WALK あばうと 日本4,000山

「新日本山岳誌」掲載の約4000山が修行の地。 めざせ山仙人!
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伊吹山と円空

「円空仏」で知られる江戸前期の修験僧円空は、乗鞍岳、笠ヶ岳を開山するなど、ぼっちの敬愛する山の大先輩でもあります。

しかし、梅原猛著「歓喜する円空」など文献を読むほど、彼の生涯における本質的な疑問が解明されていないのを感じる。

今回、伊吹山に登って、その解明のカギは、伊吹修験にあるのではと強く感じたので、以下に論考します (ロ。ロ)/長文ゴメンナサイ

 

【疑問の前提となる円空の事跡】円空連合の年表参照)

円空は、寛永9年(1632年)長良川沿いで生まれ、洪水で母を失い、その水源である白山への信仰が終生篤かった。

最も早く円空の足跡が分かるのが、寛文3年(1663年 32歳)郡上市美並町の天照皇太神像など三体の神像の背銘(背中の銘文)。

当時、星宮神社の西神頭家が円空をバックアップしていたと考えられている。

 

何らかの事情で円空はこの地を去り、寛文6年(1666年)1月、津軽藩弘前城下を追われ、蝦夷松前の地に渡っている。(35歳)

同年 蝦夷で多くの仏像を作り、また寛文3年に噴火した直後の有珠岳を訪れ、虻田郡洞爺湖の観音島に伝わる聖観音像の背中に

うすおく乃いん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登円空」の銘文を記す。

 

その後、大峰山など各地で修業を積みながら、多くの神仏像(円空仏)を作る。

 

そして、50歳代になってから飛騨を集中的に訪れ、多くの山に登る。

・天和3年(1683年)平湯から乗鞍岳に登頂し、魔王岳と摩利支天岳を開山したとされる。(52歳)

・貞享2年(1685年)高山市丹生川町千光寺に滞在。(54歳)

・貞享3年(1686年)木曽に仏像が残り、御嶽山に登ったと考えられる。(55歳)

・貞享年間ないし元禄初年 飛騨神岡の二十五山山頂に阿弥陀仏と二十五菩薩を奉安。

元禄2年(1689年)3月 伊吹山中の太平寺に十一面観音像の大作を残す。(58歳)

 同年8月 園城寺で血脈(法門継承の証)を受け、関の弥勒寺(実際には古い廃寺、当時は新たな寺は作れなかった)を園城寺の末寺に加えてもらう。

・元禄3年(1690年)から翌年にかけて奥飛騨の禅通寺に滞在、多くの円空仏を遺す。

・同年 双六谷の最奥の集落金木戸に十一面観音、今上天皇像、など三体の像を残す。(59歳)

 十一面観音像(実際には六面)の背銘「頂上六仏 元禄三年 冂 乗鞍嶽 保多迦嶽 □御嶽 / 伊応嶽 錫杖嶽 四五六嶽 /□利乃六嶽 本地處□六権現」(□御嶽は、於御嶽として、笠ヶ岳をさすとの説が有力)

 今上天皇像の背銘「元禄三年九月廿六日当国万仏十マ仏作己(おわる)」

 

元禄5年(1692年)弥勒寺を再興。(61歳)

元禄8年(1695年)弥勒寺に近い長良川の畔で入定。(64歳) 

 

【本質的な疑問】

➀円空は、どうして信仰の中心にあった白山周辺に円空仏を残していないのか? 

 →円空が没して百年ほど後の、寛政2年(1790年)伴高蹊の「近世畸人伝」に「富士山に籠り 又加賀白山にこもる」とある。

  しかし、美濃・飛騨に円空仏は1600体ほど残るが、白山周辺にはまったく残っていない。(↓画像クリックで拡大)

  若き円空を支援した西神頭家は、白山信仰の拠点・洲原神社を追われた過去を持っており、

  星宮神社は、虚空蔵菩薩を神体とする高賀信仰の神社であることにも留意が必要なのでは? 

円空は、どうして津軽、そして蝦夷に渡ったのか?

 →梅原猛「歓喜する円空」では、寛文5年(1665年)10月の西神頭家の当主安高の死との関わりを推測している。

  しかし、美並に残る円空仏の銘文は寛文4年12月まで。

  寛文6年(1666年)1月に津軽を追われ、

  洞爺湖の聖観音像に江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日」とあることからすれば、寛文5年に伊吹山で一定期間(通常の修行だと90日間)平等岩で修業を積んでいたと考えていいのでは。

  ということは、円空が西神頭家のある美並を離れたのは、安高の死より早かった可能性が高い。

  津軽、蝦夷への旅立ちのきっかけは、別にあったのでは?

 

1澡は、どうして晩年近い50歳代になって飛騨に足しげく通うようになり、乗鞍岳、御嶽山、笠ヶ岳などに登ったのか?

 また、円空は、どうして槍ヶ岳には登らなかったのか? 

 →非体育会系文化人の梅原猛は、「歓喜する円空」で、円空の山岳修行に対してほとんど触れていない。

  しかし、山岳修行僧円空にとって、修行は、精神と共に肉体の修行であったはず。

  山岳修行の跡を追わずして、円空の本質に迫れるのだろうか?

 

【伊吹山に登って】

快晴の伊吹山山頂に立って強く感じたのは、円空への本質的な疑問に関わるキーワードが、ここには全てそろっているということ。

 

・白山 伊吹山は白山を遙拝することができ、白山を開山した泰澄ともゆかりがあった。

 →円空は何らかの事情で白山で修業ができず、西神頭家支援を受けての美並での修業にも限界を感じ、

  伊吹山に修行の場を移したのではないだろうか。 

  想定される事情1:当時の白山は三馬場の争いなど現世的利害関係でもめており、円空の理想とする場所でなかった

         2:当時の白山の信仰のありようが、円空の思うところとかけ離れていた

         3:当時の美濃・飛騨の越前・加賀国境周辺は、一向宗の勢力が圧倒的に優勢で、

           寺院もほとんど一向宗に改宗しており、一介の修験僧の居場所はなかった  

 

・蝦夷 伊吹山は、京都・近江と東北や北海道の物流のルートである北国脇街道に面していた。

 →伊吹山は、陸奥や蝦夷の情報が入りやすく、ここで恐山や、1663年(寛文3年)の蝦夷有珠山噴火の話を聞いたのではないか。

  ちなみに、白山は1659年(万治2年)噴火をしており、円空は火山に対して相当関心が高かったよう。

  (当時噴火のなかった富士山を噴火したように描いたものが4枚も伝わる、硫黄嶽(焼岳)にも登っている)

 

・「江州伊吹山平等岩僧内」 当時の伊吹山は、弥高寺などの主要寺院が衰退し、太平寺の坊などがわずかに残っていた程度。

 →徳川幕府が修験道法度などで統制を強めた時代に、主要寺院が衰退した伊吹山はかえって自由に修行ができる場だったのでは?

  美並から伊吹に移って初めて本格的な修験僧としての修行を行えたからこそ、背銘にそのように記したのではないか。

  また「始山登」と、有珠山に初登頂したことを記しているということは、登頂を修行の重要な関門ととらえていたはず。

 

・御嶽山、乗鞍岳、穂高岳、笠ヶ岳 白山とともに、これらの山も伊吹山山頂から拝むことができることを今回確認。

 →伊吹山から遙拝したこれらの山に登ることを、十万体の仏を作ることと同様、修行の最終関門としていたのではないか。

  その最後の難関である笠ヶ岳に登る前年、改めて伊吹山を訪れ、太平寺に十一面観音を残しているのもそのためでは。

  ちなみに、槍ヶ岳は今回目では確認できなかったけど、伊吹山山頂から見えはするらしい。

  ただしそれをとらえた画像で見ると穂高岳とひとまとまりで目立たたず、笠ヶ岳の方が独立して立派に見える。

 

・弥勒 伊吹山の信仰の中心は山上の弥勒堂で、弥勒信仰の山だった。

 →円空が再興した寺が弥勒寺であり、また、弥勒寺近くの長良川河畔で入定したのも弥勒信仰に基づくもの。

  弥高寺跡の行者谷には「入定窟」という岩室も残る。

  梅原猛は円空の入定を、出羽三山などで即身仏を見聞したからだと推測している。

  しかし、円空は伊吹山で修業をしていた段階で、すでに自分の修行の最終目標として入定を意識していたのではないだろうか。

【小 括】

槍ヶ岳を開山した播隆は、多くの記録を残しているので、笠ヶ岳や槍ヶ岳に登頂したことは明らか。

それに対し、円空の登頂は、文政6年(1823年)播隆の「迦多賀嶽再興記」など、後の記録によるしかない。

そのため、播隆の槍ヶ岳開山が広く知られているのと比べると、登山史上円空は重要人物ととらえられていない。

しかし、同じく伊吹修験に身を投じていた播隆は、偉大な先達として円空を意識し、笠ヶ岳を「再興」としている。

円空研究には、伊吹修験にもっときちんと光を当てるべきではないだろうか。

そして、日本登山史において、円空は播隆と同じか、それ以上に顕彰されていい存在ではないだろうか。

 

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