7月:噴気活動活発化、死者多数。
弘化3(1846)年 11月18日:水無沢火口から小規模な水蒸気噴火。泥流発生。家屋被害、死者多数。
すぐ直下に、アイヌの大酋長アイコウインのおさめる集落があったのだし、円空、来ているんじゃないかなあ。。
<登山記録>
2023年8月6日(日) (ー:車、…:徒歩) 単独行
寿都道の駅3:45−山越諏訪神社5:05〜5:15―権現山内浦神社(下見)―恵山つつじ公園登山口(駐車)8:45…▲恵山(618m)山頂9:55〜10:10…登山口11:25−道の駅なとわ・えさん(昼食)―函館市戸井ふれあい湯遊館(入湯)―権現山内浦神社16:00〜16:45−グリーンピア大沼(泊)17:30
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本日のメイン踏査は、16:00のお約束で内浦岳(北海道駒ケ岳)山麓の権現山内浦神社で円空像を拝観すること。
それまでの時間、これも活火山の恵山に登ってみることにして、眠れないまま3:45移動開始。いやはや、すごい雨でありました。
日本海側の寿都町から太平洋・内浦湾側の長万部に出て南下、途中八雲町の山越諏訪神社に立ち寄る。
こちらの御神体は、「ゆうらつふみたらしのたけ」という背銘がある円空の観音菩薩坐像。
堺比呂志氏著『円空仏と北海道』には、「昭和二十八年に函館の郷土史家阿部たつを氏によって、ようやくその実在が確認された(「円空上人鉈作の仏像」『函館郷土史随筆』一九七三)。それによると、仏像は五〇・三センチの座像で、背名(ママ)に「いうらっふのみたらしのたけ」と判読される文字が刻まれているが、「みたらし」の部分は自信がないと断っている。」「松浦武四郎の安政四年五月二日の記録には こへて山越内会所に宿す。前に諏訪神明の社有。―中略―下より其神躰を拝するに、いと古き仏像にて、鉈作り如何にも麁(そ:荒いの意)にして威有様にぞ覚けるなり。依て余按ずるには、是も彼江州伊吹山の僧円空の作かとぞ覚けるかり。とあり、左記の図を載せている。(「志利辺津日誌」『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』)」[図略]と記される。
少なくとも、幕末安政4年、松浦武四郎が山越を訪れた時には、山越諏訪神社にすでに円空の観音菩薩坐像がご神体として安置されていたということが分かる。
山越の北5.5?ほどのところに遊楽部川が流れる。川の名は、アイヌ語のユ・ラン・ペツ(温泉から下る川)またはユー・ラプ(温泉が下る川)に由来するとされる。現在でも大量のサケが遡上する川として知られる。
その水源となるのが、遊楽部岳(1,277m)で、内浦山からも眺めることができる。
円空のご神体の様式を確認できないので、制作時期は特定できないけれど、円空はこの豊かな川の源として「ゆうらっぷみたらしのたけ」と背銘に刻み、その後山越が和人の土地として栄えるようになって、像は当地の神社のご神体となったのでしょう。
山越諏訪神社の脇は、山越内関所の跡で、案内板には、従来亀田(現函館市)にあった関門が、享和元(1801)年にここに移転されたとある。寛政11(1799)年に東蝦夷地が幕府の直轄地となり、多くに人びとがこの地に住むようになったからとある。
そして、山越諏訪神社の由緒書きには、山越内関門が設置され、和人の定住化が進み、文化4(1807)年に福山(松前)の人が漁業の繁栄と住民の氏神として諏訪神社を創建したとある。
今回北海道での円空追跡をしていると、円空が訪れた「寛文」という年号と同じくらい、「寛政」という年号が登場する。
それは、寛政元(1789)年のクナシリメナシの戦いの後、江戸幕府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和したからなのだろう。
そして、寛政4(1792)年にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こっているから、蝦夷地に対する関心はいやがうえにも高まったはず。
このような時期、菅江真澄が福山から北海道久遠郡せたな町の太田権現までを往復した時の日記『蝦夷喧辭辨(エミシノサエキ)』 を寛政元年、有珠方面を旅した日記『蝦夷廼手布利(エゾノテブリ)』を寛政3( 1791)年に編む。
そして、探検家にして江戸幕府普請役の最上徳内がで有珠善光寺の円空像を見たのが同3年(『東夷道中日記』)。
幕府蝦夷地御用掛として赴任した松田伝十郎(仁三郎)が、小幌の窟屋の円空像を、それぞれの背銘にちなんだ地に祠を建立して安置してたのが寛政11(1799)年(松田仁三郎『北夷談』)。
ほかにも、伊能忠敬が吉岡に上陸し、蝦夷の測量に着手したのが寛政12(1800)年。
このように、アイヌの土地として、和人にとっては未知の土地だった蝦夷地が探検家によって解明されていくにつれ、そこを百年以上も前に訪れ、像を残していた円空の存在が浮かび上がってきたということなんでしょう。
つまり、円空は探検家の百年以上前を行く冒険家だったということ。
地図も情報もなしに噴火間もない有珠山や内浦岳に登った和人の僧が百年以上前にいたということは、寛政の探検家にとっても驚嘆すべき事実だったのでは―山越の海から内浦岳を拝しつつ思う。
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同神社には2体の円空像があり、それぞれ背銘に「いそや乃たけ 寛文六年丙午八月十一日 初登内浦山 圓空(花押)」「らいねん乃たけ」と刻まれている。
「いそや」とは、現在の磯谷郡および寿都郡磯谷を指し、アイヌ語の「イソヤ(iso-ya)」(岩磯の・岸)に由来し、アイヌのコタンがあり、円空が蝦夷を訪れた当時はまだアイヌの土地だった。
その後、イソヤは和人地となり、松前藩によってイソヤ場所が開かれた。さらに江戸後期の文化4(1808)年には天領とされている。
円空は、寛文6年の8月11日に内浦山(北海道駒ケ岳)に初登頂後、この2体の像を造顕し、イソヤ自体には足を運んでいない。
しかし、円空がどのように山をとらえ像に背銘を残したかを確認するため、イソヤ周辺の山々を目視し、海神社を訪ねてみることに。
洞爺湖から北上すると、2万5千分の1地形図で「羊蹄山」とされる1,893m峰が頭を雲に隠した富士山のような姿でそびえ立つ。
この山の麓を流れイソヤから日本海に流れ込む川は、アイヌ語でシㇼ・ペッ(Shir-pet 山の・川)と呼ばれ、これに尻別川の字があてられた。
菅江真澄が、有珠善光寺で見た三柱の円空像のうち「しりべつのたけごんげん」と書かれたものがあったことを記している。それは羊蹄山をさすのだろう。
ちなみに、この山の呼称は、かなり錯綜して現在に至る。
菅江真澄は、寛政3(1791)年、有珠山に登ってこの山を眺めており、この山をシャモ(和人)はシリベツの岳(のぼり)といい、後方羊蹄(シリベツ)山ともいっているが、この山の麓に住むアイヌはマカルベツノ・ノボリといい、シリベツは、その隣にある山の名だとしている(『菅江真澄遊覧記2』「えぞのてぶり」p244)。現在地形図には、標高1,107mの尻別山が羊蹄山の東に記される。
もう一つややこしいのは、『改訂版 新日本山岳誌』の羊蹄山の項に書かれた次の内容。
『日本書紀』に「後方羊蹄(しりへし)を以て政所とすべし」とあり、斉明5(659)年に阿倍引田臣比羅夫が180艘の軍船を率いて蝦夷の国を打った時に、その地に郡領を置いて帰ったことが記される。この後方羊蹄の地がどこかは不明である。これを『福山秘府』の編者でもある松前広長が、『松前志』(天明元(1781)年)で、「西部シリベシの岡に嶽あり。即ちシリベシ、本名羊蹄、東部にてはオサルベツとも云よし。日本書紀に後方羊蹄と出たるは是なり」とし、付図の「愚考新図」には、羊蹄山が描かれ、その横にシリへシと注記されている。これが羊蹄山の山名が記載された最初の地図とされる。
(↓かなりいい加減な図ですな。。)
さらに、1869年に松浦武四郎の『北海道国郡図』により、北海道全域にわたる地名が制定され、後方羊蹄山・蝦夷富士と命名された。しかし、一般には後方羊蹄山をシリベシヤマと呼ぶことは難しかったこと、その東隣に似た呼び名の尻別岳があったころなどから略して、音読みで「ヨウテイザン(羊蹄山)」という名が一般化していった。
なお、三角点の点名は、アイヌ語の「マク・カリ・ベツ」(山の・後ろを回る・川)を採り、「真狩岳(まっかりだけ)」と命名している。
旧来の5万図には後方羊蹄山と蝦夷富士の山名が併記されていたが、俱知安町から地名変更の要望が出され、1953年に羊蹄山と改称され、現在の2万5千や5万地形図はこの名が記されている。
―とまあ、『改訂版 新日本山岳誌』の内容を引用したついでに、松浦武四郎の『北海道国郡図』をデジタルアーカイブで確認したところ、「シリへシ」とそれに添えて「マツカリへツ」と記されているのみ。
松浦武四郎は、これに先立ち『後方羊蹄日誌』(文久(1861)元年)という後方羊蹄の地がどこなのかを探索した記録があり、デジタルアーカイブで見ると、羊蹄山を雌岳(「マチ子(ネ)シリ」)、尻別岳を雄岳(「ヒン子シリ」)とし、その雌岳を後方羊蹄としているように読めるけれど、どうなんでしょう?
このへんの吟味は円空と直接関係がないので、まずはこのへんに。(↓画像クリックで拡大)
羊蹄山を後に、尻別川沿いに進むと、ニセコアンヌプリ(1,308m)、イワオヌプリ(1,116m)などのニセコ連峰の山々が連なり、イソヤの平地に出ると、田園地帯の向こうに雷電山(1,311m)が眺められる。
海神社像の「らいねん乃たけ」は、雷電山でいいのでしょう。
イワオヌプリは、硫黄岳とも呼ばれ、ニセコ連峰の中で最も若い火山であり、江戸時代後半や20世紀初頭には山頂部で噴気活動があったことが記録されている。
菅江真澄が小幌の窟屋でみたという五柱の円空像に「いわうのたけごんげん」とあったとするのはこの山のことかもしれない。
すると、ニセコ連峰の主峰ニセコアンヌプリを記した円空像がないので、同峰が「いそや乃たけ」なのかもしれない。
頭がこんがらがりかけながら、18:20寿都町磯谷町の海神社に到着。
集会所を挟んで、その向こうに磯谷町の郵便局がある。
3回の北海道円空踏査で感じさせられるのは、海岸沿いを走ると「円空像のある所に郵便局あり」というか「郵便局のある所に円空像あり」というくらい集落の中に身近に円空像があること。
海神社の由来について、あまり情報を持っていないけれど、寿都観光物産協会のHPには、「社伝によると、文化4年のある日、漁師が尻別川で漂流の木像二体を拾いあげてみると一体の背に『いそやのたけ寛文6年丙午8月11日初登浦山円空』とあり、もう一体の背には『らいねんの山』とあり、二体あわせて能津登岬の洞窟内に奉斎した。その後、地元住民の豊漁祈願のため協議の結果、天保2年社殿を建立し奉遷する。爾来海神と称して奉祀してきた……とあります。」と記されている。
少なくとも、神社の創建は江戸後期のはず。
海神社の円空像2体については、情報はきわめて少ない。
『写真集 北海道の円空佛』(江差フォトクラブ編)には、寿都町教育委員会提供の画像が掲載されている。
これを拝見する限り、有珠善光寺周辺で造られた像から、吉岡村観音堂像と推定される称名寺像に至る間くらいの像ではないかとおもわれ、内浦岳登頂後の作として、様式的にも妥当なのでは。
海神社のご神体と言いつつ、本殿前の鈴の房に「観音講中」の彫られているのが、当地の信仰のあり方をしのばせた。
海神社というだけあって、目の前が日本海。
神社を辞して、日没まで海沿いに車を走らせ、雷の予報なのでテント泊は止めて寿都町の道の駅で車中泊。
<追記>
後で調べたところ、松浦武四郎の『西蝦夷日誌』(文久3(1863)年)の磯屋(磯谷)の項に、次のくだりがあった。
「オカチマチナイ(小澤)カマウナイ(小川)ホロナイ(小川)今大黒が澤と云観音堂有、是をシリヘツの観音と云。江州伊吹山の僧圓空寛文年中臼が岳の行終りて爰(ここ)に來り、三躰を彫て一躰を爰に納め、一躰は雷電(ライデン)に納めしが、其像は何處に移せし哉在處を知らずと。一躰を自ら帶て石狩へ行れしと言傳ふ也。行者其時川口の窟に納置れしが、文化の初の頃に渡場の上に移したりと。其年より鮭漁大に薄く成しが故。土人等御□を取て天保の頃今の處に移せしと云。」
地形図には、寿都町磯谷町島古丹に「大黒ヶ沢の川」があるので、海神社周辺に円空像を納めた観音堂があったことになる
ただし、松浦武四郎は、現在海神社のご神体となっている像の「いそや乃たけ 寛文六年丙午八月十一日 初登内浦山 圓空(花押)」という背銘は目にしていなかったのか記していない。有珠山(臼が岳)登山後に当地を訪れたとか、石狩に行ったとかは、伝承の域を出ないはず。
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今は礼文華トンネルを通って有珠側に短時間で出られるけれど、かつての礼文華峠は蝦夷でも名だたる難所で、しかも円空当時はその道さえ開かれていなかったので、円空は船で有珠に入ったはず。
有珠山の概要は以下のとおり。
有珠山は、洞爺湖をかたちづくる洞爺カルデラの南麓に生じた二重式の火山で、現在の山体は、直径1.8kmの外輪山を持つ本体火山と側火山(ドンコロ山)、カルデラ内と山麓に形成された複数の溶岩円頂丘(小有珠、大有珠、昭和新山)、潜在円頂丘(西山、金比羅山、西丸山、明治新山(四十三山)、東丸山、オガリ山、有珠新山)によって構成される。
「うす」という山名は、アイヌ語のウㇲ(入江)に由来し、現在の伊達市有珠町の噴火湾沿岸の入り江をさす。
その沿岸にあったコタンも背後にあった山もそれぞれ「ウス」の名で呼ばれ、また渡来した和人が「ウス」の名称を臼型をしたカルデラ式の山容に例え、「臼が嶽」「臼岳」と表記した例もある。
有珠山が形成されたのは、約1〜2万年前にさかのぼり、はじめは、玄武岩〜玄武岩質安山岩の溶岩・スコリアを噴出する活動によって主成層火山体(有珠外輪山溶岩)と北東麓のスコリア丘(ドンコロ山)ができた。
7〜8千年前、山体崩壊が起こり、崩れた山頂部が基盤岩をも巻き込みながら南麓に雪崩のように流れ下った。山体崩壊の土砂は海にも流れ込み、このため有珠湾周辺の複雑な海岸地形ができた。この山体崩壊によって、有珠火山の山頂部に馬てい形カルデラ(U字型の窪地)ができ、この窪地が現在の山頂火口の原形になった。その後は長い休止期間に入る。
この、7〜8千年におよぶ長い休止期間を経て、寛文3(1663)年8月(新暦)、歴史時代の活動で最大規模の噴火が発生する。
大量の軽石・火山灰が広範囲に放出され、プリニー式噴火によって噴煙柱がおそらく2万5千m以上の高さまで立ち上がり、体積2.5km3におよぶ流紋岩軽石が放出された。 このときの軽石は、東に100km以上離れた日高地方でも厚さ10cm以上、有珠山麓では2m以上も積もったという。軽石は良く発泡していて軽く、海上に降った大量の軽石が海面に浮かび、一帯の海はまるで陸地のように見えたと伝えられている。 一連の噴火活動は8月末ごろまで続き、この噴火で家屋の埋積・焼失により住民5名が犠牲になった。
寛文3年以降は、以下のとおり、噴火をたびたび繰り返している。
(産業技術総合研究所 地質調査総合センターHP「有珠火山のおいたち」を参照)
それでは、いざ実登。
道央自動車道手前に駐車し、高架をくぐった有珠山登山道の登山口を8:45スタート。外輪山の展望台まで1.5?の標識がある。
今は落葉広葉樹林におおわれた森も、円空が訪れた頃は、火山灰を大量に被った場所だったんでしょう。
熊に注意しつつ、心眼で円空の足取りを追いかけていく。
外輪山の斜面を細かくジグザグしながら直登していき、最後外輪山の縁に沿うように大きくカーブするところで、有珠の入り江を見下ろすことができた。
9:55外輪山展望台に到着。
展望台からは、火口原と溶岩ドームの山々を観察することができる。
左手手前が小有珠で、明和5(1769)年の噴火でできたもの。
右手奥が大有珠で、嘉永6(1853)年の噴火でできたもの。
そのほかにも、たび重なる噴火で多くの溶岩ドームや、火口が形成されている。
明治43(1910)年の噴火で洞爺湖温泉が湧き、多くの人が集まるようになった。
洞爺湖温泉街は,山頂火口から約2?,山麓の火口群からは数百mの至近距離にある。
かたや、前日登った内浦岳(駒ケ岳)は、火口から4?範囲を入山禁止としているのだから、以下に危険な状態に置かれているのか、ご理解いただけるはず。
円空は、洞爺湖の観音島の堂に伝わった観音菩薩坐像の背に「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」と刻んでいるので、寛文3年に噴火間もない有珠山に登ったのは間違いない。
しかし、有珠山の様相は、たび重なる噴火でずいぶん変わっているため、円空が目にした風景とはずいぶん違うのだろう。
今は小有珠の背後にわずかに見える洞爺湖が真正面に大きく広がり、そこに浮かぶ島もはっきり捉えられたんでしょう。
火口原展望台まで往復し、12:30に下山後、有珠善光寺に移動。
浄土宗の有珠善光寺は、平安時代天台宗の円仁が創建したとされる。ただし、恐山などにもある円仁開創伝説には?がつく。
慶長18(1613)年、松前藩の初代藩主松前慶広が有珠に如来堂を再興し、阿弥陀如来像を安置して「善光寺」と称したというのが現在に続く歴史。
寛文3年の有珠山噴火後円空が像を残し、寛政年間に菅江真澄が訪れた段階では、「小坂を登っていくと、二間ばかりの堂があるので戸をあけてはいると、円空の造った仏像が二体あり一体は石臼の上に据えてあった。そして堂のかたわらの木賊(とくさ)が多く茂った中に小さい祠があって、これにも円空法師の作った仏三体がある。その背面に「内浦の岳に必ず百年ののちあらわれ給う」と書き、また一体には「のほりべつのゆのごんげん」、いまひとはしらには「しりべつのたけごんげん」と彫ってあった。」(『菅江真澄遊覧記2 えぞのてぶり(現代語訳)』とある。
ただし、現在の有珠善光寺のたたずまいは、文化元(1804)年、徳川家斉が善光寺を含む蝦夷地内の3か寺を官寺に定めてからの格式を備えてからのもの。
その詳細は、由緒書きを参照ください(円空に関係ない部分は手抜き)。
(↓画像クリックで拡大)
境内の宝物館には、小幌の窟屋から、円空の背銘に従って洞爺湖の観音島に納められ、さらに近年善光寺に移された観音菩薩坐像が、安置されている。
しかし、完全予約制で、「8月1日から15日はお盆で忙しいので開館しない」とのことで、残念。。
現在地に移される前、松前藩によって造られた善光寺のあったのは、約700mほど離れた入り江に面した地蔵堂のある場所。
菅江真澄が絵で描いているのもここでしょう。
お堂の傍らには寛永年間キリシタンが作ったという織部灯籠のレプリカが置かれていた。
内地から迫害を受けて逃れて来たキリシタンが当時の境内に建立したと伝えられ、聖母マリアを観音菩薩のように刻み、上部の膨らみを十字に形どっている。現物は宝物館に保管されている。
有珠善光寺を後に、洞爺湖に移動。遊覧船に乗って円空の観音像があったという観音島を船上から見ることとする。
船からは、有珠山と、左手に昭和新山が眺められる。
湖中の島はメインの大島と、観音島、弁天島、饅頭島などからなっている。
この画像の島が観音島で、観音堂は左手、弁天島との接続点近くにある。
観音島自体に降りられるわけではないので、大島には上陸せずそのまま遊覧船で引き返し。
砂原岳、小幌の窟屋、有珠山とめぐり、汗だらけなので、大旅館の並ぶ洞爺湖温泉は遠慮して、洞爺湖町営の憩いの家でさっぱりする。
ここからは、洞爺湖の島々と、有珠山が一望。
その光景を見ているうちに、円空は、火山灰に埋もれた噴火直後の有珠山に登り、そこから洞爺湖に浮かぶ平和なたたずまいの島々を見て、そこを観音の浄土である補陀落浄土と見たのではないかと思われた。
補陀落浄土は南方の海中にあるとされるけれど、中禅寺湖に面した男体山(旧称二荒山(ふたらさん))も補陀落浄土になぞらえられており、円空はここも訪れている。
有珠山登拝後、小幌の窟屋で仏像を造顕した中で、その中心となる大きな仏に、「うすおくのいん小嶋」と記したのも、その時の円空の想いの中心に、洞爺湖に浮かぶ神秘の島があったからでは。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩)
2023年8月5日(土) 曇ときどき晴 単独行
小幌岩屋6:25…トンネル入口7:15−有珠山登山口(駐車)8:45…▲有珠山外輪山展望台9:55〜10:10…火口原展望台10:15〜10:30…(昼食)…登山口12:30−有珠善光寺12:50〜13:30−14:00洞爺湖汽船桟橋14:30=中の島==桟橋15:30―洞爺温泉(入湯)―(この間羊蹄山(尻別岳)、雷電岳等車中確認)―寿都町磯谷町海神社18:20―寿都道の駅18:45(車中泊)
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さて、日が暮れる前に、今宵を過ごす予定の、小幌の窟(いわや)に向かわなくては。。
小幌は、長万部町と虻田郡豊浦町の境界、ここにある室蘭本線の小幌駅は「日本一の秘境駅」として知られる。
礼文華山トンネルと新辺加牛トンネルという2つの長いトンネルの間のわずかな間隙に位置し、周辺に人家がないどころか、車が通れる道路さえない。
この小幌駅から海岸に下ったところに、小さな入り江があり、およそ300万年前の海底火山の噴火によって形成された地形が波によって削られてできた洞窟がある。
ここに円空が寛文3(1663)年に噴火して間もない有珠山に寛文6(1666)年初登頂後、おそらくアイヌの小舟で訪れ、仏像を残している。
その窟屋の仏像を、寛政3(1791)年、アイヌの小舟で東海岸を有珠方向に北上する途中立ち寄った菅江真澄が確認し、『蝦夷迺天布利(えぞのてぶり)』に記している。
それぞれ背銘が「寛文六年丙午七月 うすおくの院の小嶋 江州伊吹山平等岩僧円空」「いわうのたけごんげん」「くすりのたけごんげん」「(朽て文字のよみときかたく)」「たろまへのたけごんげん」という5体の円空像があったという。
そして、寛政11(1799)年、幕府蝦夷地御用掛として赴任した松田伝十郎(仁三郎)が、それぞれの背銘にちなんだ地に祠を建立して安置している。(画像:松田仁三郎『北夷談』)
・「うすおく乃いん小嶋」像は、洞爺湖の観音島へ(現在は有珠善光寺)
・「たろまゑ乃たけ」像は、苫小牧市樽前神社へ
・「くす乃たけこんけん」像は、釧路市厳島神社へ
・菅江真澄が記す、「いわうのたけごんげん」像について松田伝十郎は記しておらず、そのかわりに「ゆうはりたけこんけん」像を記している。同像は現存していないが、千歳の辨天社に祀られていたことが、松浦竹四郎『夕張日誌』に挿絵付きで記載されている。
・また「(朽て文字のよみときかたく)」像については、記していない。
ちなみに、この朽ちかけた像の頭はなくなっており、「昔、礼文華山道を歩いていた回国の僧が大熊と出会い、必死で逃れようとして小幌の洞窟にたどり着きました。洞窟の中に仏像があったのでその陰に身を隠していると、大熊はその仏像の頭を食いちぎって去って行きました。おかげでこの旅の僧は助かり、そのことを礼文華のコタンの人々に伝えたのでした。以来、人々はこの仏像を『首無し観音』とあがめるようになったということです。また、この仏像は『岩屋の観音様』とも呼ばれ、豊漁や海の安全を祈願する人々の信仰の的となりました。」(豊浦町教育委員会『秘境小幌』)という逸話があるという。
この「円空が確実にいた場所」で、円空の心境を追体験するため、ぜひとも一夜を過ごしてみたい。
とはいうものの、一日数本しかない電車や、船を調達してというのは大変。
調べてみると、国道37号線の礼文華トンネル手前から徒歩でも行けるとのこと。
首なし観音の逸話からして、どう考えてもヒグマの生息地らしいので、テントでの夕飯自炊はやめ、車の中でそそくさとセイコマートのかつ丼を食べ、18:40窟屋に向け熊鈴を鳴らしながら出発。
国道沿いの作業道から岩屋観音の立て札に従い直進する。右手に分ける下り道は小幌駅につながっているんだろうか。
林道といっていいような道を進み、このまま海岸まで出られるのかなと甘い期待を抱いていたら、下りの沢に沿った道となる。
とうとう日が暮れてきた。
鬱蒼とした深い森、いつしか日没、ヘッドライトを出して進む。北海道とはいえ海岸沿いで標高が低いので汗だく。
しばらくしてヘッドライトの電池が切れてしまった。ランタンを出してその光で予備電池に入れ替え。
ヘッドライトなしでは、急坂の森の中で踏み外しも怖くて身動きできなかったはず。何事も用意周到が肝心だな。。
19:30、ようやく海辺に出て、窟の鳥居を確認。
中はコンクリートブロックの小堂をおさめても人が立ってなら30人くらいは入れる広さ。
岩屋にテントを張り、道とともに浜に至った沢の水にタオルを浸し、汗だくの体を拭う。
こんな断崖続きの海岸で入江があり、雨や嵐を避けられる窟屋があり、そして飲料水が確保できるというのは、奇跡的なスポットだなあと実感。
頭の横に、クマ避けスプレーを置いて、緊張しつつ就寝。
夜半雨の音がしたが、無事朝を迎える。クマが来なくてよかった。。
改めて洞窟内をながめる。円空の模刻が6体置かれ、鳥居の奥に鰐口のかかったお堂がある。
堂の中の正面にも円空像の模刻。その奥に「首なし観音」の像があるのかな?
明け方の窟。
円空が寛文6年に噴火3年後の有珠山に登った折は、まだ樹木は焼け焦げ、火山性のガスが立ち込める死を感じさせる場所だったはず。
そこを辞して、この静かな入り江にやってきて、窟に体を休め、せせらぎに喉を潤し身を清めた円空は、有珠山無事初登の感謝と、地の鎮めを祈念して、造仏にあたったんでしょう。
小さな入り江にささやかな桟橋がしつらえられ、青い漁小屋のような善光寺の庫裏が建てられている。
せせらぎの水でお湯を沸かし、「昆布うどん」の朝食。
さて、今日も「円空の冒険」追跡は続く。再び、熊鈴を鳴らし、汗だくになりながら急な斜面を登り返す。
<踏査記録> (ー:車、…:徒歩)
2023年8月4日(金)〜5日(土)
4日(金) 砂原岳(内浦山)登山口15:45―礼文華トンネル入口(駐車)18:40 …小幌の窟屋(岩屋観音)19:30(窟屋泊)
5日(土) 窟屋6:25…トンネル入口7:15−(有珠山へ)
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その有珠山噴火を23年遡る寛永17(1640)年には、約5千年活動を休止していた内浦岳(北海道駒ケ岳)が7月31日(旧暦6月13日)突如山体崩壊を起こし、それに続いて3日間大噴火した。
南斜面での山体崩壊による岩屑は、折戸川をせき止め、大沼・小沼が形成された。
東斜面の山体崩壊による岩屑なだれは、出来澗崎(できまざき)を形成し、土砂はそのまま内浦湾へ流れ込み大津波が発生、アイヌ人を中心に700名あまりが犠牲となっている。
北海道では長い間火山活動がなかったので、松前藩の和人にとっても、またアイヌ人にとっても、これらの噴火の驚きとダメージは格別のものだったろう。そして、有珠山の次にどの山が噴火するのかという恐れにも包まれていたはず。
寿都郡寿都町の海神社の御神体として伝わる円空作の観音菩薩坐像の背中には、「いそや乃たけ 寛文六年丙午八月十一日 初登内浦山 圓空(花押)」と刻まれているので、円空が内浦岳に登ったことは確実である。
ただし、これと別に有珠善光寺にあった三体の仏の一体に「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給」と記していると、菅江真澄が『蝦夷廻手布利』の寛政3(1791)年9月7日の項に記していることから、有珠善光寺に着いた時点では内浦岳には登れておらず、松前への帰路に登ったと考えられる。
そして、先行記事「『円空の冒険』第2回北海道踏査に行ってました」に記した通り、円空は砂原(現在の森町砂原)から船で恵山汐首とたどったと想定すると、内浦山には砂原から登ったのではないかと推察。
ということで、8月4日、『円空の冒険』蝦夷地調査のスタートとして、内浦山を砂原側から登ることに。
(↓地図クリックで拡大)
今は大沼駒ケ岳、または北海道駒ケ岳という名の方が一般的な内浦山は、かつて富士山や羊蹄山のような姿をしていたと考えられている。
そして山体崩壊の後は崩れ残った部分が、剣ヶ峯(1,131m)と砂原岳(さわらだけ:1,112m)と呼ばれるようになった。
大沼駒ケ岳というと、大沼側から見た剣ヶ峯の鋭く印象的な姿が主に登山の対象とされるが、火山活動によって長い間入山禁止となっていた。
ぼっちは12年ぶりに登山解禁となった、2010年の7月25日に登山可能となった剣ヶ峯の鞍部馬の背まで登っている。
それにしても、こんな荒ぶる活火山を、円空は、何と山体崩壊から25年後に、初登頂しているというのはものすごい。
内浦湾側からみる砂原岳(左)も剣ヶ峯(右)。両山ほぼ同じスケールを持っていることが分かる。
森町砂原の望洋の森の登山口を9:45出発。
いまだに、登山は「自粛」とされているけれど、「円空の冒険」追跡にリスクなしとはいかない。
ヒグマ対策も兼ねてヘルメットを着用し、熊鈴にホイッスルを吹きつつ進む。
望洋の森の遊歩道から登山道に入る。柵は倒れているし、入口の標識もなくなっているが、草刈りはされているのでありがたい。
たんたんと林間を進む。円空がたどった頃は、まだ樹木など生えていなかったのではないだろうか。
立派なあずま屋のある踊り場から、西円山(544m)が眺められる。
あずま屋からしばらく巻いて、10:50西丸山と砂原岳との分岐に出る。
草刈りは西丸山まで、ここから先は草をかき分け、踏み跡を確認しつつ進む。
斜面は大きく崩れており西円山から山頂に至る尾根だけが崩壊を免れている。
350年余りのうちに何度も噴火はあったが、この地形は大きくは変わっていないはずなので、円空もこの尾根を登ったのではないだろうか。。
五合目あたりでようやく草むらを抜け、火山のザラザラした礫地の斜面を登高する。
ルートには、鉄の棒が差してある。
振り返ると、内浦湾が見下ろせる。視界が良好なら有珠山も見えるはず。
七合目あたりから望む砂原岳山頂。
地形図で見ると全体が岩壁で覆われ、地図もなしに初登した円空は、どこからピークに取り付いていいか、しっかり観察したのだろう。
今はひと筋ロープが下ろされ、迷うことはない。しばらくよじ登ると、岩稜の上に出る。あとは長細い山上を左(東)へたどる。
岩の間は銀緑色のコケに覆われ、イワギキョウやイワブクロが咲いている。
溶岩の間に洞穴状の部分もある。
山麓の砂原にある、円空仏のある権現山内浦神社の縁起には「創祀は詳らかではありませんが、内浦岳中腹岩窟内に内浦三所大権現として素盞嗚尊・稲田姫命・事代主命を祀られたことが始まりで、永禄年間(1558年〜)と伝えられております。後に文化3年4月22日(1806年)内浦権現社として現在の地に遷座され箱館六箇場所(小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追)の松前藩祈願所として崇敬されます。」とある。
円空も、このような窟屋で、山よ鎮まれと祈ったのだろうか。
山上をさらにたどると砂原岳のピークに至る。右手の斜面の底が火口原。
13:10砂原岳山頂に到着。立派な一等三角点であります。
砂原岳から剣ヶ峰は、一本の稜線でつながっている。円空は剣ヶ峯まで行ったのでは。
今も踏み跡が付いており、時間さえ許せば往復したいところだけれど、時間切れとして断念。
往路を戻りかけ、岩稜部を降り立ったあたりからは雨混じりの突風にあおられ、剣ヶ峯まで行かなくてよかったみたい。
無事15:45望洋の森登山口に帰着。
今回、砂原岳からは、円空がどのような山を遥拝したのか確認することも目的だった。
画像は登りで撮影した北西方面の山並み。
円空が像の背銘に記した「ゆうらつふみたらしのたけ」(遊楽部岳?)、「しまこまき山」(島牧村の最高峰狩場山?)などは、この山から遥拝したのではないかと推測していたのだけれど、はてさて、同定は難しかった。
<登山記録> (―:車、…:徒歩)
2023年8月4日(金) 曇下山時にわか雨と突風 単独行
函館8:00―砂原岳(内浦山)登山口9:45…▲砂原岳(1,112m)13:10…登山口15:45―礼文華トンネル入口(駐車)18:40 …礼文華岩屋観音19:30(岩屋泊)
・上記のとおり砂原岳は「登山自粛」となっており自己責任の山、西円山から上は登山道の整備がされていない。
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円空が寛文6(1666)年に歩いたであろう時期を想定し、おおよそそれに合わせて踏査を実施。
第1回は、6月8日(木)〜12日(月) 松前藩の日本海側を踏査 <第1回北海道踏査(松前藩日本海側)まとめ>
第2回は、7月14日(金)〜17日(月祝) 松前藩の太平洋側を踏査 <北海道踏査?(松前藩東部)−【まとめ】>
そして、第3回は、8月3日(木)〜8日(火)、円空が和人の領域:松前藩を離れ、アイヌ人の土地:蝦夷地を巡った足取りを踏査。
今回は、活火山の有珠山・内浦岳(大沼駒ケ岳)・惠山や、礼文華の岩屋などが対象となり、山岳修験僧円空の真骨頂を体力勝負で追いかける。すなわち、当ブログ「WALKあばうと日本4000山」になじむ内容なので、詳しくご紹介していく予定。
行程は以下のとおり。天候が不安定なため、調査順序は天候優先となり整然とはいかないため、日記風に記録。
今年は北海道もヒグマの活動が活発になっている中での単独行、心して行動します (ロ。ロ;)/オウ
(凡例:〜:飛行機、ー:レンタカー、=:バス・電車・遊覧船、…:徒歩、青字:登山、太字:円空像のある場所、赤太字:円空像に対面)
7月3日(木)
名古屋駅=中部国際空港駅 空港16:15〜(ANA499)〜函館空港17:45=函館駅19:00 駅前ホテル泊(泊)
4日(金)
ホテル7:45―砂原岳(内浦山)登山口9:45…▲砂原岳(1,112m)13:10…登山口15:45―礼文華トンネル入口(駐車)18:40 …礼文華岩屋観音19:30(岩屋泊)
5日(土)
岩屋6:25…トンネル入口7:15−有珠山登山口(駐車)8:45…▲有珠山外輪山展望台9:55〜10:10…火口原展望台10:15〜10:30…(昼食)…登山口12:30−有珠善光寺12:50〜13:30−14:00洞爺湖汽船桟橋14:30=中の島==桟橋15:30―洞爺温泉(入湯)―(この間羊蹄山(尻別岳)、雷電岳等車中確認)―寿都町磯谷町海神社18:20―寿都道の駅18:45(車中泊)
6日(日)
道の駅3:45−山越諏訪神社5:05〜5:15―権現山内浦神社(下見)―恵山つつじ公園登山口(駐車)8:45…▲恵山(618m)山頂9:55〜10:10…登山口11:25−道の駅なとわ・えさん(昼食)―函館市戸井ふれあい湯遊館(入湯)―権現山内浦神社16:00〜16:45−グリーンピア大沼(泊)17:30
7日(月)
宿6:00―江差笹山登山口7:55…▲笹山(笹山稲荷)(611m)9:05…▲元山(522m)10:30〜10:45…登山口11:15―
大沼林道ゲート(駐車)13:40…▲貧乏山(501m)14:50…ゲート15:50−五稜郭ホテル17:45(泊)
8日(火)
ホテル9:00−乙部町公民館(三ツ谷観音菩薩像)11:00〜11:45―函館中央図書館14:00〜15:45―「ゴールデンカムイ展」16:00〜16:30−函館駅=函館空港18:25〜(ANA500)20:00中部国際空港20:37=名古屋=(自宅)
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29日(土)、30日(日)と、千回沢山に沢登りに行っていたため、LINEを見るのが遅れ、31日お見舞いに伺った次第。
Tuboさんに伺った概要は次のとおり。
・28日釣りのため車で国道157号線で根尾西谷川の大河原に行った。場所は温見峠に向けて登っていく手前のあたり。
・13:30頃、川原で遅めの昼食の弁当を食べていたところ、山側からガサガサという音がして、突然クマが襲い掛かってきた。
・体長は立ち上がると180?くらいで、手や脚に嚙みつかれた。そして1m位の水深の川に落ち込んだところ、頭を咬まれた。
・本当にもうだめかと思ったが、最後まであきらめてはいけないと心を奮い立たせて、鼻づらあたりを殴ったところ、おどろいたのか熊は対岸に逃げていった。
・携帯電話の電波が全く通じない地帯なので、応急の止血をして車で揖斐川町の病院に向かった。
・途中あらかじめ電話したので、病院側は玄関で待っていてくれたが、うちでは手に負えないということで、大垣市の病院に連絡してもらい、そちらに向かった。
・大垣の病院で、17時から23時におよぶ手術を行った。頭部噛傷6ヶ所、左手9ヶ所、左足甲2ヶ所、右脚膝2ヶ所の計19ヶ所の傷。
頭皮をめくりあげ消毒のため頭蓋骨をゴリゴリ洗浄されるような厳しい手術だった。
・MRI検査をしてもらったところ、頭蓋骨内への損傷はなかった。また、頸動脈など致死傷になる部分をやられなかったこと、耳や目などがやられなかったことが不幸中の幸いだった。
→うまく防御できたということでもあるんでしょう。
そんな大怪我、大手術をした後、3日後にお見舞いに伺ったわけだけれど、そんな大変な事態の後ながら、Tuboさんが自分の足で歩けるようにまで回復されているのを拝見して、「不幸中の幸い」とはこういうことを言うんだなあと、ほっとした次第。
それにしても極限の状態の中で、反撃し、止血の応急手当てをし、自ら病院に向かったTuboさんの精神力の強さ、平常心に、山仲間として改めて敬服。
今回の教訓は、「いざという場合 生きることを絶対あきらめず、できることをやる。」とのこと。ずっしり重たい言葉であります。
ぼっちは登山道もない奥美濃のヤブ山を単独行したりすることもあるため、クマについては次のような対策をしている。
?熊出没の至近情報をなるべく収集。
?熊鈴を付ける。ヤブ漕ぎで落とすこともあるので予備の鈴も持参。
?ホイッスルを首からさげ、道が曲がる手前など、鉢合わせが懸念されるスポットに差し掛かる手前に吹く。予備笛も持参。
?クマ避けスプレーをすぐ使えるようザックの肩紐にホルスターで装着(しまい込んだら意味がない)。
ただし、ホルスターはヤブ漕ぎで落としてしまうことがあるので注意(予備ともいかないので)。
?登山中は、クマがいるかもしれないということを前提に五感をとぎすます。クマには強い獣臭がある。また糞も存在のシグナル。
?クマが活発に活動するのは、特に日の出前後日の入り前後。登山道のある一般的な山でも、早朝ほかの登山者に先立って山に入るような場合は、特に注意する。
なお、この件をNu先輩にご報告したら、ヤブ漕ぎの時ヘルメットが役に立つが、クマに襲われた時の頭部ガードにもなる、と言われた。確かに、ヤブ山登山にヘルメットは、さまざまに役立つはず。
しかし、どうしても油断というものはあるものだし、クマは臆病と言われるものの、今回の事例のように自ら襲い掛かってくる可能性もある。ましてや人を襲いなれたクマならば。。
「いざという場合 生きることを絶対あきらめず、できることをやる。」
肝に銘じたいと思います。
※Tuboさんは入院2週間とも言われていたが、早めに退院された。よかったです。
いずれにしても、能郷白山の登山口でもある温見峠には、そんな狂暴クマが今も潜んでいる。
クマの行動範囲は30〜80?2ともいわれているので、周辺に行かれる方は特に注意してください。
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千回沢山(せんがざわやま)岐阜・福井県境稜線から岐阜県側に派生した稜線に不動山とともに並ぶ。
標高1,246mながら、徳山ダムができて門入集落までの林道が水没し、ホハレ峠経由でないと入山できないので、西隣の不動山(1,240m)とともに、北アルプスの高峰よりアプローチの困難な山になっている。
沢泊なので装備の軽量化に努め、Goリーダーのもと、11名のメンバーで出発。
(↓地図クリックで拡大)
徳山ダムができて以来、揖斐川町坂内川上集落で国道303号線から林道に入りホハレ峠から黒谷を下って門入に入っていた。
しかし、近年林道の再整備が進み、峠の2?先まで車で入ることができ、そこから谷に下る歩道に入れるようになった。
歩道入口に駐車し6時15分登山開始。急な尾根に新たに付けられた歩道を大下りする。
帰路、疲れた体で、この尾根を登るのは大変そう。いったん林道に出会い、さらに下って、従来の門入への道に降り立つ。
「イチリヤスマ」といった、昔からの一服の場所や、渡渉を繰り返し、門入入口の沈下橋を渡る。故郷に戻ったような思いになる。
門入の林農園の犬のお出迎えを受け、西谷と分かれ夏草に埋もれかけた入谷の林道をたどる。
不動谷に向かう蔵ヶ谷との分岐で登山靴をデポし入渓。
梅雨明け以来記録的な猛暑が続いており、林道歩きもムシムシしていたが、沢に入ると暑さを置き去りに。やや濁った水は思わぬ深みもあるので、リーダーのルート取りを見習いながら慎重に進む。
入谷の沢泊好適地は標高676mの沢の合流点周辺に限られる。ここに株立ちした立派なカツラの木があり、入谷のシンボルにもなっているのだが、今回来てみると、大きな幹が何本も折れ川に落ちていた。
『岐阜百秀山』のカラー口写真部分にも掲載した木なんでありますがね。。
焚火のための枯れ枝の集めやすそうなポイントを選んで、テントやツエルトを設営。
枯れ枝を集めて川原で火を起こし、濡れた体を乾かし、重い思いをして背負ってきたビールに火で炙ったつまみをほおばり、ゆったりと夏の夜を過ごす。沢泊も遡行の醍醐味のひとつ。
翌30日、夏木立の上に朝の青空が光る。いよいよ千回沢山の核心部に入っていく。大規模な滝はないが、小滝をシャワークライミングし、大きな渕は高巻きしながら登る。
遡行するほどに沢は何度も分岐する、そのたびにリーダーの指示で地図をにらむけれど、地図に明確に記された沢なのか、表れていない沢なのか、なかなか判断がつかない。
まずは地形を読み、自分の現在地を確認し、磁石を地図に当てて進行方向を確認していく。
大事な読図の修行でもあります。
次第に沢は涸れ、涸れ沢を詰めていき、最後に山頂の方向を見定め急斜面に取り付く。
目印の赤テープを付けつつヤブを漕いでいく途中、振り返ると、蕎麦粒山の姿が。
「おーい出たぞ」という、リーダーたちの声に元気をもらい稜線上に出る。8時30分、うまい具合にドンピシャで三角点に到着。難峰千回沢山登頂に全員で万歳。南側に蕎麦粒山、大ダワ、土蔵岳、その向こうに金糞岳が。
少し灌木をかき分けると、北に冠山、若丸山から能郷白山まで続く県境両線の遥かに、白山連峰も眺められた。
さて、ゆっくりもしていられない。テントサイトまで慎重に沢を下り撤収し、さら入谷を下って林道で門入に出ると、もう16時が近い。重いテントを背負って350mほど登り返し、全員が駐車地点に出たのは18時を回っていた。
最後の最後に「パッキングも登山技術のひとつ」と身にしみて感じさせられたずしりと重い山行だった。
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金華山をはじめ、このあたり一帯の山はチャートでできており、ところどころに露岩がみられ、ロッククライミングのゲレンデになっている。芥見権現山の南西斜面の露岩群もクライミング練習の好適地。
7月22日(日)地元の山の会の夏山シーズンをひかえた登攀訓練に参加してきました。
岐阜市東部クリーンセンター周辺に車を止め(迷惑駐車にならないよう注意要)、岩場に向かう。
思わぬ早い梅雨明けに、朝からじりじり陽が照り付ける。
夏山シーズン前に行う登攀訓練は、夏山参加の条件ともなっているため、21名と参加者多数。
今回は、イタリア人の通称アレちゃんも初参加。
参加者が多いので、上の長い岩場と、下の岩場に分かれ、5月の訓練参加者は、さっそく上の岩場で訓練開始。
今回初回参加者は、まずは、ロープワークの復習から。1年たつと忘れてしまいがち。
エイトノット、プルージックノット、クレムハイストノットに簡易ハーネスの結び方など。
その後実際に岩場に取り付く。今回のテーマは、ビレイのやり方も経験すること。
岩場の下は木陰だけれど、岩に張り付くと日に照り付けられ、水分補給をしっかりしなくてはならない。
4本ほど登り、ビレイも経験。上の岩場も登りました。
昼過ぎには訓練終了。木陰を戻りながら、来たる夏山シーズンの、剱岳、黒部赤木沢、北岳などの計画の情報交換。
夏山本番前に、きちんと基本を身につけ、おさらいができることが、山岳会に所属する甲斐のあるところ。
ご関心のある方はのぞいてみてください。
大垣山岳協会 | ハイキングからヒマラヤまで (ogakisangakukyokai.club)
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踏査は、松前藩の家老が編纂した史料集『福山秘府』のうち藩内の神社仏閣を網羅した「諸社年譜並境内堂舎部」に「神体円空作」として記録されたものを、当時の藩の集落の戸数などを網羅した記録『津軽一党志』と突き合わせながら巡る方法。
松前藩の東半分は、第1回で調査した西半分の日本海側が寛文5年に堂社が12カ所で一斉に建造され「神体円空作」の像がおさめられているのに対し、「神体円空作」の置かれた寺社の由来は定かではなく、数も8カ所と約半分。
さらに、蝦夷地の有珠まで脚を伸ばした円空が、往路で造ったのか、帰路で造ったのかも明確ではないので、頭を整理しにくかった。
そんなもどかしさを抱えつつ、天候や足順の制約から、以下のように踏査。連れ合い同行、北海道新幹線を利用。
(凡例:太字黒字は円空像のある場所、太字赤字はそのうち対面できた場所、太字青字はかつて「神体円空作」のあった場所/=:鉄道、―:レンタカー、…:徒歩)
14日(金) 大垣駅=名古屋駅= 東京駅=(北海道新幹線)=新函館北斗駅−函館市汐首町汐首地蔵堂−=函館ホテル(泊)
15日(土) 函館ホテル…函館中央図書館9:30〜12:30=函館駅―函館市称名寺−北斗市茂辺地富川八幡宮−函館ホテル(泊)
16日(日) 函館−北斗市曹溪寺―上磯八幡宮9:30―三ツ石瑞石神社―松前町白神三社神社―松前町―江良八幡神社―乙部町栄浜龍寶寺―八雲町上の湯温泉(泊)
17日(月祝) 宿−上ノ国大平山(太平山)―山越諏訪神社―長万部平和祈念館−七飯町T家−函館―新函館北斗駅−東京駅―名古屋駅−自宅
そのまとめは、ブログ「『円空の冒険』追跡ノート」の「北海道踏査?(松前藩東部)−【まとめ】」をご覧ください。
ここでは、そのこぼれ話をちょっとだけご紹介。
初日の7月14日(金)は、7時間余りかけて新函館北斗駅に到着。レンタカーを借りて函館市の汐首町へ。
ここは、北海道〜本州最短の地で、下北半島が旧式の漁船でも漕いで行けそうなくらい近くに見える。
ここにある汐首地蔵堂(旧観音堂)には、『福山秘府』に記載されない円空仏が発見されている。
円空は下北半島からここに、あるいはここから下北半島に渡ったのではないかとの説がある。
汐首地蔵堂の情報はほとんどなく、たまたま立ち寄った簡易郵便局で駄目もとで伺ったところ、町内会長さんを紹介いただき、ありがたいことに地蔵堂に案内してくださった。
こちらの円空の観音菩薩坐像は、何度か遷座するうちに火災に見舞われ焼け焦げたため、全面金箔を貼られ修理されているので、美術品としての価値はない。
しかし、地蔵さまや龍神さまなどとともに汐首の人びとに大事にされてきたのを目の当たりにすると、何よりもありがたい。
15日(土)は、秋田県が線状降水帯による水害のあった日で、函館も大雨。
出歩くことはできないので、北海道の郷土資料の充実した函館市中央図書館に籠って文献調査。
その中で、『松前町史』の中に円空が蝦夷に渡った当時の交通事情に関する記述を発見。
「松前の湊は、『間(=港)悪鋪度々破船有レ之』(『松前蝦夷記』)といわれ、決して良港ではなかったが城下の湊として繁栄を極めた。これに比べると箱館(函館)は深く湾入した天然の良港であり、『綱知らずの港』といわれた。江差も『船懸り能候よし、北風ニハあしき由』(『同』)で、港としては、はるかに松前にまさっている。中世においては、箱館は河野氏の居館の所在地として、また昆布の積出し港として、隣接する亀田とともに繫栄していたし、江差の場合も、湊から珠洲焼、渡来陶器、渡来古銭、甑などの中世遺物が引き揚げられて、その存在が確認されている。しかし近世にはいると、箱館・江差港は姿を消してしまい、寛文期には、箱館が、『澗有、古城有、から家あり』と、江差が『から家あり、めな島あり』と描写されているにすぎない(『津軽一統志』)。(中略)このように、松前湊と箱館・江差湊との間に隔差が生じたのは、松前藩がアイヌとの交易を独占するために他国商船の来航地を松前湊に限ったからにほかならない。松前の繁栄は、きわめて政策的なものである。」
円空の蝦夷渡航ルートについて、「円空仏の様式の変遷」という観点から下北半島からなど諸説あるけれど、上記松前藩の政策からすると、松前湊に渡り、松前湊から帰ったという一択しかないことを交通史の側面から確認することができ大収穫。
ちなみに、函館はミスタードーナッツの聖地で、経営が本州と違いパン屋がフランチャイズ契約を結んでいるので、とても安くて、回転がいいのでフレッシュ、地元のソウルフード的な位置づけとなっている。
雨の合間においしくいただきました。
天気の回復した16日は、調査のため函館〜北斗市〜福島町〜松前町と松前街道をたどって進む。昆布の打ち上げられる浜辺も。
御神体になっているため拝観できない像が多いけれど、円空のたどった現地に立つことは『円空の冒険』追跡の面では意義深かった。
さらに進んで、第1回の日本海側踏査で回れなかった、乙部町龍寶寺の円空の小像(下画像左側)に対面。
このお像は、当時の家老蠣崎蔵人のために円空が彫ったと考えられる背銘に「願主 松前蠣崎蔵人 武田氏源広林 敬白」「寛文六 丙午天六月吉日」とある小像に大変よく似ている。
もしかしたら、背銘があるかもと赤外線撮影を試みるも、確認できなかった。
ご住職にはお忙しいところお世話になりました。
最終日の17日は、早朝4時宿を抜け出して、前回登りそこなった上ノ国町の太平山に林道利用で登頂。
上ノ国は、北海道で最も早く和人の住み着いた場所で、松前藩主の父祖の地でもある。
ここは、『福山秘府』の寛文5(1665)年の項に 「春、彗星見。西部上國太平山鳴動、天河海口成ㇾ陸。按、是皆不祥之兆也。」と記された場所。
この天変のために、藩の日本海側に一斉にお堂が建造され、「神体円空作」が置かれたと考えられる重要なポイント。
火山とかではない364mの低山がどうして鳴動したのだろう。山上からは上ノ国市街から日本海までが眺められる。
宿に戻り、内浦湾側をたどった最後に、七飯町のT家に伺う。
450年くらい前に近江から移住されたという北海道きっての歴史をお持ちの名家で、T家の敷地内にあった三嶋神社の御神体として円空がおさめた像が、神仏分離後の今は、仏壇と並んで祀られている。
円空仏と確認される前は、薬師如来さまだと考えられ、病人が出ると貸し出して撫でさすってもらって来たということ。
黒光りするそのお姿、そして御当主のいかにも愛おしそうな表情に感銘を受けました。ありがとうございます。
円空は、松前藩内で御神体を数多く造顕した後、なんと寛文3年に噴火したばかりの有珠岳や、内浦岳(北海道駒ケ岳)に登っている。
有史以来の噴火に見舞われたこれらの山を鎮めることも山岳修験像円空の重要な課題だったと考えられる。
有珠へどのようなルートで往復したのかは従来解明されていなかったけれど、今回の踏査で確認した円空像の分布・様式分析などを踏まえると、想定ルートは、松前から戸辺地までは松前街道を利用し、そこから七飯町に寄り、近江商人とも関わりのあったと考えられる近江出身のT家に立ち寄り、内浦岳登頂を試みたが断念し((菅江真澄記:有珠善光寺の仏三柱)内浦の嶽に必百年の後あらはれ給)、有珠に向かったと考えていいのではないだろうか。
そして、帰路は亀田半島の内浦湾側を支配していた松前藩とは神話的だった酋長アイコウインを頼り、その版図にある砂原側から内浦岳に登頂し(寿都町海神社観音菩薩坐像刻「いそや乃たけ 寛文六年丙午八月十一日初登内浦山 圓空(花押)」)、もしかすると標高は618mながら火山である惠山にも立ち寄り(『恵山町史』にそのような言い伝えがあるというが確証はない)、汐首村に至りそこから海路で亀田などを飛ばして札苅あたりの港に至り、そこから求められるままに像を造顕しながら松前経由で津軽へと渡ったのでは。
今回の調査結果を踏まえ、いよいよ8月4日から7日にかけて、第3回目の『円空の冒険』踏査、アイヌの土地での円空の山岳修行の足取りを追いかけに行く予定。
ようやく平地を離れ、「WALKあばうと日本4000山」に、つながる内容になりそうであります(ロ。ロ)/コウゴキタイ
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以前は月4回通っていたけれど、時間が取れなくて2回にしたら、制作意欲がぶち切れになりがち。
そんな中、実物は見たことがないけれど、画像を一目見ただけでほれ込んでしまった鹿児島睦(まこと)さんの『鹿児島睦 まいにち展』が、市立伊丹ミュージアムで開催されると知った。
伊丹かあ、山がないからご縁がない土地だけれど、これは何としても行かねば。。
7月9日、連れ合いと共に、7時40分に家を出発。10:00開館前にミュージアムに到着。
展覧会に並ぶのにこんなにわくわくするのは久しぶり。入口にはこのように記されていた。
「“役に立たないもの、美しいと思わないものを、家に置いてはならない。” 100年以上前、イギリスの芸術家・思想家、ウィリアム・モリスはこのように言いました。その思想はイギリスからじわじわと世界中に広がり、人びとが日々の暮らしに目を向ける、ひとつのきっかけとなりました。時を超え、九州は福岡で、陶芸家・アーティストの鹿児島睦(かごしままこと、1967年―)も、人びとの暮らしをよりよいものにしようと日々励んでいます。」
「“今日よりも、もっといいものを。” オランダのグラフィックデザイナー・絵本作家、ディック・ブルーナが話していたように、鹿児島睦もまた、自分の日々を大切にしながら、人びとの暮らしをしあわせなものにしようと思いを巡らせています。」
「この展覧会は、陶芸作品を中心に、テキスタイル、版画など多彩な仕事で注目を集める鹿児島睦、初の大規模な展覧会です。会場は、『あさごはん』『ひるごはん』『ばんごはん』のテーブルに、動物や植物を豊かな色で愛らしく描いたさまざまな器が並びます。そのほか、ファッション、インテリア、フードなど、さまざまな領域でのコラボレーションを通じて生まれたプロダクツを「さんぽ」「おやすみなさい」など、日々の暮らしのシチュエーションで紹介していきます。鹿児島睦が日々想う、わたしたちの『まいにち』を感じる、しあわせな時間をお楽しみください。」
会場は1階の2会場、地階の2会場に分かれていて、まずは1階の「あさごはん」の会場から。
撮影OK、ただしカメラを落として割らないよう、真上からはご遠慮くださいとのこと。
白地をベースに、淡い色の皿など、とにかく仕上げの見事さと、模様の豊かさに圧倒される。
自然や形象を模様に落とし込む才能というのは、写実的に描く能力とはまた別のステージではないかと思う。
クジラの皿は、蠟で余白を埋めた後、釉を塗っているろうけつ染めのような技法。左の茶色の皿は掻き落としの技法。
各技法の説明パネルや、映像もとても参考になった。
陶芸をたしなむ者としては、「素地に、化粧土で黒塗りをして」という一文の、素地づくりも化粧土の調合にも、塗り方にも、ひとかたならないものがあるのだろうと、思いを巡らせてしまう。
掻き落としをする針ひとつとっても、うまい線を描ける針をまず探し出すのが作品作りの大事なステップなんだと納得。
そういった、道具選びの緊張感みたいなもの、前にはあったけれど、今は教室にあるものを漫然と使っているなあ。。
『昼ごはん』の会場は、鉄絵がメイン。
「白い素地に酸化鉄を含む顔料で絵付けをし、焼成後に透明になる釉薬をかけて本焼きを行う。」とあるけれど、細い線を描く筆の選択、線を乱れさせぬ手わざ、線の生み出す動感など、研鑽の極みと敬服。
「透明になる釉薬」のテカらないマットな質感を出すための工夫や、淡い半透明な飛沫のリズム感も、相当な試行錯誤の先にあるもののはずなのに、当たり前のように目に映るところがすごい。
地階の会場に降り「ばんごはん」の会場へ。
夜のとばりのような幕をくぐると、黒い台にカラフルな花などが黒いバックに切り絵のように浮かび上がる。
このような器のある生活はどんなだろうと、想像が膨らむ。
ウイリアム・モリスの精神が継承されているなあ。。
最後の部屋は、詩(あるいは童話?)とのコラボになっていて、下の画像のフレーズに惹かれました。
壁に飾られたいくつもの皿一枚一枚を、いくらでも眺めていたい。
それは、山頂に立って風景の中に身を置く時の、一瞬と永遠の間を行きつ戻りつする時と似ている。
大きな刺激を受けて、会場を後に。
市立伊丹ミュージアムは、かつての伊丹の酒蔵街の中心部に位置し、重要文化財の旧岡田家住宅などと敷地が接している。
近くの、「白雪ブルワリーレストラン 長寿蔵」でお昼を食べ、さすが日本酒の街という感じで昼から立ち飲みする人の多い商店街の中にある「パティスリーウサギ」でパイナップルのタルトなんかをお土産にして、を、ほぼ300m圏内でできて大満足。
また天気が崩れないうちに、帰途についたのでありました。
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小高見山とも書き、伊吹山と白山をつなぐ近江における山岳信仰の一大拠点だったとされる。
己高山縁起(鶏足寺蔵)によれば、「当山者是当国分地之鬼門 古仙練行之秘窟」と記され、近江国の鬼門あたり、古くから山岳修行者が窟(いわや)修行をした場所だという。
伝承によれば、行基が峰入し堂宇を開創、白山を開いた泰澄も当山で修法し行門を建立、のち最澄が山中の仏閣跡に堂宇を再興したとされる。「興福寺官務牒疏」(嘉吉元(1441年))は、己高山五ヵ寺として、法華寺(僧房一〇二宇・衆徒五〇口・行基草創・本尊薬師如来)・石道寺(僧房三八宇・衆徒二〇口・本尊観音・延法開基)・観音寺(己高山頂・僧房一二〇宇・衆徒六〇口・本尊観音・泰澄開基・己高山随一)・高尾寺(己高山頂にあり僧房一二宇、観音寺に属する)・安楽寺(己高山にあり僧房一二宇)をあげ、ほかに観音寺別院として飯福寺・鶏足寺・円満寺を記している。(参考:平凡社「日本歴史地名大系」)
一度訪問したかったこの山に、ぼっち地元の山の会の計画に乗っかり、7月2日(日)行ってきました。(↓地図クリックで拡大)
木之本町古橋集落の己高山周辺の山岳寺院に伝わる仏像を集めた己高閣下の駐車場に車を置き、登山開始。
仏供谷コースで登り、南側の飯福寺コースで下山する周回の予定。
標識の左手が仏供谷登山口への林道。今回は80歳代のメンバーも2名おられ、車1台で登山口まで先行してもらう。
20分ほどで登山口に。先行組を追いかけ、登山道(左手)を進む。
しばらくで仏供谷ルートは、尾根コースと谷コースに分かれる。尾根コースの方が一般的のよう。
7月の低山なれど、前日の大雨の後で、ブナなどの新緑に包まれているので、比較的登りやすい。
先行組にはすぐに追いついた。
途中標高550mほどの小平地に阿弥陀と六地蔵の石仏があった。手の表現がかわいらしい。
途中送電鉄塔の近く「鶏足寺跡」の立札があたりは、視界が開け、琵琶湖の竹生島が眺められる
さらに標高を上げると、老杉が多くなる。たぶん寺院の参道や境内周辺に植えたものでしょう。
標高820mほどのところが平地になっていて、宝篋印塔や五輪塔、鳥居の一部らしき石柱などが残されている。
ここにも、鶏足寺跡の立札と、配置図がある。
しかし、先ほど鉄塔のそばに「鶏足寺跡」の立札があったし、「興福寺官務牒疏」には、観音寺が「己高山頂・僧房一二〇宇・衆徒六〇口・本尊観音・泰澄開基・己高山随一」とあり、鶏足寺はその別院とあるので、ここは観音寺の跡ということになるのでは?
寺院跡周辺には、花の後青い実をつけたクリンソウの大規模な群落がある。
クリンソウはピンクの派手な花なので、今は寂しい寺院跡も、1か月ほど前の開花時には、華やいだお花畑だったはず。
山頂も近い場所ながら、せせらぎで水もしっかり確保できそうなので、山岳寺院のアジールとしての機能を十分果たせたはず。
寺院跡から急な直登を100mあまりで三等三角点のある山頂に到着。展望はない。
途中先行させてもらった年配組も15分遅れ位で無事到着。一服しながらゆっくり昼食。
旧飯福寺ルートで下山にかかる。途中一カ所山頂が見える場所があった。
途中の鉄塔のところから、今度は大きく琵琶湖が展開。やはり近江の山は、この展望がなくてはね。
仏供谷ルートより、旧飯福寺ルートの方が穏やかで、展望もいい。
ただし尾根がいくつも分岐し、枝道も多いので、トップを歩いていたぼっちは、鉄塔の巡視路らしき道に入ってしまい、Nu先輩に軌道修正してもらった。
しっかり読図、観察していく大切さを再認識させられました。。
林道出合の登山口を過ぎると、山麓は公園のように丁寧に手入れされており、ここに鶏足寺(旧飯福寺)の参道がある。
紅葉の名所としても知られているらしい、突き当りの本堂はそれほど古いものではなく、平安初期の薬師如来立像や、十一面観音立像などの貴重な仏像は、己高閣という収蔵庫に移されている。
寺跡を後に、駐車場所に戻る途中の沼にモリアオガエルが何ヵ所も木の枝に卵を産み付けていた。
また、その先の川にはオオサンショウウオが生息しているらしい。
13:50、無事最初の駐車場に到着。暑さにも負けず、皆さん無事に周回できて何より、お疲れさまでした。
古仏とクリンソウが気になるので、また改めてゆっくり訪れてみたいです。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩)
2023年7月2日(日) 曇時々晴れ間 メンバー:Nu(L),An,Iw,Tm,Tg,Na,Fu,Mj,Mz,Wa,botti
大垣(集合)6:00−己高閣下駐車場(駐車)7:00…仏供谷登山口7:20…谷コース・尾根コース分岐7:25…六地蔵8:10…「鶏足寺跡」9:20…己高山山頂9:45〜10:55…旧飯福寺登山口13:20…鶏足寺13:25〜13:40…己高閣下駐車場14:00−(帰路)
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雨戸を開けようとしたら、網戸を走る小さな生き物。おお、ヤマネ君ではないか。
雨戸の中で冬眠することは知っていたけれど、安全だからか、今年は夏場の棲み家にもしているみたい。
貴重な天然記念物、雨戸を閉め、ゆっくりお住まい頂くこととした。
梅雨の合間の晴日なので、屋根に積もったカラマツの葉を掃き落としたり、石を敷いた駐車スペースの草をむしったり。
自宅近くの畑で収穫したジャガイモやニンニクを地下室にしまったり。涼しいせいか、ここだと翌年まで保管が可能。
孫ぼっち君がついてきているので、縁がないと思っていた「戸隠ちびっこ忍者村」にも行った。
「アリの塔渡り」「木登りの術」など、上級コースは、登山のトレーニングにも好適かと。
翌朝の朝ご飯は定番のホットケーキ。
保存できないクズジャガイモも、新しいのでオリーブオイルと塩コショウでおいしくいただく。
残った時間は、北海道の円空踏査行のレポート作成。
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実は6月8日(木)〜12日(月)、北海道渡島半島の日本海側に「円空の冒険」追跡ツーリングに行き、そのまとめに時間を取られておりました。ここで、そのさわりをご紹介。
「円空仏」で知られる美濃生まれの山岳修験僧円空は、寛文6(1666)年頃、当時蝦夷と呼ばれていた北海道の渡島半島の日本海側にまとめて像を残している。
当時円空は35歳頃、まだ神仏像を造り始めて3年あまり。蝦夷の地図すらまともにない江戸前期には、正真正銘の冒険だった。
円空の北海道での造像を、「円空研究の権威」民俗学者五来重氏は次のようにとらえ、従来これがほぼ通説化していた。
・五来重著『円空と木喰』(1997年 淡交社)
P44〜45「アイヌと和人の融和は、危険と困難をおかして蝦夷地に進出した遊行僧によってすすめられた。松前藩と幕府は豊富な北海の海の幸、山の幸を搾取する対象としか、アイヌ人をかんがえなかった。しかし遊行僧はかれらを人間として、あるいは念仏の同行として遇したのである。(中略)そして多くの開教遊行僧の頂点に立つのが円空であった。」
P67〜69「北海道の円空仏、とくに西海岸に多い円空仏は、この海難に関係があるものと私はかんがえている。私が北海道様式と名付けた熊石町泊川、北山神社の御神体のような観音座像は、(中略)何よりも大きな特色は定印の手の上に小さな蓮台をのせることである。(中略)私はこの円空仏の型を『来迎観音』と名づける。円空の北海道と津軽におけるこの型の作品は海岸と漁村に多く、漂流伝説をもつものが大部分なので、私は海難者の霊をすくいなぐさめる制作意図があったものとおもう。」
しかし、五来氏は、松前藩第八代藩主松前道広の命を受け、博学で知られた家老の松前広長が編集した60巻に及ぶ藩の資料の集大成ともいうべき文献『松前秘府』(安永9(1780)年完成)に、寛文5(1665)年、同地域に八幡宮や観音堂などが一斉に11も建造され、そこにすべて「神体円空作」が安置されている旨記されていることに触れていない。
同書は、松前藩の歴史を知る上で不可欠で、なおかつ北海道に残された円空に関する最古の史料でもある。
この寛文5年というのは、松前藩にとってどのような年だったのか、『福山秘府』のうち、藩の歴史をまとめた「年歴部」でみてみるましょう。
寛文3(1663)年 秋7月11日 「大雨洪水、東部宇須火を發し、雷鳴甚烈。」「同月十四日 宇須嶽又發火。鳴動十五日に至る。地震灰振、宇須西の陸凡そ二十有餘里悉く海に成る。」「夷家焼亡或いは埋もれ、夷人(アイヌ人)死者甚多矣。是時諸嶽亦振動甚だし。」
同4(1664)年 「秋、東部夷地、鼠出て人を喰う。 冬彗星出見。」
同5(1665)年 「春、彗星見。西部上國太平山鳴動、天河海口成ㇾ陸。按、是皆不祥之兆也。」
夏6月11日に、藩主松前高廣の奥方が、秋7月5日には高廣自身が23歳で逝去。秋9月27日新藩主松前矩廣が、蠣崎蔵人と共に江戸に将軍に拝謁するため出帆。
同6(1666)年 夏4月15日藩主矩廣帰藩。5月に八幡宮を移し、新しい神体像を安置。馬頭観音堂も新像を安置。
上國(現上ノ国町上ノ国)は、当時松前藩日本海側の中心的な街で、また室町時代、松前氏初代の武田(蠣崎)信広が、館を構えた父祖の地でもあった。
そのような場所に位置する、太平山(大平山)が鳴動し、天河(天の川)の海口が陸になってしまい、「按、是皆不祥之兆也」と藩の人々がとらえているとすれば、同5年一斉に建造された寺社等に「神体円空作」の像が納められたのは、松前の八幡宮や馬頭観音堂に旧像に替えて新像が安置されたのと同様、同藩によってと考えるのが自然。
そうならば、松前藩が日本海側に新たに建造した寺社を踏査し、円空の神体像を置くに至った事情を確認することが、北海道の円空像に込められた意図や、彼が蝦夷に渡った理由ないし事情を浮かび上がらせてくれるはず。
そんなことで、今夏計画の北海道踏査の第一回目として、松前城下から、上ノ国町、江差町、乙部町、八雲町熊石(旧熊石町)、せたな町太田権現まで、なるべく人の歩みや船の速さに近づけるため、MTBのジャイアン号で現地踏査した。
その詳細な総集編は、兄弟ブログ:「『円空の冒険』追跡ノート」第1回北海道踏査(松前藩日本海側)まとめをご覧ください。
ここでは、その行程と感想をご紹介。
行 程 6月8日(木)〜12日(月)(凡例 ー:電車、=:バス、…:MTB、‥:徒歩) 太字で円空像と対面。
8日(木)
名古屋駅17:06−(のぞみ236)―18:45東京駅19:20−(はやぶさ658)―新函館北斗駅23:29 ホテル(泊)
・仕事を時差勤務にして、名古屋駅から東京を経て最終の北海道新幹線で新函館北斗駅に23:29着。今回は、パンクを避けるため、ロードバイクではなく、重いMTBにしたので、移動が大変でありました。
9日(金) 雨
新函館北斗駅6:39―6:51木古内駅…木古内町佐女川神社…木古内駅9:16=上ノ国町大留10:29…木ノ子光明寺(観音菩薩坐像)11:30…上ノ国旧笹浪家住宅(旧観音堂像十一面観音立像・坐像、阿弥陀如来坐像)…北村地蔵庵(観音菩薩坐像)14:30…北村砂舘神社…江差町泊観音寺(観音菩薩坐像)15:30…尾山岩城神社… 江差町(泊)
・本当は、木古内駅から松前城下までバスで行き、そこからMTBで日本海沿いに上ノ国まで向かう予定だった。しかし、本降りのため、上ノ国大留までバスで入り、そこでMTBを組み立て、レインポンチョを羽織って調査開始。
・まずは、木ノ子集落の光明寺で観音菩薩坐像と対面。『福山秘府』では木の子の稲荷社にあったとみられる「神体円空作」。初めて対面する北海道の円空像に胸が震える。
「神体円空作」の像は、一部例外を除き観音菩薩坐像が基本形のようで、お姿は、線状の刻まれた台座に、蓮台を乗せ、定印を組んだ手に蓮の花を持ち、頭上に岩峰のような形の宝髻(菩薩が髪を結んだもとどり)を結う点が共通。
像高も40?台くらいにほぼそろい、きめの細かい、渡島半島で産出するヒノキアスナロの良質の材を使っているところも共通。
この蓮の花を手に持つことから、五来氏は、私は海難者の霊をすくいなぐさめる「来迎観音」とする。
しかし当時はまだ漁業はそれほど盛んではなく、むしろ当時一番人々を不安に陥れていたのは、有史以来活動していなかった北海道の山々が、奇しくも寛永16年に松前藩の金山などで働いていた106人のキリシタンの首を刎ね処刑して以来、翌寛永17年の内浦岳の噴火にはじまり、寛文3年の有珠岳の噴火、そして寛文5年の上ノ国の太平山の鳴動と続いていたことのはず。
実は、このご神体の観音菩薩坐像に先立ち、円空が極初期に郡上市美並町木尾の白山神社の御神体として造られた、三体の像のうち、別山の本地仏である観音菩薩坐像が、定印の上に蓮の花がない以外は、頭上の岩峰状の宝髻をはじめ、ほぼ同じ像容となっている。御神体は、むしろ山との関りの方が深いのでは。
・光明寺の後に、上ノ国町上ノ国へ。ここは藩主松前氏の初代武田信広が寛正3年(1462年)勝山館を築城した父祖の地。
そこで、太平山(大平山)が鳴動し、天河(天の川)の海口が陸になる地変があったこともあってか、観音堂に北海道像中最大の像高145.7?の十一面観音立像が伝わってきた。
彫りは一見稚拙に見え、摩耗も激しいが、細部まで不思議に美しいのは、円空が木の持つ力を知っていたからではないだろうか。
十一面観音菩薩立像は、今は国の重要文化財の旧笹浪家の蔵で展示されているが、少し前までは近くの観音堂に祀られ、地元のご婦人たちがお守りをされていた。
あのスラムダンクの作者、井上雄彦先生が、『円空を旅する』の取材で訪れ、「目から水が出た」と記されております。
・北村地蔵庵の観音菩薩像や、江差町泊町の観音寺の如来像も拝んで、江差町の旅館に投宿。
10日(土) 雨のち晴
江差町6:45…乙部町栄浜龍寶寺…元和八幡神社…塩見三谷八幡神社…八雲町熊石相沼八幡神社…泊川北山神社…円空上人滞洞跡…根崎神社…14:00せたな町太田権現16:30…せたな町あわび山荘(泊)
・朝のうちは本降り。旅館は馬坂という坂の途中にあり江差の港に続く。ジャイアン号、今日もよろしく。
・江差町から北上すると乙部町。
中心街から「神体円空作」の鳥山神社のある鳥山集落までの国道は断崖沿いとなり、土砂崩れで大きな事故もたびたび発生している。
現在も2021年の大規模な土砂崩れで舘浦から先が通行不能のままで、段丘上の町道舘浦鳥山線で迂回していくことになる。
3.5?の区間ながら、標高75mくらいまでアップダウンを繰り返す今回のMTBでの輪行で最大の難所。雨にも降られバテました。
乙部町の栄浜龍寶寺、元和八幡神社(雨が上がる)、三ツ谷の八幡神社、八雲町熊石相沼八幡神社、泊川北山神社と「神体円空作」のある社寺を通過。今もご神体になっている像が多いので、対面は叶わず、安置されている社殿や周辺を撮影し、往時をしのぶ。
さらに進むと「円空上人滞洞跡」という標識に出会う。
菅江真澄の『えみしのさえき(蝦夷喧辭辨)』には、寛政元(1789)年5月に太田権現に参詣後、泊川に逗留中同17日に立ち寄った旨が記され、「黒岩という窟があって、円空法師の作った地蔵大師の像をまつっている。」(現代語訳)とある。
ただし、国道整備に伴い岩は相当削られてしまったもようで、洞穴も失われているもよう。
『福山秘府』で、日本海側の「神体円空作」がおさめられた寺社の最北は、八雲町熊石(旧熊石町)の中心にある根崎神社。
根崎の次の集落、関所のあった関内から先は、和人地である松前藩領から、アイヌ人の土地蝦夷地となる。
そんな場所にあるためか、標準的な観音菩薩坐像ではなく、92.3?と上ノ国の十一面観音立像の次ぐ像高を持つ観音菩薩立像がご神体となっている。
松前藩が日本海側に新たに建造し、円空の神体像を置いた寺社を、当時の各集落の家数などが記された『津軽一党志』の記録を参考に、MTBで距離を確認しながらほぼ全数廻り、リスト化してみると、一定の規模の集落、あるいは集落群に必ずと言っていいほどあって、ほとんど郵便局の置かれている場所と一致するのが面白かった。
上ノ国の十一面観音菩薩立像と、最北端の根崎神社の観音菩薩立像以外、すべて観音菩薩坐像で、像容もほぼ同一だった。これらの「神体円空作」には遊行僧が自由に作ったものが、海に流したりされながらご神体になったというような偶然性はまったくなかった。やはり、円空は松前藩に要請されて、日本海側の像を造っていったのは間違いないだろうと確信。
(↓リストの一部。クリックで拡大)
神社のすぐ先が、元熊石役場。
太田権現まであと30?漕いでいかねばならないので、元役場の前にある寿司屋で熊石の名産あわびの丼をいただき英気を養う。
熊石関内からせたな町に入ると、長磯海岸の奇岩ととびきり青い海が続く。画像はそのシンボル、親子熊岩。
帆越山トンネルを越えると太田神社の拝殿があり、そこから太田山(485m)の山頂下にある太田山神社(太田権現)のある窟を見上げる。
参道というよりは、梯子もある登山道を進むと、最後に岩壁の前に出る。
岩をへつって(ここも滑って、グレーチングがへこんでいたりして慎重に)、最後に鐙(あぶみ)のような丸い鉄鎖に足を突っ込みながらよじ登り、本殿のある窟に入り込む。
短いけれど北アルプスの鎖場でも岩に足を掛けることなく鎖だけに身をあずける場所はまずないので、なかなかの体験。。
もっとも、円空の訪れた当時、鎖はまだ掛けられていなかったのかもしれない。
寛政元年(1789年)、旅行家菅江真澄がここを訪れ、「窟の空洞にお堂がつくられてあった。ここに太田権現が鎮座しておられた。太田ノ命をあがめまつるのだろうと思ったら、ここは於田(おた)という浦の名であるが、なまって太田というのであった。ヲタは砂というアイヌことばで、砂崎があったのだろうか。(中略)斧で刻んだ仏像が、このお堂内にたいそう多く立っておられるのは、近江の国の円空という法師がこもって、修行のあいまに、いろいろな仏像を造っておさめたからである。」「神前の鈴をひき、ぬかづいて拝んでから、外に出て、いささか岩の上を伝っていくと、また岩の空洞があったが、その中にも円空の刻んだ仏像があった。」(『えみしのさえき』現代語訳)と書き残している。
円空はここまで松前藩日本海側に寛文5年に新造された多くの堂の御神体造顕を行ってきたが、その仕事も一段落し、ここで思うままに修行し、造像に励んだではないだろうか。
・無事下山。神社に参詣するのに「無事」というのもなかなか。
・引き返し、せたな町あわび山荘に投宿。95?のMTB走行+太田権現往復しながらの円空ゆかりの地巡りの長い一日でありました。
・さびしい海岸沿いにぽつりぽつりとある家の周りや畑に作られている花が、切ないほど美しい夕暮れ。
11日(日) せたな町…乙部町花磯本誓寺(観音菩薩坐像)…烏山神社・観音堂…江差町柏森神社…上ノ国町大平山登山‥上ノ国町民宿宮寿司(泊)
・せたな町から上ノ国町へ戻りながら、見漏らしたポイントをフォロー。
・上ノ国に戻ってから、『福山秘府』に寛文5年鳴動したとある大平山(当時太平山)も訪問。
選択した林道が草まみれで、夕暮れが近くなり、ヒグマが怖いので200m地点で引き返す。
一応クマ避けスプレーは持参したんだけど、国道ですらクマの匂いがプンプンする地域なので。
上ノ国では宮寿司という寿司民宿に投宿。段丘の上にあり、3日間かけて往復した日本海側のルートが一望。
さすが寿司屋の民宿、夕飯は絶景を眺めながら、寿司と魚料理でビールをおいしくいただく。
12日(月) 宿4:15…石崎八幡神社…宿…大留バス停7:42=9:00木古内駅前9:05=青函トンネル記念館前10:10‥福島町役場(吉野教会観音坐像)10:32=木古内駅11:28…西野神社…古泉神社…木古内公民館(図書室)…木古内駅15:01―(はやぶさ34)―19:04東京駅19:21―(のぞみ85)―20:56名古屋駅―自宅
・朝食前、行き残した上ノ国町石崎の石崎八幡神社を往復。朝食後バス停でMTBジャイアン号を解体し新幹線駅のある木古内に出る。
・木古内にジャイアン号を待たせ、バスで福島町役場を往復、北海道の円空像で最も完成度が高いと言われる数年前まで吉野教会にあった、北海道の円空像の最高作ともいわれる観音菩薩坐像を拝観。
・木古内まで戻り、再びMTBを組み立て、円空像がご神体の木古内の西野神社、古泉神社を訪問後、MTBを解体、15:01で帰路に。
重いMTBを新幹線やバスに乗せたり下ろしたりしながら、雨にも見舞われながらなんとか太田権現までの往復約200?を走破。
・一カ所でも乗り遅れたりしたら成り立たない緊張感の高いスケジュールだったけれど無事完了、レポートもまとめ、ようやく一段落。所期の目的も達成できてほっとしております。
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しかし、2日の線状降水帯を伴う大雨で計画を縮小、天気の安定する4日、メンバー7名で銚子ヶ峰を往復することに。
7:30、白山美濃禅定道(南縦走路)登山口を出発。
石段を登ったところにそびえる、石徹白大杉と久しぶりに対面。
何度拝んでも、朽ちかけつつも命をつないでいるその厳かな姿に心を打たれる。
6月の禅定道は、ブナやミズナラの新緑におぼれるようで、今日この時山に居られる幸いを噛みしめる。
(画像にメンバーの姿が少なめなのは、ぼっちがリーダーで先頭を歩いていたためであります。)
少し雪を残した銚子ヶ峰の山頂が見えてくる。
9:30、神鳩ノ宮避難小屋で小休止、しばらくすると樹林帯を抜け笹原になる。
縦にひびの入った母御石(ははごいし)。
白山を開山した泰澄を追って、母が女人禁制の定めを破って登ってきたのを、この岩の中に閉じ込めたとの伝説が残る。
10:40 銚子ヶ峰山頂に到着。
日帰りできる好展望、自然豊かな山だけに、登山者が次々登ってくる。
混雑を避け、少し先の小ピークの上で昼食。
目の前には、一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰と階段状のピークの先に、まだまだ残雪が残る別山(2,399m)の雄姿が。
かつて石徹白では、別山まで禅定道を整備していたという、美濃禅定道のシンボルというべき峰。
そして、反対側の南に続く稜線には、願教寺山(1,691m)、よも太郎山、日岸山、薙刀山、野伏山、小白山が続く。
夏はチシマザサの激ヤブの稜線なので、残雪期に登られる。ぼっちも2018年に一日縦走した。
こんな山に、「美濃の三角点全点踏査」のため、わざわざ無雪期ヤブ漕ぎして登った、KiさんItさんには改めて敬服。
ブナの新緑の名残りを惜しみつつ下山。
下山後は、石徹白方面の登山の後は恒例の「満天の湯」でさっぱりした後、「道の駅白山文化の里長滝」の売店でソフトクリームを。
スプーン代わりに鮎の形の最中の皮が付いていて、長良川を背景に写せばインスタ映えもばっちり。
梅雨の合間の、楽しき山行、メンバーさま、お疲れさまでした。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩)
2023年6月4日(日) 晴時々曇 メンバー:Go,Mi,Na,Ya,,Mu,Ka,botti
大垣(集合)5:00ー白山美濃禅定道(南縦走路)登山口7:30…石徹白大杉7:40…神鳩ノ宮避難小屋9:30…母御石…銚子ヶ峰山頂10:40〜11:40…石徹白大杉14:00…登山口14:15
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連れ合いと、京都の桂離宮に行ってまいりました。
江戸前期、皇族の八条宮家の別邸として創設され、智仁親王、智忠親王父子が心を尽くして造られたもの。
御幸門をくぐって園内に。アベマキの表皮を付けたままの野趣に富む門柱は、貴族の遊び心を感じさせる。
案内人の後を、われわれ6名の見学者がついていく。
石橋の傍の流れにわずかな落差を付けて水音を響かせるなど、きめ細やかな工夫が随所に。
禅寺の禁欲的な庭などと違い、貴族の別荘の庭なので、さりげなさそうで、実は凝りに凝ったしつらいも見どころ。
笑意軒から持仏堂の圓林堂方向を眺めたところ。
山ばかり行っていて、我が家の小さな庭の草むしりが行き届かないことに罪悪感を感じるひととき。
「あられこぼし」という表面が平らな小石をびっしり張り込めた敷石道は、足が土や雨で汚れない工夫が込められ、とてつもない手間がかかっているとのこと。
この季節、苔とのコントラストが美しい。
庭園には鷺も遊びに来ておりました。1時間ほどの園内ツアーは凝縮の時間。
離宮を出て、これも長年訪れてみたかった石清水八幡宮へ。
八幡神は豊前国宇佐の地に示現したとされ、早くから神仏習合し、八幡大菩薩とも称される。
石清水八幡宮は、平安前期の貞観年間に大安寺僧の行教が宇佐神宮から勧請したもので、京都の南西、桂川と宇治川と木津川が合流し、淀川となる地点にある男山(鳩ヶ峰、143m)の山上に鎮座している。
都の近くに創建されたことから朝廷の尊信を受け、平安末期には白河天皇が格別に心をかけ、伊勢神宮とともに二所の宗廟として崇敬されるようになった。
また、源氏、平氏に始まり、足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏など武家の氏神として崇敬されたため、武神・弓矢の神・必勝の神ともされてきた。
社殿は「八幡造」と呼ばれる独特の構造で、楼門から奥へと舞殿・幣殿・本殿が続く。
現在の建物は徳川家光が寛永11(1634)年に再建したもので、いずれも国宝に指定されている。
わが敬愛する円空は、八幡神、八幡大菩薩の像を造り、和歌にもその名を詠んでいる。
826:なんやはた弓矢の宮ノサかゆるハ納る御世ハ渡住の神
827:チワや振る納る御世の神なれや花の主も栄在せ
828:なん八幡弓矢の光渡住の二二方(四方の意?)国まで鎮ぬる哉
829:なん八幡納る御世のはしなれや弓矢神も祝染つゝ
830:弓矢八幡花の盛に参るらん納る御世の皇の里二
831:何事も計らふ山の神ならは君か御形と守り在せ
832:引結ふ君か取矢の神ならは納る御世の花かとそ見る
833:皆人ハ鳩の御峯に参らん今日九重に守り在りせ
現在、石清水八幡宮をはじめ京都府内に円空仏は確認されていないが、もしかしたら円空が訪れていたのではというのも、今回訪問の関心事(←結局円空)。
それでは、いざ鳩の御峰に参りましょう (ロ。ロ)/オウ
淀川御幸橋、木津川御幸橋を渡っていくと男山が目の当たりに。
一の鳥居で車で山上に向かう連れ合いと分かれ、ぼっちは徒歩にて山上の石清水八幡宮を目指す。
2万5千分の1地形図では想像がつかないほど、現地はうっそうとした照葉樹林の森。
しばらくして、頓宮と高良神社を通過。教科書に出てきた徒然草第52段「仁和寺にある法師」(※)の舞台となった場所であります。
仁和寺にある法師、年よるまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとりかちより詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
二ノ鳥居をくぐって、裏参道に向かう道に入る。極相林の深い森のたたずまい。
「松花堂弁当」でその名を知られる社僧松花堂昭乗の庵跡など、廃仏毀釈で失われた坊跡などが木立に埋もれている。
山登り気分を味わいながら山上に出て連れ合いと合流、壮麗な丹塗りの社殿を並べる石清水八幡宮へ。
寛永11年再建の建物ということは、円空がもし訪れていたら、この同じ社殿を見上げていたはず。
「弓矢八幡花の盛に参るらん納る御世の皇の里二」といった歌には、春の石清水八幡宮を実際に訪れて詠んだと思われてならない。
また「渡住の神」とは、本殿の背後に祀られた海の神である住吉社と思われるが、そんなことも当地を訪れないと分からないのでは。
そして、「鳩ヶ峰」にも実登。周辺はタケノコの畑といった感じのよく手入れされた竹林が多く、三角点は木々の中。
「鳩峰国分寺跡」の石標があるけれど、山城国の国分寺は、ここではなく、恭仁京の近くにあったはずなので意味不明。
いずれにしても、円空ゆかりの峰に立ててよかった。
遅めの昼食は、レストラン男山で、ハンバーグ定食をいただく。
地元民が「ごちそうを食べに行くならここ」といった風情の店で、味も、集うお客様の笑顔もいい感じ。
デザートは、宇治に立ち寄り、伊藤久右衛門本店で、抹茶パフェを堪能。
新型コロナウイルスで、足が遠のいていた京都に再び通えるようになった幸せを噛みしめるのでありました。
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