WALK あばうと 日本4,000山

「新日本山岳誌」掲載の約4000山が修行の地。 めざせ山仙人!
伊吹山の円空さん

長梅雨の続く中、7月19日は、久しぶりの青空。

伊吹山山麓の米原市春照(すいじょう)にお出かけ。

目的は、太平寺観音堂の円空作十一面観音に会いに行くこと。

 

太平寺は、伊吹山の中腹450m程のところにあった集落で、山岳寺院太平寺があった場所。

中世には30程の坊を有する大寺院だったらしいけど、戦国時代を経て江戸時代の初めには中の坊などがわずかに残るだけだった。

円空は、若かりし日伊吹山で修行をしており、中の坊がその拠点となったらしい。

 

久しぶりの青空の下の伊吹山。

左手の、地肌がむき出しになったあたりは石灰鉱山。

20200719伊吹山1.jpg

この白黒写真は、昭和28年の伊吹山。

白く見えるところは「白ジャレ」と呼ばれ、石灰岩が自然に露出していたところで、江戸時代から石灰岩の採掘がおこなわれていた。

太平寺は真ん中に見える中腹の小平地。

その真上の、山頂直下の黒い点のような部分が、円空が修行した平等岩(行導岩)と言われる岩屋あたり。

 

太平の集落は、「38豪雪」と語り継がれる昭和38年の豪雪に見舞われ孤立する。

それを契機に、石灰鉱山に土地を売り、30戸あまりが集団離村した。

その落ち着き先が、山麓の春照で、太平寺にあった円空の十一面観音をおさめる観音堂が移設された。

近年公民館を兼ねた建物に建て替えられ、第1、第3日曜の午後、要予約で拝観させてもらうことができる。

20200719伊吹山6.jpg

地元で観音堂をお守されている男性お二人が待っていてくださった。

拝みたいとずっとおもっていた円空さんの十一面観音と対面。感動であります。

 

普通仏像の撮影は禁止されていることが多いけど、ここはどうぞとおっしゃる。

おひとりの方は、かつて石灰鉱山に勤め、仕事の関係でイエメンに何年か行かれていたそう。

その時、円空さんの十一面観音の小さな写真をもって行き、すいぶん慰められたのだとのこと。

イスラム教のイエメンの人たちは、偶像崇拝は受け入れないけど、円空さんの像の微笑みは別物で受け入れられたのだとか。

 

円空さんの普遍性、すごいです。。

20200719伊吹山3.jpg

縦長のガラスケースに収められた像は、全体が180僂曚匹両し左にねじった桜の一木で作られ、ひょろりと背が高い。

衣文が魚のウロコのようになっていて、下部は魚のしっぽみたいな縦の筋がある。

お腹の部分がふくらんでいて、安産祈願で撫でられ、黒光りしている。

冬は雪に閉ざされる太平寺の集落では、お産も命がけのことだったんでしょう。

 

像の載せられた木の台は回転させることかでき、ガラスケースを開けて、背面を見せてくださった。

上部には、仏に手向けた漢詩と和歌が記され、その下に、次の銘がある。

 

四日木切 五日加持 六日作 七日開眼
圓空沙門 花押 
元禄二己巳年(1689年) 三月初七日
中之房祐春代

 

円空さんの息遣いが聞こえそうな鮮明な文字にも感動。

木を伐って、祈祷し、1日で180冂の像を一気に彫り上げ、開眼供養をしたという手早さ。

円空さんは、きっとせっかちで、生き急いだ人だったんだろう。

しかし、その仏の魅力と普遍性は、書や抽象画のように、無駄を切り落とした一気呵成なところにもあるとおもう。

20200719伊吹山2.jpg

観音堂には、北海道の洞爺湖観音島観音堂に安置されていた観音菩薩坐像(北海道有珠町善光寺保管)の大きな写真もあった。
背中に彫られた銘文「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年(1666年)丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」

によって、円空が伊吹山で修行をしていたことが明らかになった。

20200719伊吹山5.jpg

また、額に入れられた、不動滝についても説明してくださった。

太平集落の背後に不動滝という険しい岩の裏にある滝で、円空さんは修業をしたのだという。

左手の白黒の写真は大正年間のもので、当時は梯子などもかかっていたというけど、今はたどり着くのもままならないらしい。

まあ、こんなところを日常的に往復していたのなら、飛騨山脈の岩峰に向かい合っても、恐れはしなかったはず。

20200719伊吹山4.jpg

観音堂を辞して、すぐ近くにある伊吹山文化資料館で、伊吹山についてさらにお勉強。

廃校になった小学校を利用した手作り感たっぷりの資料館で、展示内容は次のとおり。

展示室1 伊吹山にいだかれた暮らし

展示室2  伊吹山の恵みとなりわい

展示室3 伊吹山の自然と文化

展示室4 掘り起こされ伊吹の歴史

 

興味深かったのは、「日本植物学の父」牧野富太郎と伊吹山の関わり。

植物の宝庫である伊吹山に牧野富太郎は何度も訪れており、対山館という旅館の主人と親交が深かったそう。

また、口癖が「そもそも…」だったことから、発見したイネ科の植物に学生が「イブキソモソモ」にしましょうと提案したそうな。

https://www.digitalsolution.co.jp/nature/ibuki/Information/old-story/makinotomitaro.htm

20200719伊吹山8.jpg

石灰岩でカルシウム豊富な伊吹山は、陸貝の宝庫でもある。

ぼっちの地元も石灰鉱山があって、昔はいろんな小さな陸貝を見たものだけど、最近は見かけなくなったな。。

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伊吹山には、ひとつがいのイヌワシが生息し、幼鳥が育ったけど、残念ながら死んでしまった。

その剥製が展示され、イヌワシの、ノウサギや子鹿を捕える映像なども見た。

かつては、天狗にもなぞらえられたというその雄姿、なんとか守っていきたいものです。

20200719伊吹山9.jpg

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 20:58 | comments(0) | - | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
お山の勉強室 「道迷い遭難対策」

ぼっちの登山人生の中で、遭難捜索のお手伝いをしたことが3回ある。

いずれも道迷い遭難で、3件とも死亡、うち2件は遺体も発見されずじまいとなった。

最近岐阜県の低山で遭難が相次ぎ、6月にも揖斐川町の西台山で遭難が発生した。

寒い時でなく無事救出されたのでよかったけれど、あと1日発見が遅れていたらどうなっていたことだろう。

 

道迷い遭難は、実は低山で多発し、遭難事故の中でも最も件数が多く、死亡事故にもつながる場合も少なくない。

ということで、今回のお山の勉強室は、本ケースを事例に「道迷い遭難対策」を一緒に考えてみましょう (ロ。ロ)/

 

<新聞による事実関係>

発生当日:6月2日(火)

 ^γ慮春日井市の男性(79歳)は6月2日に「日帰り登山に行く」と家族に伝えて自宅を出た。

 同日午後4時20分ごろに男性が「道に迷った」と携帯電話で家族に連絡。

発生2日目:3日

 3日早朝には男性から「道が分かった」と電話があった。

 ➃その後、連絡が取れなくなったため、家族が所属する山岳会の関係者に「帰宅しないので捜してほしい」と依頼した。

発生3日目:4日

 ィ監午前8時5分ごろ、所属する山岳会の関係者が岐阜県警揖斐署に届け出た。

  男性の車は揖斐郡揖斐川町谷汲神原の西台山の登山口付近で見つかり、同署や県警ヘリなどが周辺を捜索した。

発生4日目:5日

 Γ菊、岐阜県警の捜索隊によって発見、救出された。目立った外傷はなく、意識もはっきりしているという。

  県警によると、ヘリで上空から捜索していた警察航空隊員が5日午後2時ごろ、谷で横たわっていた男性を見つけた。
  男性は5メートルの高さから滑落したといい、下半身の痛みを訴えているという。

 

<現地の状況>

西台山(949m)には、ぼっちも2017年に登った。のりこし峠まで車で入れ、山頂までゆっくり歩いて1時間30分といったところ。

その北には地形図では三角点の記号だけで山名のない一等三角点通称タンポ(1,066m)という山がある。

どちらにも登山道はないが、タンポが「ぎふ百山」なのでそれなりに登られており、踏み跡や、残置テープ類がある。

しかし、踏み跡は獣道と紛れやすいし、残置テープは林業用のものなどと混じりやすく、信頼していいほどのものではない。

ちなみに個性も薄く眺望もない山で、登山道もないので、ぼっちの勝手に「岐阜百秀山」候補には入れていない。

地図のように西台山は山上が広く、タンポへ向かおうとすると迷う可能性がある。

全山樹木に覆われ、見通しはきかない。

<ケースワーク:道迷い遭難対策のポイント>

 道迷い遭難の対策には、道迷いを防止するポイントと、救助を得やすくするポイントがある。

 今回のケースで、そのポイントを見ていきましょう。

 

【登山前】

   崙帰り登山に行く」と家族に伝えて自宅を出た。

    →低山は地形があいまいで見晴らしもきかず、作業道や獣道が錯綜することが多く、むしろ高山より道迷いしやすい。

    しかし、低山ということで甘く見て遭難につながるケースが非常に多い。

    今回の西台山〜タンポは登山道がなく、しっかり読図していかないと道迷いしやすい箇所がいくつかある。           

 

  防止ポイント1:登山の前に地図でルートや注意点を確認する=登山計画書を作る

   →登山の鉄則は、登山ルートを事前に確認し、注意点を把握しておくこと。登山道のない山ならなおさら。

    登山計画書を作ればおのずと登山ルートの確認ができる。道迷いの発生しやすい低山こそ大事な工程。

  防止ポイント2:救助ポイント1:単独行はなるべく避ける

   →2人なら目は4つ、注意力は倍になり、道迷いの防止につながる。

    また、滑落などトラブルにあった場合、助け合ったり救助を求めたりすることができる。

  防止ポイント3:低山でも地図、磁石は必携。スマホがあればGPSアプリも入れておく

   →低山の方が、むしろ地形があいまいで道迷いしやすいことが多い。

    地図、磁石は必携。読図の訓練もしておきたい。

    また、今はスマホにただでGPSアプリがダウンロードできる。スマホを持っているなら絶対入れておくべき。

    https://yamahack.com/2723

    GPSアプリは、機内モードで利用でき案外バッテリーは消耗しないものだけど、

    遭難は何日にも及ぶ場合もあるので、救助ポイント4も含め、予備バッテリーは日帰り登山でも携帯したい。

    本件では、地図や磁石を持参していなかったのか、読図のスキルがなかったのか (?_?)>

 

  救助ポイント2:計画書を渡しておくor行先の山・ルートを伝えていく

   →この山の会では、登山届をパソコンかスマホで出すことがルール化されていたというが、男性は出していなかった。

    せめて家族に口頭かメールでどの山にどこから入山するか知らせておけば、捜索の開始時間と労力は大きく違ったはず。

    もしかしたら、新型コロナウィルス対策で他県への登山は自粛すべき期間だったから、行き先を告げなかったのだろうか?     

    ちなみに西台山で遭難との報道だけど、男性はタンポに向かっていて、西台山周辺で道迷いしてしまったのらしい。

 

【登山開始〜道迷い】

 同日午後4時20分ごろに男性が「道に迷った」と携帯電話で家族に連絡。

   →自分がどこにいるのか分からなくなった瞬間が、遭難の入口に立ったことになる。その場合、引き返すのが鉄則。

    本ケースでは、自分がどこにいるのか分からなくなってから半日ほど行動していたことになる。

    そのため、自分がどこにいるのか説明も困難になっていたはず。

   

  防止ポイント4:道なき山では、地図・コンパス・GPSなどで常に自分の位置、自分の行く方向を確認する

  防止ポイント5:道迷い時の鉄則は、迷ったかなと思ったら引き返 

    

 3日早朝には男性から「道が分かった」と電話があった。

   →この時点でも男性は自力で戻ることをあきらめていない。

    しかし、携帯が通じるうちに稜線の西か東かなど、おおよそどこにいるのか情報提供しておけば捜索範囲は絞れたはず。

    また、自分で直接山岳会に連絡していれば、捜索開始も早まったはず。

    そうでなくても、携帯の電波がつながっているところを動かなければ、救助側で場所特定ができたはず。

   

  救助ポイント3:SOSは早めに出す

  救助ポイント4:道に迷った時、携帯電話が通じるならそこを動かない

     

【遭難】  

 ➃その後、連絡が取れなくなったため、家族が所属する山岳会の関係者に「帰宅しないので捜してほしい」と依頼した。

 ィ監午前8時5分ごろ、所属する山岳会の関係者が岐阜県警揖斐署に届け出た。

  男性の車は揖斐郡揖斐川町谷汲神原の西台山の登山口付近で見つかり、同署や県警ヘリなどが周辺を捜索した。

   →どこから登り始めどの山へ向かおうとしていたのか、家族も山岳会も登山者の意図が分かっていない状況。

    そのため、山岳会が初動対応するにも最低限の事実把握に手間がかかるので、救助を要請するのが1日遅れている。

    今回は暖かく雨が降らなかったからいいものの、この遅れが原因で命を落としていてもおかしくない。

 

 Γ菊、岐阜県警の捜索隊によって発見、救出された。目立った外傷はなく、意識もはっきりしているという。

  県警によると、ヘリで上空から捜索していた警察航空隊員が5日午後2時ごろ、谷で横たわっていた男性を見つけた。
  男性は5メートルの高さから滑落したといい、下半身の痛みを訴えているという。

   →西谷山は、稜線の東側は比較的緩やかで300mほど下に等高線に沿って林道がある。

    一方、西側は急斜面の谷で電波が通じにくく、崖も多い。

    そのようなおおまかな地形も分からないまま、電波の通じない危険な場所に入り、滑落している。

    79歳という年齢からして、この段階でも命を落としていておかしくない。

    

  防止ポイント6:パニックに陥らないよう冷静に行動する。谷には降りない、できるだけ尾根に出る

  救助ポイント5:救助してもらいやすくするにはどうしたらいいか考えて行動する

 

   →パニックにならないようするには、事前準備をしっかりし、必要な技能を積んでおくこと。

    例えば、「できるだけ尾根に出る」と言うのは簡単だが、尾根の上方はヤブが密生していることも多い。

    ヤブ漕ぎの経験をしておくと、こんな時も慌てることはない。

 

<コメント>

・低山は、道迷いしやすいが、そのリカバリーも容易な場合がおおいので、甘く見られがち。

・しかし本ケースのように、道迷い防止ポイントを6つも外せば、遭難に至っても当然。

 この男性が、従来もこのような登山をしていたとするなら、遭難に至らなかったのは単に幸運だったからというしかない。

・ただし、この男性がそれでもラッキーだったのは、暖かい季節で雨も降らず、滑落しても大怪我でなくてすんだこと。

 携帯電話が一時にしてもつながったこと。そして、山岳会に入っていたこと。

 

・最後に―これは言いづらいことだけど、家族のことを考えれば、生還できなくても、せめて遺体を発見してもらう工夫も重要。

・発見されないと、失踪扱いとなり、生命保険も出ないから、家族には多大な捜索費用も含め、大きな負担ばかり遺す。

 さらに、生きているのか死んでいるのか分からないまま日々を送るのは、大きなストレスが続く。

 

<↓ここからは広告みたいになって恐縮です>

・ぼっちの場合、計画書は毎回家族に渡し、難易度の高い山に行く場合は山岳会の先輩に計画書を送っている。

 場合によってはアドバイスをいただく場合もある。

・しかし、道なき山の単独行も多いので、今回の遭難事例を踏まえ「ココヘリ COCOHELI」というサービスに加入した。

・入会すると、会員証を兼ねた約3ヵ月に1回充電すればいい発信機が送られてくる。

 この発信機の最大受信距離は16km、シンプルプランなど入会費3,000円、年会費3,650円。

・本人または家族から捜索依頼があると、受信機を搭載したヘリコプターを飛ばし、発信機の場所を特定してくれる。

 特定後、救助は警察など救助組織へ情報を引き継いで行ってもらう というもの。

出動費用は1事案につき、3フライトまで無料。航空会社と提携し、全国の山域をカバー( 沖縄・島嶼部を除く。)。

・遭難しても初動が早く、見付けてもらえる確率が確実に上がる。

 万一死んだ後でも、早期に発見される可能性が高くなる。

・使用結果はレポートしたくないけど、山でパニックになることを防ぐお守りとしてはいいのではないかと期待している次第。

←会員証券発信機。小さい。

 

<道迷い遭難対策のポイント まとめ> 

 

  防止ポイント1:登山の前に地図でルートや注意点を確認する=登山計画書を作る

  防止ポイント2:単独行をなるべく避ける 

  防止ポイント3:低山でも地図、磁石は必携。スマホがあればGPSアプリも入れておく

  防止ポイント4:道なき山では、地図・コンパス・GPSなどで常に自分の位置、自分の行く方向を確認する

  防止ポイント5:道迷い時の鉄則は、迷ったかなと思ったら引き返 

  防止ポイント6:谷には降りない、できるだけ尾根に出る

  防止ポイント補足:地図の読図トレーニングをしておく

 

  救助ポイント1:単独行をなるべく避ける 

  救助ポイント2:計画書を渡しておくor行先の山・ルートを伝えていく

   救助ポイント3:SOSは早めに出す

  救助ポイント4:道に迷った時やみくもに動かない、携帯電話が通じるならそこを動かない

  救助ポイント補足:あらかじめ山岳会に入ったり、ココヘリに加入するなど、救助してもらいやすい条件づくりをする

 

  心構え面ではひと言:低山を甘く見るな 

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 22:10 | comments(0) | - | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
お山の勉強室:テーピングについて

山修行には、いざという時のレスキューや応急措置を身に着けておくことも必要。

応急措置のうち、テーピングが重要なことは、さまざまなスポーツで、ご存じでありましょう。

1月25日(土)、その「テーピング実技と体の構造」についての講習会に参加。

 

第1部は、テーピング実技講習。

テーピングには、予防・応急措置・再発防止と、目的がいくつもある。

今回は、もっとも発生しやすい足首の捻挫(ねんざ)の応急措置のテーピングについてお勉強。

 

まずは模範演技。オリンピック選手にもテーピングしておられるS講師のてぎわのいいこと。

20200125テーピング1.jpg

次に、2名1組で、実技訓練。

テープには、皮膚の保護・固定・サポートといった目的に合わせ、粘着・非粘着、伸縮・非伸縮などいろいろある。

今回は、アンダーラップ、非伸縮テープ(CB)、ソフト伸縮テープ(EBH)という三種類のテープを使用。

(テープの種類については、下表参照)

 

,泙困蓮非粘着性のアンダーラップを巻いていく。 

 この手間をかけると、固定用のテープが貼りやすく、後で粘着テープを剥がしやすく、かぶれを防ぐ。

 6割くらいの力で引きながら巻きしわができないように巻くのがコツ。

 内くるぶしから指5本分くらい上からとのことだったので、ぼっちは巻き過ぎであります (ロ。ロ;

20200125テーピング3.jpg

⊆,法CBと呼ばれる非伸縮性のテープで、固定をしていく。

 )アンカーと呼ばれる起点・終点となるテープを内くるぶし指5本分上の所に2本巻く。

 )アンカーの脚の内側部分から脚の底を通し、外側部分にきつめにテープを3本少しずらしながら張る。

  これをスターアップ・テープといって、動きを制限する重要なテープ。

  ねん挫の場合は、内側に曲がってしまうので、これを外側向けの力をかけて固定する。

 )その上に、颪汎瑛佑両貊蠅縫▲鵐ー・ーテープを貼る。


 )さらにくるぶしの曲がりを固定するため、フィギュアエイトという、8の字を描くように巻く。

 )足関節が左右にぶれるのを抑えるため、ホースシュー(馬蹄形)テープをかかとにずらして3本貼る。

 )スターアップ・テープがずれないように、ホースシューの上から1/2以上重ね合わせながら、アンカーまでテープを巻く。

   これをサーキュラーという。ぐるぐる巻きにするのではなく、一周巻いては切ってを繰り返す。

 最後に伸縮性のテープ(EBH)で、ラッピングする。

  外側のかかとに掛け、内側のかかとに掛け、フィギュア・エイトに掛け完了。

 

 実習中は頭がこんがらがっていたけど、こうやってブログでおさらいすると、だいぶん頭に入った気がする。

第2部は、国際山岳医M先生による、捻挫に関する骨格や筋肉の構造を踏まえた講義。

骨格の構造から、足首の捻挫は、ほとんどが内側向けに起き、外側のじん帯が損傷するのだそう。

今日習ったテーピングは、このような特性を踏まえて固定を行うもの。

 

捻挫を起した時は、RICERest(安静)・Ice(冷却)・Compression(圧迫)・Elevation(挙上=引き上げ)が基本となる。

これは血流を低下させ出血を抑制するもの。

しかし、反面、血液の低酸素化をもたらし、内圧の上昇でむくみ、循環障害を起こす可能性もあることに注意する必要があるとのこと。

靴擦れ、床ずれなども、圧迫+摩擦で発生するのだそう。

20200125テーピング4.jpg

自分やメンバーが安心して登山できるように、まだまだ身につけておくべき応急措置はいっぱいある。

山修行のひとつとして、これからも機会を見付けて、ぜひ実習しておきたいです (ロ。ロ)/オウ

 

皮膚の保護 アンダーラップ テーピングの前に肌に巻いて、かぶれなどから皮膚を保護する。手で切ることができる。粘着スプレーを皮膚に吹き付けてから使用すると良い。
固定 非伸縮
(CB・CBC)
一般的にホワイトテープと呼ばれ、スポーツテーピングの中で最も主体となるテーピング。主に関節の固定や可動域の制限に使う基本のテープ。手で切ることができる。
ハード伸縮
(EB)
主に膝・肘・肩など筋肉の収縮、弛緩の大きな部位に使う伸縮性を持つテープ。ハサミで切って使う。
ソフト伸縮
(EBH)
薄くてやわらかいテープ。圧迫や固定のほか、テーピングの仕上げに上から巻いて使うこともできる。手で切ることができる。
サポート キネシオロジー 疲労した筋肉のサポートに使う。筋肉に沿って貼る。筋肉に沿って貼ることにより、筋肉の正常な動きをサポートする。ハサミで切って使う。
バンテージ 多目的に使用できる薄手の伸縮性の包帯です。応急処置で氷のうの固定や障害部分の圧迫などにも使う。ホワイトテープとの併用で固定感を幅広く選択できると共にフィット感が高まります。

 

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 06:24 | comments(0) | - | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
岐阜県の山を知るには、川も知れ

昭和30年(1955年)に制定された「岐阜県民の歌」の一番には、「岐阜は木の国山の国」とある。

このフレーズは県民に広く知られ、森林率全国2位の岐阜県をあらわす、とてもいいキャッチフレーズだと、山馬鹿岐阜県民ぼっちは思っておりました。

 

ところが、2012年の「ぎふ『清流』国体」を契機にできた県のキャッチフレーズは、「清流の国ぎふ」。

https://www.pref.gifu.lg.jp/kensei/ken-gaiyo/seiryunokuni-zukuri/

山はどうした! と、岐阜県庁に直訴したい気分だけど、ここではぐっとガマン。

山は川の水をはぐくむし、川の源流部は山を構成する重要な要素でもある。

山を知るには、川も知れ―ということで、今回の「お山の勉強室」は、岐阜県の川について調べてみました  (ロ。ロ)/

 

〇岐阜県の降水量

川のもととなるのは、雨や雪。

国土地理院の日本国勢地図にある年間降水量の分布図によると、本州中央部では、岐阜県のあたりは降水量が特に多い。

これは、冬に日本海からの季節風の影響で豪雪に見舞われることと、夏に太平洋側の気候の影響を受け台風や豪雨に見舞われることが合わさり、通年の降水量が多いため。

豊富な水(降水)に恵まれ、森林率も全国2位と高いので、川を生み出す潜在能力が高いといえる。

○岐阜県の主な水系と分水嶺

本流・支流を合わせた一体の河川を「水系」という。

岐阜県の主な水系には、太平洋側に流れ込む、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)からなる木曽川水系と、

日本海側に流れ込む、宮川、高原川からなる神通川水系と、庄川水系がある。

おおよそ、岐阜県の美濃地方(江戸以前の美濃国)の川は、太平洋側に流れ、

飛騨地方(同飛騨国)の川は、木曽川の上流飛騨川を除き、日本海側に流れる。

 

太平洋側と日本海側とに水系を分ける分水嶺となるのが乗鞍岳から大日ヶ岳までをつなぐ稜線で、中央分水嶺と呼ばれる。

中央分水嶺は、北海道から九州までのびていて、その最高峰が乗鞍岳(3,026m)。


○美濃地方の川

 美濃地方を流れる木曽川水系の川を見ると、

 木曽川とその支流飛騨川には、電源開発のために多くのダムが建設されている。

  しかし中流域は峡谷が形成され、そのうち「日本ライン」と呼ばれる部分は旧環境庁が選定した「名水百選」となっている。

  まずまず、清流と言っていいでしょう。

 長良川本流には、長良川河口堰以外ダムがない。

  岐阜市周辺の中流域は、「名水百選」となっており、清流の名に恥じない川と言えましょう。 

 揖斐川は、源流部に徳山ダムができてしまい、中流域も水がよどんで清流の印象はない。 

     かつて下流部は、尾張藩側の堤防が美濃側より高く作られていたこともあり、日本有数の水害の多い地域だった。

○飛騨地方の川

 庄川本流については、御母衣ダムの巨大なダム湖があり、「清流」の印象はない。

  ただし、国土交通省が発表している「全国一級河川の水質現況」によると、水質は良いようであります。

 神通川水系の、宮川高原川にもダムがいくつもある。

  宮川は、高山市や飛騨市の市街地を流れ、生活用水・農業用水も流れ込むので、清流というより普通の川という印象。

  高原川というと、飛騨山脈の多量の水を急勾配で一気に流すため「暴れ川」という印象。

  二つの川は飛騨市神岡で合流し神通川となる。

  神通川というと、かつての神岡鉱山の鉱毒による「イタイイタイ病」の印象がいまだに強いかもしれない。


○岐阜県河川の水質

 国土交通省が毎年発表している主要河川の水質の分析結果を見ると、岐阜県の川だけが特に水質がいいというわけでもなさそう。

 (↓画像クリックで拡大、太平洋側の川のみ)

 また、同省が、毎年7月の河川愛護月間にあわせて発表している「水質が最も良好な17河川」に、岐阜県の川は入っていない。 

 分析結果だけみると、特に「清流の国」というほどでもないように見えてしまうかも。

ただし、これは、本流の話。

これまで日本全国の山を巡り、今また岐阜県の山を集中的に回って感じるのは、

岐阜県は降水量が多い分、山に沢や本流に流れ込むまでの支流が多く、それらが格別にきれいなこと。

例えば、美濃地方だと、長良川の支流の板取川、高賀川、円原川、粥川、和良川、吉田川、 阿寺山地を流れる 木曽川の支流付知川、

飛騨地方だと、宮川支流の荒城川や、高原川支流の双六谷など、流れを眺めているだけで心が清められるほど水そのものが美しい。

もちろん、他都道府県でも、美しい水の沢や川は多いだろうけど、その密度がかなり高いことは確か。

 

○岐阜県の川の魅力

岐阜県の川の魅力は、ほぼ全県にわたり豊富な降水量、豊かな森林に恵まれ、源流部の山岳地帯に美しい沢や渓流を持ち、

それが集まって本流が滔々と里を潤し、川や水にまつわる生活文化を築いているところだと思う。

 

ただし、「清流の国ぎふ」を合言葉とする行政の方々は、そのような岐阜県の川や沢の魅力を十分に知ってこのキャッチフレーズを使っておられるんだろうか?

もしかして、「長良川はきれい→岐阜県の川は清流」と、安直に結び付けているだけってことはないのだろうか。

それでは、川も、山も、浮かばれない気がするし、岐阜県以外の人にきちんとその魅力を発信するのもむつかしい気がする。

〇余談

・全都道府県に、それぞれ「キャッチコピー」がある。

 水に関係あるのは、滋賀県「湖国滋賀」、大阪府「水都大阪」そして、

 和歌山県「水の国、わかやま」と、岐阜県「清流の国ぎふ」。

 琵琶湖が中央にある滋賀県と、伝統的に水都と言われてきた大阪府のキャッチコピーは、ありふれているけど納得。

 しかし、和歌山県と岐阜県、県名をひらがなにするところも含め似すぎているし、高知県なんかに入れ替えても分からない。

 和歌山県と岐阜県、降水量が多いという点以外、共通点はほとんどないのにキャッチコピーが似てるっていうのは、その県の売り物をうまく入れられていないということでは?

 和歌山県や高知県と、岐阜県の違いといえば、やはり槍ヶ岳、穂高岳、御嶽山、白山と名山高峰が多いってことじゃないのかな。

 明治時代から使われている「飛山濃水」(飛騨の山・美濃の水)というのは、固いけどその点よくできている気がする。

 

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国絵図で見る江戸時代の飛騨山脈

梅雨空の週末、今回の「お山の勉強室」は、「国絵図」を見ながら、「近代登山」が始まる前、飛騨山脈の山々を江戸〜明治初期の人々がどのようにとらえていたか、時系列で見ていきましょう (ロ。ロ)/

 

〇「国絵図」とは

 「国絵図」は、江戸幕府が日本総図を作製するにあたり諸大名らに命じて作らせた国単位の地図で、「献上図」ともいわれる。

 今の国土地理院の地図のように、公式な地図で、江戸時代の地理情報を知る基本資料となる。

 全国大で計3回(※注1)作成され、最初の正保元年(1644年)、6寸1里(2万1600分の1の縮尺)にし、村名と石高を記載し、特に国境を正確に描くようになど、統一仕様が定められた。

   注1:これに先立つ慶長年間に、西日本の一部に国絵図の作成命令が出ている

 その後、村落や石高の異動などを反映するため、元禄9年(1696年)と天保6年(1835年)の2回、改訂命令が出た。

 最後の天保の国絵図は、元禄図の修正点を諸大名らに出させ、幕府側で製作したもので、これが全図国立公文書館に残る。

 それ以外に、諸大名らが控えとして作った正国絵図の写しや、献上図ではない実用向けの各国の国絵図も残されている。 

 それではまず、江戸時代初期の飛騨山脈へタイムトリップ。(↓それぞれの地図をクリックすると拡大)

 

〇江戸初期―金森時代(1566年〜1692年)

 飛騨国は、1566年秀吉のもとで金森長近が統治するようになってから、1692年までは、金森氏により藩政がしかれていた。

 最初の正式な正保の国絵図ができる前、寛永10年の巡見使絵図をまずは拝見。

 <寛永十年巡見使国絵図>

 これは、寛永10年(1633年)幕府巡見使が全国を分担巡察し、その報告とともに国絵図を3代将軍家光に提出した原本の写し。

 ※地図では、「平湯」といった地名や、峠道は記されているけど、峠や山の名は記されず、形もきわめてあいまい。 

 <飛騨国絵図(中川忠英旧蔵本)>

 正式な正保の国絵図は、一枚も現存しない。

 しかし、飛騨国については、写しが残る(中川忠英(旗本で江戸文政期の能吏として知られ長崎奉行などを務める)旧蔵本)。

 巡検史国絵図より山の形は写実的だが、やはり山名は記載されていない。

 ※平湯峠が難所として記されている。飛騨の峠は時代によってかなり変動があるので、そこも注目点。

 <正保信濃国絵図(正保4年)上田藩主仙石家伝来):上田市図書館蔵>

 信濃国の正保国絵図は、上田藩主が控えとして残した正保4年(1647年)の精度の高い写しが残されている。

 乗鞍嶽、焼嶽と、やたら大きく蝶嶽が記される。しかし、槍ヶ岳、穂高岳の山名も、それらしきシルエットもない。

 献上版の国絵図作成には、国境の問題もあり、隣国で照らし合わせをすることになっていたので、信濃でも飛騨でも、江戸初期・正保の頃は、槍ヶ岳や穂高岳の存在は、明確には把握されていなかったのではないだろうか。

 正保当時は、まだ松本藩によって上高地の開発が始まっていないはずだし、

 加賀藩の奥山廻りが、室堂から上奥山(越中と信濃、飛騨国境部)の黒部川まで往復したのも、天和2年(1682年)になってから。

 つまり、江戸初期正保の頃は、まだ飛騨山脈は十分把握されていなかったのでしょう。

〇幕府直轄地時代(1692年から1868年)

 金森氏は元禄5年(1692年)第6代藩主の時に突然移封となる。これは飛騨国の豊富な資源(金・銀・銅・木材等)に幕府が目をつけたとの説がある。幕府直轄時代の国絵図は次のとおり。

 <元禄8年(1695年)飛騨国絵図:高山郷土館蔵>

 飛騨国が幕府直轄地となって3年後の元禄8年、幕府は大垣藩主戸田采女正氏定に飛騨全土の検地を行わせ、この時作成されたもの。

 飛騨国の献上図の元禄国絵図は残されていないので、この図が残存する江戸前期の飛騨国の基本図といえる。

 ようやく乗鞍嶽、硫黄(焼岳の飛騨側の呼称)、鑓ヶ嶽、笠ヶ嶽が登場。

 ※鑓ヶ嶽の脇を通る峠道は、位置があいまいだけど、信濃国大川根村に至るので、中尾峠ルートだろうか?

 <元禄信濃国絵図(上田藩主仙石家伝来):上田市図書館蔵>

 元禄9年(1696年)作成が命じられ同14年(1671年)に提出された元禄の信濃国の献上図の詳細な写しが正保のものと同様、上田図書館に残されている。

 国境の山の姿がより具体的になり、乗鞍嶽、焼嶽が記載されるほか、槍ヶ岳らしきシルエットも登場する。

 ただし、穂高岳や上高地あたりは明確に記されていない。

 ※焼岳の南を通る峠は、白骨湯脇を通るので、旧十石峠ルートだろうか。

 <参考:信濃国松本藩領大絵図>

 ぼっちが確認した限り「保高嶽」が記載されている中では、「信濃国松本藩領大絵図」がもっとも古かった。

 これは、松本藩部分だけの絵図で、「水野壱岐之守」との記載から、水野忠定の時代(正徳3年(1713年)〜享保10年(1725年))のものと考えられている。

 この図の「保高嶽」は、焼嶽との距離、池の位置からして明神岳から前穂高岳あたりを指していると考えられる。

  ※信濃側では焼岳の北の小峰を硫黄岳と呼ぶが、ここでは焼嶽の南に硫黄嶽が記されている。白骨湯の奥に記されることから、十石山あたりを指すのではないだろうか。また、槍ヶ岳が記されていないのも特徴的。

 <飛騨国惣山絵図(明和9年8月):岐阜県歴史資料館蔵>

 幕府の直轄領となった飛騨国では、林政が重視され、詳細な山林調査が行われた。

 この図は、明和9年(1772年)、12代代官大原彦四郎時代の山林調査絵図で、調査が山奥まで進み、格段に詳細になっている。

 硫黄嶽の北に、(鑓?)ヶ嶽、鋭く尖った錫杖ヶ嶽、その手前に笠ヶ嶽が記される。

 現在でいう錫杖岳(2,168m)は、笠ヶ岳の手前であり、奥ではない。

 この図の「錫杖ヶ岳」は大きと鋭さからして、現在でいう槍ヶ岳のようにも見える。

 すると、(鑓?)ヶ嶽は何山なのだろう? 手前の無名の三角の山と共に、吊り尾根でつながる奥穂・前穂のようにも見える。

 収録された「美濃・飛騨の古地図(岐阜古地図研究会)」(昭和54年刊)の写真の解像度が低く、詳細に判読できず残念。

 <飛騨国絵図(弘化3年(1846年)筆写)>

 この図は、実用向けの国絵図で、筆者昌一は、宝暦11年(1761年)生まれで文政4年(1821年)没。

 寛政4年から没するまで地役人として勤め、その間、山廻役や口留番所役を勤めたこともあった。 
 地役人であった寛政4年(1792年)から文政4年(1821年)までの間に、勤務の必要から作製したものと考えられ、弘化3年は裏書にもあるように孫の英臣が書きなおした年らしい。したがって、江戸中期の飛騨の状況を現した国絵図といえる。

 その役目上、国境の山については詳しく記されており、北ノ俣、中ノ俣(黒部五郎岳)、笠ヶ嶽、鑓ヶ嶽(=槍ヶ岳)、そして乗鞍は、形も含めほぼ正確に位置づけられているが、穂高岳は記載されていない。

 硫黄嶽(焼岳)の名もないけれど、乗鞍の左に描かれた峠道が安房峠と考えられるので、峠の左の丸い山がそれでしょう。

 注目すべきなのは、鑓ヶ嶽と硫黄嶽の間に相当立派な「錯杖」が描かれていること。

 現在の錫杖岳は、笠ヶ岳に連続しているし、中尾村の奥ではない。

 穂高岳だとすれば、形も位置も合いそうだけれどもどうなんだろう (?_?)>

 <天保飛騨国国絵図>

 ようやくここで天保9年(1838年)の献上図「天保飛騨国国絵図」が登場。

 基本的には、今はなき元禄版献上図に基づいて作成されたもので、山の名は、乗鞍嶽、硫黄嶽しか記されていないけれど、槍ヶ岳や笠ヶ岳の形と位置はおおむね正確に記されている。

 ※着目すべきは、中尾村から硫黄岳の北(左)を通る道=天保6年(1835年)に上高地から中尾村までの12劼龍茣屬開通した飛騨新道が記されていること。

 飛騨新道開削には、文政11年(1828年)播隆が槍ヶ岳に登頂するにあたり、強力なサポートにあたった中田又重郎が、リーダー格の岩岡村の庄屋判次郎と共に重要な役割を担っている。

 ただし、飛騨新道の利用者が結果して少なく、冬は雪に閉ざされ、夏は雨により崩壊が相次いで、25年後の文久元年(1861年)に廃道となっている。

 <天保信濃国国絵図> 

 こちらは、献上図「天保信濃国国絵図」。国境部分は、飛騨国のものとよく整合性が取られている。

 また、信濃国絵図の天保版上田藩主写しと比較すると、ほぼ正確な写しとなっており、正保版・元禄版の写しも同様と推測できる。

 飛騨新道の三郷村小倉から大滝山を経て上高地に至る32 kmの区間は、天保元年(1830年)に開通しており、あづさ川(梓川)など上高地周辺の様子とともに正確に描かれている。

 焼岳と槍ヶ岳の間にある、池の奥にある小さめな山が、穂高岳でしょう。

 <安政3年(1856年) 飛騨国絵図>

 幕末の安政三年(1856年)丙辰秋二木氏□との奥書がある、私的に作成された飛騨国の国絵図。

 二木氏□(判読できない)は、高山市上二之町にある二木酒造のご先祖なんだそう。

 飛騨山脈の山の位置が相当詳細に把握されており、丸(北の写し間違い?)ノ俣嶽、中ノ俣嶽、抜戸嶽、笠ヶ嶽、鎗ヶ嶽、穂高嶽、焼嶽、硫黄嶽、乗鞍嶽、四嶽(四ッ岳)、夷ヶ嶽(恵比寿岳)などが並ぶ。

 ここにきてようやく、穂高岳がまっとうな位置と形で記される。ただし、槍ヶ岳が圧倒的に高く鋭く描かれている。

 ※飛騨新道の中尾峠も、安房峠も書かれ、飛騨新道が文久元年(1861年)に廃道となる少し前の図ということが分かる。

 <官許飛騨国中全図>

 この図は木版多色刷りで、高山陣屋の御用絵師松村梅宰の画により、広く利用されたもの。

 「官許」とあるので、明治のごく初期に初版が発行されたと考えられ、山の形状や位置関係など精度が高い。 

 古川祭の山車の送り絵なども書いた松村梅宰は、元治元年(1864年)没なので、原画は江戸末期に描かれたのだろう。

 ※飛騨新道は消え、安房峠だけ描かれている。

 <「斐太後風土記」所収 飛騨国三郡村々全圖>

 「斐太後風土記」は、明治6年に富田礼彦(いやひこ)が著した地誌で、飛騨の山の歴史を紐解くときによく引用される。

 彼は国学者で、天保13年(1842年)地役人頭取となり、飛騨各地をよく歩いている。

 その後、慶応4年(1868年)高山県判事に任命され、「梅村騒動」で時代の荒波をかぶった。

 この図は、大正4年に再出版されたものをアーカイブに載せるにあたって着色したもの。

 山の名称・位置関係・形態は、現在のとらえ方に近いが、穂高岳だけはやたら小さい。

 ※焼嶽(信州の硫黄岳)が噴煙を上げており、この周辺に峠道が表示されていないのも特徴的。 

○まとめ

 以上、時を追って国絵図の類を見ると、江戸時代初期と後期では、飛騨山脈の山々に関する情報量が格段に違うことが分かる。

 その主な理由は、飛騨の代官所や、松本藩の林政の進展で、飛騨山脈の奥地まで把握されるようになったことがあるでしょう。

 また、円空や播隆など、山岳修行僧の命がけの山行や、マタギや杣人の活動も、知見の広がりに貢献したはず。

 なお、飛騨と信濃をつなぐ峠道は、乗鞍岳南の野麦峠は江戸時代を通じて利用されたが、より標高が高く雪も多い場所を通る、十石峠、安房峠、中尾峠は、使えたり使えなかったりしたのも分かる。

 

 ここで、ひとつ疑問なのが、日本山岳会編「改訂版 新日本山岳誌」の奥穂高岳の説明で「穂高の山名が初見されるのは正保三年(1646年)の国絵図。そこには『保高嶽』とあり『上河内川』の記入もある」と記載され、これがWikipediaにも引用されている。

 しかし、これまで見てきたように、正保版の国絵図(原本はなく正保4年の信濃国の写し)にも、約50年後の元禄版(元禄14年(1696年)写し)にも保高嶽は出てこない。さらに江戸後期天保9年(1838年)の献上図の天保国絵図にも出てこないし、梓川は記されるが「上河内川」は出てこない。

 確認した限りでは、1700年代前期に制作された「信濃国松本藩領大絵図」が「保高嶽」の初出のように思われる。

 何か、非公式な別の正保の国絵図があったというのだろうか。

 穂高岳がいつから認識されていたかにもつながるだけに、正確なところを知りたいものであります。 

 

<メモ>

 今回の国絵図の多くは、デジタルアーカイブ化されており、 

 ・天保の献上版国絵図は、国立湖文書館HPで全図閲覧でき

 ・信濃国の正保・元禄・天保の国絵図の写しは上田市図書館HPで閲覧でき、

 ・飛騨国の多様な国絵図は、高山市図書館HPで一括して閲覧できる。

 ・デジタルアーカイブ化されていない「飛騨国絵図(元禄8年)」「飛騨国惣山絵図(明和9年)」は、「美濃・飛騨の古地図」(岐阜古地図研究会)から接写。

 

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お山の勉強室:「日本百名山」と「地域版百名山」

山に行けない梅雨時は、調べものをするにはいい時。

今回の「お山の勉強室」は、深田久弥著「日本百名山」と、その影響を受けて派生した「地域版百名山」について一緒に勉強していきましょう (ロ。ロ)/

 

〇深田久弥著「日本百名山」の成立まで

 「日本百名山」は、小説家・随筆家の深田久弥(1903年−1971年)が1964年(昭和39年)に出版した山岳随筆。

 同書が成立するまでには、次のような経緯があった。

 ・戦前1940年(昭和15年)3月から12月まで、朋文社の山岳雑誌「山小屋」に、日本百名山の初期構想となる連載を開始。

  初回に「日本百名山を選ぶのは、多年の僕の念願であった」と記している。

  また、この取り組みには、江戸期文化9年(1812年)画家谷文晁が出版した「日本名山図会」が念頭にあったとも言われる。

  毎月2座、計20座まで連載され中断。20座には、のちの「日本百名山」に入らなかった山もある。

 ※1953年(同28年)、中日新聞社の山岳雑誌「岳人」3月号で、「岳人選定による日本百名山」がまとめられる。

  登山家たち53名へのアンケートに基づくもので、1年ほどの選考を経たもの。うち78座がのちの深田「日本百名山」と一致。

 ・1959年(同34年)3月から1963年(同39年)4月号まで、朋文堂の山岳雑誌「山と高原」に、日本百名山を連載。

  その後1年あまりの推敲を経て、1964年(同39年)新潮社から「日本百名山」の単行本を出版。  

 ※この後、深田は、若干の差し替えを考えていたが、しないまま、1971年(同46年)茅が岳で死去。

 →「岳人選定による日本百名山」が現代まで残らず、深田久弥「日本百名山」が残ったのは、

   ➀単行本山岳随筆集という企画の良さ ∧絃呂量ノ蓮,箸箸發法↓残る22座について、平均的な名山を選んだ「岳人」版に対し、

   利尻岳、トムラウシ、幌尻岳、雨飾山、宮之浦岳など、より個性的な山を発掘し、選んでいるからだと思う。

   

〇「日本百名山」ブームとは

 ・「日本百名山」は、1964年単行本出版当時も評判がよく、版を重ね、第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞している。

  しかし、当時はアルピニズムを基調とした第1次登山ブームの中にあり、登山界を巻き込んだブームとなったわけではない。

 ・初版出版から25年後の1990年あたりから、第1次登山ブームを経験した世代を中心とする「中高年登山」がブームの兆しをみせる。 

  そこに、1994年(平成6年)から翌年にかけ、NHKが衛星第二TVで「日本百名山」を放映、大きな反響があった。

 ・さらに、1995年(同7年)NHK教育で「中高年のための登山学」が放送され、

  1997年(同9年)「中高年のための登山入門〜日本百名山をめざす」が放送されると、「日本百名山ブーム」は拡大・社会現象とさえなった。

    

〇「地方版百名山」の制定・改訂状況 

 「日本百名山」出版以降、何度かの波をむかえながら、「県別百名山」「☆地方版百名山」およびその改訂版が出版されていった。

 ・1970年代

   1970年 「信州百山」(信濃毎日新聞社刊 2011年に同社から長野県山岳協会監修で「信州ふるさと120山」刊

   1973年 「越中の百山」(県教職員山岳研究会, 県高等学校体育連盟山岳部 編  北日本新聞社刊 1981年改訂新版刊 現在廃版)

   1975年 「ぎふ百山」(岐阜県山岳連盟編 岐阜日日新聞社刊 現在廃版)

   →いずれも地元の新聞社に掲載され、新聞社から出版されていること、「百名山」でなく「百山」としていることが共通。

    新聞読者になじみの深い山を選んでいるためか、「信州百山」「越中の百山」には、のちの日本三百名山で入っていないものもある。

    「越中の百山」が132山、「ぎふ百山」が124山など、100という数に必ずしもこだわっていないのも類似。

    ちなみに「ぎふ百山」の場合、未踏の山が多かっため、発刊まで調査登山に10年近くかかっている。

 ・1978年日本山岳会「日本三百名山」選定以降1980年代

   1979年 「信州百名山」(清水栄一著「わが遍歴の信州百名山」桐原書店刊 1990年に3山差し替えた決定版刊

   1980年 「大分百山」(日本山岳会東九州支部創立20周年記念誌 支部30周年の1991年、40周年の2002年に改訂

   同  年 「宮崎百山」(同上:当時東九州支部20周年記念誌 1985年に宮崎支部が独立、2000年宮崎日日新聞社より同支部編集刊

   1989年 「越後百山」(日本山岳会越後支部 新潟日報社 2008年同社から佐藤れい子著の改訂版刊

   →清水栄一は、深田久弥の信奉者で、同書が初めて都道府県版に「百名山」のタイトルを付けた。

           当時「名山」という言葉のハードルは相当高かったはずで、日本百名山を29座も擁する長野県ゆえ成立しえたのでしょう。

    日本三百名山をすべて含み、きっちり100山で、「地域版百名山」の祖型といえる。

    

 ・1990年〜1993年(中高年登山ブーム発生後・日本百名山ブーム前) 

  ☆1990年 「東北百名山」(東北写真家集団編 山と渓谷社刊 2000年10山入れ替えた新版、2010年地図帳刊 現在廃版)

   1991年 「静岡の百山」(静岡県百山研究会 朋文出版社刊 現在廃版)

  ☆1992年 「九州百名山」(山と渓谷社刊 2002年新版(廃版)2011年「九州百名山地図帳」でそれぞれ山を差し替え

  ☆1993年 「北海道百名山」(山と渓谷社刊 2003年同社より8山差し替えた「新版 北海道百名山」刊 現在廃版)

   1993年 「ぐんま百名山」(群馬県:2007年上毛新聞社から横田昭二著「ぐんま百名山 まるごとガイド」刊

  ☆1993年 「関東百名山」(山と渓谷社刊 2019年大幅な差し替えをして刊

   →「東北百名山」は、東北写真家集団が1987年に先行する白黒の写真集を刊行、

    同集団に山と渓谷社が「百名山」のフォトガイドとしての刊行を勧めたもので、同社が展開する「地方版百名山」の祖型となった。

    1993年に「続ぎふ百山」(岐阜県山岳連盟編 岐阜新聞社刊)も出たが、これは「ぎふ百山」の改訂版ではなく別の130山を掲載した続編。

 ・「日本百名山」ブーム以降(1994年「日本百名山」テレビ放映以降)

   1995年 「ひろしま百山」(広島県山岳連盟 1998年中国新聞社で「ひろしま百山ガイドブック」刊 現在廃版)

        「山口県百名山」(中島篤巳著 葦書房刊 現在廃版)   

   1997年 「山梨百名山」(山梨県 山梨日日新聞社刊 2010年同社「山梨百名山 新版」刊) 

   1998年 ☆「関西百名山」(山と渓谷社大阪支局 2010年「関西百名山地図帳」刊 現在廃版) 

        「うつくしま百名山」(福島テレビの記念事業で選定委員長は田部井淳子 1999年奥田博著で同名本が同社より刊 現在廃版)

       「ふるさと兵庫50山」(兵庫県山岳連盟創立50周年記念 神戸新聞刊 2008年60周年に「ふるさと兵庫100山」に 2013年改訂版刊)

        「広島県百名山」(中島篤巳著 葦書房刊 現在廃版)

   1999年 「あおもり110山」(東奥日報社員村上義千代が同紙に連載後同社刊 現在廃版)

        「近江百山」(近江百山之会編 ナカニシヤ出版刊)

   2000年  ☆「甲信越百名山」(山と渓谷社 現在廃版)

        ☆「中国百名山」(山と渓谷社大阪支局刊 現在廃版)

        ☆「四国百名山」(同上) 現在廃版)

        ☆ 「東海の百山」(読売新聞中部本社 山好きの編集局長伊佐早幸男中心に新聞連載されたものを出版 現在廃版)

        ☆「北海道の百名山」(北海道新聞社選定 同社の子会社道新スポーツ刊。山と渓谷社版と違い難峰も含む 現在廃版)

        「岡山県百名山」(中島篤巳著 葦書房刊 現在廃版)

   2002年 「大阪50山」(大阪府山岳連盟 ナカニシヤ出版刊)

   2003年 「なら百遊山」(奈良県健康推進課 出版なし 県のHPは現在掲載終了)

   2004年 「栃木百名山」(下野新聞社の記念事業で栃木県山岳連盟編 2013年同社より「栃木百名山ガイドブック」改訂第2版刊

   2008年 「飛騨百山」(飛騨山岳会創立百周年に自費出版 ナカニシヤ出版の働き掛けで2010年「飛騨の山―研究と案内」として刊)

   

   2010年 「新潟百名山」(新潟県山岳協会 新潟日報社刊 2017年新版刊

   2014年 「富山の百山」(富山県山岳連盟編 北日本新聞社刊「越中の百山」には入らなかった剱岳等を含む 2017年改訂版刊)      

   2017年 「やまがた百名山」(山形県環境エネルギー部みどり自然課編 みちのく書房刊)

   →こうやって並べると、山と渓谷社が中部を除く地方版日本百名山を網羅し、「百名山ブーム」をビジネスとして牽引していったのがよく分かる。

    ただし、同社は1996年に「分県登山ガイド」を発行以来改訂を重ね累計200万部と、こちらを主力にしているようで、

    「地方版百名山」は、九州と関東以外廃版状態。

    「百名山ブーム」の過熱やその弊害、ブームの去った後を見据えた堅実な戦略だなとおもう。

    また、葦書房(福岡県)が中島篤巳著で、山口・広島・岡山と立て続けに県別百名山を出しているのも目を引く。

    中島氏は、地元で有名な登山家らしいけど、百名山という言葉が乱発された象徴という観は否めないでしょう。

 

〇まとめ

 こうして、時系列に追うと、「日本百名山」が、山岳・放送・新聞・出版・登山用品業界などに長く広くインパクトを与えたか、分かっていただけると思う。

  また、「地域版百名山」の刊行は、従来「日本アルプス」や谷川連峰など、アルピニズムの対象となる特定の山にばかり向かっていた登山者の目を、地元の山にも向けさせ、登山道の整備が進むなどの効果ももたらした。

 この過熱気味だったブームも、中高年登山をけん引した「団塊の世代」が後期高齢者となる「2025年}を控え、今後急速に退潮する可能性がある。

 「百名山ブーム」は、ポイントラリーみたいな登山のあり方や、登山道のオーバーユースの問題など、批判も多い。

 しかし、いわゆる「近代登山」がいったん断ち切った、信仰登山や、谷文晁の「日本名山図会」などに代表される江戸期の文人たちの登山など、世界でも類を見ないほど長く深い日本人と山との関わりの歴史の伝統を、結果的に今に繋げた功績は大きい。

 ブランドにこだわらず、群れず、ITを駆使し個人で情報を集め、ゆとりをもって自然に親しむ若い世代に、その良い部分のエッセンスをどのようにつないでいくかが、先輩登山者としての課題でもありましょう。

 それにつけても、山馬鹿岐阜県民として言いたいのは、ただひとつ。

 「地域版百名山」で、1973年に地元新聞社から刊行以来、44年間も124山という中途半端な数のまま、見直しもせず放置しているのは岐阜県だけだということ。

 岐阜県といっても、飛騨地方は別個に立派な「飛騨百山」を選定・出版しているので、問題の中心はぼっちの住む美濃地方。

 だからこそ、非才をかえりみず、ブログ「ぼっちの『岐阜百名山』勝手に選定委員会」をやっている次第。

 

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「飛騨の山岳」について事前勉強

今年の登山テーマ「飛騨の山岳を知ろう」に取り組むにあたり、まずは「飛騨の山岳」について事前勉強。

 

1. 飛騨地方について

  岐阜県飛騨地方は、7世紀の律令制のもとに置かれ、江戸時代まで続いた旧飛騨国に重なる。

  その面積は、4,178㎢。県総面積の約40%で、石川県と徳島県の間くらいの広さ。  

  これだけの面積がありながら、「平成の大合併」後の行政区は、高山市、飛騨市、下呂市、大野郡白川村の3市1村だけ。

  そのうち高山市は、全国の市町村中面積が最大で、東京都よりも大きい。ただし人口は、わずか約8万7千人。

  飛騨地方をすべて合わせても、14万7千人あまりで、県総人口の約7%にすぎない。

  どうしてこんなに人口が少ないのか―それは、とにかく山ばかりだから。

 

  岐阜県の森林率は81%と全国2位の高さ、さらに飛騨地方に限ると93%にもおよび、高山盆地・古川盆地と川沿いくらいしか、居住・耕作できる場所がない。

  しかも、中央高地式気候のため冷涼で、特に北西部は、冬は日本海からの季節風の影響で豪雪に覆われる。

  その反面、森林資源や神岡鉱山など鉱物資源には恵まれ、それもあって、江戸幕府は、飛騨国を天領とした。

  そのため代官所の置かれた高山は、行政・商業の中核として栄え、高山祭に代表されるように文化レベルも高かった。

  ただし、大原騒動で知られる代官(郡代)による搾取も相まって、飛騨の山あいに暮らす人々の生活は厳しいものだった。

  そのような風土が、飛騨人の、粘り強い気質を作りあげた。

 

  そんな飛騨の地も、最近は、産業としての観光の重要性が高まり、豊かな観光資源(※)に恵まれた地へと変貌。

  (※)世界遺産の白川郷の合掌造り、ユネスコ無形文化遺産の高山祭・古川祭、奥飛騨温泉郷・下呂温泉などの名湯、重要伝統的建造物群に指定され、ミシュラン三ツ星の高山の街、日本百名山の槍ヶ岳・穂高岳・笠ヶ岳・黒部五郎岳・焼岳・乗鞍岳・御嶽山・白山など、岐阜県を代表する、ひいては日本を代表する山岳観光地が集中。

  さらに、交通の面でも、山また山の僻遠の地とされたのは、今は昔。

  JRの高山本線のほか、東海北陸自動車道によって東海・関西地方からは日帰りも可能となり、中央縦貫自動車道の安房トンネルの開通によって関東方面からのアプローチも格段に良くなっている。

  名古屋に近すぎて存在感の薄い美濃地方より、飛騨地方の魅力がぐっとアガッている。 

 

  

2.飛騨の山岳

  山国飛騨は、3つの山域に分かれ、それぞれ違う個性を持っている。(↓地図クリックで拡大)

 (1)飛騨山脈

  飛騨地方東部、富山・長野県境側にあり、主要な部分は、中部山岳国立公園に指定されている。

  「北アルプス」とも呼ばれ、全国の岳人の憧れの山域。

  岐阜県部分はその最南部にあたり、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳など3千m級の山が県境部に、岐阜県内に笠ヶ岳が位置する。

  日本海からはやや離れ、中央高地式気候地となるため、年間通じて降水量は少なめ。

  安房トンネル開通により、登山基地として新穂高温泉の重要性が高まっている。      

  ただし、全国から登山者が押し寄せ、あか抜け過ぎているので、「自分たちの山じゃない」と感じる飛騨岳人もあるよう。

  なお、南に続く御嶽山は、独立した火山として、飛騨山脈には含められない。

  

 (2)両白山地(加越山地)

  飛騨地方西部の石川県・福井県境側にあり、その中心となる白山連峰一帯は、白山国立公園に指定されている。

  なお、一ノ峰の南からは、美濃地方となる。

  「白山」という名が象徴するように、日本海からの季節風の影響を受け、山々は日本有数の豪雪に覆われる。

  最高峰である標高2,702mの白山は、日本最西の森林限界を超える山であり、高山植物の宝庫として知られ、また豪雪のおかげで日本有数のブナの原生林が広がる。

  京の都にもっとも近い高峰として、古くから霊山として信仰を集め、山域全体に信仰の名残りがみられる。

  なお、白山連峰の主要部は飛騨地域だけれど、泰澄が開いたとされる古い信仰の道「美濃禅定道」が、郡上市の長滝白山神社(神仏分離以前は白山中宮長滝寺)から始まることもあり、美濃と飛騨の要素が混じり合った山域ともいえる。 

  

 (3)飛騨高地

  東の飛騨山脈、西の両白山地にはさまれた部分に位置し、標高1,000~1,500mの山々が連なる。

  北は富山県、南は美濃地方に及ぶ。

  森林限界以下の地味な山が覆く、生産の場として、植林の山も多い。

  そのうち、富山県境の北部は、加越山地と同様、日本海からの季節風の影響を受け、豪雪に覆われる。

  豪雪に長い間閉ざされ、さらに山麓の人口も少ないことから、登山道がない山が多い。

  しかし、地元飛騨岳人はこのような山こそ愛おしんで、スキーやわかんで登っている。

  一方、下呂市周辺の南部の山々は、内陸性気候で降水量が少なく、初冬まで登山道が使える山もある。

  また、阿寺山地の舞台峠以北は下呂市になるが、その登山上の特徴は、飛騨高地南部と似通っている。   

3.飛騨の川

 飛騨高地の位山や鷲ヶ岳を結ぶ稜線が分水嶺となり、長良川・木曽川水系が太平洋側に、神通川・庄川水系が日本海側に流れる。

 神通川の支流高原川が、飛騨山脈と飛騨高地の境となり、庄川が飛騨高地と加越山地の境界となる。 

 飛騨地方の風土を語るうえで最も重要な水系は、神通川水系。

 そのうち、本流となる川上岳を源流とする宮川は、高山市や飛騨市の市街地をおだやかに流れる。

 一方、乗鞍岳を源流とする高原川は日本有数の急流で、途中で槍ヶ岳・穂高岳・笠ヶ岳などの水を集める蒲田川も合流する。

 しばしば水害を引き起こすが、水にえぐられた渓谷には、沢登りに好適なスポットも多い。

 この対照的な宮川と高原川は、富山県境でひとつになり、神通川と名を変え、富山湾に流れ込む。

 

〇小括

 飛騨地方は山また山で、街や集落は少なく、展望もきかない場所が多いので、全体像がつかみにくい。

 改めて今回、全体を整理してみると、水系をつかむことが、土地勘をやしなう一番の手がかりみたい。

 ➀太平洋側に流れるか・日本海側か 

 ⊃青明鄂綏呂・庄川水系か

 -1 神通川水系では宮川沿いか・高原川沿いか

 -2 庄川水系では右岸か、左岸か

 そんな順番で絞り込むと、おおよそ土地の表情が浮かんできそう。

 

 あとは、実査あるのみ (ロ。ロ)/ガンバリマス 

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
スキーの歴史を知る―野沢温泉 日本スキー博物館

ひと冬1回くらいはスキーをしたいし、温泉玉子も食べたいなと、野沢温泉スキー場へ。

足元の見えないチャレンジコース39°のカベも、行っちまいました。。

20190113野沢温泉スキー場.jpg

冬山登山に、スキーは付きもの。

今回は前から気になっていた「日本スキー博物館」を訪問、スキーの歴史について勉強してみよう (ロ。ロ)/オウ

 

博物館は、野沢温泉スキー場の名物コース「シュナイダーコース」の直下、伊勢宮ゲレンデにあり、スキーを履いたまま行ける。

オーストリア国旗とフランス国旗の掲げられた外観はこじんまりした印象。

20190113スキー博物館.jpg

実は入口部分は2階で、下にもう1階あるので、内部は想像以上に広く、ぎっしり展示が詰まっている。

それでは順路に沿って、日本のスキー史をたどっていくことにしましょう。

 

日本のスキー発祥というと、明治44年(1911年)新潟県高田でレルヒ少佐が教えたのが初めてだと思っていた。

しかし、雪上歩行にスキー状の道具を使っていた例としては、文化5年(1808年)、樺太探索をした間宮林蔵の報告書『北蝦夷図説』に、スキーに似た雪具をつけた人の図が描かれているのが、日本初のスキーに関する記述と推定されるそう。

さらに、明治23年には北海道の開拓に関わった外国人がスキーを持ち込んでいたりしたという。

このへんは、日本人にアルピニズム精神を伝えたウエストンに先行し、「日本アルプス」の名付け親でもある明治初期のお抱え外人ガウランドが自分たちの楽しみとして山に登っていたことと共通する事情があるんでしょう。

さらに、青森第5連隊が八甲田山中で大量遭難した(明治35年)の見舞として、明治42年ノルウェー国王よりスキー2台が贈られたりもしている。

 

レルヒ少佐が、高田の第13師団歩兵58連隊団長の長岡外史に招へいされ、明治44年にスキー技術を伝授したのも、その背景に八甲田の大量遭難があった。

レルヒは、翌明治45年再来日し、北海道の旭川第7師団にもスキーを教えている。この時には中佐になっていたので、北海道では彼のことを、レルヒ中佐と呼び習わしているとか。

20190113博物館1.jpg

レルヒを招へいした、長岡外史は、1904年の日露戦争で参謀次長として活躍し、退役後は衆議院議員もなっている。

なかなかの人物だったようで、スキーを軍事技術として導入するだけでなく、生活にも役立つだろうと民間にもスキー技術を伝え、女性のスキー進出も勧めたそう。

それにしても、立派なヒゲですな。。

20190113博物館2.jpg

ただし、レルヒ少佐の伝えたのは、一本杖スキーで、雪上歩行が中心。すぐに、北海道で広まった2本杖が主流になる。

ちなみに、北海道では、今もスキー登山が盛んであります。

 

そして、スキーの技術と指導法を確立し、スポーツとして世界に広めた立役者が、オーストリア人のハンネス・シュナイダー。

1931年に「スキーの驚異」という自ら出演する映画を製作、これが世界にスキーブームを巻き起こす。

1930年には、秩父宮の招待で来日し、野沢温泉などでスキーの指導を行った。

野沢温泉スキー場が名門スキー場として今の隆盛を誇るのも、シュナイダーの功績が大きい。

博物館では、ビデオで「スキーの驚異」を流していて、その圧倒的なスキー技術には、今でもひき込まれてしまう。

20190113博物館3.jpg

そのほか、中国のスキー、モンゴルのスキーなどの展示もあった。

雪中歩行の道具として、同じような形をとっているのが面白い。

20190113博物館4.jpg

1階には、日本の雪にまつわる道具の展示もあった。

スキーのような形の板は、荷物を運ぶソリだそう。

1階には、ほかに競技スキーの歴史の展示もたくさんあったけど、山馬鹿は興味がないのでパス。

20190113博物館5.jpg

スキー博物館の外のゲレンデには人だかりが。

その真ん中では、二組に分かれた地元の男衆が、樹を競争で引っ張っている。

15日にある、道祖神祭りに使うブナの木を山から伐り出して運んているのだとか。

20190113ブナ.jpg

スキーを片付けて温泉街に戻ると、旅館の前で祭りの男衆が、大声で「サアてば 友達良いもんだ」という道祖神の歌を歌っている。

よく見ると、町中に入ったブナは木のソリの上。

博物館で見たのとほぼ同じ姿で、今も使われているんだな。。

20190113ブナ2.jpg

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 09:32 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
お山の勉強室:「『奥美濃』の山」とは、どこの山なのか

岐阜の岳人や、京都の岳人は「奥美濃の山」という言葉を、独特の思い入れを持って使う。

しかし、奥秩父・奥多摩・奥武蔵といった地域と違い、「奥美濃」とはどこなのか、実は非常にあいまい。

ぼっちも、分かったように使いがちだけど、ここで一回おさらいしておいた方がいいのかも。

ということで、今回のお山の勉強室は、「『奥美濃』の山」とはどこの山なのかを、一緒に勉強していきましょう (ロ。ロ)/

 

1.「奥美濃」とはどこか?

 「奥飛騨」については、「岐阜県北部、神通川の支流である高原川流域をいう。高山市北東部(デジタル大辞泉)」と、辞書で明確に特定されている。

 しかし、「奥美濃」は、辞書に見当たらず、わずかに1980年刊行の角川書店「岐阜県地名大辞典」に「郡上郡(※注1) 古代〜現在の郡名・かつては奥美濃と通称した所。」という記述があるくらい。

 ※注1:郡上郡の町村が2004年に合併し、今は郡上市となっている。

 

 この「奥美濃」という言葉が、近年観光や産業振興のための地域ブランドとして広く使われるようになっている。

 しかし、その使われ方は「奥美濃=旧郡上郡(現郡上市)」とは限らず、まちまちとなっている(※注2)

 ※注2:次のとおり、旧郡上郡に限らず、さまざまな地域について「奥美濃」と呼ぶ場合がある。

  奥美濃のスキー場:郡上市を中心とするが、西は揖斐郡あたりまでを含む場合がある。

  奥美濃カレー:郡上市白鳥町(旧郡上郡白鳥村)を中心に販売されているB級グルメ。

  奥美濃古地鶏:郡上郡の地鶏と外国種を掛け合わせ、岐阜県養鶏試験場が開発したもので、岐阜県各地で飼育。

  奥美濃水力発電所:本巣市根尾上大須に所在する揚水発電所。

 

2.山岳書にみる「奥美濃の山」

 次に山岳書では「奥美濃」をどのエリアとしているか、代表的な2書で見てみましょう。

(1)「樹林の山旅(奥美濃紀行)」(1940年(昭和15年)刊 森本次男著)

 「奥美濃の山」を最初に紹介した本で、アルピニズムに背を向け日本の樹林の山に目を向けた最も早い時期の書とも言える。

 京都の岳人森本次男氏は、同書の冒頭で「奥美濃は関西の隠れた山岳地帯である」と定義し、巻末に「奥美濃概念図」という地図を載せている。

  (↓地図クリックで拡大)

 

 概念図には、伊吹山以北、大日岳以南の、岐阜・滋賀・福井県境の山地が含まれ、平地に接する里山は除かれている。

 また、旧郡上郡のうち鷲ヶ岳など県境部ではない飛騨高地の山は除外されている。

 それにしても、美濃国の不破の関から東が関東というのは常識だから、京都岳人森本氏は、よくも「関西の隠れた山岳地帯」なんて言い切ったもの。

 当時は、登山界で未知の山域だったから、言ったが勝ちだったのかな (?_?)

 

(2)「奥美濃―ヤブ山登山のすすめ」(初版1987年、三訂版2007年、高木泰夫著)

 戦後の「奥美濃の山」を紹介した本としては同書が代表的で、三訂版まで出されている。

 著者の故高木氏は、ぼっち地元の山の会の会長を長らくつとめられ、「ぎふ百山」の「奥美濃の山」の多くを執筆、また日本山岳会員として、ぼっちのバイブルあばうと日本4000山を掲載した「新日本山岳誌」の編集にあたられた大先輩であります。

 

 同書では、「北は白山から南西を俯瞰するとき、南は伊吹山から北東を展望するとき、見はるかす彼方まで重畳として(ママ)緑の山並みが続いている。それが奥美濃である。これを水系でたどれば揖斐・長良両川の水源部をいい、山系で追えば近江と美濃を境する伊吹山地、越前と美濃を分ける越美山地およびそれから派生するいくつかの小支脈を含めて奥美濃という。」と定義される。

 この定義だと、「樹林の山旅」における「奥美濃の山」の範囲とほとんど同じに受け取れる。

 高木泰夫氏は、京都岳人にして、岐阜県岳人にも多大な影響を与えた日本山岳会岐阜支部長(その後日本山岳会会長)で岐阜大学学長でもあった今西錦司氏との同行が多いので、現在はこれが多数説かもしれない。

 しかし、同書裏表紙の「『奥美濃』概念図」および本文では、養老山地、鈴鹿山脈の岐阜県部分、越美山地の里山を入れており、一部「定義」と整合性が取れておらず、さらに「樹林の山旅」と異なり、鷲ヶ岳など飛騨高地の旧郡上郡の県境以外の山も含めているなど「『奥美濃』の山」はどこの山なのか、細部では疑問が残る。

(↓地図クリックで拡大)

3.まとめ

 以上のように、「奥美濃」という言葉は流動的で、かつては旧郡上郡をさしていたものの、近年は郡上市を中心に観光や産業振興に、地域を厳密に特定することなく使われる傾向がある。

 それに対し、「『奥美濃』の山」という場合は、旧美濃国の国境部(※注3)奥山をいう場合と、国境部以外の山も含める場合とがあるが、いずれにしても、旧郡上郡の山と限定したものではない。

 ※注3:厳密にいうと、野伏岳など郡上市白鳥町石徹白地区の県境の山は、1958年に同地域が福井県から岐阜県白鳥村に編入されてから岐阜県境となったのであり、旧美濃国の国境の山ではないという、さらにややこしい事情がある。

 つまり、住民や観光客が使う「奥美濃」と、登山者が使う『奥美濃』は、違うものだというのが結論。

 「『岐阜百名山』勝手に選定委員」ぼっちとしては、「岐阜県の誇るすぐれた山を、広く一般にも伝えていく」ことも選定の目的としたいけれど、「広く一般に」という場合、地元の方々や観光客などが主な対象となる。

 その際「『奥美濃』の山」という、住民や観光客と登山者とで、意味合いが乖離した言葉を使うと、混乱を生じてしまう可能性がある。

 そのため、「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の取り組みにおいては、なるべくこの言葉は安易に使わず、例えば、「長良川源流部の山」とか「越美山地県境部の山」といった、概念にブレの少ない言葉に置き換えていくようよう努めたいと、改めて思う次第。

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
名前のない山に登る

ぼっち地元の山岳会では、5ヶ年計画で「岐阜県美濃地方の一、二、三等三角点全数を調査する」という企画をやっている。

半年3地点のノルマで踏査報告書を作成する義務があり、今回は、円原・一ツ石・神崎という三等三角点3点が割り当て。

 

2万5千分の1地形図を開いてみると、この3点はいずれも山県市にあって、円原は標高871.3m、一ツ石は684.2m、神崎は581.4mのピーク。ただし、3ヵ所とも山名の記載はなく、もちろん登山道なんかない。

先にご紹介したとおり、2万5千分の1地形図における岐阜県の「名前のある山」の数は454山。

一、二、三等三角点の数は合わせて1197点、つまり平地にある三角点を除いても、岐阜県には今回の3点のような「名前のない山」が相当ある。

ということで、今回は「名前のない山に登ってみるってどんなだろう」という視点で行ってきました (ロ〜ロ)/

 

まずは、基準点「円原」。7時20分出発。

地図で見ると山上部が極端にだらだらした地形で、どうルート取りしていいかむつかしい。

林道から、いったん小さな谷に降り、尾根らしい地形がたどれる一定の標高まで登り返し、だらだらした山上部は等高線に沿ってたどり、三角点直下から直登するルートを想定。取り付き点からの標高差は、約250m。

20181208三角点1.jpg

一帯はスギの植林帯で、地図から想像した通り、どこが高みなのかも分かりにくい地形。

磁石やGPSがないと、ヘンゼルとグレーテルのように迷ってしまいそう。

20181208登山道2.jpg

尾根状の所から取り付こうとすると、なんと林業用の踏み跡があるではないか。

一定の標高まで登ると、等高線に沿う形で西の方向へと巻いていく。

あらかじめ想定していたルートは、林業従事者も歩かれるものだったんだなと、ちょっとうれしくなる。

作業小屋も登場。

20181208登山道3.jpg

あまり明確ではない尾根をさぐりながら、山上部に出る。

微かに小雪が舞いはじめる。

20181208登山道4.jpg

8時40分、三角点円原に到達。見晴らしはなく、登頂したなあという実感は湧きにくい。

三等三角点の標石が、脇に生えたスギと相撲を取っているみたい。

20181208円原三角点.jpg

事前に想定していたルート(茶色)と、実際にたどったルート(赤色)は、ほぼ同じ。

名前のない山その1(基準点名円原)に登った感想は、「スギの畑を歩いた気分」。

20181208円原.PNG

名前のない山その2は、基準点名「一ツ石」。

円原の林道から見ると、舟伏山の手前の樹林に包まれたピークのひとつがそれらしい。

標高差が450mほどあって、円原川側から登ろうとすると、取付き部分が急斜面のため、沢から入るもくろみ。

送電線の記号があるので、もし巡視路に出会えればそれを利用と想定。

10時25分、渡渉を避けるため、今島集落外れの橋のたもとから川原に降りる。

20181208登山道5.jpg

荒れた沢に入ると、ここにも作業用の踏み跡があった。

地図で見ると上流ほど急になるので、どこから尾根に取り付くかが問題。。

20181208登山道6.jpg

予想よりも踏み跡は沢に沿って奥まで続き、最後に急斜面を尾根に向けて登っていく。

その踏み跡もだんだん薄くなって消えてしまう。踏み跡は山頂を目指すものじゃないから仕方がない。

ようやく尾根に上がったものの岩の壁が出てきたので、横に巻いて登り続ける。

地図では読めない岩に阻まれ、想定より南に出そう。

20181208登山道7.jpg

稜線が近づくほどに急傾斜となり、枝が絡まりあって進むのも楽じゃない。

また小雪も舞いだした。

20181208登山道8.jpg

三角点よりやや南の山上部に出ると、人か獣かの踏み跡があって歩きやすくなる。

視界も開け、東に見える奥の山が北山(925m)、手前が名無しの山(基準点名円原)らしい。

それなりに、独立した山なので、名前を付けてあげてもいいんじゃないかな。

ふもとの集落が円原だから、円原山でいいかも。(←想像は自由)

12時30分、ようやく一ツ石三角点に到達。

三角測量には良さそうなこじんまりしたピークだけど、稜線の先に、もっと高いピークが続いている。

名前のない山その2(基準点名一ツ石)に登った感想は、「名前がない山も舐めてはだめ」。

20181208一ツ石三角点.jpg

事前想定ルート(茶色)に比べ、踏み跡が沢の奥まで入っていたので、実際のルートはだいぶん南にそれたものとなった。

20181208一ツ石.PNG

名前のない山その3は、基準点名「神崎」。標高差は約400m。

神崎の集落の、白髭神社の背後からはじまる尾根に取り付く。

すでに時刻は14時30分、みぞれ模様となり、日暮れまでに戻れるか少し心配になってくる。

ただし、地図では素直な尾根だし、里にも近いので、うまくいけば林業用の踏み跡があるのではないだろうか。

20181208登山道9.jpg

想定通りスギ林の中の明確な尾根を登っていく。

今秋の台風であちこちの植林地が被害を受けていたので心配していたけれど、尾根上は大丈夫だった。

途中で、大きな炭焼き窯の跡にも出会う。

20181208登山道10.jpg

山上部は、雑木林となって、岩も出てくるけど、一ツ石のように壁になって遮られることはない。

足もとの灌木で、膝から下がぐっしょり濡れてしまった。

20181208登山道11.jpg

15時45分、三角点「神崎」に到着。

周りが刈られ、三角点は半分以上土に潜っていた。

さあて、日暮れまでに急いで戻らねば。

20181208神崎三角点.jpg

ここは、事前想定通りのルートを往復したように見える。

しかし、山頂からの降りだしで灌木の中に道を失い、気がつけば三角点の前に戻っていた。

まだまだ修行不足を実感した次第。

20181208神崎.PNG

16時55分、日没直前に神崎の集落に無事帰還。

1日三山、ルートファインディングしながらの累積標高は1,100mほど、なかなかの山修行だった。

 

今回の「名前のない山」を巡った感想は、「たぶん、林業従事者は、そこを植林されたスギやヒノキの区画としてみていて、山としてはとらえてはいないんだろうな」ということ。

それは、家畜に名前がないのと同じようなことなのかもしれない。

やはり、名前を持つにはそれなりの個性や畏敬すべき何かが必要なのかもしれない。

それでも、先に登った大白木山のように、地図に名前がない佳き山が岐阜県にはまだまだあって、名前を付けられるのを待っているかも、なんて考えてしまうのが、山馬鹿の山馬鹿たるゆえんかも。

20181208神崎の集落.jpg

 

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