雪に親しむこともないままなのも残念で、快晴の15日(金)、4月に山行リーダーを務める予定の日照岳に下見に。
日照岳は、標高1,751m、白山連峰の別山から東に派生する尾根が庄川で尽きる、その最後のピーク。
山名は、御母衣ダム湖に沈んだ、かつての上白川郷岩瀬集落から見て、最初に朝日が照らす山だったことが由来になっている。
登山道はない山だが、国道156号線から直接登り出せるので、残雪期には日帰り・往復5時間程度で登れる山として、雪山登山入門の山として、あるいは最近はバックカントリー・スキーの山として人気がある。
―とはいうものの、平日ともなると、登山者はなし。
156号線の、ダムに沈んだ村のものだっただろう墓や記念碑のある駐車場が取り付き口。7:45出発。
いったん雪が消えた後、まとまって新雪が積もったらしく、見かけと違い、まったく締まっておらず、つぼ足も無理なくらい沈むので、最初からわかんを装着。
この山は3度目になるが、最初からラッセルというのは初めて。
このルートは、途中まで送電線巡視路が使えるところがいいところだけれど、今回はまったく見えない。
重い新雪は、わかんを履いていてもかなり沈むので、しっかりラッセルさせられる。
赤テープを確かめながら、一回沢をまたぎ、9:30、ようやく鉄塔脇を通過。
標高を上げれば雪は締まってくるといいのだが。。
9:40 ようやく目印となる1,160mポイントのある尾根に出る。日照岳のピークが遠く見える。
10:15 ようやく1,160mポイントに出る。
小腹が空いて握り飯を食べていたら、山スキーヤーが二人上がって来た。
先に行っちゃうのかなと思ったら、帰路にスキーの跡を見たら、ここで引き返していた。このあと、人に出会うことはなかった。
雪はぜんぜん締まってくれることはないばかりか、より深くなり、2mくらい新雪の層がある。
しかもこんなに急だったかなと記憶を疑うくらいの急斜面。
一歩足を進めることが難しくてピッケルを突き刺してよじ登ったり、大きな空洞に体が埋まって脱出に手間取ったり、時間ばかり経過する。
もっとも、もともとラッセルしに来たんだから、文句言う筋合いじゃない。ひたすら修行あるのみ。
振り返ると、御母衣ダム湖(御母衣湖)の向こうに御嶽山が見えてきた。
場所を移すと、乗鞍岳、穂高連峰も顔を出してくれた。
13:30 ようやく日照岳のメインとなる稜線上に出る。
見たとこ、締まった雪のようでも、相変わらズブズブ沈む。いやはや。。
コースタイム往復5時間程度のはずが、ここまで6時間近く。
振り返ってみれば、奥美濃など、両白山地の山々で、まったくの新雪のラッセルは初めて。
ま、今回は登頂というより、雪深い山の空気を味わいに来たんだから、これもよし。
北に、荒々しい岩肌を見せる三方崩山(2,059m:中央)と、奥三方岳(2,150m:左)が眺められる。
奥三方岳は登ったことがないので、行ってみたいけれど、日照岳でこんなに苦労するようでは、なかなかむつかしいかなあ。。
13:45 1,534mポイントに到達。1,160mポイントから、374m標高を稼ぐのに3時間30分余りかかっている。
体力的にはぜんぜん行けそうだけれど、ここまでのピッチを見るとまだ2〜3時間はかかりそうなので、ここで撤退を決断。
遅い昼食を取り、地球温暖化の中で貴重な時間となりつつある、新雪のブナの森のひと時を名残りおしく味わう。
下山は、魔法が解けたように楽。
雪の落とし穴に幾度となくもがいたのが嘘のよう。
登り6時間のところを、下りは1時間50分。15:50登山終了。
両白山地の新雪を甘く見るなという、いい教訓ができました。以上でラッセル修行終了。
<登山記録> (−:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2024年3月15日(金) 快晴 単独行
自宅5:00−荘川I.C.―国道156号線取り付き点(駐車)7:45…1,160mポイント10:15…1,534mポイント13:45〜14:00…取り付き点15:50
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そこで、登山の往復目にしながら、「気になっているけれど登るまでないかな」と思っていた、美濃地方北部の2山を登ることに。
あわせてこの2山の往来に、「円空の冒険」プチ踏査もすることに。
1山目は、美濃市の古城山(437m)。
美濃市市街地の北東に接する山で、その名のとおり、戦国時代末期に佐藤氏が三代にわたって鉈尾山城を構えていた場所。
江戸時代になると、高山城主金森長近が加封され、小倉山に城を築き、鉈尾山城は廃城となっている。
東海北陸自動車道の古城山トンネルに入る直前、ポコンとした山容が気になる山であります。
美濃市運動公園の外れから、画像左手のピークを目指して 7:20登山開始。
さすが市民に親しまれる山だけあって、登山口には案内板なども整備されている。山頂まで時計回りで周回することに。
案内板で見ると、なんかややこしそうなルートに見えるけど、さて実際はどんなでしょう。
案ずるより産むがやすし。林道などとの交差部分には標識がきちんとあり、迷うことはなかった。
スギやヒノキの植林に覆われた山だけど、沢沿いに付けられた登山道沿いは落葉樹も交じる。
それにしても、けっこうな急登の連続。「ポコンとした山」というのは、急斜面ということでもあるんだな。。
登山道沿いの薄い層を重ねた岩肌はチャートで、放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が海底に堆積してできたもの。
金華山などもこの岩でできており、日本地質学会によって「岐阜県の石」にも選ばれている。岐阜県民には親しい岩石。
8:15 古城山山頂に到着。山上は平らで、城跡らしいたたずまい。「史跡 鉈尾山城跡」の案内板もあった。
山頂全体は木立に包まれているものの、南西方面は視界が確保され、右側に誕生山、天王山、そして長良川の流れの向こうに、百々ヶ峰や金華山、そして遥かに白い伊吹山や、養老山地、鈴鹿山脈の山々が展望できる。
「円空の冒険」追跡中のぼっちとしては、円空が幾度となく往来した場所として目に映る。
山頂を後に、南に向かう登山道に入ると、稜線に沿って石塁など、古城の名残りがそこかしこに見られる。
大きな岩の上に立つと、東に恵那山などが眺められた。北の御嶽山などの方向は雲の中。
途中で北に折れ、往路と合流し、9:15登山口に戻る。
2山目は、郡上市和良町のシンボルともいえる和良岳。
その登山口に向かう途中、少々迂回をして、関市雁曽礼の白山神社に立ち寄る。
同神社のご神体は、円空の初期パトロンともいえる西神頭家当主のしたためた棟札で寛文9年作と制作年代が明確に分かる円空の白山三神像(実際には仏像)。
長良川沿いを北上、西神頭家のある郡上市美並町下田から、馬越峠を越えて雁曽礼集落を目指す。
ただし、この馬越峠は、正徳年間に大矢の河合孫右衛門が開いたと伝えられ、今も正徳2(1712)年銘のお地蔵さまが立つ。
寛文9年にはまだ開かれていないことになるが、西神頭家は、津保川側の雁曽礼までかなり広範に氏子を持っていたことになる。
峠を下り、津保川の支流、武儀倉川沿いに点在する穏やかなたたずまいの、雁曽礼の集落に出る。
雁曽礼(がんそれ)という変わった地名の、「ソレ」とは、「ソリ」などとともに焼畑をさす言葉だったのだとか。
白山神社は、集落の中央部に位置し、ま新しい注連飾りがされるなど、しっかり信仰が守られている感じ。
ご神体の円空の白山三神像を直接拝することはできないけれど、祀られる場所に立つと、とても身近に感じる。
和良岳に向かうには、いったん津保川本流まで出て北上、その最も奥の集落が鳥屋市で、不動堂には有名な「尼僧像」をはじめ、円空像が21体も伝えられていた。
過去形なのは、平成17(2005)年、すべてそっくり盗難されたため。何とかお戻りいただきたいもの。
鳥屋市の集落を後に、県道85号金山上之保線の放生峠を経て戸川に沿って金山町側に下る。
円空は、尾張藩領である金山にたびたび訪れているので、このルートは円空も通っていたはず。
戸川が間瀬川に合流した地点で「円空霊告薬師」との石碑がある。
調べるとそこは晩年の薬師三尊で知られる、金山町祖師野の薬師堂ではないか(勝手に飛騨川沿いかと思っていた)。
時系列で円空を追いかけているので、いきなりタイムワープした気分。。
よく吠える犬に警戒されつつ、薬師堂を訪問。
しっかり鍵の掛けられた格子戸越しに薬師三尊像、手前の男神像の形をした十二神将像6体(あと1体は模刻とか)、仁王像、観音像などを拝むことができた。
さらに、堂には多くの棟札がある中で、文政9(1826)年3月17日の日付がある、「圓空上人ノ来由ヲ尋ルニ、当国竹ヶ鼻在ノ生マレニシテ、幼歳ヨリ仏道修行ノ志深ク、蛍雪ノ功ヲ積ミテ、終ニ妙法ノ淵底ヲ究メ、名利ノ塵埃ヲ離テ山野ヲ栖トシ、常ニ國々ヲ経回シ、数体ノ仏像ヲ鉈作リシテ、普ク衆生済度ヲ求メ玉フ。或ハ海底ニ入テ枝珊瑚ヲ採渇テ、鳳闕ニ奉ツル。叡感不斜。方一町ノ梵地ヲ寄附シ玉フ。上人其地ニ一字ヲ建立シ玉ヘリト云フ。」と記された棟札(矢印)もしっかり拝見できた。
後半は荒唐無稽ながら、生まれが「竹ヶ鼻」(現羽島市)とされていることで、生誕地論争で注目されている。
思わぬ円空像対面に感動しながら、馬瀬川の支流和良川沿いの国道256号線を西進し、郡上市和良町下洞集落の和良岳登山口へ。
民家の敷地に、ちゃんと登山口の標識もあるので、安心して取り付くことができる。11:45登山開始。
ヒノキを中心にした植林帯の急斜面をよじ登る。
2万5千分の1地形図に登山道は記されないが、「和良岳」の標識が要所要所にあり、踏み跡はしっかりしているので、登りのルート取りは問題なし。
ただし、上部は雪に覆われ、下山時には思わぬ尾根に迷い込むリスクがあることを意識しておかねば。。
12:50 和良岳山頂に到着。最後まで植林の中。
「続ぎふ百山」には、このような山が多い。しかし、時間が許せばやっぱり全部登っておきたいもの。
和良岳ってこんな山だったんだなあと、好奇心を満たす経験としては、楽しい。
三角点と共に、地元の小学校の5年生が毎年集団登山をした折の立札がいくつも雪の中にあった。
だからこそ、登山道も整備されているんでしょう。
山麓から眺める和良岳。この奥に岐阜百秀山でもあります大洞山(1,035m)など立派な山もあるけれど、村に接する円錐形の独立峰として、やはり和良町民にとってのシンボルの山といえば和良岳といえましょう。
2山登山を終え、長良川側に戻るため、国道256号線をしばし西へ進みかけ、ちょっとストップ。
立派なスギの巨木と、「戸隠神社」の石柱が気になってしまった。
由緒書によると、鎌倉時代以降「九頭宮」と称された宮とのことで、慶長12(1607)年、郡上藩主遠藤慶隆によって社殿が再興され、以後領主や藩主から篤く崇敬されたという。
さらに、拝殿脇の石碑の説明書きによると、建治元(1275)年、橘頼納により大般若経600巻が奉納され、その大部分は飛騨の三木自綱が和良に出兵したとき持ち帰り、天正元(1573)年、千光寺へ寄進したという。
円空は、九頭竜権現を崇敬していたし、祖師野薬師堂からは10?余りしか離れていないから、円空が立ち寄ろうと思えば立ち寄れたはずなのに、円空の像などその形跡がみられないみたいなのはどうしてだろう。
円空の冒険を追いかけると、松前藩、弘前藩、尾張藩など各藩の上層部と(よかれあしかれ)関りがあったと考えられるのに、郡上藩との関りが、ここまでの調査では全く見えてこないのは、もし円空の生誕地がかの五来重氏が提唱されるように郡上藩内だとするなら、やはり不自然に思われる。せめて、西神頭家と郡上藩の関わりだけでももう少し調査してみたい。
そして15:00 美並町粥川の星宮神社の社域に建つ、円空仏が常時92体拝める、美並ふるさと館へ。
今回は、寛文年間後半に集中する民間に授与したと考えられる裳懸坐の小像を確認するのが目的。
いろいろ理解が進むと、10?内外の小さな像にも物語が感じられ、1時間程ガラスケースの前にかじりついておりました。
体も頭もしっかり使ったので、最後に円空の極初期像が多数伝わる子安神社に近い「みなみ子宝温泉」でサウナやマッサージチェアでしっかりメンテナンス。
結果して、今日も(やっぱり)気ぜわしくあちこちうろついているように見えちゃうでしょうが、ブログタイトルがWALKあばうとなので、ご容赦ください (ロ。ロ)/
<登山等記録> (ー:車、…:徒歩)
2024年3月10日(日) 晴 単独行動
自宅5:30−美濃市運動公園(駐車)7:20…古城山山頂8:15〜8:25…運動公園9:15ー馬越峠9:55ー雁曽礼白山神社10:05ー鳥屋市不動堂10:50ー祖師野薬師堂11:10〜11:20ー和良岳登山口(駐車)11:45…和良岳山頂12:50〜13:05…登山口13:45ー星宮神社15:05〜15:55ーみなみ子宝温泉16:20〜17:20ー自宅18:50
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南側の大峠から古光山、後古光山を経て長尾峠に下り、大峠に戻る周回コース。
9:00大峠から登山開始。斎場とソーラーパネルに挟まれた登山口はちょっと微妙。。
メンバー10名ながら、リーダー役で先頭を歩くので同行者の画像少な目であります。前回に比べ天気は格段にいい。
いきなりの霜柱にうっすら雪のかかった急斜面に、メンバーはちょっとひるみ気味。
「コースタイムは短いけれど、岩場の急登・急降下が連続するし、登山道の両側が切れ落ちているので、気を引き締めていきましょう。」
約50分で南峰に到着。
「ここから眺められる室生火山群は、1500万年前にできたと言われるきわめて古い火山で、当時と地形は全く変わっているはず。
左から、住塚山(1,009m)、国見山(1,016m)その手前が柱状節理の屏風岩、そして兜岳、鎧岳(894m)も柱状節理が見事。
今夏のルートでは、ここが一番見晴らしがいいから、山頂狭いけど、よく見ておいてください。」
「行く手に見えるのが、古光山本峰で、その先の三角形のピークが後古光山、さらにその先に亀山(849m)、倶留尊山(1,037m)が続きます。さあ、これからまず大下り。気を引き締めて滑らないようにいきましょう。」
うっすら積もった雪が滑りやすく、皆さん慎重に下られる。
10:15 古光山山頂に到着。冬枯れしているので、東に展望は得られるものの、見晴らしはあまりよくない。
「さあここから後古光山までは、大下りの後、ピークまで岩登り。北斜面は滑りやすいので、ストックをしまって、ロープも使いながら、慎重に。」
鞍部のフタカワ(770m)で小休憩。
「さあ、ここからは、後古光山への最後の登り。ほとんど岩登りなので三点支持で。
山頂まで行けば、あと長尾峠の下りは岩場ないので、頑張りましょう。」
11:15 後古光山山頂に到着。
東側の展望が得られ、尼ヶ岳(957m)、大洞山(985m)、そして伊勢街道を挟んだ南に学能堂山(1,021m:画像)。
その背後は局ヶ岳(1,029m)。三角錐の局ヶ岳は、山座同定のポイントになる。
山頂は冷たい風がもろに吹き付けるので、少し下ると出会う廃林道で昼食。日当たりが良く、風も来なくていい場所だった。
長尾峠までの下りは、木の階段。わずかな雪で滑りやすいので慎重に下る。
12:30 中尾峠に降り立つ。
あとはのんびりおしゃべりしながら林道を歩き、13:20大峠手前の駐車地点に戻る。
帰路御杖村の道の駅に併設される「みつえ温泉姫石の湯」で温まり、山行を終えたのでありました。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2024年3月3日 晴 メンバー:Nu,Mz,Ta,St,Oo,Mg,Na,Mu,Go,botti
大垣6:00ー伊賀IC8:10ー大峠(駐車)8:50〜9:00…南峰9:50…古光山10:15…後古光山11:15…(昼食11:35〜12:10)…長尾峠12:30…大峠駐車地13:20ー(みつえ温泉姫石の湯入湯)―大垣(解散)17:40
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頑張らねばと意気込んでいったら、まさかの雪ほとんどなし。。
いつも無人の期間には見かけない軒のツララがすだれ状で、暖かかった今冬を象徴するよう。
雪下ろしのために戸口に置いておいた、スノーダンプの名機「クマ武」も寂しそうにしておりました。
余った時間と精力は、小屋に閉じこもり円空研究に没頭。
連れ合いは、久しぶりに尺八(←なにげに大師範)を磨いておりました。
翌24日は長野市内に下り、午前中は連れ合いのお気に入りのYouTube「tekitouの食堂探訪」に出てきたという、「お食事処川端」へ。
「もつ焼き定食」など、働くおじさんの味方といったメニューで、おいしかったです。
午後は、山に戻り、戸隠スキー場で半日滑りまくり。
連れ合いは小屋に戻り、半日尺八三昧。
ゲレンデの最高点、瑪瑙山(1,748m)の上空は晴れているけれど、飯縄山さえ見えなかった。
本当はここからの、戸隠連峰の展望を楽しみにしていたんですが。。
23日の夜は、チーズフォンデュで白ワインを、24日の夜はストーブで煮込んだビーフシチューで赤ワインを。
大量に制作したビーフシチューは、帰った日の夕飯にもなる。
25日は、クローバーのケーキを買い早めに帰ろうとしたら、雪に。
なかなか、ままならないもんです。
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最近、頼もしい新人さんたちも入会して、Nuリーダー、Stサブリーダーはじめ12名が参加。
渋の湯登山口から7:45登山開始。
針葉樹林の斜面を登ると、唐沢鉱泉からの道と合流。
10:00 黒百合ヒュッテに到着。快晴無風の絶好のコンディションなので、1日目に天狗岳山頂に立つことに。
小屋宿泊組8名は休憩、ぼっちを含むテント泊組4名はテントを設営、11:40天狗岳を目指し出発。
Nuリーダーの「雪山は最短距離で登りルートを取るのが原則」とのご説明に従い、ヒュッテ前から直登。
もちろん、木が生えていないような雪崩のリスクがある斜面は避ける必要がありますが。
天狗の奥庭を通るルートに入る。
天狗岳は、三角点のある頭の丸い西天狗岳(右:2,646m)と、岩の頂きの東天狗岳(2,640m)と、個性の違うピークが並び立つ。
東天狗岳の方を、八ヶ岳連峰の中山峠を経由する主縦走路が通っている。
まずは、東天狗岳ピークを目指す。冬山で、これだけ好コンディションの日はなかなかない。
13:10東天狗岳山頂に立ち、北を仰ぐ。
北八ヶ岳の針葉樹林深い森の向こうに、蓼科山がそびえる。その左手には、霧ヶ峰から美ケ原の高原地帯が展開。
東天狗岳を後に、西天狗岳をめざす。快晴無風の今日は何ということもないが、吹雪かれると大変なところ。
13:40、西天狗岳山頂に立ち、南西を望むと、硫黄岳(2,760m)の向こうに、主峰赤岳(2,899m)、阿弥陀岳(2,805m)。
さらに、背後には赤石山脈の甲斐駒ヶ岳や仙丈ケ岳が。
北東には、煙を吐く浅間山。
八ヶ岳の核心部は、久しぶり。やはり時々はこの場所からの景色を目にしておかないと、記憶だけじゃもったいないな。。
戻りは、山腹を巻いていく。その途中、滑落しかけた跡と、訳の分からない沢に下っていくトレースがあった。
天狗の奥庭の全容を目の当たりにしながら、中山峠を通る主縦走路に合流。
中山峠の手前から南東方向に、山頂の真っ白な金峰山はじめ秩父山地の稜線が眺められた。
奥秩父稜線を2018年秋にたどったのも、いい思い出。
15:10 黒百合平に帰着。小屋で夕べの懇親をした後、テント組はマイナス15度越しのテント泊。
翌12日、早朝は少し雪も降ったが、7時を過ぎると晴れあがる。
昨日山頂は極めたので、7:30〜9:00雪上訓練。
K2隊のレジェンドNuリーダーの総括指導、昨年バットレスを極めたサブリーダーStさんの指導の下で滑落停止訓練。
アイゼンも付けて訓練するのかなと思ったが「初心者が多いので、アイゼンを絡めて捻挫する危険もあるので」なしでとのご判断。
体幹を使って、反動で瞬時に体を伏せ、両手で斜めに持ったピッケルを雪面に突き立てる。
体が自然に動けるよう、毎年おさらいをすることも大事。
訓練後テントを撤収し、温泉に入り、トンカツを食って、みんな大満足で帰路に就いたのでありました。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2024年2月11日(土)、12日(月振休) メンバー:Nu(L),St(SL),Ka,Kit,Kim,Sa,Si,Ta,Na,Ho,Ya,botti
11日 大垣集合3:00−茅野I.C.―渋温泉登山口(駐車)7:45…唐沢鉱泉分岐…黒百合平(昼食・テント設営)10:00〜11:40…東天狗岳13:10〜13:20…西天狗岳13:40〜13:50…中山峠15:03…黒百合平15:10(テント泊)
12日 雪上訓練7:30〜8:50(テント撤収)9:35…渋温泉11:00…(尖石温泉縄文の湯入湯、昼食後帰路)
<余談1>
調べてみたら、前回天狗岳を訪れたのは2009年1月だった(マイナス20度超の山頂―天狗岳)。
その時の画像と比べると、雪の量が歴然と違う。地球温暖化を目の当たりにした気分。
<余禄2>
三連休は、ずっと好天だったのに、10日天狗岳周辺では3件の遭難があった(2/11 長野放送ニュースより)。
3連休は概ね好天となりそうですが八ヶ岳連峰では遭難が相次ぎました。
?根石岳では10日、横浜市の会社員の男性(64)が東麓の南牧村の山小屋に宿泊する予定で下山中、樹林帯で道に迷い救助を要請しました。警察と地元の遭難防止対策協会のメンバーが11日早朝から救助に向かい、午前11時前に男性を発見しましたが、心肺停止の状態だったということです。
?また天狗岳では、10日に2人パーティーで入山した茨城県つくばみらい市の会社員の男性(41)が山小屋近くのテント場に向かう途中で仲間とはぐれ、行方がわからなくなりました。家族から要請を受けた警察などが11日午前8時過ぎに男性を救助しました。自力で歩行できるものの手に軽い凍傷を負ったと見られています。
警察によりますと茨城県の41歳の男性は10日、2人で八ケ岳連峰・天狗岳の登山口から入山し、東天狗岳山頂を目指していましたが、疲労から遅れたということです。その後待ち合わせ場所の山荘に着かなかったため、午後6時ごろ同行者から連絡を受けた男性の家族が警察に通報しました。
?東京都の会社員の男性(59)も10日午後に天狗岳から下山中に日没になり、11日午後救助されました。凍傷などの疑いがありヘリコプターで松本市内の病院に搬送され手当てを受けています。
いずれの山も八ヶ岳の中では冬山の入門コースとされていますが、警察は自分の体力やスキルを考慮した上、十分な準備と天候判断の上で入山してほしいと呼びかけています。
われわれが天狗岳に登高中、ヘリコプターが飛んでいたのは、?の救助のものだったよう。意味不明のトレースは、早く下山しようと地図も見ないで谷に下ってしまったのだろうか。
2人で入山し、「疲労から遅れ」がちな人と別行動をとるのは原則やってはいけないこと。ましてSOSを日没後に出すのは遅すぎ。
当日の天候、ルートを考慮すると、せめてどの場所にいろと指定し、小屋に助けに行くなどを、15:00くらいにしないと死亡事故になってもおかしくない。
?は、踏み跡をたどって元の場所に戻るという基本行動をどうしてとれなかったのだろう? また、道迷いのGPSを持って(スマホにGPSアプリを入れて)いなかったのだろうか? ?は無理な行程だったのでしょう。いずれも単独行。
長野放送の解説の通り、「自分の(冬山を前提とした)体力やスキルを考慮した上、十分な準備と天候判断の上で入山してほしい」とおもいます (ロ。ロ)/
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天井脇のトタンがめくれ、外気と接するたぶんマイナス10度を超える夜だったけれど、ダウンジャケットを着こんで冬用の寝袋に入っていたのと、普段の睡眠不足から、2日18:30から早朝4:30まで夢の中。
マグロやぼっちと同様、「動いていないと死んでしまう」人だっただろう円空は、越年の大峯山籠といっても、きっと山中を巡りながら修行をしていたはず。
それでも、歳の末から新年の頃ともなると、雪に振り込められて身動きがとれない日も続いたはず。
たぶん、鬱々とした日々だっただろう32歳までの前半生の後、西神頭家のもとで造仏を始めた寛文3(1663)年以降、蝦夷への冒険行、戸隠での窟修行、張振甫のもとでの鉈薬師の造仏、法隆寺での血脈拝受、中観音堂での諸像造顕、そして大峯での過酷な修行など、火が付いたように活動した10年あまりの歳月を、ようやく立ち止まり概観する夜もあったのでは―半ば夢でそんなことをぼんやり考えておりました。
2月初めの夜明けは遅い。待ちかねて小屋を出ると、月が竜ヶ岳−小篠の山上から、冴え冴えと光を届かせる。
「大峯や 神の使も 守らん 照ル月清キ 我庵」
この歌は、断崖の笙ノ窟ではなく、やはり、小笹ノ宿にふさわしい歌ではないだろうか。
6:00 薄明の中、小笹ノ宿を後に下山にかかる。
ヘッドランプが照らし出した、奥駈道沿いの空ろを抱いたモミの老木。
円空もきっとこの木を見上げたんだろうなと、ふとその息遣いを感じた心になる。
山上ヶ岳への登りで夜明けを迎える。大日山の岩峰を控えさせた稲村ヶ岳が朝日に輝く。
大峯山寺に戻ってまいりました。
7:30、山上蔵王堂とも呼ばれる本堂の前で一服。
行動食も木喰に心がけ、木の実のバーにしてみました。でも、よく見ると穀物のパフも含まれていた。。
大峯山寺を後に、宿坊の間を下り始める。
信者が大勢泊まるのだろう大規模な宿坊もすべて雪に埋もれて人影はない。
円空の年越し修行をした頃は、防寒も困難だっただろうから、雪中の大峯山寺周辺には人はほとんどいなかっただろうし、まして小笹ノ宿となると、今より修行の場として整ってはいただろうけれど、年越しするのは、相当過酷で孤独だったはず。
まあ、円空の場合、孤独は生来のもので、修行と共にカミホトケを身近に感じられるようにはなっていたのでしょうが。
下りは新道を使う。こちらは踏み跡があり、階段が多い。
土曜日なので、ここではじめて登ってくる登山者と出会った。
洞辻の茶屋で一服。参詣を証す張り紙などがあちこちに見られ、現在も生きた信仰の山なんだなと感じる。
大下りして11:00、母公堂に戻る。
お堂のお守りをされつつ、駐車場の管理もされている方に、淹れていただいたコーヒーをすすりながら、しばしお話し。
関西では、円空はあまり知られておらず、ましてや格式ある寺院などでは、どこか軽んじた反応が暗に返ってくることもある。
そんなこともあって、「円空のことを漂泊の乞食坊主なんて思っておられるる人もありますが」と前置きまを口にしたら、ムッとした気配が伝わった。
もちろん「しかし、そうではなくて、蝦夷の松前藩に呼ばれたり、しかるべき山岳修験僧で、遊行を始めたのは、修行を積んだ後のことではないかと思います」と話は続けたのではありますが―その「ムッ」としたニュアンスから、円空を敬愛されているのが伝わって、なんだか嬉しくなった。
お堂では、「円空彫り」の小さなお守りも頒布されていた。
洞川温泉まで引き返す。
温泉としての歴史は短いが、大峯山登山の拠点としての歴史は、その起源は役小角に従った後鬼の末裔によって起こされたと伝承されるほど長い。
一回ゆっくり泊まって、栃尾観音堂など天川をじっくり巡ってみたいなあと思いつつ、厳冬期踏査の今回は、和佐又を目指す。
14:10 和佐又ヒュッテ前に車をとめ、笙ノ窟をめざす。何とか、日没前には戻ってきたいもの。
以前は、スキー場だったというのに、山上ヶ岳側に比べると雪は少ない。
冬枯れの木々の間に大普賢岳や笙ノ窟のある日本岳方面が透かし見える。
さあて、夕暮れまでには戻らねば。。
一回積もって溶けかけた雪は、柔らかく、天川側のように凍結してはいない。
奥駈道の通る大峯山脈主稜線は同じ標高でも雪に埋もれているのと、対照的。
雪がめいっぱい積もって、滑落の危険があるような状態かと思った崖の道も、雪がなくて気抜けしてしまう。
大普賢岳を往復してきたパーティーとすれ違ったが、「こんなに雪の少ない年は珍しい」とのこと。
15:10 笙ノ窟に到着。手前のブナの木は相当な巨木であることを前提にこの画像を見てください。
いずれにしても。窟の前に平らな部分はほんの少ししかないから、積雪以前の時期にしても薪を確保したりするのは困難。
笙ノ窟の内部。今は不動明王の祠があるだけだが、かつて修行の堂があった痕跡が確認されているという。
窟の中に湧き水があるのが、ここを修行の好適地としているけれど、暖冬で雪のない今年でさえ、石筍状態に凍結していた。
水を確保するためには、氷を融かす薪がいるし、この場所に薪をストックしておくのも大変。
平安時代初期の日蔵上人から、高僧が笙ノ窟で修業をしたが、それを支えたのが、上北山村の天ケ瀬集落だったという。
また、逆に言えば、天ケ瀬集落は、笙ノ窟の周辺の修行の場を支えることで成り立っていたともいえる。
円空が、仮に冬越しの修行を笙ノ窟でするとしたら、水を確保するための薪の調達など、天ケ瀬の人びとに頼る必要がある。
しかし、天ケ瀬をはじめ大峰山脈主稜線東側の上北山村には円空の像は伝わらない。
やはり円空の冬越しの拠点は、円空の像が多く残る天川村が支えていた小笹ノ宿なのではないだろうか。
もっとも、円空が、笙ノ窟で修行したことは、次のような歌で明らか。
ただし、572の歌にある「ミそき(禊)」は、厳冬期では難しかったのでは。
570:こけむしろ 笙(の)窟にしきのへて 長夜のこる のりのとほしミ
571:□唐衣 笙(の)窟に打染て このよはかりハ すミそめのそで
572:千和屋振る 笙(の)窟に ミそきして 深山の神も よろこひにけり
日没も迫るので、鷲ノ窟までは足を延ばさず、引き返し。
登山口の、修行僧が残した和歌を詠むと、西行作も含め、どれも大袈裟だったり、概念的だったりする中で、円空の歌、素直に実感を表わしていて、一番しっくりくる。
かつて奈良県では希少なスキー場だった斜面を下り、16:35 和佐又ヒュッテまで帰着。
駐車料金1,000円払ったヒュッテに、戻りましたよ、と報告し、少々お話する。
やはり、こんなに雪の少ない年は珍しいそうで、数年前多い時は50〜60?積もったそう。
下山後、北山川と、支流天ケ瀬川の合流点に位置する天ケ瀬の集落へ立ち寄ってみる。
すでに廃村になって久しいようだった。
2万5千分の1地形図で見ると、この天ケ瀬から尾根伝いに笙ノ窟まで山道が通じていたのが分かる。
また、現在は国道309号線が天川村との間を大峰主稜線越に繋いでいる(冬季は通行止)。かつても峠道があったことでしょう。
地形図を見ても、天ケ瀬が重要な山岳修験の基地だったことがしのばれる。
今回は、天川村の里の部分を踏査することができなかった。(前回調査 2021年6月27日 円空ゆかりの大峰山麓天川へ)
また、大峯山寺は3度行っているが、戸開期間には訪れたことがないし、今回も本堂裏手の、伊吹山の行場と同じ名前の平等岩を確認することができなかった。
5月頃に天川村栃尾観音堂などを再訪して、円空の大峯修行のレポートをまとめたいと思います(ロ。ロ)/
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↑地図クリックで拡大)
2024年2月2日(金) 晴時々曇 単独行
自宅4:30―天川村母公堂(駐車)9:10…清浄大橋9:40…洞辻茶屋12:25…山上ヶ岳14:30…小笹の宿(テント泊)16:00
3日(土) 快晴
小笹の宿6:00…山上ヶ岳7:30…洞辻茶屋8:55…母公堂11:00―和佐又ヒュッテ(駐車)14:10…笙の窟15:25〜15:45…和佐又ヒュッテ16:35−天ケ瀬集落17:10−(上北山温泉薬師湯入湯後帰路)
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目下、円空の山岳修行のハイライトでありながら、はっきりとした足取りがつかみにくい大峰山での修行について追跡中。
円空が、大峯山中で厳冬期年越しの修行をしているのは残された和歌で分かっているのだけれど、それが山上ヶ岳に近い「小笹(小篠)ノ宿(おざさのしゅく)」だったのか、大普賢岳に近い「笙ノ窟」だったのかの特定がポイント。
その論点および11月23日に下調査したレポート:大峯・小篠ノ宿・笙ノ窟・鷲ノ窟踏査行
その調査のため今回は、旧暦の年越しの時期に当たる2月2日(金)天川村洞川から山上ヶ岳を経て小笹ノ宿で一泊し、翌3日(土)下山後上北山村和佐又から笙ノ窟を往復する計画。
まずは、一日目となる2日のレポートから。(↓地図クリックで拡大)
山上ヶ岳登山基地のなる天川村洞川(どろかわ)。
冬季は、大峯で修行した役行者の母を祀った母公堂(標高889m)の先で車は通行止めとなる。
愛車奥地君を有料駐車場にとめ、9:10出発。路面が凍ってツルツル状態。
9:40、清浄大橋たもとの大橋茶屋を通過。大駐車場があり、夏場は賑わうのだろう場所。
谷の向こうに大峯奥駈道の稜線を眺め、大橋を渡る。
橋を渡ったところが女人結界。稜線までずっとスギ植林の中の単調な登りが続く。
10:50 一本松茶屋を通過。戸のないトンネルのような造りの小屋で、中に縁台がベンチ代わりに置かれている。
天皇陛下が皇太子時代にお越しになっているようで、あちこちで記念の碑を見かけた。
一本松小屋を過ぎると尾根道となり、次第に雪が覆い始める。
グレーチングの橋を滑らないように用心しながら何回も渡る。
ようやく、スギ植林帯を抜けると、霧氷に覆われた広葉樹林帯となる。
12:25、洞川からの道が大峯主稜線の奥駈道と合流する洞辻茶屋に出る。
2014年に大峯奥駈大縦走をした時に通った場所で、懐かしい。
もう2つの茶屋を過ぎたところでアイゼンを装着し、しばらくで行者道と新道の分岐に出る。
ここは、円空をしのんで行者道を選択。小規模な雪崩跡も見られた。
大峯山上には登山道沿いの表行場と、本堂裏手の裏行場がある。
まず、表行場の鐘掛岩と対面。霧氷をまとって迫力あります。
お亀石を経て等覚門をくぐる。いよいよ大峯に来たなと実感する。
ちなみに「等覚」とは、(諸仏の覚悟は平等一如であるところから)仏のことで、この意味が転じて、 修行が満ち、正覚(しょうがく)の仏と等しくなった菩薩ぼさつの最高位をさすんだとか。
次に登場するのが、行場のハイライト、西の覗き。
西に向かう断崖で、ここから足をもって下ろされて懺悔するんだとか。
とても見晴らしがよく、北には、今登ってきた奥駈道が、樹氷の白をまとって眺められる。
閉ざされた大きな宿坊群の間を通って、大峯山寺に出る。
平日のためか、ここまで誰とも出会わなかった。さみしいので堂前にザックを置いてみました。
本堂の南が山上ヶ岳の山頂で一等三角点と、役行者が蔵王大権現を感得した場所とされる湧出岩が、石の柵に囲われてある。
円空も間違いなく立った場所でありましょう。
南に弥山、八経ヶ岳方面が望まれる。
本堂の先から東方面を見る。樹林に包まれた小笹ノ宿のある竜ヶ岳(1,726m)と、その先に白い大普賢岳(1,780m)が。
まずは大下りして、小笹ノ宿に向かう尾根道に入る。
雪は深く、つぼ足で静寂の中をもくもく進む。
16:00、小笹ノ宿に到着。ここを訪れるのも3度目ともなると、懐かしい気持ちになる。
赤い行者堂の先に、現在の「小笹ノ宿」がある。
雪が深くてこたが仕えないことも想定し、テントも持参したけれど、まったく大丈夫でありました。
今は積雪40?程というところだけれど、地球温暖化する前の円空の頃、雪は、1mはあったのでは。背後が竜ヶ岳。
これだけ標高が高く寒いのに、沢水が凍らずにある。これは、竜ヶ岳からの湧水がここに湧き出るためらしい。
冬でも確実に水が得られるのは、得難いことだったでしょう。
今年の干支の山でもあるので、竜ヶ岳(1,726m)にも登ってみた。
円空が「昨日今日 小篠(の)山二 降(る)雪ハ。 年の終(り)の 神の形(かげ)かも」と詠んだ小篠の山は、竜ヶ岳でほぼ間違いと確信が得られた。
夕食は、円空をしのんで五穀断ちで、「そばがき」にしてみた。
味付けの「しょうゆ糀」に、米糀が使われていたのは不覚。。
行者堂の前から西に日没を拝む。稲村岳が最後に赤く染められる。
さて、今夜は寒そう。しっかり着込んで寝よう。
((2)に続く)
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「猪」の付く山はあまり多くないので、亥年には多くの登山者がある。
ちなみに、十二支本来の「亥」の付く山は極まてまれで、三重県尾鷲市の亥谷山しかないのでは。
国道368号線を西進し、松阪市飯南町深野に入る。
ここは見事な石垣が積まれた「深野のだんだん田」で知られ、日本棚田百選にもなっている。
棚田の中の細い道の向こうに、白猪山が見えてくる。
深野の最奥、夏明という集落の山の入口に白猪山の夏明登山口がある。
駐車場に愛車奥地君をとめ、登山届ポストに届けを出して、13:10登山開始。
少し進むと、矢下集落からはじまる矢下登山口とをつなぐ連絡路を右手に分ける。
棚田の石垣を積む関係もあってか、登山道はずっとセメントで舗装されている。
橋を渡ったところに不動小屋というトタン張りの小屋がある。
登山道脇の、炭焼窯の石組みも、他所のものよりしっかりしている。セメント張りの登山道はなおも続く。
単純なスギ植林の中に、広葉樹林を見つけるとほっとする。
矢下からの登山道と合流する場所が二ノ峰で、石尊大権現が祀られている。
宝暦9(1759)年に「今の神奈川県大山寺より迎えまつられた。本尊は不動明王である。」とある(<余禄>参照)。
石尊大権現の祠の脇に南無妙法蓮華経と彫られた六部供養碑があった。
六部とは、日本廻国大乗妙典六十六部経聖を俗に略したもので、法華経を66部写経し、日本全国を巡って66の国々の寺社に納経する修行者のことをいう。
行き倒れになるものの多かったようで、この碑も、そのような六部を供養したものらしい。
石尊大権現と道を挟んだ東が裸地にされていて、櫛田川をはさんで南に大台山地の山々が重畳する。
二ノ峰から山頂まで、登山道沿いは刈り払われている。大きなモミの木がわずかに残されていた。
14:20、登山開始から70分で二等三角点のある白猪山山頂に到着。
ふる里の山といったたたずまい、伊勢の国が広く眺められる。
『勢陽五鈴遺書』には、「近郡ノ高嶽ナリ。堀坂嶽、局嶽及ヒ白猪嶽ノ三嶽ヲ海東ヲ渉ル運舶ノ的トナス、船人三ツ(伊勢ノ三星)ト称ス」と記されるので、遠く伊勢湾からも船乗りの目当てとなったらしい。
下山途中、見落としていた石の祠を確認。祠前の灯籠に、宝暦14年の年号があるので、石尊大権現が祀られた少し後のもののよう。
「廓(?:読めない)代」と彫られているのが気にかかる。
往路に立ち寄らなかった不動の滝も拝んだ。不動信仰の山だったんだな。。
矢下へのルートで下山しようかとも思ったけれど、大事を取って同じ道を引き返し、15:30下山。
再び見事な石垣の棚田の間を下っていく。
これだけ何代もかけて造られた見事な石組みも、石尊大権現の信仰と、どこかで通じているのかもしれない。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩) (↓地図クリックで拡大)
2024年1月27日(土)曇時々晴 単独行
自宅4:30ー長尾峠(MTB 駐輪)8:00―大峠(駐車)8:25…南峰(960m)9:05…古光山9:25…後古光山10:20…長尾峠11:00=大峠11:30―夏明登山口(駐車)13:10…二ノ峰14:05…白猪山14:20〜14:30…夏明登山口15:30―(帰路)
<余談>
石尊大権現という存在を知らなかったので調べてみた。
たしかに大山寺の本尊は不動明王なのだが、これと石尊大権現は別で、十一面観音が本地仏だとのこと。
ただ、このような取り違いは、他所でもあるようです。
「新編相模国風土記稿」巻之五十一(村里部 大住郡巻之十)「石尊社 当山(=大山)の本宮にして山頂にあり 【延喜式神名帳】に載せし、阿部利神社是なり、 祭神鳥石楠船尊、 神躰秘して開扉せず(縁起に載せし往昔彩光を発せし像是なりと云)、 本地十一面観音(坂本村観音寺境内に置)」「坂本村観音寺 (中略)本地堂 大山石尊の本地仏、十一面観音(長七尺余行基作)を置」。
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奈良県宇陀郡曽爾村と御杖村を中心に、宇陀市東北部および三重県名張市南部にかけて広がる山地で、約1500万年前のというたいへん古い時代の火山活動がベースになって形成された山々。
火山といっても次のような存在だそう。↓「HP:火山学者に聞いてみよう」より
Q 三重県に住んでいます。三重県と奈良県とにまたがって室生火山群というのがありますが、何故こんな所に火山が生まれたのか、もう火山とも分類されないような存在らしいですが、今後再び活動をする可能性はないのでしょうか。教えて下さい。
中学時代は火山学者を夢見てたおじさん。:公務員:40
A 室生火山岩群は1500万年前頃に日本列島で活発に活動していた火山の噴出物で あり、西日本に点々と残っているもののひとつです。何故こんな所に火山が生まれたのかについてはあまりわかっていません。現在日本で噴火している火山 とか今後噴火の可能性のある火山は、およそ200万年よりあとに日本列島を縦断して形成された火山帯の上にできています。室生火山はこれらの位置からは ずれており、また火山活動がはるか以前に終わっていますので、今後活動する可能性は全くないと思います。
鎌田浩毅(地質調査所大阪地域地質センター)
この山域の主な山としては、西部の室生川と青蓮寺川の間に連なる住塚山(1009.4m)、曽爾三山: 屏風岩、鎧岳、兜岳(893.9m)、東部の名張川より東に連なる尼ヶ岳(957.4m)、大洞山: 雄岳(1013m)、雌岳(985.1m)、そして中央部の青蓮寺川と名張川の間に連なる、倶留尊山(1037.6m)、亀山(849m)、古光山(952.7m)がある。
火山岩の柱状節理など、低山ながらなかなか迫力と個性があるこの山域を巡ってきて、そのラストの山、古光山(こごやま)に、1月27日(土)を訪問。
大峠から登り出し、最高地点の南峰(960m)を経て、三角点のある古光山(952m)、後古光山をつなぎ長尾峠に下る、プチ縦走。
長尾峠にMTBのジャイアン号を待たせ、大峠から、8:25登山開始。
斎場と太陽光発電に挟まれた登山口であります。。
植林帯を抜けるとコナラやリョウブ、アセビなどの樹林帯の中の稜線となる。
約40分で南峰に到着。三角点はないけれど岩峰なので見晴らしは大変良好。
西側には青蓮寺川沿いに展開する曽爾村をはさんで、住塚山、国見山、曽爾三山と呼ばれる柱状節理の見事な 屏風岩、鎧岳、兜岳が並ぶ。
行く手には、古光山、後古光山、ススキの原のある亀山、倶留尊山と縦走路が続く。
南峰からの急な下降には、雪もあるので慎重に下る。
9:25、ちょうど大峠から1時間で三等三角点のある古光山山頂に着く。
西側は植林帯、東側は落葉樹林なので木の間越しに、尼ヶ岳、大洞山、そして火山群からは外れるが学能洞山が連なる。
実は、ここから後古光山の間の急下降、急登がクセモノで、ロープは張られているものの、雪などあると初心者は大変そう。
後古光山への登り返しは、岩の急登。
後古光山から先は、樹林帯の中の鎖の手すり付きの長い階段。
11:00長尾峠に到着。少し先に待たせたジャイアン号で大峠へ引き返す。
途中、南峰から古光山本峰がよく眺められる、もっと麓から見ると、なかなかかっこいい連山に見えることでしょう。
大峠の手前にある御杖村側には、みつえ高原牧場が広がり、その向こうに雪を被った三峰山(1,235m)が。
ほんの3時間の行程だけど、展望も良く、ほどよく岩稜の緊張感も味わえる好ルートでありました。
今回で、室生火山群の主だった山を制覇できたのも嬉しかったです。
<登山記録> (ー:車、…:徒歩)
2024年1月27日(土)曇時々晴 単独行
自宅4:30ー長尾峠(MTB 駐輪)8:00―大峠(駐車)8:25…南峰(960m)9:05…古光山9:25…後古光山10:20…長尾峠11:00=大峠11:30―夏明登山口(駐車)13:10…二ノ峰14:05…白猪山14:20〜14:30…夏明登山口15:30―(帰路)
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マグロのように動いていないと死んでしまうぼっちの悲しき習性ゆえ、円空探訪の方に精を出しておりました。
13日(土):長間薬師寺訪問記
同 日 :中観音堂訪問記(1回目)
同 日 :天喜寺訪問記
そして、20日は知多半島の先端南知多町、21日は渥美半島の先端田原市に遠出。
20日の場合、ぼっち家の年中行事、「冬の日間賀島フグツアー」が先にあったんですがね。
知多半島の先端の南知多町には、慈光寺の宇賀弁財天像、如意輪寺の薬師如来立像、成願寺の善女竜王像と三体の円空像が伝わる。
そのうち、20日午前中に、まず浄土宗西山派の臨海山慈光寺を訪問。
山号のとおり内海港に向かい合う山際に位置する。
本堂の、宇賀弁財天とご対面。
中尊は、弁財天の頭上に宇賀神、そして稲荷の鳥居を付けて稲荷神と習合したお姿で、ご利益が拡大。
弁財天は、海の女神である市杵島姫命の本地仏とされ、海難避けの仏として、江の島などにも祀られている。
そこに、水の神宇賀神、農耕や商売の神稲荷神が習合しているありがたい像。
眷属の十五童子や大黒天、毘沙門天、さらには宇賀弁財天の八本の腕のうち宝珠を抱く2本の腕以外、そして持物や宝冠は後で補われたものだが、この厨子の群像は、戸隠九頭龍権現の本地仏として伝わる像ときわめてよく似ている。
ちなみに、南知多町の図書室で『南知多町史』を確認したところ、このお厨子の群像は「大善院管理者より寄贈」されたとあった。
慈光寺の下手にあったお堂に納められていたようで、おそらく円空と懇意だった船主のために造られた像ではないだろうか。
慈光院の石段下には、明治初期の建築になるが、尾州廻船内海船船主内田佐七家、その船頭として活躍し、佐七家の娘婿となった分家の内田佐平二家の家屋が並び建つ。慈光院は彼ら船主の菩提寺だった。
円空の活動期にあたる寛文年間には、知多郡8カ村に144艘の廻船があったという(シリーズ愛知『知多の歴史』福岡猛志著)。
慈光寺を後に、知多半島先端の師崎港で家族と合流、日間賀島に渡りフグ三昧。
画像にはヒレ酒が映っておりますが、午後の拝観があるので、ぼっちはノンアルコール・ビールを飲んでおりました。
日間賀島にも弁財天の赤い幟(のぼり)が並んでいた。
午後は、同じく南知多町片名港に近い、曹洞宗神光寺成願寺を訪問。
善女竜王像とご対面。像高91.6?の龍と一体化したような迫力ある御像であります。
翌21日は、渥美半島の田原市福江町に位置する浄土宗間宮山栖了院(せいりょういん)へ。
同地の旗本だった間宮家の菩提寺で、間宮家はその後尾張藩士に転身。
そして、家老職を務めた間宮大隅守が寛文8(1668)年に没し、その下屋敷が尾張藩第2代藩主徳川光義から張振甫に与えられ、そこに鉈薬師が建立された。
張振甫を介して、間宮家と円空は関わりがあったと考えられ、鉈薬師での造像と近い時期に造られた如来像と不動像が、間宮家に祀られてきた。そして、昭和3年に如来像が、同43年に不動明王像が、ご子孫から、栖了院に寄進されたといういきさつ。
円空が直接渥美半島を訪れた足跡は確認されていない。
ご住職が、庫裏の一室に2体の円空像を出してくださり、ありがたく拝ませていただいた。
鉈薬師の諸像に接する時期に造られたと考えられる様式。
丁寧な彫りの如来像は像高45.5?、鉈薬師の十二神将像につながるざっくりした彫りの不動明王像は59.5?。
円空の不動明王像は、現在分かっている限りでは、本像が一番古い。
お寺に伺い、円空の像を拝し、ご住職などに由緒などを伺うには、相当なエネルギーが必要。
寺を辞して、呑海という食堂で、鯛の煮つけ定食と、穴子フライ定食と、単品カキフライ3個を注文。
カキフライは、3個くらいのカキを一つにまとめて揚げてあるボリュームたっぷりなもの。
すべておいしくいただきました。
腹ごなしに、伊良湖灯台まで足を延ばし、伊勢湾に浮かぶ神島をみはるかす。
神島には円空の像は確認されていないが、伊勢や二見ヶ浦の和歌とともに、次の4首の神島の和歌を、詠んでいる。
677 :神嶋や 朝日の山の 花ならば 折<ヲル>度事二 香起(こせ)よ
898 :神嶋や はマの沙<マサコヲ> <カソヘ>ツゝ 通へる鳥ハ 玉かとそミる
1289:神嶋の 宮の主の 薬子は 命ヲのふる<ノブル> 事の<コトノ>の初めに<ハジメニ>
1297:神嶋や 祭る主(の) 玉なれや 心の内の 六の清きに
円空は、名古屋では熱田神宮を拠点にしていたようで、和歌や漢詩を残している。
熱田神宮のある宮宿は、東海道最大の宿場で、ここから分岐する美濃路で中山道ともつながっていたし、桑名への渡しもあった陸運・海運の要所。
円空は、伊勢に幾度か訪れ、志摩にも足跡を残している。
尾張から伊勢国への陸路には、円空像は移入像以外残っておらず、唯一の例外が、港町津市下弁財町の真教寺閻魔堂に伝わる十一面観音像。
それに対し、尾張藩領である知多半島側には、南知多町の像をはじめ東海市などにも円空の像が伝わる。
円空は、伊勢・志摩への往来、あるいは津経由で大和に向かう折には、尾張藩領の知多側の廻船などに乗せてもらっていたのでは―そんな気付きもあった週末でありました。
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その恒例が、昨年は新型コロナに罹ってできずじまい。その結果かどうか、直後、大きなトラブルに見舞われた。
今年こそは、わくわくドキドキはしつつも、平穏無事に過ごせますように、ということで雪の伊吹山をながめつつ、京都へ。
まずは、北野天満宮。初詣のピークも過ぎて、のんびりお参りができるのも、なかなかいいもの。
現在の壮麗な社殿は、慶長12(1607)年に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したもので国宝。
屋根には雪が残り、梅の花弁は固かった。
北野天満宮にお参りしたら、名物長五郎餅をいただくのも恒例。
天正15(1587)年、北野天満宮で豊臣秀吉が開いた北野大茶会で、初代・河内屋長五郎が献上した餅が気に入られたことから、この名を名乗ることを命名されたという由緒ある餅菓子であります。
参道脇の、北野天満宮の神宮寺だった観音寺にも立ち寄り。
本堂脇の行者堂は、山仙人をめざすものとして、ご挨拶をしておかないわけにはいかない。
明治時代を中心とした、大峯修験にまつわる石碑や額が多くみられる。
バスで祇園に移動、八坂神社に向かう途中、抹茶パフェの名店・祇園小石の席が空いていたので、抹茶パフェ愛好家としては、立ち寄らないわけにはいかない。
新型コロナウイルスの行動制限も一段落し、京都へ当たり前に行けて、当たり前に抹茶パフェを食べられる幸せを嚙みしめる。
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さて、京都で厄除けといえば、ここ八坂神社。
昨年の大きなトラブルの後、お祓いをしてもらい、何とかその後は無事に過ごせたので、そのお礼も兼ねて初詣で。
明治初年の神仏分離以前は、祇園精舎を護る牛頭天王を祀っており、祇園社、祇園感神院、祇園天神社、牛頭天王社などとも呼ばれていた。
現在の本殿は、承応3(1654)年、徳川家綱により再建されたもので、国宝。
一般の神社では別棟とする本殿と拝殿を1つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式である「祇園造」で建てられている。
大谷本廟を経て、浄土宗総本山の知恩院へ。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院であります。
ただし、現在のような大規模な伽藍は、浄土宗徒であった徳川家康が慶長8(1603)年に知恩院を永代菩提所と定めて寺領703石余を寄進したうえ、翌9年に隣接する青蓮院の地を割いて知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行って以降となる。造営は2代将軍秀忠に引き継がれ、現在の三門は元和7(1621)年に建設されている。
中心となる法然像を本尊とする御影堂は、寛永10(1633)年の焼失後、同16(1639)年に3代家光によって再建されたもの。
久しぶりに、中に入ってお参りしたが、圧倒的なスケールの建物、法然上人像の左側に安置された於大の方(徳川家康の生母)、家康、秀忠の巨大な厨子などがあり、幕府の宗教政策によって法然の想いとはずいぶん違う方向にいってしまったんだなあと感じてしまった。
巨大な三門の柱はケヤキ材、ほかはヒノキ材の巨木が惜しげもなく使われている。
戦国時代末期から江戸前期にかけての約百年で、城郭建築、そしてこのような巨大建築のために列島のほとんどの高木林が裸にされた。
17世紀には、木材不足が顕著になり、伐採の規制がはじまったが対策としてはまったく不十分で、18世紀になりようやく造林技術が広まってくる(コンラッド・タットマン著『日本人はどのように森をつくってきたのか』)。
円空が生きたのは、ものすごい勢いで木材が消費され、木材を求めて秋田、青森、北海道にまで伐採が進み、これに伴い海運が盛んになっていく、そんな時代だった。
そんな貴重な木材でできた巨大建物は、日本の木材を使っては、もはや再現不可能、まさに「国宝」であります。
東山を後に、鴨川を三条大橋で渡って、寺町通の下御霊神社と革堂にもお参り。これで、恒例の初詣では無事終了。
久しぶりに、寺町通の茶舗一保堂に入り、紅梅のお菓子と煎茶で一服。
煎茶をゆっくりいただく時間的余裕が、貧乏性のぼっちは普段なかなか得られない。
そんな時間も大切に味わわせていただく。
以上、近世巨大建築三昧+甘味三昧の京都初詣行でありました。
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1月6日(土)〜7(日)、長野市の飯綱高原に位置する大坐小屋に被害はなかったか確認に。
おかげさまで、倒木もなく、ひと安心。それにしても、1月でこれだけ雪が少ないことも珍しい。
雪下ろしの必要もないので、一の鳥居をくぐって飯縄山に初登り。今回は、登山靴ではなく、長靴にしてみた。
登山道沿いの道標がわりの十三仏もすべて顔を出している。
十三仏とは、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる十三の仏(正確には如来と菩薩)で、十三回の追善供養を司る仏でもある。飯縄山のものは、文化13(1816)年に建立されている(阿弥陀、阿閦は後補)。
飯縄山や戸隠山周辺の石造物は、文化・文政期のものが多くみられ、化政期の市民文化が花開いた頃、飯縄や戸隠の信仰も広がっていたことがしのばれる。
ほかに、高妻山〜乙妻山、高杜山などにも十三仏がある。
樹林帯を抜け、振り返ると旧戸隠村(長野市戸隠)一帯が眺められる。
山中に平があって、田畑や村落が営まれている。隠れ里の風情。
飯縄神社のある南峰(1,909m)から、一夜山〜西岳〜戸隠山〜高妻山を望む。
12:40に登り始め、14:30に山頂(北峰:1,917m)に到着。背景は四阿山から浅間山。
豪雪の年は、大きな山名標が雪に埋もれてしまうのに、今年がすべて露出し、さらに三角点の標石さえ頭を出していた。
地球温暖化が進むと、山岳風景も、登山のスタイルも変わってしまうのかな。。
翌7日は、天気も今一歩なので、戸隠神社の中社に初詣をして、戸隠蕎麦の名店「うずら家」へ。
周辺は、大規模な宿坊などが多く、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
うずら屋の脇には、樹齢800年ともいわれる中社の三本杉の一本がそびえる。
円空が戸隠を訪れているとすれば、この杉を見上げていたはず。
今回は家族6人で来ているので、大盛ざるそば2枚分の大権現盛りや、きのこの天婦羅などを注文。
蕎麦を小さく分けて盛るのを、ぼっちの名前の由来の一つでもある「ぼっち盛り」という。
ぼっちには、法師という意味が背景にあるそうで、さらには、伝説の大男ダイダラボッチにも通じる。
いずれにしても、最近気付かされたのは、戸隠の名の由来を、「天照大神が隠れた天岩戸を天手力雄命が投げ飛ばした場所が、現在の戸隠山である」とするのは、明治の神仏分離を経て戸隠神社になってから強調されたもので、もう一つの由来、『戸隠山顕光寺流記』にある、「嘉祥3(850)年、学門行者が、信濃飯綱山で祈念したのち、霊地をもとめて金剛杵を投げた。その落ちた場所の岩屋で読誦すると、九頭竜が顕れ、伽藍をたてよと告げて岩屋に入り戸をとじて姿を消した。この地に寺をたてて戸隠寺とし、山に戸隠山と名づけた」の方が、往年は一般的だったこと。
円空も、こちらの伝承を念頭に置いていたはずで、戸隠を詠んだ3首の和歌では「戸隠」ではなく、「戸蔵」の文字を使っている。
240:天戸をわ<チワヤフル> 九頭の龍王 擁護して 形なれや 戸蔵す神の 幾夜経らん 御形なりけり
552:くりからの のめる刃(つるぎ)の 形も哉 あまねく守る 戸蔵(とかくし)の神
561:ちわやふる 天岩戸を ひきあけて 権(かり)にそかわる 戸蔵の神
なお、戸隠村の名は、明治になってからのもので、宿坊のあったあたりの集落は、「戸隠山門前」と呼ばれていたらしい。
ーどうしても、心はすぐに円空の時代に飛んでしまって、すみません。
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標高200mあまりで、「続ぎふ百山」になっている。ぼっちの家の文字どおり裏山。
山上に役行者が持統天皇の勅命で開いたとの言い伝えがある古寺:真言宗の明星輪寺がある、中山道赤坂宿に面した歴史ある山。
しかし良質の石灰岩でできた山なので、急ピッチで削り取られ、今は明星輪寺と、そこに至る参道だけが残され、ほとんどすべて削りつくされた状態。「標高200mあまり」としたのは、現在の標高不明のため。
下図のように、これだけ岩崖と窪地の地図記号で埋め尽くされた2万5千分の1地形図もあまりないでしょう。
ただし、濃尾平野の西端に断層活動でそそり立つ山だけに展望の良さは、今も昔も変わらず、ご来光を仰ぐには格好。
夜明け前の6:00集合、途中までは鉱山道路、後半は参道になり、鎌倉時代の仁王像がにらむ寺門をくぐる。
本堂奥の岩窟に本尊虚空蔵菩薩を祀る明星輪寺の本堂にお参りした後、境内裏手の岩ノ巣公園の上に向かう。
岩ノ巣とは、カルスト地形の一種であるピナクル(石灰岩柱)と岩石表面のカッレンフェルト(溶食水溝)からなる地形を、そのように名付けたもので。この岩上が、格好のご来光展望場所となる。
今年は、新型コロナも5類になったせいか、ここ5年くらいでは例がないほど、ご来光を待つ人―特に若者が多かった。
今年は快晴で、暖かく、心穏やかに初日の出を待つことができた。スマホやカメラを構えながら、東の地平線に登るご来光を仰ぐ。
振り返れば、昨年は新型コロナで元旦は臥せっていた。今年は元気で過ごせますように。。
少し北西に目を向けると、高層ビルの建つ岐阜市と、その背後に恵那山、手前に金華山、百々ヶ峰、そして12月29日に登り納めに行った如来ヶ岳、その背後に木曽山脈。その北の御嶽山は雲の中。
岩ノ巣公園の奇岩の間を通って、無事下山。今年も安全登山でいきましょう。よろしくお願いします。
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ぼっちの名は、伝説の山の巨人 ダイダラボッチから頂いたもの。
しかし、日本300名山など全国的に有名な山はほぼ登りつくし、日本最大の山岳百科事典「新日本山岳誌」(日本山岳会編)掲載の、全国約(あばうと)4000山を山修行の場に定めてからは、独りぼっち我が道を行く方の、ぼっち、といった方がいいのかもしれない。
性格は、全般には、まめで淡泊な方じゃないかとおもうけど、こと山に関してだけは、まめで執念深い。
5年かけて岐阜県の山岳454山の半数以上を登り、2021年に『岐阜百秀山』(ナカニシヤ出版)を刊行。
現在は、2022年から5カ年かけて、山岳修験僧円空の足取りを「『円空の冒険』追跡」と銘うって追いかけている最中。
そんな山馬鹿の、2024年の山修行目標、いってみます。
目標1:行けるところから「WALKあばうと日本4000山」
・地元山の会のリーダーを仰せつかることが多いので、すでに登った山が多くなる。それもまたよし。
・それでも登ったことのない日本4000山には、挑み続けたい。
3月末で仕事をリタイアする予定なので、「ぼっち登山」にて、高島トレイル踏破、飛騨百山、関西百名山などを登っていきたい。
・あと、地球温暖化で積雪確保できるか分からないけれど、懸案の県境稜線の屏風山周辺、仙人窟岳〜笈ヶ岳も挑んでみたい。
目標2:「『円空の冒険』追跡」3年目完遂
・「円空仏」で知られる江戸前期の山岳修行僧円空は、山岳登攀においても卓越した存在だった。
2024年は、その円空の足取りを「『円空の冒険』追跡」として5カ年計画で追いかける3年目に入る。
・円空が本領を発揮する、寛文後期、延宝、天和という時期を追いかけることになり、山岳関係では大峯山の厳冬期修行、戸隠や日光での山岳修行などを含む。
円空は、めちゃくちゃアクティブなので、約30年の活動期間を5年で追いかけていくのは相当過酷なんだけど、その分、わくわくドキドキも沢山体験できそうなので、なんとか食らいついていく所存。
目標3:登攀修行続行
・こと登攀については、登山を楽しむ、登山技術を磨くというより、「『円空の冒険』追跡」に不可欠なスキルを身に着けたいということに尽きる。
今後伊吹山不動の滝の崖や、円空飛騨山脈登攀ルートと想定される双六谷溪谷遡行などに挑む必要があるので、地元山の会の講習や山行に積極的に参加し、精進したい。
以上、体調管理をし、安全登山に心がけながら、進める予定。
今年もよろしくお付き合いください (ロ。ロ)/
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2023年新年早々新型コロナに感染、臥せりながら立てた登山目標は次の三点。さて、実際はどうだったか。
目標1:原点に返って「WALKあばうと日本4000山」
・新型コロナ禍の行動制限で、知らない土地の知らない山を登るドキドキ感、ワクワク感から少々遠ざかり気味。
今年こそ東西南北いろんな場所の、高山・低山・珍名の山を巡ってみたい。
目標2:「『円空の冒険』追跡」2年目完遂
・5カ年計画でその足取りを追う2年目は、寛文6(1666)年蝦夷地に渡り、延宝元(1673)年〜2年頃にかけて厳冬の大峯山中で越年修行をするまでで、かなりハードな踏査になりそう。円空の登った山、籠った場所で追体験もしてみたい。
目標3:登攀修行続行
・昨年に引き続き、地元の山の会で登攀修行に励み、剱岳に挑戦してみたい。
<1月>
8日(日)、病から回復し、ようやく遅ればせに金生山初登り。
<2月>
5日(日)、地元山の会で一度積雪期に行きたかった、北飛騨好展望の猪臥山(1,519m)に雪を踏む。
11日(土)〜12日(日)、飯田〜岡谷が積雪通行止めとなり、東海環状自動車道〜東海北陸自動車道〜北陸道〜上信越道と大回り、所要7時間。ー2月の大坐小屋たより−遠回りの雪下ろし。
25日(土)〜26日(日)、地元山の会でテント泊の能郷白山・磯倉登山を計画。ただし16日は視界不良で能郷白山までの往復に。
<3月>
3月4日(土)〜7日(火)は、『円空の冒険』追跡調査行で連れ合いと青森・函館へ。機上船上からの冬山観察にわくわく。
19日(日)は、日本山岳会東海支部の行事として、大日ヶ岳でイグルー講習会。
地球温暖化で、貧雪に悩まされ、積雪期に計画していた県境の縦走は、できずじまい。そのかわり、21日(火祝)は、イグルー講習会で大日ヶ岳に行った折、稜線にたっぷり雪が残っているのが確認できたので、急遽、懸案だった芦倉山の南鞍部〜天狗山〜大日ヶ岳の稜線を縦走。天狗山〜大日ヶ岳―鳩居十宿中央部周回。
25日(土)〜26日(日)は、冬じまいに大坐小屋へ。森の杏の花盛りに出会えた。3月の大坐小屋たより−遅い春の早い春。
<4月>
1日(土)は、ふらりと単独行で室生古火山帯の山々へ。桜の季節に―尼ヶ岳・大洞山・学能堂山。
9日(日)は、地元の山の会のメンバーを飛騨山脈へご案内。紺碧+純白の十石山(2525m)。
16日(日)は、大峯奥駈道から外れるため登り残していた、大峰山脈懸案の山―稲村ヶ岳(1,726m)へ。
大峯山は、円空が寛文12〜13(1672〜1673)年頃に厳しい修行を行った場所でもあるので、踏査下見も兼ねて。
23日(日)は、地元山の会で市民登山のサポート、市民登山−三十三間山〜ろくろ山周回。
<5月>
1日(月)は、三十三間山登山で知った、高島トレイルに第1回目の挑戦。高島トレイル<その1>―乗鞍岳〜赤坂山〜大谷山。
2024年はその続きにも挑戦したい。
2023年5月3日(水祝)〜5日(金祝)は、地元山の会で春山合宿ー蝶ヶ岳・常念岳。
20日(土)は、連れ合いと桂離宮に行ったついでに、円空ゆかりの地でもある石清水八幡宮・鳩ヶ峰(142.4m)へ。
<6月>
4日(日)は、本来3日〜4日で、地元山の会で別山を往復する予定が、2日線状降水帯の影響から、日帰りで銚子ヶ峰までを往復。
2023年の夏は円空の蝦夷での活動を追う3回の追跡行で登山は二の次になりがちでありました。
8日(木)〜12日(月)、北海道渡島半島の日本海側に「円空の冒険」追跡のため約250?をMTBでツーリング。
24日(土)〜25日(日)は、緊張の単独北海道ツーリングも無事完了し、大坐小屋へ。6月の大坐小屋たより−ヤマネ君棲みつく。
<7月>
2日(日)は、地元山の会で近江のかつて名高い山岳寺院のあった山へ。山岳寺院の記憶−己高山(こだかみやま:922.5m)。
7月14日(金)〜17日(月祝)は、旧松前藩東半分を中心に、「円空の冒険」第2回北海道踏査に行ってました。
今回は連れ合いと自動車利用で、またまた登山はなし。
22日(日)は、地元山の会で芥見権現山登攀訓練。
29日(土)〜30日(日)は、地元の山の会で奥美濃の千回沢山を入谷から遡行、久しぶりの旧徳山村門入は、より寂しくなっておりました。奥美濃の奥の奥―千回沢山。
28日は、山仲間のTuboさんがクマに襲われるという大事件も発生。
幸い回復されたけれど、本当にクマの出没が相次いだ年でありました。【重要】山仲間へのクマ襲撃から学ぶこと。
<8月>
3日(木)〜8日(火)は、第3回「円空の冒険」として、円空が和人の領域:松前藩を離れ、アイヌ人の土地:蝦夷地を巡った足取りを踏査。今回は、単独行で、山岳調査もやりました。Tuboさんのクマ被害を聞いた直後なので、緊張感が高かった。
「円空の冒険」蝦夷地踏査(1)―砂原岳(1,112m)ー円空が初登頂を像の背銘に記録した「うちうら乃たけ」
「円空の冒険」蝦夷地踏査(2)−小幌の窟(いわや)ーヒグマの恐怖と闘いながら円空が籠った窟屋に一夜を明かす
「円空の冒険」蝦夷地踏査(3)−有珠山(宇須嶽)ー円空は寛文3年に噴火して間もない有珠山に初登頂している
「円空の冒険」蝦夷地踏査(4)−寿都町海神社ー円空が初めて山名を付けたと考えられる山々を眺めて円空のご神体のある神社へ
「円空の冒険」蝦夷地踏査(5)−八雲町山越諏訪神社ー早朝豪雨の中を移動
「円空の冒険」蝦夷地踏査(6)−恵山(えさん:618m)ー登頂の記録は残らないが、足取りを想定すると登った可能性がある活火山
「円空の冒険」蝦夷地踏査(7)−権現山内浦神社ー先に登った「うちうら乃たけ」をご神体とする神社で、菅江真澄が有珠善光寺で拝した、「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給」の背銘のある像、そのものが、今は本神社に移され、その実物と感動の対面
「円空の冒険」蝦夷地踏査(8)−江差町笹山ー第1回調査で懸案になっていた、円空の神体像がかつて置かれていたという笹山(611m)を踏査。ここも、夏場は人の気配がまったくなく、ヒグマ怖かったなあ。。
珍名の山の極北−貧乏山(501m)ー蝦夷地踏査も一区切り。珍名の山が多い北海道でも、ぼっちが長い間憧れていた貧乏山に。ここも、結果してヒグマの恐怖半端なし。。
「円空の冒険」蝦夷地踏査(9)−乙部町三ツ谷観音像ー天候不順な第3回踏査の最終日、第1回調査で見残した松前藩日本海側のお像を見納めに。
11日(金・山の日)〜13日(日)は、地元の山の会で、黒部の赤木沢を遡行する計画が台風の影響を考慮し直前に中止。
どこも行かないのも忍びなく、12日白馬岳を大雪渓で日帰り往復。遭難救助するというおまけがつきました。
20日(日)は、播隆ゆかりの「播隆地蔵祭」が8月20日(日)、揖斐川町春日笹又で新型コロナ禍後5年ぶりに復活、日本山岳会東海支部が協賛させていただくことになったので、参加してきました。槍ヶ岳開山:播隆地蔵祭復活。
<9月>
2日(土)〜3日(日)は、大坐小屋管理人として年間で最も大変で大切な作業、敷地の草刈りに、連れ合いと孫ぼっち君と出向。
9日(土)〜10日(日)は、岐阜県民スポーツ大会の山岳競技が関市の本城山で開催。各都市対抗になっていて、地元の山の会も出場。ぼっちは応援後本城山に登る。この山域にも円空ゆかりの円空洞がある。県民スポーツ大会山岳競技:関市本城山。
・今夏3回に及ぶ円空の蝦夷地踏査を終え、秋は2回に分け、青森・秋田・宮城各県の円空帰還ルート踏査する予定。
まず1回目は、7日(木)夜〜18日(月祝)で青森下北半島から秋田本荘までを踏査。
ついでに、なかなか行けない登山道が廃道状態の下北半島の東北百名山、袴腰岳(707m)の登山も計画。
津軽半島の東北百名山ー袴腰岳(707m)ーここも、熊の生息域に突っ込むような単独行。円空踏査の合間を縫ってなので山頂までは行けなかったけれど、まあ、時間内に、よく生きて帰れたもんだ。
青森〜秋田帰還ルート踏査(3)ー梵珠山の円空像ーかつて梵珠山に置かれていたという元光寺の円空釈迦如来像を拝んだ後も梵珠山(468.4m)にも登る。ブナの巨木が覆う、掘り出し物のいい山だった。それにしても、袴腰岳と梵珠山に登って、道の駅で車中泊。タフな一日でありました。
青森〜秋田帰還ルート踏査(6)ー能代湊・土崎湊ー円空が湯殿山信仰に触れたのが土崎湊に近い龍泉寺だったと知る。
23日(土)〜24日(日)は、この夏円空が忙しくて、山らしい山は登らなかったなあという心残りから、懸案だった白山加賀禅定道の長丁場を1泊2日で。
<10月>
7日(土)〜9日(月・スポーツの日)の三連休は、ぼっちがリーダーで地元の山の会で北岳に行く計画が、またしても悪天予報。
予定を変更し、7日(土)日帰りで、北岳の拝める静岡の山へ―安倍奥の秋−八紘嶺(1,918m)。
14日(土)〜15日(日)は、大坐小屋管理人の秋作業ー10月の大坐小屋だより―薪つくり。
21日(土)〜22日(日)は、地元じゃない方の山の会でTuboさんのクマ襲撃からの快気祝いも兼ねて―蕪山(1,069m)+芋煮会
28日(土)は、『播隆院一心寺と播隆上人』展(揖斐川町歴史民俗資料館)へ。播隆の念持仏の円空作観音象とも対面。
29日(日)は、地元山の会のSさんをしのんで、養老山(859m) 追悼登山。
<11月>
3日(金祝)〜6日(月)は、「円空の冒険」蝦夷からの帰還ルート踏査の第2回目として青森・秋田・山形・宮城各県を巡る。
23日(木祝)は、円空の大峯山での冬修行追体験の下見へ。現地に立つのはやはり大切ー笙ノ窟〜小笹の宿〜山上ヶ岳偵察山行。
<12月>
2日(土)〜3日(日)、大坐小屋の冬支度のついでに、円空戸隠修行の手がかりを探しにー12月の大坐小屋たより−初冬の戸隠探訪。
29日(金)は、地元じゃない方の山の会で、登り納めは一等三角点ー如来ヶ岳(276m)。
<反省会>
目標1:原点に返って「WALKあばうと日本4000山」
・新型コロナ禍で行動制限が続き、知らない土地の知らない山を登るドキドキ感、ワクワク感から少々遠ざかり気味。
今年こそ東西南北いろんな場所の、高山・低山・珍名の山を巡ってみたい。
→地元山の会での登山が中心で、自律的に初めて登る山、初めて通るルートは少なかった。
そのかわり、「『円空の冒険』追跡」に関連しての踏査や登山は、クマの恐怖との戦いも含めドキドキ感、ワクワク感一杯だった。
珍名の山ハントは、数こそ少なかったが、長い間訪れたかった「貧乏山」に登れたのがうれしかった。
目標2:「『円空の冒険』追跡」2年目完遂
・5カ年計画でその足取りを追う2年目は、寛文6(1666)年蝦夷地に渡り、延宝元(1673)年〜2年頃にかけて厳冬の大峯山中で越年修行をするまでで、かなりハードな踏査になりそう。円空の登った山、籠った場所で追体験もしてみたい。
→当初の想定以上に充実した踏査ができたつもり。多くの発見があり、多くの出会いもあり、感謝でいっぱい。
目標3:登攀修行続行
・昨年に引き続き、地元の山の会で登攀修行に励み、剱岳に挑戦してみたい。
→芥見権現での訓練と、千回沢山での沢登りのみとなり、赤木沢は中止、剱岳は予定が合わず中途半端となった。
以上、2023年は、5月に新型コロナウイルスが5類化し、また「円空の冒険」踏査で北海道や東北に何度も通うなど、久しぶりに「WALK あばうと」できた1年となった。ただし、「4000山」へのチャレンジは、あまりできなかったのが反省事項。
また、全国的にクマの被害が深刻化した年だったが、身近にクマの被害者が出て、その恐怖は他人ごとではなかった。
また、白馬大雪渓での遭難救助を通じて、「ただ体調がよくないだけ」という危機感の乏しい遭難の怖さというのも知らされた。
そんな経験も踏まえながら、2024年の登山計画を立てていきたい。
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