WALK あばうと 日本4,000山

「新日本山岳誌」掲載の約4000山が修行の地。 めざせ山仙人!
「天気の子」と夜叉姫と

7月27日は、ぼっちの何十回目かの誕生日であります。

例年、梅雨明け直後で快晴率がすごく高いので、「誕生日プレゼントは山」と、家にいたことなない。

ところが、今年は梅雨は長いし、台風6号は日本を直撃するしで、トホホであります。

地球環境がおかしくなっているからなんだろうか。。

 

ということで(家族はぼっちが家にいるとは思わず予定があるので)独り新海誠監督話題の「天気の子」を見に。

「天候の調和が狂った時代を舞台に、運命に翻ろうされる少年少女の物語」で、

ネタばれにならない程度にポイントをいうと、祈るだけで天気を晴にできる不思議な力を持つ少女天野陽菜が、天候の調和を戻すため、人柱として犠牲になろうという切ないお話。

今日のぼっちの心境には、まことにぴったりの映画でありました。

 

さて、映画が終わって、帰る途中、カーナビに「夜叉堂」という表示が出た。

ああそうだ、天気のために人柱になるって言ったら、夜叉姫もそうだった。

「夜叉ヶ池」の伝説といえば、岐阜県民や坂東玉三郎ファンを中心に、ご存知の方も多いことでしょう。

その伝説は、おおよそ次のとおり。

平安初期弘仁8年(817年)、美濃国平野庄(岐阜県安八郡神戸町)は大旱魃に見舞われた。

ある日、郡司の安八太夫安次は、小さな蛇を目にしため息まじりに「もしそなたが雨を降らせてくれるなら、私の大切な娘を与えよう」とつぶやいた。

実は、その蛇こそ揖斐川上流に住む龍神で、大雨を降らせた後、約束どおり娘をもらうため若者の姿に変え安次のもとに現れた。

安次が三人の娘たちに事情を話すと、一番心がやさしい夜叉姫という次女(三女とも)が、龍神とともに、行くことになった。

娘を案じた安次は、揖斐川上流のさらに山奥の池に龍神が住むという話を聞き、山上にあるその池にたどり着いた。

「夜叉姫よ、今一度父に姿を見せておくれ」と安次が叫ぶと、巨大な龍が現れ、「父上、これがあなたの娘の姿です。もうこの姿になったからには人の前に現れる事はできません」と告げ、池の中に消えた。

その池は、夜叉ヶ池と呼ばれ、山上にあり流れ込む沢もないのに、今も変わらず水をたたえている。

安次の子孫は、代々石原伝兵衛を名乗り、今も神戸町に住んでおられる。

 

晴れを呼ぶ「天気の子」天野陽菜と、雨を降らす夜叉姫は、真逆だけど、天候の不順に少女が犠牲となるというのは同じ。

せっかくなので、夜叉堂に立ち寄ってみよう。

 

夜叉堂があるのは、濃尾平野の中で、夜叉ヶ池からは直線距離で約40劼睥イ譴討い襦

台風来てます。。

旧い道に「夜叉堂」の石碑があり、ナビをたどっていくと、夜叉堂の前に出る。

旧家のお屋敷の一部という感じで、由緒書きがあり、奥に進むと夜叉堂があった。

山馬鹿としては、これ以上雨はいいけど、狂いかけた地球環境を何とかしてくださいと祈りたいところ。

後で神戸町の街並みを通ったら、なんと今日は、当地から夜叉ヶ池まで往復を2日で走る「夜叉ヶ池マラニック」の開催日だった(@。@ オオ!グウゼン

夜叉ヶ池と神戸町の夜叉堂、往復135辧結構あります。

大雨の中、強行開催されたみたいだけど、ここにも「天気の子」が来てほしかった。。

 

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大登山家 円空

円空は、美濃国出身で、豪胆かつ無私の微笑みに満ちた「円空仏」を生涯12万体(約5千体が現存)彫ったと伝わる江戸前期の修験僧。

円空仏は、昭和30年代に民芸品のような扱いでブームとなり、当時円空は流浪の乞食僧のように思われていた。

 

しかし、研究家長谷川公茂氏らが円空仏の研究を進め、円空の生涯や思想が明らかになっていった。

そして2006年、梅原猛氏が「歓喜する円空」(新潮社)で、円空を行基や泰澄につながる日本宗教史(思想史)の重要な存在と位置づけた。

さらに、2013年には、東京国立博物館で140周年特別展として「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―」が開催され、今では美術家、宗教家として江戸時代を代表する存在と位置づけられている。

 

ところが、山馬鹿目線で調べていくと、どうもそれだけにとどまらない。

白山信仰によりながら山岳修業を重ねた円空は、登山家としてもすごい存在らしいのであります。

 

まず、円空が生きた江戸前期(寛永9年(1632年)〜元禄8年(1695年))は、後期に比べて地理的な情報が少なかったことを考慮しながら、その足跡を見ていただくと、

 

・伊吹山で修行(寛文6年(1666年)北海道洞爺湖中の観音島の聖観音像背面に「江州伊吹山平等岩僧内 円空」の銘有り)

・高賀山周辺で修行(寛文3年(1663年)神明神社神像からはじまり、晩年までたびたび訪れては周辺の寺社に円空仏を残す)

・恐山で修行(円空仏が残される)、寛文6年(1666年)津軽藩弘前城下を追われ、北海道に渡る

・北海道で、内浦岳(現駒ヶ岳、寛永17年(1640年)噴火)、有珠山(寛文3年(1663年)噴火)で山鎮めの祈りを捧げる

  (円空の山岳信仰の中心にある白山が、万治2年(1659年)に噴火しており、火山を山の怒りとして、強い関心を持っていたと思われる。

   在世中は噴火していなかった富士山の絵が4枚残るが、いずれも噴煙を上げる姿で描かれている。)

・大峰山で修行(山麓の奈良県天川村栃尾観音堂諸仏に寛文13年(1673年)銘有り)

・日光で修行(円観坊十一面観音に天和2年(1682年)の銘有り)

・御嶽山で修行(山麓の南木曾町等覚寺に貞享3年(1686年)6月に天神像を、8月に弁財天像と十五童子像を残しているので、この間に登ったらしい)

 

そして、円空は、晩年ともいえる貞享2年(1685年)から元禄3年(1690年)、集中的に飛騨を訪れて、厳しい山岳修行とおびただしい仏像製作を行っている。

(滞在時期については諸説あるが、この時期に飛騨にいたのはほぼ間違いがない。)

その最後の年になる元禄3年、双六谷最奥にある金木戸集落に、三体の仏像を残し、そのうち六面の観音に次の銘を残している。

(今は十一面観音と呼ばれているが、実際には以下の山の数と同じ6つの面を持つ。)

 

「頂上六仏 元禄三年 冂/ 乗鞍嶽 保多迦嶽 □御嶽 / 伊応嶽 錫杖嶽 四五六嶽 /□利乃六嶽 本地處□6権現」

(□は判読不能、なお上記は東京国立博物館東洋館室長浅見龍介氏が赤外線撮影をもとに読んだもの。)

20190703円空十一面観音.jpg

(←クリックで拡大)

乗鞍岳は、円空が登り、仏を池に納め魔を払った話が伝わる。

 (飛騨市神岡町の二十五山にも、二十五菩薩を山頂に納め、あたりの木を伐り払うことで濃霧を払った話と、その二十五菩薩が伝わる。)

・□御嶽は、於御嶽と呼んで大嶽、つまり笠ヶ岳のこととされ、円空が開いたと伝わる。

 (笠ヶ岳に円空が登ったことは槍ヶ岳を開山した播隆の「迦多賀嶽再興記」に記されている。)

・伊応嶽は、硫黄嶽=焼岳のことで、元禄頃は噴火もしておらず、登ることができたはず。

 (円空は、焼岳山麓の平湯禅通寺に元禄3年(1690年)逗留し、仏を残している。)

錫杖嶽は、笠ヶ岳の南手前、四五六嶽は双六岳のことで笠ヶ岳の北奥。登ったかどうかの記録はない。

 ただし、笠ヶ岳より奥の双六岳に名前はついていなかったはず。錫杖岳もこれが記録上初出。

 (約180年後の文政6年(1823年)、播隆が笠ヶ岳に登ったのは、上宝村の笹嶋集落から笠谷を遡行するルート。

  しかし、円空が飛騨にいた江戸初期は、飛騨国が幕府直轄領になる直前で、山や谷に対する情報は播隆の頃より格段に少なく、谷を遡行する発想ができたのか不明。

  そもそも円空にとっては、尾根を行く回峰の方がなじみやすかったはずで、ぼっちの推測としては、

  円空は、焼岳や二十五山の山頂に立ち、笹嶋から笠ヶ岳に至る長い尾根を観察し、笹嶋から尾根伝いに錫杖嶽を経て笠ヶ岳に登頂し、双六岳から双六谷に降りるルート取りを想定し、

  元禄3年、踏破して金木戸集落に降り、無事登れたことを感謝して仏像を治め、造仏にも一区切りつけて(今上天皇像の背銘)、飛騨を去ったのではないかと考える次第。)

 

・残る、保多迦嶽は、穂高岳のこと。

・ここで、国絵図で見る江戸時代の飛騨山脈でふれた疑問に戻ると、

 日本山岳会編「改訂版 新日本山岳誌」の奥穂高岳の説明には、「穂高の山名が初見されるのは正保三年(1646年)の国絵図。そこには『保高嶽』とあり『上河内川』の記入もある」と記載され、これがWikipediaにも引用されている。

 しかし、正保版の国絵図(原本はなく正保4年の信濃国の写し)にも、約50年後の元禄版(元禄14年(1696年)写し)にも保高嶽は出てこない。

 さらに江戸後期天保9年(1838年)の天保国絵図にも出てこないし、梓川は記されるが「上河内川」は出てこない。

 

・この件については、新たな事実が判明。

 松本市・松本市教育委員会が作成した「上高地保存管理計画 改訂版」(2017年)第2章P21に「穂高岳の名は、正保、元禄、天保のいずれの国絵図にも見えませんが、元禄の国絵図の下図と思われる『師岡本信州筑摩郡安曇郡図』(松本市博物館像)に『保高嶽』と見え、17世紀末にはその名が確認できます」とある。

 さらに、P17には、「上高地の名は、正保3(1646)年の正保の国絵図(松本御領分図)に上河内川と記載されたのが文献に現れる最初」とあるので、残念ながら「新日本山岳誌」の記述は誤りというのが結論。

 

・幕府から元禄の国絵図の作成の指示が諸藩の大名に出たのが元禄9年で、完成は同14年。

 ということは、円空が元禄3年(1690年)の六面観音の銘に残した「保多迦嶽」が、穂高岳の山名の初見ということになる。 

 そして、たぶん円空は、穂高連峰のどの場所かには足を踏み入れていたと考えるのが自然では。

 

・うーむ、山岳史においても円空の存在は大きい。大きすぎる。

 

(↓7月21日、名古屋市覚王山にある鉈薬師(医王堂)の円空仏を拝観。

 北海道から帰った円空が、明の亡命王族で尾張藩のお抱え医師だった張振甫に乞われ、名古屋城のご用材の残材で作った十二神将等などの仏像群が圧倒的。

 いずれにしても、ものすごい体力とぶれない強い心があったんだろうなあ、円空さん。)

 

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「第73回ウエストン祭」参加してきました

「日本アルプス・上高地を広く世界に紹介し、登山の楽しみを伝えた日本近代登山の父とも言われるイギリス人宣教師ウォルター・ウェストン(1861−1940)。氏の功績を称え偲ぶ行事が毎年6月第1土曜日・日曜日に行われます。
土曜日は、かつてウェストンも歩いた島々谷から徳本峠を越え、上高地までの記念山行。日曜日の式典では、ウェストンレリーフ前にて献花や詩の朗読、合唱、記念講演などが開催されます。」(JAPAN ALPS KAMIKOCHI Official websiteより)

 

ウエストン祭の経緯は以下の通り、今年で73回目となる、歴史ある行事であります。

 昭和12年 (1937) 額面型の浮彫胸像(レリーフ)が取り付けられる
 昭和17年 (1942) 太平洋戦争にともないレリーフ撤去
 昭和20年 (1945) 日本山岳会に保管されていたレリーフが空襲で一部焼損
 昭和22年 (1947) 修復されたレリーフを上高地に復旧設置
                    *この復旧式がウェストン祭の起源

この歴史ある催しに、山仙人をめざす岐阜県民は場違いではありますが、縁あって参加してきました (ロ。ロ)/

 

6月1日(土)は、ウエストンをしのんで、松本市島々を起点に、徳本峠越え。

スタートにあたって、主催者の日本山岳会信濃支部の挨拶や、地元島々地区のご接待などがある。

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今は、上高地に入るといえば、梓川沿いの沢渡経由で入るのが一般的。

しかし、かつて梓川沿いは、渓深く、雪崩や土砂崩れも多く、1924年(大正13年)に釜トンネルが開通する以前は、徳本峠越えをしなくてはならなかった。

ウエストンが上高地に入ったのも、この徳本峠越えの道。

往年の苦労をしのんで、上高地までは20辧▲魁璽好織ぅ猝10時間の長丁場に、いざ出発!

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二俣までは、林道歩き。

途中、天正13年(1585年)、飛騨に侵攻した金森長近に追討された姉小路秀綱(父頼綱降伏後も徹底抗戦しようとした)の奥方が、実家のある信濃側に逃げる途中、杣に襲われて命を落としたことをしのぶ、折口信夫の歌碑がある。

 ※落命したのは、二俣の少し峠寄りとされる。

つまり少なくとも戦国時代末期には、徳本峠を経由する、飛騨・信濃を結ぶ道があったということになる。

つい先日、金森長近ゆかりの茂住鉱山跡に行ったばかりだし、戦国史が身近に感じられるな。。

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二俣からは、山道となり、谷を分け入っていく。

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そのうちに、にぎやかな声がして、後ろから地元島々の小学校の子どもたちが登ってくる。

正確にいうと、中学校と一体になった「安曇小・中学校」の生徒の4,5,6年生が、恒例で峠越えに参加するんだとか。

ちなみに、中学校の学校登山は奥穂高岳2泊3日というから、山の子の脚力は半端じゃない。

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岩名留小屋に到着。

ぼっちが登山を始めて2年後の11月に徳本峠を往復した時、すばらしい黄葉に感動したカツラの巨木も、毛筆の落書きがある小屋も、変わらぬ姿をとどめていた。

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岩魚留小屋を過ぎると、谷は狭まり、巨木は少なくなって、あたりは淡い新緑に包まれる。

最初は大集団だった徳本峠越えの登山者も、標高を上げるにつれ、小集団に分かれ、歩きやすくなる。

あらかじめ、それに合わせ、トップ、中盤、しんがりにきちんと係員の方が配置されているので安心。

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登山道まわりには、エンレイソウ、サンカヨウ、ニリンソウなどの群落が続く。
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ちから水という最後の小さな水場を過ぎると、峠沢の急登が始まる。

標高約400mのササ原をジグザグに登り詰めると、おお! ウエストンも涙したという穂高岳の雄姿。

 

穂高岳をピークごとに分けて呼ぶようになったのは、1909年(明治42年) 鵜殿正雄らが穂高~槍の縦走を行って以降。

それまで、穂高嶽・保高嶽などと総称されており、御幣岳とも呼ばれていた。

たしかに、徳本峠から眺める場合、明神岳から前穂高岳までがジグザグに重なって、御幣のように見える。

それに対し、奥まった(のちの)奥穂高岳は、低く平板に見え、当時の人はあまり注意も払っていなかったのだろうなと、改めて山岳史を目でおさらいする。

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徳本峠小屋では、ウエストン祭にちなんで「上ストン汁」としゃれた豚汁をふるまってくださっていた。

営業小屋としての徳本峠小屋開業は、大正12年(1923年)というので、大正4年(1915年)に最終的に日本を離れたウエストンは、小屋を見ているわけではない。

それでも、日本でも有数の古いたたずまいを残す、思い出深い小屋であります。

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峠から、上高地明神までの途中は、例年にない残雪で、慎重に下る。

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明神側に降り立つと、ようやく長丁場の緊張からも解放され、会話もはずむ。

身長2m近いアメリカ人も参加されていた。

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それにしても見事だったのは、樹林の下いちめんに広がるニリンソウの大群落。

6月に訪れるのは初めて。やはり、季節を変えながら何度も訪れないと、上高地の魅力を味わい尽くすことはできないのでしょう。

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キャンプ地小梨平には、温泉じゃないけど立派な風呂があって、汗を流すことができた。

温泉前のキャンプ場売店も充実していて、ほぼここだけで食材が調達ができるくらい。

ぼっちが調達したのは、缶ビールだけでありますが。。

 

ちょうど花盛りを迎えた、コナシ(ズミ)をながめながら、風呂上がりの花見酒。

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河童橋までたどり着いたのは、17時近く。

観光バスの観光客も引けて、ゆっくり穂高の吊尾根をながめることかできた。

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今宵の宿は、日本山岳会の上高地山岳研究所。

各地域の山屋が懇親して雑魚寝でき、楽しかった。

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翌6月2日は、ウエストンのレリーフの前で式典が行われる。

早朝起きて、焼岳の山裾まで散歩。

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火山活動の影響を受けたにもかかわらず、上高地の中心部に比べると、焼岳山麓の樹林は立派。

その登山道のまわりも、ニリンソウが埋め尽くしていた。おっと、朝ごはんまでに帰らなくては。。

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10時から、「碑前祭」として、献花と挨拶のあと、地元安曇小学校の生徒の合掌と、リコーダー演奏。

その後、ホテルに会場を移して午餐会。カレーライスが恒例なんだとか。

これだけの行事を73年間欠かさず催されてきた、日本山岳会信濃支部はじめ、関係者のご尽力の賜物。

単なる山岳界の行事にとどまらず、「上高地」という山岳リゾートのブランドの維持向上にも貢献してきたんでしょう。

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山仙人をめざす非リゾート系山馬鹿岐阜県民ぼっちは、ウエストンと同様上高地も、敬して遠ざけ、飛騨山脈南部には新穂高温泉や安曇野側からばかり入山し、上高地はなんと2008年の2月以来。

各ホテルもずいぶんおしゃれになり、釜トンネルも新しくなっていて、今浦島の気分。

今回のご縁がなければ、ニリンソウに埋もれる上高地の6月も知らないままだったかもしれない。

ウエストン祭に感謝であります。

 

<余談>

ウエストン祭の時季だからでもあるのでしょう、6月3日の日本経済新聞文化欄に「異邦人たちの名峰ガイド」として、ウエストンの書き始めた上高地の彼の定宿の日記帳の話が紹介されていた。

その中で、「ウエストンは1988年に宣教師として日本に赴任した時から日本の山に関心を抱いていた。(中略)普段は横浜の教会で活動し、夏期になると軽井沢の別荘に移る。そこから上高地に来て登山を楽しんだ」との記述がある。

 

しかし、ウエストンは、来日までにヨーロッパアルプスの登山経験はあったものの、初来日の当初2年間(1888〜1889年)は、登山をしていない。日本の山に関心があって日本に来たわけでもない。

また、1892年、軽井沢から松本をへて槍ヶ岳に登攀したのは事実だけど、ウエストンの3回の日本滞在中の山行記録を見ると、特に2度目は赤石山脈を集中的に訪れており、上高地には行っていないはず。

いずれにしても、戦前からの国威発揚的なウエストンに対するキャッチフレーズ:日本アルプス・上高地を広く世界に紹介」したというのを守ろうとするからややこしくなるのであって、「登山を楽しみとして行うアルピニズムを広く日本に紹介」したといえば、だれも異論はないと思うのですが。。

 

詳しくは、「お山の勉強室(2)−ウエストンの虚像・実像」をご一読ください (ロ。ロ)/

 

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野伏ヶ岳 和田山牧場跡で雪上訓練

野伏ヶ岳(1,674m)は、郡上市白鳥町石徹白と福井県大野市にまたがる。

白山連峰から岐阜・福井県境に続く豪雪の山々の中で、そそり立つ姿がもっとも立派で、白山連峰とほど良く離れているため、その展望台としても優れ、日本300名山になっている。

夏は登山道のないヤブ山ながら、残雪期は、登山起点となる石徹白の白山中居神社から日帰りも可能。

そのため、3月4月の週末ともなると、関西・中京地方から、たくさんの登山者や山スキーヤーが集う。

また、中腹にある和田山牧場の跡地は、キャンプに好適で、雪上訓練に格好の場所でもある。

4月13,14日、同地で開催された、ぼっち地元の山の会の雪上訓練に参加してきました (ロ。ロ)/

 

13日は快晴。

標高約700m地点にある、石徹白川河畔の駐車場は、すでに一杯。野伏ヶ岳は人気の山だと実感。

新人2名を含むメンバー11名が、テントや食料で重い荷物を背負っていざ出発。

20190413白山中居神社.jpg

貧雪の年なので、途中までは雪がなく、雪を踏んで林道をショートカットすることもままならない。

標高900mあたりで雪が安定し、ようやくわかんを着け、尾根まで直登。

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スギ林を抜けると、いきなり広々した雪原に出る。

ここが、標高約1,100m地点に広がる和田山牧場跡で、真正面に野伏ヶ岳、そして一つ北(左手)に薙刀山(1,647m)が連なる。

20190413薙刀野伏が岳.jpg

さらに北には、山体の南側が崩落した願教寺山(1,691m)、銚子ヶ峰(1,819m)、その間に、三ノ峰(2,128m)が真っ白に見える。

昨年は、銚子ヶ峰〜願教寺山〜薙刀山〜野伏ヶ岳と日帰り周回や、銚子ヶ峰から三ノ峰を経て別山までと頑張って登った。

思い入れいっぱいの、懐かしい風景であります。

20190413銚子ヶ峰方向.jpg

まずは、テントを設営。

新人さんは、冬テンを張るのも初体験。女性の方が要領がいいのは、下界と同じかも。。

13日は、テントのそばで雪上訓練、14日は薙刀山と野伏ヶ岳を周回の計画。

ただし、初日は完璧な快晴なのに、2日目は雨の予報なのが心配。

20190413テント設営.jpg

テント脇の斜面を利用して、Nuリーダーに、Gtさんがサブリーダーとして雪上訓練。

まずは、ピッケルを支持にした確保の仕方。

20190413確保.jpg

簡単なように見えて、腰を落として踏ん張らないと支持している人も引きずられてしまう。

こういうのも、実際に経験し、感覚として覚えるのが大切。

20190413確保2.jpg

次は、ピッケルを使っての滑落停止訓練。

背中向きより摩擦が大きいので、腹ばいになって、ピッケルの石突で怪我をしないように持って雪に突き立てる。

雪が緩んでいるので、すぐ止まってしまうけど、もっと高い山の硬い雪ではなかなか、こうはいかない。

条件反射でできるように、何度も繰り返す。

20190413滑落停止.jpg

シュリンゲ(紐の意味。ドイツ語Shringe、英語のスリングSling)を使った、簡易ハーネスの作り方を教わる。

そして、立ち木に確保用のザイル(これも英語ならロープ)を固定し、このザイルに、短いロープで、手で持つと緩むけど、引く力が加わるときつく締まる結び方で簡易ハーネスにカラビナで留める。

この結び方には、クレムハイストと、より簡易なプルージックノットがある。

何だか、ドイツ語と英語が混じっているような。。

20190413結び方.jpg

講習が終わり、皆は、テントサイドに雪のテーブルを作って小宴会をはじめる。

ぼっちとKさんは、明日は展望が得られかもしれないと、ダイレクト尾根まで散歩。

野伏ヶ岳の南に連なる未踏の小白山(1,609m)は、その名の通り白く、独立峰の風格をたたえている。

来春この山に登る下見も、今回の目的のひとつ。

20190413小白山.jpg

牧場跡に戻り、さっそく宴会に合流。

翌14日は、やはり曇天。

広前から雨の予報なので、降られないうちに下山を決断。

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野伏ヶ岳は、尾根の下部しか見えない。

来やすい場所だから、また来年。

20190414帰路.jpg

往路には、気が付かなかったけど、足もとに春がはじまっていた。

フキノトウや、キクザキイチゲ。

白山中居神社までくだると、ザゼンソウや、セリバオウレン、カタクリ、ミズバショウなど。

20190414花.jpg

野伏ヶ岳に登ったことのない新人さんは、登れずに残念だったけど冬テンデビューと雪上訓練はしっかりできた。

野伏ヶ岳だけなら日帰りもできるから、またご一緒しましょう。

 

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2019年 今年も山修行

ブログ「WALK あばうと日本4000山」管理人ぼっちです。

2019年も、よろしくお願いします。

 

山に登れば登るほど、「本当にその山に向かい合えたんだろうか」と、不確かな思いにとらわれる。

それはたぶん、さまざまな修行・修練に付きまとう、壁のようなものかもしれない。

だからこそ、さらに奥へと、山修行を深めたくなってしまう。

そんな山馬鹿の、2019年の目標は次のとおり。

 

〇大目標 「飛騨の山岳を知る」

 昨年まで3年かけて、美濃の山々を集中的に登ってきた。今年は、飛騨の山を集中的に登る計画。

 

 1876年(明治9年)、廃藩置県に伴い美濃と飛騨が統合され、今の岐阜県ができて150年足らず。

 その前、律令制のしかれた7世紀から江戸時代まで、美濃と飛騨は別の国だった。

 濃尾平野にある美濃と、高山盆地など以外はすべて山地の飛騨では、風土も歴史も、そして山に向かう心も異なる。

 

 飛騨の山岳は、北アルプスとも呼ばれる長野・富山県境の飛騨山脈、石川県境の白山連峰と、その中間に横たわる飛騨高地で構成される。

 霊山・高峰が連なる飛騨山脈や白山連峰は、全国から登山者を集めているのに対し、最高峰猿ケ馬場山でも1,875mに過ぎない飛騨高地は生活の中にある山であり、関東・関西などの都市圏から遠く、登山の対象としては超マイナー。

 飛騨山脈や白山連峰が「ハレ(晴れ)の山」とするなら、飛騨高地は「ケ(褻)の山」ということもできましょう。

 

 ぼっちも、ハレの山には登ってきたけれど、ケの山の方は、わずかしか登っておらず、飛騨の山岳は、未知の部分が多い。

 ということで、今年はハレの山、ケの山いずれにも集中的に登り、「飛騨の山岳を知る」ことを大テーマとする所存。

 

〇具体的目標

1.「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の候補リストうち、未調査の飛騨の山を登りきる

 5か年計画で取り組んでいる「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の取り組みも4年目。

 候補リスト196山(昨年の191山に+9山追加、ー4山事前削除※)のうち、未踏は37山。

 そのほとんどが、飛騨高地と、飛騨山脈前衛峰の山々。

 登山口まで少々遠い道のりになるけれど、幸い、相棒にEBさんがなってくださるので、集中的に通い詰める計画。

 

2.「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の取り組みの、精度を上げる

 今年で、「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の取り組みも4年目、対象の山はほぼ登りきる計画。

 しかし、岐阜県の「佳き山」を本当に適切に選定できるか、まだまだ心もとない。

 文献調査したり、再登したりするとともに、美濃山、飛騨の山を知り尽くした「山の大先輩」に教えを乞いながら、精度を上げたい。

 まずは、「山の大先輩」の門をたたくのが、なかなかのハードルであります。

 

3.「一等三角点百名山」を登りきる

 地元の山ばかりに目を向けていると、地元愛みたいなもので、ものさしが偏るおそれがある。

 時々は全国各地の山にも脚を運んで、ものさしの偏りを補正したい。

 ということで、未踏の一等三角点の山、硫黄岳(知床)、富良野岳、武石峰、黒岳(大菩薩連嶺)、高峰山(尾鷲)、冷水山(果無山脈)、工石山・不入山(四国山地)、烏帽子岳(阿蘇)を踏破する計画。

 

以上、今年も、安全と家庭平和に心がけながら精進するつもり。

お付き合いのほど、よろしくお願いします  (ロ。ロ)/

(画像は、桑崎山からの笠ヶ岳、乗鞍岳)

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蜂(アナフィラキシーショック)対策:エピ・ペン入手

秋本番、「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の活動として、山深い奥美濃の山々をめぐる予定。

少し前に「登山時の蜂(アナフィラキシーショック)対策」について調べ、蜂は熊より蛇より怖いのを実感。

8月に奥美濃の山々の登山口を下見した時も、岩岳に、「注意!スズメバチ 胸突き八丁付近で登山者がススメバチに襲われました。逃げ場がありません。しばらく登山は控えてください。(7月17日 本巣市観光協会)」との張り紙が出ていた。

単独行で携帯もつながらない山中で刺されたら、手遅れになることも心配。

そこで応急処置に使う「エピペン」(アナフィラキシー補助治療剤)を入手

 

入手したエピペンの箱の中には、本物のエピペン(画像上)と、練習用トレーナー(下)というのが入っていた。

エピペンは、緊急時でも迅速に応急処置できるよう、安全装置を外し、着衣のまま太ももの外側に強く押し付けるだけで、中から針が出てアドレナリンが注射されるようになっている。

失敗しないように、針はないトレーナで練習して、いざという時に備えるというもの。

もちろん使わないに越したことはないけども。

 

それでは、怒涛の奥美濃調査山行、やってきます(ロ。ロ)/オウ

20181019エピペン.jpg

 

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三角点踏査―高戸山(795m)、大小屋、傍示松

ぼっち地元の山の会では、5か年計画で美濃地方の国土地理院一、二、三等三角点、七百数十を全数踏査する計画がある。

「国土地理院の三角点はあって当たり前なので、ついでに、岐阜県が重要な舞台となった御料局や山林局の三角点も調べて、その全容を把握すると付加価値が付くんじゃないでしょうか」とご意見申し上げたけど、新参者の意見は簡単に却下。

「まずは、会員の読図力を高める」ことを第一目標にするんだそう。。

ということで、年間ノルマの3地点―基準点名「串原村」「大小屋」「傍示松」の三角点踏査に行ってきました (ロ。ロ)/

 

最初の踏査ポイントは「串原村」。標高794.6mで、恵那市串原町(旧恵那郡串原村)の高戸山山頂にある。

串原町は、恵那市の南端で、矢作川を挟み愛知県と接している。

地図で見る限り、北側から山頂まで道路が通じているようだけど、せっかくだから矢作川河畔から尾根通しで登山することに。

取付き点は、矢作川右岸にある「釜井小公園」。

釜井は、旧串原村にあった集落で、矢作ダム建設とともにダム湖に水没、小公園は、そのメモリアル・パークのような存在らしい。

適当に尾根に取り付くと、お堂があって、文政五年の銘のある石仏が納められていた。

さらに進むと、古い墓や石仏がまとめて並んでいた。

たぶん、かつてあった集落を見下ろす位置に墓を移したんでしょう。

さらに進むと、「釜井の大まき」という巨木が登場。

ナラ科のアベマキの木で、推定樹齢350年。

立札の由来を読むと「大まき様」と呼ばれ、釜井のシンボル・ツリーのような存在だったとのこと。

何本もの大枝が折損して落ちていたけれど、何とか長生きしてもらいたいもんです。

大まきから先は、スギやヒノキの植林帯を踏み跡を拾いながら進む。

かつて松くい虫の被害があったようで、大木が何本も倒れているのをまたいでいく。

登山中展望はほとんどなく、建設省の通信用反射板の切り開きから、山並みが少し見えただけ。

美濃三河高原の山々は、準平原のため、ほとんど同じような標高で展開。

植林帯と雑木林が混じる尾根は、かつてはかなり歩かれていたようで、溝状にえぐれたところもある。

ドングリ類が多そうだけど、それがアベマキか、コナラかなんて見分けは全くつかず、修行不足を痛感。。

歩行1時間30分弱で高戸山山頂に到達。

有線放送の共聴アンテナがあり、未舗装ながら車道も通じている。

二等三角点の標石をたわしで掃除し、記録撮影。

次なる三等三角点、「大小屋」は、恵那市明知町の林檎園の先のヒノキ林にあって、大破した小屋の傍。

「傍示松」は明智町の田沢ダムの近くの山中にあって、地形があいまいなので、地図を片手にうろうろ。

登山用GPSでは三角点を特定できず、スマートフォンのアプリ「国土地図」が役に立った。

三角点の傍には、ちゃんと松が生えておりました。

「何でもない山」に登る機会はなかなかないもの。

そんな山に分け入ると、どうなっているか1年に3か所くらいなら、それを探る経験もいいかも。

<行程> (―:車、…:徒歩)

自宅4:30―(県道20号線・矢作第一ダム通過)―釜井小公園越波集落(駐車)7:25…釜井の大マキ7:40…反射板8:15…高戸山山頂8:55〜9:05…釜井小公園10:00―「大小屋」踏査10:30〜11:20―「傍示松」踏査11:40〜12:25

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池大雅 白山・立山・富士山に登る

京都国立博物館は、これまで特別展でさまざまな画家を取り上げ、その再評価のきっかけを作ってきた。

2000年―伊藤若冲、2002年―雪舟、2005年―曽我蕭白、2007年―狩野永徳、2007年―河鍋暁斎、2010年―長谷川等伯、2013年―狩野山楽・山雪、2017年―海北友松

そして、今春の特別展は、江戸期の文人画家、池大雅。サブタイトルは「天衣無縫の旅の画家」。

池大雅は、登山もやっていたらしいから、これは見逃せない。


池大雅(いけのたいが:1723―1776)は、京都銀座役人の下役の子として生まれたが、父を早くに亡くし、経済的に苦しい中、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、早くから「神童」と言われていた。大和郡山藩の重臣で文人画家の柳沢淇園に才能を見出され、文人画を伝えられ、その大成者となった。

ちなみに、「文人画」とは、本家中国では、画を職業としない人たち、すなわち非専門家である教養と詩文の才能を持った文人(その多くは貴族・高級官僚・大地主)が描いたものを指した。

一方、日本では、中国的な教養を身につけた人物を「文人」と呼び習わし、彼らの書いた絵を「文人画」と呼んだ。市民文化の発達した江戸期には、身分や出自、あるいは職業とするかアマチュアかを問わず、都市にも地方にも「文人」が存在し、彼らは独自のネットワークを構築し、全国的な規模で交流していたという。

 

大雅は、旅を重ねた画家でもあり、26歳の時、江戸から塩竈、松島にまで足を延ばし、その翌年には北陸地方を訪問、20歳代後半から30歳代にかけて、伊勢や出雲なども旅している。

そして、38歳の時には、友人の高芙蓉・韓天寿とともに白山・立山・富士山の三霊山を踏破。

この時の記録を屏風仕立てとした「三岳紀行図屏風」が、今回展示されている(撮影禁止のため画像は図録:クリックで拡大)。

スケッチ部分は大雅、出納(何をいくらで買ったか)部分は天寿のもの。ちなみに、高芙蓉は、儒者で篆刻家、日本の印章制度を確立して「印聖」と呼ばれ、韓天寿も書家・篆刻家として知られており、同行の友人も相当な「文人」だったようであります。

3人が三霊山をめざし京を出たのが、宝暦10年(1760年)6月27日(現在の暦だと8月初旬)。

「ほなら行きましょか」といった軽い乗りだったようで、着のみ着のままで出かけ、大津で初めて笠や糸経(麻と藁で編んだむしろ:日よけ・雨よけにする)を買っている。

琵琶湖から高島に船で渡り、そこから陸路敦賀に出て、7月3日白山に向け出発、翌日室堂に泊まる。

白山下山後5日で立山登山に出発、翌日室堂に至り悪天のため2泊。

下山後、魚津から黒部峡谷を訪ね、市振、糸魚川を経て、北国街道に入り、善光寺、戸隠に参詣。

浅間山に立ち寄り、いったん江戸に出てから、富士登山後、旧暦の9月中旬、約3か月の旅を終えに京に戻っている。

 

江戸時代に、こんな自由な旅・登山があったのかと、おどろいてしまう。

それが可能だったのは、3人が文人として日本中に知られ、そのネットワークを活用できたからなんでしょう。

江戸期には、庶民も信仰の名を借りて登山を楽しんでいたということは知っていたけど、今でいう画家の「スケッチ旅行」の記録を現物で見られ、日本登山史の一側面を垣間見た心になった。

 

しかし、池大雅の絵画そのものはというと、がっかりするくらい、ぼっちの趣味ではなかった。

明治期の西洋崇拝的「洋画」同様、江戸期の中国崇拝的「文人画」は、「中国=ユートピア」という前提条件が呑み込めないと、なかなか入り込めない。

同じ文人画家に括られても、与謝蕪村の晩年:謝寅と号してからの絵は、格別に好きなんだけどな。。

「夜色楼台図」などを見ると、蕪村は「中国=芸術の中にだけ存在するユートピア」だってことが分かる心境に達していたんだと思う。

 

口直しに、ぼっちの偏愛する抹茶パフェを食べ、六波羅蜜寺で京都唯一の運慶仏:地蔵菩薩像をほれぼれ拝み、四川料理の駱駝で遅めのランチ+ビールをやってすっかり楽しくなって、帰路に就いたのでありました。

 

| ぼっち | ひとりごと | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
「山のグレーディング」でみる岐阜県山岳の難易度

皆さま、「山のグレーディング」って、ご存知でしょうか?

これは、山を体力度・難易度といったものさしで評価・ランク付け(グレーディング)したもの。

道なきヤブ山:若丸山に登り、改めて「岐阜県の山って全体に他県より難易度高いんじゃない?」と感じた。

この「山のグレーディング」というモノサシで、岐阜県の山の難易度をみてみましょう (ロ。ロ)/

 

1.「山のグレーディング」とは

「山のグレーディング」が最初に行われたのは、2014年(平成26年)の長野県。

当時長野県では、山岳遭難件数が4年連続過去最多を更新する深刻な状態で、「体力の低下を意識しない中高年者」や「山の怖さを知らない初心者」が、県内の急峻な山岳に訪れて遭難することが、その一因となっていた。

そこで、「県内の登山ルートの難易度を情報提供し、登山者が『自分の力量にあった山選び』をすることにより、山岳遭難事故の防止に役立てる」ことを目的として、「山のグレーディング」が作成されるようになった。

 

同年、長野県とともに中央日本四県サミット」に加盟する、新潟県・山梨県・静岡県も公表。

2016年(平成28年)3月に岐阜県、8月に群馬県、9月に栃木県公表。

さらに山形県が2017年(平成29年)に「山形百名山」を選定、2018年4月11日そのグレーディングを発表した。

長野県:「信州 山のグレーディング」

新潟県:「新潟 山のグレーディング」

山梨県:「山梨 山のグレーディング」

静岡県:静岡県「山のグレーディング」

岐阜県:「岐阜県山のグレーディング」

群馬県:「群馬県 山のグレーディング」

栃木県:「栃木県 山のグレーディング」

山形県:「やまがた百名山のグレーディング」

ほかに、遭難者数が長野県に次ぐ北海道や、「北アルプス」を擁する富山県もあったらいいなとおもう。

 

2.グレーディングの方法

グレーディングの方法は各県共通で、主要な登山ルートを対象に、体力度と、登山道を通過する際の技術的な難易度を評価する。

これに基づき、縦軸に体力度、横軸に技術的難易度をとったグレーディング表と、一覧表、山岳・ルート位置図が作成される。
 

(1)体力度

・次の式により「ルート定数」を算出し、1から10の10段階で評価

 ルート定数=コースタイム(時間)×1.8+ルート全長(km)×0.3+累積登り標高差(km)×10.0+累積下り標高差(km)×0.6

(2)難易度

・山道の状況と、登山者に求められる技術・能力により、AからEの5段階で評価

技術的

難易度

登山道の状況 登山者に求められる技術・能力

◇概ね整備済

◇転んだ場合でも転落・滑落の可能性は低い

◇道迷いの心配は少ない

◆登山の装備が必要

★★

◇沢、崖、場所により雪渓などを通過

◇急な登下降がある

◇道がわかりにくいところがある

◇転んだ場合の転落・滑落事故につながる場所がある

◆登山経験が必要

◆地図読み能力があることが望ましい

★★★

◇ハシゴ・くさり場、また、場所により雪渓や渡渉箇所がある

◇ミスをすると転落・滑落などの事故になる場所がある

◇案内標識が不十分な箇所も含まれる

◆地図読み能力、ハシゴ・くさり場などを通過できる身体能力が必要

★★★★

◇厳しい岩稜や不安定なガレ場、ハシゴ・くさり場、藪漕ぎを必要とする箇所、場所により雪渓や渡渉箇所がある

◇手を使う急な登下降がある

◇ハシゴ・くさり場や案内標識などの人工的な補助は限定的で、転落・滑落の危険個所が多い

◆地図読み能力、岩場、雪渓を安定して通過できるバランス能力や技術が必要

ルートファインディングの技術が必要

★★★★★

◇緊張を強いられる厳しい岩稜の登下降が続き、転落・滑落の危険個所が連続する

◇深い藪漕ぎを必要とする箇所が連続する場合がある

◆地図読み能力、岩場、雪渓を安定して通過できるバランス能力や技術が必要

ルートファインディングの技術、高度な判断力が必要

◆登山者によってはロープを使わないと危険な場所もある

 

3.長野県・山梨県・岐阜県の「山のグレーディング」

各県の「山のグレーディング」を見ると、各県の山のグレードとともに、各県が山岳をどのようにとらえているかも浮かび上がる。

そのうち、代表的な山岳県、長野県、山梨県と岐阜県をご紹介。

〇長野県

・遭難対策という目的を明確に打ち出し、主要な山では、ルートごとに詳細にグレーディングしている。

・難易度の高い、D・Eレベルが7県中もっとも多い。

・ただし、特に厳しい登山ルートは評価の対象としないとして、西穂高岳〜奥穂高岳、赤石岳、鋸岳などは除外されている。

・「北アルプス」「南アルプス」「中央アルプス」以外の山域は、グレーディング対象の山が少なめ。

 →そのためもあってか、「信州百名山」でグレーディングされているのは、36山にとどまる。

 

〇山梨県

・特徴的なのは、県、県警、県山岳連盟が一体となって「山梨百名山」をすべてグレーディングしていること。

・そのため、難易度の低い山も多数対象としている一方、長野県が評価対象外とする鋸岳も含め難易度の高い山も含む。

 →「山梨百名山」は、県が選定した「官製百名山」。これを観光資源として県を挙げPRしている山梨県らしいグレーディング。

 

〇岐阜県

・岐阜県が作成、岐阜県山岳連盟や各山域の遭難対策協議会などが協力。

・「『ぎふ百山』を中心に、岐阜県内で比較的登山者が多いものから選定したもの」を対象としたとされる。

 しかし、「ぎふ百山」124山のうち、対象となっているのは約3割の41山にとどまる。

・長野県が評価対象外とする槍ヶ岳〜西穂高岳などのルートも掲載し、難易度の高いD・Eレベルも多い。

 →ここまで調べて、岐阜県の山岳は「山のグレーディング」だけでは評価しきれないのでは?と感じた。

 

4.岐阜県山岳が「山のグレーディング」で評価しきれない理由

・「山のグレーディング」は、登山道が評価の対象となる。

・しかし、岐阜県がグレーディングで利用した「ぎふ百山」には、登山道が全くない山が36山、踏み跡程度の山が15山ほどあり、合わせて、全体の約4割におよぶ。

 ちなみに、「山梨百名山」は全数登山道があり、「信州百名山」も、登山道が全くない・踏み跡程度の山を合わせて7山ほどにとどまる。

・登山道のない山はルートファインディング技術に加えヤブ漕ぎまたは積雪期の技術が要求されるため、グレーディングにおける「難易度」では、D・Eランクになる。

・ここに、登山道がある難易度D・Eのものを加えると、岐阜県の山の難易度は長野・山梨県よりはるかに高いということになる。


→長野・山梨県は、標高が高い山が多いけど、雪が比較的少ない中央高地式気候の山域が多く、首都圏が近いため登山者が多く、ほとんどの山岳で登山道が整備されている。

 一方、岐阜県は、日本海からの季節風の影響を受け、低山でも半年近く豪雪に閉ざされる山域が多く、登山者も相対的に少ないので、登山道の整備があまり進んでいない。

   地元では、登山道がないことが特別なことではないので、ヤブ漕ぎや残雪期を狙って登山するスタイルが定着している。

 したがって、長野県で考案された登山道ありきのグレーディング手法で岐阜県の山岳を評価するのに無理がある。

 (ただし、そもそも登山道もない山に「体力の低下を意識しない中高年者」や「山の怖さを知らない初心者」が不用意に入山することは多くないので、遭難対策という面ではあまり問題にならない。)

 

5.まとめ

・いずれにしても、他県に比べて登山道がない山が格段に多いのが、岐阜県山岳の特色。

 そのため、登山道の整備された山だけを登山の対象とすると、おおよそ4割近くの山が除外されてしまう。

 (例えば、日本三百名山の、笈ヶ岳、猿ヶ馬場山、野伏ヶ岳も除外となる。)

・そのため、岐阜県の山岳を偏りなく登るには、ルートファインディング、ヤブ漕ぎ、残雪期登山などの技術は不可欠。

・つまり、「岐阜県の山岳の難易度は全般的に高い」という結論に至るのであります。

 

・したがって、「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の取り組みでは、登山道の有無は選定に考慮しない方針。

 

| ぼっち | ひとりごと | 06:34 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
豪雪の敦賀「ずぼ蟹買い出しツアー」

今年の北陸地方の豪雪には、心よりお見舞い申し上げます。

毎冬恒例の敦賀市「ずぼ蟹買い出しツアー」が催行できるか心配だったけど、

何とか解禁期間中に連れ合いと行けマシタ (ロ。ロ)/(ヘ。ヘ)/ マニアッタ

 

北陸自動車道を滋賀県から福井県に入ると、一気に雪が深くなる。

今冬は特に、海岸沿いの積雪の多さが特筆もの。

敦賀市内は、下ろした雪が路肩に積み上げられ、車が寄せられないくらい。
敦賀漁港に接した行きつけの魚問屋は、元気に営業しておられた。

大きな釜で、蟹を威勢よく茹であげていく。
越前ガニは、黄色のタグが付けられブランド品扱いで、とてもお高い。

それに対して、脱皮して間もない蟹は、茹でているうちにカニ味噌がれてしまい、身も水っぽいので「水ガニ」と呼ばれ、もっぱら地元で消費されている。

そのかわり、値段は格段に安く、甲羅が柔らかいので手で簡単にずぼっと身を取ることができ、茹でたてはジューシー。

福井県民は「ずぼ蟹」とも呼び、冬の味覚として楽しみにしている。

今年は、豪雪のせいで引き合いが少ないのか、いつもよりお値打ちに求めることができた。
魚問屋のすぐ前は、敦賀港。

イカ釣り船の停泊する向こうには、敦賀半島の珍名の山、蠑螺ヶ岳(さざえがたけ)がのぞいている。
魚問屋のそばの「どんと屋」の10時開店を待って、超早めの昼飯。

カニ・カキ・ブリの載った冬天丼と、刺身の切れ端5種分の入ったまかない丼。

大喰らいのぼっちが、1人前半食べマシタ。
帰路は、一般道で滋賀県長浜市木之本町の富田酒造に寄り、銘酒「七本槍 純米 玉栄 搾りたて 生原酒 中取り」を購入。

うう、早く帰って、蟹茹でて、飲みたい。。
しかし、山馬鹿には、木之本町から伊吹山地を貫く八風トンネルで岐阜県に入り、奥美濃の山々の積雪状況を確認するというもう一つの目的が待っている。

夜叉ヶ池や三周ヶ岳、烏帽子山などに向かう池之又林道の積雪は、昨年よりはるかに多い。

一方、7劼曚媛爾辰拭崙擦留悗気うち」まで行くと、例年より雪が少なくて、早い時期からヤブ漕ぎをしなければならないような状況。

なかなか、各山のベストコンディションの時期が見極めにくいゾ。。
道の駅さかうちは、周辺の山の情報ステーションにもなっていて、登山届のポストも設置されている。

徳山ダム以北の国道417号線の春開通時期が3月9日になりそうなことをチェック。

(連れ合いにはカニでポイント稼いでおいて)さあ、いよいよ春山登山開始!

 

 

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