WALK あばうと 日本4,000山

「新日本山岳誌」掲載の約4000山が修行の地。 めざせ山仙人!
伊吹山と円空

「円空仏」で知られる江戸前期の修験僧円空は、乗鞍岳、笠ヶ岳を開山するなど、ぼっちの敬愛する山の大先輩でもあります。

しかし、梅原猛著「歓喜する円空」など文献を読むほど、彼の生涯における本質的な疑問が解明されていないのを感じる。

今回、伊吹山に登って、その解明のカギは、伊吹修験にあるのではと強く感じたので、以下に論考します (ロ。ロ)/長文ゴメンナサイ

 

【疑問の前提となる円空の事跡】円空連合の年表参照)

円空は、寛永9年(1632年)長良川沿いで生まれ、洪水で母を失い、その水源である白山への信仰が終生篤かった。

最も早く円空の足跡が分かるのが、寛文3年(1663年 32歳)郡上市美並町の天照皇太神像など三体の神像の背銘(背中の銘文)。

当時、星宮神社の西神頭家が円空をバックアップしていたと考えられている。

 

何らかの事情で円空はこの地を去り、寛文6年(1666年)1月、津軽藩弘前城下を追われ、蝦夷松前の地に渡っている。(35歳)

同年 蝦夷で多くの仏像を作り、また寛文3年に噴火した直後の有珠岳を訪れ、虻田郡洞爺湖の観音島に伝わる聖観音像の背中に

うすおく乃いん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登円空」の銘文を記す。

 

その後、大峰山など各地で修業を積みながら、多くの神仏像(円空仏)を作る。

 

そして、50歳代になってから飛騨を集中的に訪れ、多くの山に登る。

・天和3年(1683年)平湯から乗鞍岳に登頂し、魔王岳と摩利支天岳を開山したとされる。(52歳)

・貞享2年(1685年)高山市丹生川町千光寺に滞在。(54歳)

・貞享3年(1686年)木曽に仏像が残り、御嶽山に登ったと考えられる。(55歳)

・貞享年間ないし元禄初年 飛騨の二十五山山頂に阿弥陀仏と二十五菩薩を奉安。

元禄2年(1689年)3月 伊吹山中の太平寺に十一面観音像の大作を残す。(58歳)

 同年8月 園城寺で血脈(法門継承の証)を受け、関の弥勒寺(実際には古い廃寺、当時は新たな寺は作れなかった)を園城寺の末寺に加えてもらう。

・元禄3年(1690年)から翌年にかけて奥飛騨の禅通寺に滞在、多くの円空仏を遺す。

・同年 双六谷の最奥の集落金木戸に十一面観音、今上天皇像、など三体の像を残す。(59歳)

 十一面観音像(実際には六面)の背銘「頂上六仏 元禄三年 冂 乗鞍嶽 保多迦嶽 □御嶽 / 伊応嶽 錫杖嶽 四五六嶽 /□利乃六嶽 本地處□六権現」(□御嶽は、於御嶽として、笠ヶ岳をさすとの説が有力)

 今上天皇像の背銘「元禄三年九月廿六日当国万仏十マ仏作己(おわる)」

 

元禄5年(1692年)弥勒寺を再興。(61歳)

元禄8年(1695年)弥勒寺に近い長良川の畔で入定。(64歳) 

 

【本質的な疑問】

➀円空は、どうして信仰の中心にあった白山周辺に円空仏を残していないのか? 

 →円空が没して百年ほど後の、寛政2年(1790年)伴高蹊の「近世畸人伝」に「富士山に籠り 又加賀白山にこもる」とある。

  しかし、美濃・飛騨に円空仏は1600体ほど残るが、白山周辺にはまったく残っていない。(↓画像クリックで拡大)

  若き円空を支援した西神頭家は、白山信仰の拠点・洲原神社を追われた過去を持っており、

  星宮神社は、虚空蔵菩薩を神体とする高賀信仰の神社であることにも留意が必要なのでは? 

円空は、どうして津軽、そして蝦夷に渡ったのか?

 →梅原猛「歓喜する円空」では、寛文5年(1665年)10月の西神頭家の当主安高の死との関わりを推測している。

  しかし、美並に残る円空仏の銘文は寛文4年12月まで。

  寛文6年(1666年)1月に津軽を追われ、

  洞爺湖の聖観音像に江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日」とあることからすれば、寛文5年に伊吹山で一定期間(通常の修行だと90日間)平等岩で修業を積んでいたと考えていいのでは。

  ということは、円空が西神頭家のある美並を離れたのは、安高の死より早かった可能性が高い。

  津軽、蝦夷への旅立ちのきっかけは、別にあったのでは?

 

1澡は、どうして晩年近い50歳代になって飛騨に足しげく通うようになり、乗鞍岳、御嶽山、笠ヶ岳などに登ったのか?

 また、円空は、どうして槍ヶ岳には登らなかったのか? 

 →非体育会系文化人の梅原猛は、「歓喜する円空」で、円空の山岳修行に対してほとんど触れていない。

  しかし、山岳修行僧円空にとって、修行は、精神と共に肉体の修行であったはず。

  山岳修行の跡を追わずして、円空の本質に迫れるのだろうか?

 

【伊吹山に登って】

快晴の伊吹山山頂に立って強く感じたのは、円空への本質的な疑問に関わるキーワードが、ここには全てそろっているということ。

 

・白山 伊吹山は白山を遙拝することができ、白山を開山した泰澄ともゆかりがあった。

 →円空は何らかの事情で白山で修業ができず、西神頭家支援を受けての美並での修業にも限界を感じ、

  伊吹山に修行の場を移したのではないだろうか。 

  想定される事情1:当時の白山は三馬場の争いなど現世的利害関係でもめており、円空の理想とする場所でなかった

         2:当時の白山の信仰のありようが、円空の思うところとかけ離れていた

         3:当時の美濃・飛騨の越前・加賀国境周辺は、一向宗の勢力が圧倒的に優勢で、

           寺院もほとんど一向宗に改宗しており、一介の修験僧の居場所はなかった  

 

・蝦夷 伊吹山は、京都・近江と東北や北海道の物流のルートである北国脇街道に面していた。

 →伊吹山は、陸奥や蝦夷の情報が入りやすく、ここで恐山や、1663年(寛文3年)の蝦夷有珠山噴火の話を聞いたのではないか。

  ちなみに、白山は1659年(万治2年)噴火をしており、円空は火山に対して相当関心が高かったよう。

  (当時噴火のなかった富士山を噴火したように描いたものが4枚も伝わる、硫黄嶽(焼岳)にも登っている)

 

・「江州伊吹山平等岩僧内」 当時の伊吹山は、弥高寺などの主要寺院が衰退し、太平寺の坊などがわずかに残っていた程度。

 →徳川幕府が修験道法度などで統制を強めた時代に、主要寺院が衰退した伊吹山はかえって自由に修行ができる場だったのでは?

  美並から伊吹に移って初めて本格的な修験僧としての修行を行えたからこそ、背銘にそのように記したのではないか。

  また「始山登」と、有珠山に初登頂したことを記しているということは、登頂を修行の重要な関門ととらえていたはず。

 

・御嶽山、乗鞍岳、穂高岳、笠ヶ岳 白山とともに、これらの山も伊吹山山頂から拝むことができることを今回確認。

 →伊吹山から遙拝したこれらの山に登ることを、十万体の仏を作ることと同様、修行の最終関門としていたのではないか。

  笠ヶ岳に登る前年、改めて伊吹山を訪れ、太平寺に十一面観音を残しているのもそのためでは。

  ちなみに、槍ヶ岳は今回目では確認できなかったけど、伊吹山山頂から見えはするらしい。

  ただしそれをとらえた画像で見ると穂高岳とひとまとまりで目立たたず、笠ヶ岳の方が独立して立派に見える。

 

・弥勒 伊吹山の信仰の中心は山上の弥勒堂で、弥勒信仰の山だった。

 →円空が再興した寺が弥勒寺であり、また、弥勒寺近くの長良川河畔で入定したのも弥勒信仰に基づくもの。

  弥高寺跡の行者谷には「入定窟」という岩室も残る。

  梅原猛は円空の入定を、出羽三山などで即身仏を見聞したからだと推測している。

  しかし、円空は伊吹山で修業をしていた段階で、すでに自分の修行の最終目標として入定を意識していたのではないだろうか。

【小 括】

槍ヶ岳を開山した播隆は、多くの記録を残しているので、笠ヶ岳や槍ヶ岳に登頂したことは明らか。

それに対し、円空の登頂は、文政6年(1823年)播隆の「迦多賀嶽再興記」など、後の記録によるしかない。

そのため、播隆の槍ヶ岳開山が広く知られているのと比べると、登山史上円空は重要人物ととらえられていない。

しかし、同じく伊吹修験に身を投じていた播隆は、偉大な先達として円空を意識し、笠ヶ岳を「再興」としている。

円空研究には、伊吹修験にもっときちんと光を当てるべきではないだろうか。

そして、日本登山史において、円空は播隆と同じか、それ以上に顕彰されていい存在ではないだろうか。

 

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飛騨の隠居さまに会いに行く

2月1日、小雪舞う高山市へ。

今回の目的は、登山でも観光でもなく、「飛騨の隠居さま」にお会いすること。

ご自身で「隠居」とおっしゃっているけど、飛騨山岳界の重鎮であられ、アルピニストとしてのご経験も、登山史などに関するご見識も卓越された大先輩。

ここでは最大限の敬意をこめて「飛騨の隠居さま」と呼ばせていただきます。

 

「ぼっちの『岐阜百秀山』勝手に選定委員会」の取り組みは、「勝手」と言いつつも、独りよがりのものでは、岐阜県山岳に対して申し訳が立たない。

特に飛騨山脈については、美濃の片隅に住む、ぼっちの上っ面の知識・経験だけでは、いかにも心もとない。

ひととおり候補の山に登り、絞り込み作業が進んで原案ができたので、飛騨の隠居さまにご意見を拝聴しに高山を訪問した次第。

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時間調整のため、飛騨の歴史をひととおり知っておこうと、いつも山の往復に素通りしている市内を探訪。

まずは、かつて高山城の置かれていた、城山公園へ。

城山には、室町時代、高山外記が天神山城を築城、高山という地名は、彼の名を取ったとの説がある。

二ノ丸跡にある騎馬像は、初代高山藩主金森長親公。戦国末から江戸時代前期におかれた高山藩の基盤を気付いた名君であります。

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雪の天守跡から見下ろす高山市街、山また山に囲まれた土地であることがよく分かる。

向かいの山が、高山市民に親しまれる松倉山。

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城山中腹にある照蓮寺の本堂は、御母衣ダムに沈むため白川郷から移築された室町後期の建築で、現存する浄土真宗(一向宗)の本堂では最古のもの。

照蓮寺は、飛騨に広がった一向宗勢力の中心的な寺で、ここでは省略するけど、飛騨の歴史を語るうえで欠かせない寺院。

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「飛騨の里」も、初訪問。
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木挽小屋(手前)や、杣小屋(奥)など、かつての飛騨の山の暮らしをしのばせる建物がある。

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木挽を生業としていた民家の中には、飛騨の林政史や、木挽の道具の展示が。

木材の運搬には、木曽川、長良川などが利用され、飛騨国と美濃国が物資輸送の面で密接につながっていたことが分かる。
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飛騨の里の背後にある松倉山(856.7m)にも登る。標高857mながら、飛騨盆地からの高度差は350mあまり。

山頂には、戦国時代三木(姉小路)頼綱の松倉城があった。

彼は越中富山城主佐々成政と手を組んでいたが、羽柴秀吉より討伐の命を受けた越前大野城主、のちの初代高山藩主金森長近に落とされた。

天守閣跡は、飛騨山脈の大展望台になっている。

今回は雪雲に覆われ、残念。。

飛騨の里に隣接する、高山民俗村の旧高山測候所にも立ち寄り。

現在は、山岳資料館となっていて、飛騨登山史が概観できる。

本当は、是非こここそ見たかったのだけれど、冬季閉館中で、外から眺める。

おお、そろそろお約束の時間(緊張。。)

飛騨のご隠居さまにお会いし、いろいろお話を伺った2時間あまりは、とても濃密な時間。

飛騨の山について、だいたいいいところを選んでいると言っていただけ、まずはほっとした。

そうはいっても、もっと調査したり、差し替えたりする必要がありそうなご指摘をいくつかいただいた。

今年夏までに、調査登山を進め、より納得の百の山を選ぼうと、さらなる精進を誓った次第。

飛騨のご隠居さま、いろいろありがとうございました。

今後ともよろしくお願いいたします。

 

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WALKあばうと 京都の空

長かった2020年の正月休み最後の1月5日は、恒例の京都へ初詣を兼ねた新春散歩に。

 

バスを待ちながら、京都タワーを見上げる。(地図 

目まぐるしく、京都の冬の空は色を変えていく。

今回は、空をテーマに散歩をしてみようかな。。

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まずは、バスで北野天満宮へ。

5日ともなると、案外空いていて、のんびり空を仰ぎながら参拝。

 

本殿手前右側のマーブル模様の石の撫で牛、見覚えのある方もおられるでしょう。

これは、うちの裏山、金生山産出の「更紗石」という大理石の一種でできております。

北野天満宮にはもう一体、「美濃黒」という大理石でできた撫で牛もあり、いずれも明治41年(1908年)に奉納されたそう。

ちなみに、福島県三春町の北野神社にも、慶応元年(1865年)に奉納された金生山の大理石製の撫で牛があるんだとか。

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北野天満宮から市バスで河原町丸太町まで移動。

京都御所の上空は鈍い灰色。

寺町通沿いに下御霊神社、西国三十三カ所革堂とお参りしながら、南下。

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三条大橋を渡って、東山へ。

途中白川に架けられた、いたって簡素な橋が気にかかる(今は、スマホですぐ調べられる)。➃

この石橋は「一本橋」と言って、千日回峰行を達成した行者が、知恩院そばにある粟田口の尊勝院に詣で、元三大師に満行を報告するため洛中に入る際、最初に渡る橋で、「行者橋」とも呼ばれるそう。

千日回峰は、比叡山山中を一日約30辧7年間で千日回峰するという厳しい修行。

山修行にいそしむ山馬鹿には、とりわけありがたい橋なのでありました。

 

東山山麓の知恩院は、2012年から続いていた国宝御影堂の大修理がほぼ終わり、久しぶりにその全容が現れていた。

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丸山公園を横切り、大谷祖廟に参り、石段を下って八坂神社に。

目まぐるしく変わる冬空は、青い色を取り戻しかけてきた。

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ここまで歩いて11時を回ったところ。

八坂の塔を見ながら南下、途中麺と丼の店「ひさご」で、開店を待ち、名物の親子丼をいただく。

京都では、出汁のうまいものを食べるのが何より。今回も半熟アツアツがすきっ腹にしみた。

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八坂通りから南下、名前が気になる「幽霊子育飴本舗」の角を曲がって、六波羅蜜寺へ。

小学生の頃から仏像おたくでもあったぼっちが、毎年会いに行きたくなるくらいの名作、宝物殿の運慶作地蔵菩薩と対面。

今は重要文化財のこの地蔵菩薩と、同じく宝物殿にある肖像彫刻の傑作空也像は、国宝になっておかしくないとおもう。

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松原橋で、鴨川を渡り、四条河原町へ。

高島屋でバーゲンをのぞいて(物欲消えてません)、抹茶パフェおたくでもあるぼっちお気に入り三条大橋たもとの「京はやしや」へ。

雪の比叡山をながめながらのパフェのうまいこと(食欲も消えないなあ)。

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いつの間にか、初詣が煩悩まみれになって終盤へ。

夏は川床の並ぶ鴨川べりを南下。

ふたたび石膏のような雲に閉ざされる。京都は空が広い都市だなとあらためて思う。

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東本願寺にも立ち寄り。

こちらの御影堂は明治時代の建築だけど、内部に並ぶケヤキの大柱には圧倒される。

これらの木が育ってきた森は、今はどうなっているのだろう。。

深い森を見るように、ケヤキの柱たちを眺めてしまった。

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京都駅に戻り、約2万歩の京都初詣散歩は無事終了。 (↓地図クリックで拡大)

都会はこれでお腹いっぱい。再び山修行に戻ります (ロ。ロ)/

 

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2020年 心新たに山修行

2020年 新年明けましておめでとうございます。

本ブログ管理人 山馬鹿岐阜県民ぼっちです。 

日本最大の登山辞典日本山岳会編「新日本山岳誌」掲載の約(about)4000山を、ひたすらさすらう(walkabout)日々こそ、わが人生。

めざすのは、何にもとらわれず、ひょうひょうと生きる山仙人。

しかし、いまだに、山への煩悩が多すぎ、山馬鹿にとどまる修行中の身。

今年も、そんな山馬鹿の山修行の日々に、お付き合いのほど、よろしくお願いします。

今年の抱負は、次のとおり。

 

1.「岐阜百山」を(勝手に)選定・出版

 本州中央部なのに、濃尾平野以外人口が極端に少なく山また山の岐阜県は、名山霊峰が多く、森林率全国第2位の山岳県であります。

 しかし、長野県や山梨県が、内陸で通年雨・雪が比較的少なく、首都圏に近くて登山道が整備されているのに対し、

 通年降水量(雨・雪)が多く、冬は豪雪、夏はヤブに覆われ、登山道のない冒険的な山も多いのが、個性になっている。

 

 そんな岐阜県の山の網羅的な情報としては、1975年刊行の「ぎふ百山」(岐阜県山岳連盟編)がある。

 もっとも、中央自動車道や東海北陸自動車道も開通していない45年も前のもので情報が相当古く、今は入手も困難。

 また、百といいつつ、124山が掲載され、やや過剰感がある。

 そこで、2016年から5か年計画で、「勝手に『岐阜百名山』」を選定・出版しようと取り組んできた。

 しかし、調査を進めてきて、「岐阜百名山」という名前にしっくりこない感じを持っている。

 

 「名山」とは、「名高い山」つまり、評価の定まった山という意味。

 300名山を50以上持つ長野県は別格として、ひとつの都道府県で「名高い山」が百そろわなくて当然。

 しかも、岐阜県の山岳の個性のひとつに、冒険的な山が多く、名高くはないけど、「佳(よ)き山」が多いことがある。

 そこで「岐阜百名山」改め「岐阜百秀山を選定する、ということにして、今年1年取り組む所存。

 <ブログ「ぼっちの『岐阜百秀山』勝手に選定委員会」へ>←クリック!

 

 昨年でおおよそ、百の山の絞り込みは終了、今年はその精度を上げるため、最近登っていない次の山の再訪を計画。

 錫杖岳、猿ヶ馬場山、人形山、御嶽山、恵那山、伊吹山、三方崩山、笈ヶ岳。

 難易度の高い山、有名な山でいろいろ文献調査をしたい山も多く、まだまだ気が抜けない。

 諸先輩のご助言も仰ぎながら、何とか出版にこぎつけたい。

 

 

2.「美濃百山」を完登する

 ぼっちの地元の山の会では、「美濃百山」というのをリストアップしている。

 難易度でA級<B級<C級と分け、C級は道なきヤブ山が中心。ガイドブックなんか、もちろんない。

 85山までは登ったけれど、A級が10山、B級が1山、C級が4山の計15山が未踏。

 地元の山馬鹿として、完登をめざしたい。

 残る超マイナーなC級の山については、今春最大のチャレンジとなる計画を胸に秘めている。

 何とかこれも成功させたい。

 

3.登攀技術を向上する

 今まで、山に登れれば十分、技術のための技術に時間を割くのはもったいないと思ってきた。

 しかし、最近、技術の壁をひとつ越えると、見える世界も変わるのを感じている。

 今年は錫杖岳も登る計画なので、事故防止という面からも、登攀技術向上に努めたい。

 

今年は、山馬鹿人生で、もっとも重要な年になりそう。心を新たに山に向かい合うつもり。

お付き合いのほど、よろしくお願いします (ロ。ロ)/

(画像:美濃禅定道三ノ峰避難小屋でのご来光)

| ぼっち | ひとりごと | 21:40 | comments(0) | - | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
「天気の子」と夜叉姫と

7月27日は、ぼっちの何十回目かの誕生日であります。

例年、梅雨明け直後で快晴率がすごく高いので、「誕生日プレゼントは山」と、家にいたことなない。

ところが、今年は梅雨は長いし、台風6号は日本を直撃するしで、トホホであります。

地球環境がおかしくなっているからなんだろうか。。

 

ということで(家族はぼっちが家にいるとは思わず予定があるので)独り新海誠監督話題の「天気の子」を見に。

「天候の調和が狂った時代を舞台に、運命に翻ろうされる少年少女の物語」で、

ネタばれにならない程度にポイントをいうと、祈るだけで天気を晴にできる不思議な力を持つ少女天野陽菜が、天候の調和を戻すため、人柱として犠牲になろうという切ないお話。

今日のぼっちの心境には、まことにぴったりの映画でありました。

 

さて、映画が終わって、帰る途中、カーナビに「夜叉堂」という表示が出た。

ああそうだ、天気のために人柱になるって言ったら、夜叉姫もそうだった。

「夜叉ヶ池」の伝説といえば、岐阜県民や坂東玉三郎ファンを中心に、ご存知の方も多いことでしょう。

その伝説は、おおよそ次のとおり。

平安初期弘仁8年(817年)、美濃国平野庄(岐阜県安八郡神戸町)は大旱魃に見舞われた。

ある日、郡司の安八太夫安次は、小さな蛇を目にしため息まじりに「もしそなたが雨を降らせてくれるなら、私の大切な娘を与えよう」とつぶやいた。

実は、その蛇こそ揖斐川上流に住む龍神で、大雨を降らせた後、約束どおり娘をもらうため若者の姿に変え安次のもとに現れた。

安次が三人の娘たちに事情を話すと、一番心がやさしい夜叉姫という次女(三女とも)が、龍神とともに、行くことになった。

娘を案じた安次は、揖斐川上流のさらに山奥の池に龍神が住むという話を聞き、山上にあるその池にたどり着いた。

「夜叉姫よ、今一度父に姿を見せておくれ」と安次が叫ぶと、巨大な龍が現れ、「父上、これがあなたの娘の姿です。もうこの姿になったからには人の前に現れる事はできません」と告げ、池の中に消えた。

その池は、夜叉ヶ池と呼ばれ、山上にあり流れ込む沢もないのに、今も変わらず水をたたえている。

安次の子孫は、代々石原伝兵衛を名乗り、今も神戸町に住んでおられる。

 

晴れを呼ぶ「天気の子」天野陽菜と、雨を降らす夜叉姫は、真逆だけど、天候の不順に少女が犠牲となるというのは同じ。

せっかくなので、夜叉堂に立ち寄ってみよう。

 

夜叉堂があるのは、濃尾平野の中で、夜叉ヶ池からは直線距離で約40劼睥イ譴討い襦

台風来てます。。

旧い道に「夜叉堂」の石碑があり、ナビをたどっていくと、夜叉堂の前に出る。

旧家のお屋敷の一部という感じで、由緒書きがあり、奥に進むと夜叉堂があった。

山馬鹿としては、これ以上雨はいいけど、狂いかけた地球環境を何とかしてくださいと祈りたいところ。

後で神戸町の街並みを通ったら、なんと今日は、当地から夜叉ヶ池まで往復を2日で走る「夜叉ヶ池マラニック」の開催日だった(@。@ オオ!グウゼン

夜叉ヶ池と神戸町の夜叉堂、往復135辧結構あります。

大雨の中、強行開催されたみたいだけど、ここにも「天気の子」が来てほしかった。。

 

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大登山家 円空

円空は、美濃国出身で、豪胆かつ無私の微笑みに満ちた「円空仏」を生涯12万体(約5千体が現存)彫ったと伝わる江戸前期の修験僧。

円空仏は、昭和30年代に民芸品のような扱いでブームとなり、当時円空は流浪の乞食僧のように思われていた。

 

しかし、研究家長谷川公茂氏らが円空仏の研究を進め、円空の生涯や思想が明らかになっていった。

そして2006年、梅原猛氏が「歓喜する円空」(新潮社)で、円空を行基や泰澄につながる日本宗教史(思想史)の重要な存在と位置づけた。

さらに、2013年には、東京国立博物館で140周年特別展として「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―」が開催され、今では美術家、宗教家として江戸時代を代表する存在と位置づけられている。

 

ところが、山馬鹿目線で調べていくと、どうもそれだけにとどまらない。

白山信仰によりながら山岳修業を重ねた円空は、登山家としてもすごい存在らしいのであります。

 

まず、円空が生きた江戸前期(寛永9年(1632年)〜元禄8年(1695年))は、後期に比べて地理的な情報が少なかったことを考慮しながら、その足跡を見ていただくと、

 

・伊吹山で修行(寛文6年(1666年)北海道洞爺湖中の観音島の聖観音像背面に「江州伊吹山平等岩僧内 円空」の銘有り)

・高賀山周辺で修行(寛文3年(1663年)神明神社神像からはじまり、晩年までたびたび訪れては周辺の寺社に円空仏を残す)

・恐山で修行(円空仏が残される)、寛文6年(1666年)津軽藩弘前城下を追われ、北海道に渡る

・北海道で、内浦岳(現駒ヶ岳、寛永17年(1640年)噴火)、有珠山(寛文3年(1663年)噴火)で山鎮めの祈りを捧げる

  (円空の山岳信仰の中心にある白山が、万治2年(1659年)に噴火しており、火山を山の怒りとして、強い関心を持っていたと思われる。

   在世中は噴火していなかった富士山の絵が4枚残るが、いずれも噴煙を上げる姿で描かれている。)

・大峰山で修行(山麓の奈良県天川村栃尾観音堂諸仏に寛文13年(1673年)銘有り)

・日光で修行(円観坊十一面観音に天和2年(1682年)の銘有り)

・御嶽山で修行(山麓の南木曾町等覚寺に貞享3年(1686年)6月に天神像を、8月に弁財天像と十五童子像を残しているので、この間に登ったらしい)

 

そして、円空は、晩年ともいえる貞享2年(1685年)から元禄3年(1690年)、集中的に飛騨を訪れて、厳しい山岳修行とおびただしい仏像製作を行っている。

(滞在時期については諸説あるが、この時期に飛騨にいたのはほぼ間違いがない。)

その最後の年になる元禄3年、双六谷最奥にある金木戸集落に、三体の仏像を残し、そのうち六面の観音に次の銘を残している。

(今は十一面観音と呼ばれているが、実際には以下の山の数と同じ6つの面を持つ。)

 

「頂上六仏 元禄三年 冂/ 乗鞍嶽 保多迦嶽 □御嶽 / 伊応嶽 錫杖嶽 四五六嶽 /□利乃六嶽 本地處□6権現」

(□は判読不能、なお上記は東京国立博物館東洋館室長浅見龍介氏が赤外線撮影をもとに読んだもの。)

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(←クリックで拡大)

乗鞍岳は、円空が登り、仏を池に納め魔を払った話が伝わる。

 (飛騨市神岡町の二十五山にも、二十五菩薩を山頂に納め、あたりの木を伐り払うことで濃霧を払った話と、その二十五菩薩が伝わる。)

・□御嶽は、於御嶽と呼んで大嶽、つまり笠ヶ岳のこととされ、円空が開いたと伝わる。

 (笠ヶ岳に円空が登ったことは槍ヶ岳を開山した播隆の「迦多賀嶽再興記」に記されている。)

・伊応嶽は、硫黄嶽=焼岳のことで、元禄頃は噴火もしておらず、登ることができたはず。

 (円空は、焼岳山麓の平湯禅通寺に元禄3年(1690年)逗留し、仏を残している。)

錫杖嶽は、笠ヶ岳の南手前、四五六嶽は双六岳のことで笠ヶ岳の北奥。登ったかどうかの記録はない。

 ただし、笠ヶ岳より奥の双六岳に名前はついていなかったはず。錫杖岳もこれが記録上初出。

 (約180年後の文政6年(1823年)、播隆が笠ヶ岳に登ったのは、上宝村の笹嶋集落から笠谷を遡行するルート。

  しかし、円空が飛騨にいた江戸初期は、飛騨国が幕府直轄領になる直前で、山や谷に対する情報は播隆の頃より格段に少なく、谷を遡行する発想ができたのか不明。

  そもそも円空にとっては、尾根を行く回峰の方がなじみやすかったはずで、ぼっちの推測としては、

  円空は、焼岳や二十五山の山頂に立ち、笹嶋から笠ヶ岳に至る長い尾根を観察し、笹嶋から尾根伝いに錫杖嶽を経て笠ヶ岳に登頂し、双六岳から双六谷に降りるルート取りを想定し、

  元禄3年、踏破して金木戸集落に降り、無事登れたことを感謝して仏像を治め、造仏にも一区切りつけて(今上天皇像の背銘)、飛騨を去ったのではないかと考える次第。)

 

・残る、保多迦嶽は、穂高岳のこと。

・ここで、国絵図で見る江戸時代の飛騨山脈でふれた疑問に戻ると、

 日本山岳会編「改訂版 新日本山岳誌」の奥穂高岳の説明には、「穂高の山名が初見されるのは正保三年(1646年)の国絵図。そこには『保高嶽』とあり『上河内川』の記入もある」と記載され、これがWikipediaにも引用されている。

 しかし、正保版の国絵図(原本はなく正保4年の信濃国の写し)にも、約50年後の元禄版(元禄14年(1696年)写し)にも保高嶽は出てこない。

 さらに江戸後期天保9年(1838年)の天保国絵図にも出てこないし、梓川は記されるが「上河内川」は出てこない。

 

・この件については、新たな事実が判明。

 松本市・松本市教育委員会が作成した「上高地保存管理計画 改訂版」(2017年)第2章P21に「穂高岳の名は、正保、元禄、天保のいずれの国絵図にも見えませんが、元禄の国絵図の下図と思われる『師岡本信州筑摩郡安曇郡図』(松本市博物館像)に『保高嶽』と見え、17世紀末にはその名が確認できます」とある。

 さらに、P17には、「上高地の名は、正保3(1646)年の正保の国絵図(松本御領分図)に上河内川と記載されたのが文献に現れる最初」とあるので、残念ながら「新日本山岳誌」の記述は誤りというのが結論。

 

・幕府から元禄の国絵図の作成の指示が諸藩の大名に出たのが元禄9年で、完成は同14年。

 ということは、円空が元禄3年(1690年)の六面観音の銘に残した「保多迦嶽」が、穂高岳の山名の初見ということになる。 

 そして、たぶん円空は、穂高連峰のどの場所かには足を踏み入れていたと考えるのが自然では。

 

・うーむ、山岳史においても円空の存在は大きい。大きすぎる。

 

(↓7月21日、名古屋市覚王山にある鉈薬師(医王堂)の円空仏を拝観。

 北海道から帰った円空が、明の亡命王族で尾張藩のお抱え医師だった張振甫に乞われ、名古屋城のご用材の残材で作った十二神将等などの仏像群が圧倒的。

 いずれにしても、ものすごい体力とぶれない強い心があったんだろうなあ、円空さん。)

 

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「第73回ウエストン祭」参加してきました

「日本アルプス・上高地を広く世界に紹介し、登山の楽しみを伝えた日本近代登山の父とも言われるイギリス人宣教師ウォルター・ウェストン(1861−1940)。氏の功績を称え偲ぶ行事が毎年6月第1土曜日・日曜日に行われます。
土曜日は、かつてウェストンも歩いた島々谷から徳本峠を越え、上高地までの記念山行。日曜日の式典では、ウェストンレリーフ前にて献花や詩の朗読、合唱、記念講演などが開催されます。」(JAPAN ALPS KAMIKOCHI Official websiteより)

 

ウエストン祭の経緯は以下の通り、今年で73回目となる、歴史ある行事であります。

 昭和12年 (1937) 額面型の浮彫胸像(レリーフ)が取り付けられる
 昭和17年 (1942) 太平洋戦争にともないレリーフ撤去
 昭和20年 (1945) 日本山岳会に保管されていたレリーフが空襲で一部焼損
 昭和22年 (1947) 修復されたレリーフを上高地に復旧設置
                    *この復旧式がウェストン祭の起源

この歴史ある催しに、山仙人をめざす岐阜県民は場違いではありますが、縁あって参加してきました (ロ。ロ)/

 

6月1日(土)は、ウエストンをしのんで、松本市島々を起点に、徳本峠越え。

スタートにあたって、主催者の日本山岳会信濃支部の挨拶や、地元島々地区のご接待などがある。

20190601新島々.jpg

今は、上高地に入るといえば、梓川沿いの沢渡経由で入るのが一般的。

しかし、かつて梓川沿いは、渓深く、雪崩や土砂崩れも多く、1924年(大正13年)に釜トンネルが開通する以前は、徳本峠越えをしなくてはならなかった。

ウエストンが上高地に入ったのも、この徳本峠越えの道。

往年の苦労をしのんで、上高地までは20辧▲魁璽好織ぅ猝10時間の長丁場に、いざ出発!

20190601地図.jpg

二俣までは、林道歩き。

途中、天正13年(1585年)、飛騨に侵攻した金森長近に追討された姉小路秀綱(父頼綱降伏後も徹底抗戦しようとした)の奥方が、実家のある信濃側に逃げる途中、杣に襲われて命を落としたことをしのぶ、折口信夫の歌碑がある。

 ※落命したのは、二俣の少し峠寄りとされる。

つまり少なくとも戦国時代末期には、徳本峠を経由する、飛騨・信濃を結ぶ道があったということになる。

つい先日、金森長近ゆかりの茂住鉱山跡に行ったばかりだし、戦国史が身近に感じられるな。。

20190601徳本峠1.jpg

二俣からは、山道となり、谷を分け入っていく。

20190601徳本峠2.jpg

そのうちに、にぎやかな声がして、後ろから地元島々の小学校の子どもたちが登ってくる。

正確にいうと、中学校と一体になった「安曇小・中学校」の生徒の4,5,6年生が、恒例で峠越えに参加するんだとか。

ちなみに、中学校の学校登山は奥穂高岳2泊3日というから、山の子の脚力は半端じゃない。

20190601徳本峠3.jpg

岩名留小屋に到着。

ぼっちが登山を始めて2年後の11月に徳本峠を往復した時、すばらしい黄葉に感動したカツラの巨木も、毛筆の落書きがある小屋も、変わらぬ姿をとどめていた。

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岩魚留小屋を過ぎると、谷は狭まり、巨木は少なくなって、あたりは淡い新緑に包まれる。

最初は大集団だった徳本峠越えの登山者も、標高を上げるにつれ、小集団に分かれ、歩きやすくなる。

あらかじめ、それに合わせ、トップ、中盤、しんがりにきちんと係員の方が配置されているので安心。

20190601徳本峠6.jpg

登山道まわりには、エンレイソウ、サンカヨウ、ニリンソウなどの群落が続く。
20190601徳本峠5.jpg

ちから水という最後の小さな水場を過ぎると、峠沢の急登が始まる。

標高約400mのササ原をジグザグに登り詰めると、おお! ウエストンも涙したという穂高岳の雄姿。

 

穂高岳をピークごとに分けて呼ぶようになったのは、1909年(明治42年) 鵜殿正雄らが穂高~槍の縦走を行って以降。

それまで、穂高嶽・保高嶽などと総称されており、御幣岳とも呼ばれていた。

たしかに、徳本峠から眺める場合、明神岳から前穂高岳までがジグザグに重なって、御幣のように見える。

それに対し、奥まった(のちの)奥穂高岳は、低く平板に見え、当時の人はあまり注意も払っていなかったのだろうなと、改めて山岳史を目でおさらいする。

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徳本峠小屋では、ウエストン祭にちなんで「上ストン汁」としゃれた豚汁をふるまってくださっていた。

営業小屋としての徳本峠小屋開業は、大正12年(1923年)というので、大正4年(1915年)に最終的に日本を離れたウエストンは、小屋を見ているわけではない。

それでも、日本でも有数の古いたたずまいを残す、思い出深い小屋であります。

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峠から、上高地明神までの途中は、例年にない残雪で、慎重に下る。

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明神側に降り立つと、ようやく長丁場の緊張からも解放され、会話もはずむ。

身長2m近いアメリカ人も参加されていた。

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それにしても見事だったのは、樹林の下いちめんに広がるニリンソウの大群落。

6月に訪れるのは初めて。やはり、季節を変えながら何度も訪れないと、上高地の魅力を味わい尽くすことはできないのでしょう。

20190601徳本峠12.jpg

キャンプ地小梨平には、温泉じゃないけど立派な風呂があって、汗を流すことができた。

温泉前のキャンプ場売店も充実していて、ほぼここだけで食材が調達ができるくらい。

ぼっちが調達したのは、缶ビールだけでありますが。。

 

ちょうど花盛りを迎えた、コナシ(ズミ)をながめながら、風呂上がりの花見酒。

20190601徳本峠13.jpg

河童橋までたどり着いたのは、17時近く。

観光バスの観光客も引けて、ゆっくり穂高の吊尾根をながめることかできた。

20190601徳本峠14.jpg

今宵の宿は、日本山岳会の上高地山岳研究所。

各地域の山屋が懇親して雑魚寝でき、楽しかった。

20190601徳本峠15.jpg

翌6月2日は、ウエストンのレリーフの前で式典が行われる。

早朝起きて、焼岳の山裾まで散歩。

20190602ウエストン祭2.jpg

火山活動の影響を受けたにもかかわらず、上高地の中心部に比べると、焼岳山麓の樹林は立派。

その登山道のまわりも、ニリンソウが埋め尽くしていた。おっと、朝ごはんまでに帰らなくては。。

20190602ウエストン祭1.jpg

10時から、「碑前祭」として、献花と挨拶のあと、地元安曇小学校の生徒の合掌と、リコーダー演奏。

その後、ホテルに会場を移して午餐会。カレーライスが恒例なんだとか。

これだけの行事を73年間欠かさず催されてきた、日本山岳会信濃支部はじめ、関係者のご尽力の賜物。

単なる山岳界の行事にとどまらず、「上高地」という山岳リゾートのブランドの維持向上にも貢献してきたんでしょう。

20190602ウエストン祭3.jpg

山仙人をめざす非リゾート系山馬鹿岐阜県民ぼっちは、ウエストンと同様上高地も、敬して遠ざけ、飛騨山脈南部には新穂高温泉や安曇野側からばかり入山し、上高地はなんと2008年の2月以来。

各ホテルもずいぶんおしゃれになり、釜トンネルも新しくなっていて、今浦島の気分。

今回のご縁がなければ、ニリンソウに埋もれる上高地の6月も知らないままだったかもしれない。

ウエストン祭に感謝であります。

 

<余談>

ウエストン祭の時季だからでもあるのでしょう、6月3日の日本経済新聞文化欄に「異邦人たちの名峰ガイド」として、ウエストンの書き始めた上高地の彼の定宿の日記帳の話が紹介されていた。

その中で、「ウエストンは1988年に宣教師として日本に赴任した時から日本の山に関心を抱いていた。(中略)普段は横浜の教会で活動し、夏期になると軽井沢の別荘に移る。そこから上高地に来て登山を楽しんだ」との記述がある。

 

しかし、ウエストンは、来日までにヨーロッパアルプスの登山経験はあったものの、初来日の当初2年間(1888〜1889年)は、登山をしていない。日本の山に関心があって日本に来たわけでもない。

また、1892年、軽井沢から松本をへて槍ヶ岳に登攀したのは事実だけど、ウエストンの3回の日本滞在中の山行記録を見ると、特に2度目は赤石山脈を集中的に訪れており、上高地には行っていないはず。

いずれにしても、戦前からの国威発揚的なウエストンに対するキャッチフレーズ:日本アルプス・上高地を広く世界に紹介」したというのを守ろうとするからややこしくなるのであって、「登山を楽しみとして行うアルピニズムを広く日本に紹介」したといえば、だれも異論はないと思うのですが。。

 

詳しくは、「お山の勉強室(2)−ウエストンの虚像・実像」をご一読ください (ロ。ロ)/

 

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野伏ヶ岳 和田山牧場跡で雪上訓練

野伏ヶ岳(1,674m)は、郡上市白鳥町石徹白と福井県大野市にまたがる。

白山連峰から岐阜・福井県境に続く豪雪の山々の中で、そそり立つ姿がもっとも立派で、白山連峰とほど良く離れているため、その展望台としても優れ、日本300名山になっている。

夏は登山道のないヤブ山ながら、残雪期は、登山起点となる石徹白の白山中居神社から日帰りも可能。

そのため、3月4月の週末ともなると、関西・中京地方から、たくさんの登山者や山スキーヤーが集う。

また、中腹にある和田山牧場の跡地は、キャンプに好適で、雪上訓練に格好の場所でもある。

4月13,14日、同地で開催された、ぼっち地元の山の会の雪上訓練に参加してきました (ロ。ロ)/

 

13日は快晴。

標高約700m地点にある、石徹白川河畔の駐車場は、すでに一杯。野伏ヶ岳は人気の山だと実感。

新人2名を含むメンバー11名が、テントや食料で重い荷物を背負っていざ出発。

20190413白山中居神社.jpg

貧雪の年なので、途中までは雪がなく、雪を踏んで林道をショートカットすることもままならない。

標高900mあたりで雪が安定し、ようやくわかんを着け、尾根まで直登。

20190413尾根へ.jpg

スギ林を抜けると、いきなり広々した雪原に出る。

ここが、標高約1,100m地点に広がる和田山牧場跡で、真正面に野伏ヶ岳、そして一つ北(左手)に薙刀山(1,647m)が連なる。

20190413薙刀野伏が岳.jpg

さらに北には、山体の南側が崩落した願教寺山(1,691m)、銚子ヶ峰(1,819m)、その間に、三ノ峰(2,128m)が真っ白に見える。

昨年は、銚子ヶ峰〜願教寺山〜薙刀山〜野伏ヶ岳と日帰り周回や、銚子ヶ峰から三ノ峰を経て別山までと頑張って登った。

思い入れいっぱいの、懐かしい風景であります。

20190413銚子ヶ峰方向.jpg

まずは、テントを設営。

新人さんは、冬テンを張るのも初体験。女性の方が要領がいいのは、下界と同じかも。。

13日は、テントのそばで雪上訓練、14日は薙刀山と野伏ヶ岳を周回の計画。

ただし、初日は完璧な快晴なのに、2日目は雨の予報なのが心配。

20190413テント設営.jpg

テント脇の斜面を利用して、Nuリーダーに、Gtさんがサブリーダーとして雪上訓練。

まずは、ピッケルを支持にした確保の仕方。

20190413確保.jpg

簡単なように見えて、腰を落として踏ん張らないと支持している人も引きずられてしまう。

こういうのも、実際に経験し、感覚として覚えるのが大切。

20190413確保2.jpg

次は、ピッケルを使っての滑落停止訓練。

背中向きより摩擦が大きいので、腹ばいになって、ピッケルの石突で怪我をしないように持って雪に突き立てる。

雪が緩んでいるので、すぐ止まってしまうけど、もっと高い山の硬い雪ではなかなか、こうはいかない。

条件反射でできるように、何度も繰り返す。

20190413滑落停止.jpg

シュリンゲ(紐の意味。ドイツ語Shringe、英語のスリングSling)を使った、簡易ハーネスの作り方を教わる。

そして、立ち木に確保用のザイル(これも英語ならロープ)を固定し、このザイルに、短いロープで、手で持つと緩むけど、引く力が加わるときつく締まる結び方で簡易ハーネスにカラビナで留める。

この結び方には、クレムハイストと、より簡易なプルージックノットがある。

何だか、ドイツ語と英語が混じっているような。。

20190413結び方.jpg

講習が終わり、皆は、テントサイドに雪のテーブルを作って小宴会をはじめる。

ぼっちとKさんは、明日は展望が得られかもしれないと、ダイレクト尾根まで散歩。

野伏ヶ岳の南に連なる未踏の小白山(1,609m)は、その名の通り白く、独立峰の風格をたたえている。

来春この山に登る下見も、今回の目的のひとつ。

20190413小白山.jpg

牧場跡に戻り、さっそく宴会に合流。

翌14日は、やはり曇天。

広前から雨の予報なので、降られないうちに下山を決断。

20190414訓練の後.jpg

野伏ヶ岳は、尾根の下部しか見えない。

来やすい場所だから、また来年。

20190414帰路.jpg

往路には、気が付かなかったけど、足もとに春がはじまっていた。

フキノトウや、キクザキイチゲ。

白山中居神社までくだると、ザゼンソウや、セリバオウレン、カタクリ、ミズバショウなど。

20190414花.jpg

野伏ヶ岳に登ったことのない新人さんは、登れずに残念だったけど、野伏だけなら日帰りもできるから、またご一緒しましょう。

 

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2019年 今年も山修行

ブログ「WALK あばうと日本4000山」管理人ぼっちです。

2019年も、よろしくお願いします。

 

山に登れば登るほど、「本当にその山に向かい合えたんだろうか」と、不確かな思いにとらわれる。

それはたぶん、さまざまな修行・修練に付きまとう、壁のようなものかもしれない。

だからこそ、さらに奥へと、山修行を深めたくなってしまう。

そんな山馬鹿の、2019年の目標は次のとおり。

 

〇大目標 「飛騨の山岳を知る」

 昨年まで3年かけて、美濃の山々を集中的に登ってきた。今年は、飛騨の山を集中的に登る計画。

 

 1876年(明治9年)、廃藩置県に伴い美濃と飛騨が統合され、今の岐阜県ができて150年足らず。

 その前、律令制のしかれた7世紀から江戸時代まで、美濃と飛騨は別の国だった。

 濃尾平野にある美濃と、高山盆地など以外はすべて山地の飛騨では、風土も歴史も、そして山に向かう心も異なる。

 

 飛騨の山岳は、北アルプスとも呼ばれる長野・富山県境の飛騨山脈、石川県境の白山連峰と、その中間に横たわる飛騨高地で構成される。

 霊山・高峰が連なる飛騨山脈や白山連峰は、全国から登山者を集めているのに対し、最高峰猿ケ馬場山でも1,875mに過ぎない飛騨高地は生活の中にある山であり、関東・関西などの都市圏から遠く、登山の対象としては超マイナー。

 飛騨山脈や白山連峰が「ハレ(晴れ)の山」とするなら、飛騨高地は「ケ(褻)の山」ということもできましょう。

 

 ぼっちも、ハレの山には登ってきたけれど、ケの山の方は、わずかしか登っておらず、飛騨の山岳は、未知の部分が多い。

 ということで、今年はハレの山、ケの山いずれにも集中的に登り、「飛騨の山岳を知る」ことを大テーマとする所存。

 

〇具体的目標

1.「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の候補リストうち、未調査の飛騨の山を登りきる

 5か年計画で取り組んでいる「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の取り組みも4年目。

 候補リスト196山(昨年の191山に+9山追加、ー4山事前削除※)のうち、未踏は37山。

 そのほとんどが、飛騨高地と、飛騨山脈前衛峰の山々。

 登山口まで少々遠い道のりになるけれど、幸い、相棒にEBさんがなってくださるので、集中的に通い詰める計画。

 

2.「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の取り組みの、精度を上げる

 今年で、「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の取り組みも4年目、対象の山はほぼ登りきる計画。

 しかし、岐阜県の「佳き山」を本当に適切に選定できるか、まだまだ心もとない。

 文献調査したり、再登したりするとともに、美濃山、飛騨の山を知り尽くした「山の大先輩」に教えを乞いながら、精度を上げたい。

 まずは、「山の大先輩」の門をたたくのが、なかなかのハードルであります。

 

3.「一等三角点百名山」を登りきる

 地元の山ばかりに目を向けていると、地元愛みたいなもので、ものさしが偏るおそれがある。

 時々は全国各地の山にも脚を運んで、ものさしの偏りを補正したい。

 ということで、未踏の一等三角点の山、硫黄岳(知床)、富良野岳、武石峰、黒岳(大菩薩連嶺)、高峰山(尾鷲)、冷水山(果無山脈)、工石山・不入山(四国山地)、烏帽子岳(阿蘇)を踏破する計画。

 

以上、今年も、安全と家庭平和に心がけながら精進するつもり。

お付き合いのほど、よろしくお願いします  (ロ。ロ)/

(画像は、桑崎山からの笠ヶ岳、乗鞍岳)

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蜂(アナフィラキシーショック)対策:エピ・ペン入手

秋本番、「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の活動として、山深い奥美濃の山々をめぐる予定。

少し前に「登山時の蜂(アナフィラキシーショック)対策」について調べ、蜂は熊より蛇より怖いのを実感。

8月に奥美濃の山々の登山口を下見した時も、岩岳に、「注意!スズメバチ 胸突き八丁付近で登山者がススメバチに襲われました。逃げ場がありません。しばらく登山は控えてください。(7月17日 本巣市観光協会)」との張り紙が出ていた。

単独行で携帯もつながらない山中で刺されたら、手遅れになることも心配。

そこで応急処置に使う「エピペン」(アナフィラキシー補助治療剤)を入手

 

入手したエピペンの箱の中には、本物のエピペン(画像上)と、練習用トレーナー(下)というのが入っていた。

エピペンは、緊急時でも迅速に応急処置できるよう、安全装置を外し、着衣のまま太ももの外側に強く押し付けるだけで、中から針が出てアドレナリンが注射されるようになっている。

失敗しないように、針はないトレーナで練習して、いざという時に備えるというもの。

もちろん使わないに越したことはないけども。

 

それでは、怒涛の奥美濃調査山行、やってきます(ロ。ロ)/オウ

20181019エピペン.jpg

 

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