WALK あばうと 日本4,000山

「新日本山岳誌」掲載の約4000山が修行の地。 めざせ山仙人!
国絵図で見る江戸時代の飛騨山脈

梅雨空の週末、今回の「お山の勉強室」は、「国絵図」を見ながら、「近代登山」が始まる前、飛騨山脈の山々を江戸〜明治初期の人々がどのようにとらえていたか、時系列で見ていきましょう (ロ。ロ)/

 

〇「国絵図」とは

 「国絵図」は、江戸幕府が日本総図を作製するにあたり諸大名らに命じて作らせた国単位の地図で、「献上図」ともいわれる。

 今の国土地理院の地図のように、公式な地図で、江戸時代の地理情報を知る基本資料となる。

 全国大で計3回(※注1)作成され、最初の正保元年(1644年)、6寸1里(2万1600分の1の縮尺)にし、村名と石高を記載し、特に国境を正確に描くようになど、統一仕様が定められた。

   注1:これに先立つ慶長年間に、西日本の一部に国絵図の作成命令が出ている

 その後、村落や石高の異動などを反映するため、元禄9年(1696年)と天保6年(1835年)の2回、改訂命令が出た。

 最後の天保の国絵図は、元禄図の修正点を諸大名らに出させ、幕府側で製作したもので、これが全図国立公文書館に残る。

 それ以外に、諸大名らが控えとして作った正国絵図の写しや、献上図ではない実用向けの各国の国絵図も残されている。 

 それではまず、江戸時代初期の飛騨山脈へタイムトリップ。(↓それぞれの地図をクリックすると拡大)

 

〇江戸初期―金森時代(1566年〜1692年)

 飛騨国は、1566年秀吉のもとで金森長近が統治するようになってから、1692年までは、金森氏により藩政がしかれていた。

 最初の正式な正保の国絵図ができる前、寛永10年の巡見使絵図をまずは拝見。

 <寛永十年巡見使国絵図>

 これは、寛永10年(1633年)幕府巡見使が全国を分担巡察し、その報告とともに国絵図を3代将軍家光に提出した原本の写し。

 ※地図では、「平湯」といった地名や、峠道は記されているけど、峠や山の名は記されず、形もきわめてあいまい。 

 <飛騨国絵図(中川忠英旧蔵本)>

 正式な正保の国絵図は、一枚も現存しない。

 しかし、飛騨国については、写しが残る(中川忠英(旗本で江戸文政期の能吏として知られ長崎奉行などを務める)旧蔵本)。

 巡検史国絵図より山の形は写実的になるけど、やはり山名は記載されていない。

 ※平湯峠が難所として記されている。飛騨の峠は時代によってかなり変動があるので、そこも注目点。

 <正保信濃国絵図(正保4年)上田藩主仙石家伝来):上田市図書館蔵>

 信濃国の正保国絵図は、上田藩主が控えとして残した正保4年(1647年)の精度の高い写しが残されている。

 乗鞍嶽、焼嶽と、やたら大きく蝶嶽が記される。しかし、槍ヶ岳、穂高岳の山名も、それらしきシルエットもない。

 献上版の国絵図作成には、国境の問題もあり、隣国で照らし合わせをすることになっていたので、信濃でも飛騨でも、江戸初期・正保の頃は、槍ヶ岳や穂高岳の存在は、明確には把握されていなかったのではないだろうか。

 正保当時は、まだ松本藩によって上高地の開発が始まっていないはずだし、

 加賀藩の奥山廻りが、室堂から上奥山(越中と信濃、飛騨国境部)の黒部川まで往復したのも、天和2年(1682年)になってから。

 つまり、江戸初期正保の頃は、まだ飛騨山脈は十分把握されていなかったのでしょう。

〇幕府直轄地時代(1692年から1868年)

 金森氏は元禄5年(1692年)第6代藩主の時に突然移封となる。これは飛騨国の豊富な資源(金・銀・銅・木材等)に幕府が目をつけたとの説がある。幕府直轄時代の国絵図は次のとおり。

 <元禄8年(1695年)飛騨国絵図:高山郷土館蔵>

 飛騨国が幕府直轄地となって3年後の元禄8年、幕府は大垣藩主戸田采女正氏定に飛騨全土の検地を行わせ、この時作成されたもの。

 飛騨国の献上図の元禄国絵図は残されていないので、この図が残存する江戸前期の飛騨国の基本図といえる。

 ようやく乗鞍嶽、硫黄(焼岳の飛騨側の呼称)、鑓ヶ嶽、笠ヶ嶽が登場する。

 ※鑓ヶ嶽の脇を通る峠道は、位置があいまいだけど、信濃国大川根村に至るので、中尾峠ルートだろうか?

 <元禄信濃国絵図(上田藩主仙石家伝来):上田市図書館蔵>

 元禄9年(1696年)作成が命じられ同14年(1671年)に提出された元禄の信濃国の献上図の詳細な写しが、正保のものと同様、上田図書館に残されている。

 国境の山の姿がより具体的になり、乗鞍嶽、焼嶽が記載されるほか、槍ヶ岳らしきシルエットも登場する。

 ただし、穂高岳や、上高地あたりは明確に記されていない。

 ※焼岳の南を通る峠は、白骨湯脇を通るので、旧十石峠ルートだろうか。

 <参考:信濃国松本藩領大絵図>

 ぼっちが確認した限り「保高嶽」が記載されている中では、「信濃国松本藩領大絵図」がもっとも古かった。

 これは、松本藩部分だけの絵図で、「水野壱岐之守」との記載から、水野忠定の時代(正徳3年(1713年)〜享保10年(1725年))のものと考えられている。

 この図の「保高嶽」は、焼嶽との距離、池の位置からして明神岳から前穂高岳あたりを指していると考えられる。

  ※信濃側では焼岳の北の小峰を硫黄岳と呼ぶが、ここでは焼嶽の南に硫黄嶽が記されている。白骨湯の奥に記されることから、十石山あたりを指すのではないだろうか。また、槍ヶ岳が記されていないのも特徴的。

 <飛騨国惣山絵図(明和9年8月):岐阜県歴史資料館蔵>

 幕府の直轄領となった飛騨国では、林政が重視され、詳細な山林調査が行われた。

 この図は、明和9年(1772年)、12代代官大原彦四郎時代の山林調査絵図で、調査が山奥まで進み、格段に詳細になっている。

 硫黄嶽の北に、(鑓?)ヶ嶽、鋭く尖った錫杖ヶ嶽、その手前に笠ヶ嶽が記される。

 現在でいう錫杖岳(2,168m)は、笠ヶ岳の手前であり、奥ではない。

 この図の「錫杖ヶ岳」は大きと鋭さからして、現在でいう槍ヶ岳のようにも見える。

 すると、(鑓?)ヶ嶽は何山なのだろう? 手前の無名の三角の山と共に、吊り尾根でつながる奥穂・前穂のようにも見える。

 収録された「美濃・飛騨の古地図(岐阜古地図研究会)」(昭和54年刊)の写真の解像度が低く、詳細に判読できず残念。

 <飛騨国絵図(弘化3年(1846年)筆写)>

 この図は、実用向けの国絵図で、筆者昌一は、宝暦11年(1761年)生まれで文政4年(1821年)没。

 寛政4年から没するまで地役人として勤め、その間、山廻役や口留番所役を勤めたこともあった。 
 地役人であった寛政4年(1792年)から文政4年(1821年)までの間に、勤務の必要から作製したものと考えられ、弘化3年は裏書にもあるように孫の英臣が書きなおした年らしい。したがって、江戸中期の飛騨の状況を現した国絵図といえる。

 その役目上、国境の山については詳しく記されており、北ノ俣、中ノ俣(黒部五郎岳)、笠ヶ嶽、鑓ヶ嶽(=槍ヶ岳)、そして乗鞍は、形も含めほぼ正確に位置づけられているが、穂高岳は記載されていない。

 硫黄嶽(焼岳)の名もないけれど、乗鞍の左に描かれた峠道が安房峠と考えられるので、峠の左の丸い山がそれでしょう。

 注目すべきなのは、鑓ヶ嶽と硫黄嶽の間に相当立派な「錯杖」が描かれていること。

 現在の錫杖岳は、笠ヶ岳に連続しているし、中尾村の奥ではない。

 穂高岳だとすれば、形も位置も合いそうだけれどもどうなんだろう (?_?)>

 <天保飛騨国国絵図>

 ようやくここで、天保9年(1838年)の献上図「天保飛騨国国絵図」が登場。

 基本的には、今はなき元禄版献上図に基づいて作成されたもので、山の名は、乗鞍嶽、硫黄嶽しか記されていないけれど、槍ヶ岳や笠ヶ岳の形と位置はおおむね正確に記されている。

 ※着目すべきは、中尾村から硫黄岳の北(左)を通る道=天保6年(1835年)に上高地から中尾村までの12劼龍茣屬開通した飛騨新道が記されていること。

 飛騨新道開削には、文政11年(1828年)播隆が槍ヶ岳に登頂するにあたり、強力なサポートにあたった中田又重郎が、リーダー格の岩岡村の庄屋判次郎と共に重要な役割を担っている。

 ただし、飛騨新道の利用者が結果して少なく、冬は雪に閉ざされ、夏は雨により崩壊が相次いで、25年後の文久元年(1861年)に廃道となっている。

 <天保信濃国国絵図> 

 こちらは、献上図「天保信濃国国絵図」。国境部分は、飛騨国のものとよく整合性が取られている。

 また、信濃国絵図の天保版上田藩主写しと比較すると、ほぼ正確な写しとなっており、正保版・元禄版の写しも同様と推測できる。

 飛騨新道の三郷村小倉から大滝山を経て上高地に至る32 kmの区間は、天保元年(1830年)に開通しており、あづさ川(梓川)など上高地周辺の様子とともに正確に描かれている。

 焼岳と槍ヶ岳の間にある、池の奥にある小さめな山が、穂高岳でしょう。

 <安政3年(1856年) 飛騨国絵図>

 幕末の安政三年(1856年)丙辰秋二木氏□との奥書がある、私的に作成された飛騨国の国絵図。

 二木氏□(判読できない)は、高山市上二之町にある二木酒造のご先祖なんだそう。

 飛騨山脈の山の位置が相当詳細に把握されており、丸(北の写し間違い?)ノ俣嶽、中ノ俣嶽、抜戸嶽、笠ヶ嶽、鎗ヶ嶽、穂高嶽、焼嶽、硫黄嶽、乗鞍嶽、四嶽(四ッ岳)、夷ヶ嶽(恵比寿岳)などが並ぶ。

 ここにきてようやく、穂高岳がまっとうな位置と形で記される。ただし、槍ヶ岳が圧倒的に高く鋭く描かれている。

 ※飛騨新道の中尾峠も、安房峠も書かれ、飛騨新道が文久元年(1861年)に廃道となる少し前の図ということが分かる。

 <官許飛騨国中全図>

 この図は木版多色刷りで、高山陣屋の御用絵師松村梅宰の画により、広く利用されたもの。

 「官許」とあるので、明治のごく初期に初版が発行されたと考えられ、山の形状や位置関係など精度が高い。 

 古川祭の山車の送り絵なども書いた松村梅宰は、元治元年(1864年)没なので、原画は江戸末期に描かれたのだろう。

 ※飛騨新道は消え、安房峠だけ描かれている。

 <「斐太後風土記」所収 飛騨国三郡村々全圖>

 「斐太後風土記」は、明治6年に富田礼彦(いやひこ)が著した地誌で、飛騨の山の歴史を紐解くときによく引用される。

 彼は国学者で、天保13年(1842年)地役人頭取となり、飛騨各地をよく歩いている。

 その後、慶応4年(1868年)高山県判事に任命され、「梅村騒動」で時代の荒波をかぶった。

 この図は、大正4年に再出版されたものをアーカイブに載せるにあたって着色したもの。

 山の名称・位置関係・形態は、現在のとらえ方に近いが、穂高岳だけはやたら小さい。

 ※焼嶽(信州の硫黄岳)が噴煙を上げており、この周辺に峠道が表示されていないのも特徴的。 

○まとめ

 以上、時を追って国絵図の類を見ると、江戸時代初期と後期では、飛騨山脈の山々に関する情報量が格段に違うことが分かる。

 その主な理由は、飛騨の代官所や、松本藩の林政の進展で、飛騨山脈の奥地まで把握されるようになったことがあるでしょう。

 また、円空や播隆など、山岳修行僧の命がけの山行や、マタギや杣人の活動も、知見の広がりに貢献したはず。

 なお、飛騨と信濃をつなぐ峠道は、乗鞍岳南の野麦峠は江戸時代を通じて利用されたが、より標高が高く雪も多い場所を通る、十石峠、安房峠、中尾峠は、使えたり使えなかったりしたのも分かる。

 

 ここで、ひとつ疑問なのが、日本山岳会編「改訂版 新日本山岳誌」の奥穂高岳の説明で「穂高の山名が初見されるのは正保三年(1646年)の国絵図。そこには『保高嶽』とあり『上河内川』の記入もある」と記載され、これがWikipediaにも引用されている。

 しかし、これまで見てきたように、正保版の国絵図(原本はなく正保4年の信濃国の写し)にも、約50年後の元禄版(元禄14年(1696年)写し)にも保高嶽は出てこない。さらに江戸後期天保9年(1838年)の献上図の天保国絵図にも出てこないし、梓川は記されるが「上河内川」は出てこない。

 確認した限りでは、1700年代前期に制作された「信濃国松本藩領大絵図」が「保高嶽」の初出のように思われる。

 何か、非公式な別の正保の国絵図があったというのだろうか。

 穂高岳がいつから認識されていたかにもつながるだけに、正確なところを知りたいものであります。 

 

<メモ>

 今回の国絵図の多くは、デジタルアーカイブ化されており、 

 ・天保の献上版国絵図は、国立湖文書館HPで全図閲覧でき

 ・信濃国の正保・元禄・天保の国絵図の写しは、上田市図書館HPで閲覧でき、

 ・飛騨国の多様な国絵図は、高山市図書館HPで一括して閲覧できる。

 ・デジタルアーカイブ化されていない「飛騨国絵図(元禄8年)」「飛騨国惣山絵図(明和9年)」は、「美濃・飛騨の古地図」(岐阜古地図研究会)から接写。

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 06:35 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
お山の勉強室:「日本百名山」と「地域版百名山」

山に行けない梅雨時は、調べものをするにはいい時。

今回の「お山の勉強室」は、深田久弥著「日本百名山」と、その影響を受けて派生した「地域版百名山」について一緒に勉強していきましょう (ロ。ロ)/

 

〇深田久弥著「日本百名山」の成立まで

 「日本百名山」は、小説家・随筆家の深田久弥(1903年−1971年)が1964年(昭和39年)に出版した山岳随筆。

 同書が成立するまでには、次のような経緯があった。

 ・戦前1940年(昭和15年)3月から12月まで、朋文社の山岳雑誌「山小屋」に、日本百名山の初期構想となる連載を開始。

  初回に「日本百名山を選ぶのは、多年の僕の念願であった」と記している。

  また、この取り組みには、江戸期文化9年(1812年)画家谷文晁が出版した「日本名山図会」が念頭にあったとも言われる。

  毎月2座、計20座まで連載され中断。20座には、のちの「日本百名山」に入らなかった山もある。

 ※1953年(同28年)、中日新聞社の山岳雑誌「岳人」3月号で、「岳人選定による日本百名山」がまとめられる。

  登山家たち53名へのアンケートに基づくもので、1年ほどの選考を経たもの。うち78座がのちの深田「日本百名山」と一致。

 ・1959年(同34年)3月から1963年(同39年)4月号まで、朋文堂の山岳雑誌「山と高原」に、日本百名山を連載。

  その後1年あまりの推敲を経て、1964年(同39年)新潮社から「日本百名山」の単行本を出版。  

 ※この後、深田は、若干の差し替えを考えていたが、しないまま、1971年(同46年)茅が岳で死去。

 →「岳人選定による日本百名山」が現代まで残らず、深田久弥「日本百名山」が残ったのは、

   ➀単行本山岳随筆集という企画の良さ ∧絃呂量ノ蓮,箸箸發法↓残る22座について、平均的な名山を選んだ「岳人」版に対し、

   利尻岳、トムラウシ、幌尻岳、雨飾山、宮之浦岳など、より個性的な山を発掘し、選んでいるからだと思う。

   

〇「日本百名山」ブームとは

 ・「日本百名山」は、1964年単行本出版当時も評判がよく、版を重ね、第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞している。

  しかし、当時はアルピニズムを基調とした第1次登山ブームの中にあり、登山界を巻き込んだブームとなったわけではない。

 ・初版出版から25年後の1990年あたりから、第1次登山ブームを経験した世代を中心とする「中高年登山」がブームの兆しをみせる。 

  そこに、1994年(平成6年)から翌年にかけ、NHKが衛星第二TVで「日本百名山」を放映、大きな反響があった。

 ・さらに、1995年(同7年)NHK教育で「中高年のための登山学」が放送され、

  1997年(同9年)「中高年のための登山入門〜日本百名山をめざす」が放送されると、「日本百名山ブーム」は拡大・社会現象とさえなった。

    

〇「地方版百名山」の制定・改訂状況 

 「日本百名山」出版以降、何度かの波をむかえながら、「県別百名山」「☆地方版百名山」およびその改訂版が出版されていった。

 ・1970年代

   1970年 「信州百山」(信濃毎日新聞社刊 2011年に同社から長野県山岳協会監修で「信州ふるさと120山」刊

   1973年 「越中の百山」(県教職員山岳研究会, 県高等学校体育連盟山岳部 編  北日本新聞社刊 1981年改訂新版刊 現在廃版)

   1975年 「ぎふ百山」(岐阜県山岳連盟編 岐阜日日新聞社刊 現在廃版)

   →いずれも地元の新聞社に掲載され、新聞社から出版されていること、「百名山」でなく「百山」としていることが共通。

    新聞読者になじみの深い山を選んでいるためか、「信州百山」「越中の百山」には、のちの日本三百名山で入っていないものもある。

    「越中の百山」が132山、「ぎふ百山」が124山など、100という数に必ずしもこだわっていないのも類似。

    ちなみに「ぎふ百山」の場合、未踏の山が多かっため、発刊まで調査登山に10年近くかかっている。

 ・1978年日本山岳会「日本三百名山」選定以降1980年代

   1979年 「信州百名山」(清水栄一著「わが遍歴の信州百名山」桐原書店刊 1990年に3山差し替えた決定版刊

   1980年 「大分百山」(日本山岳会東九州支部創立20周年記念誌 支部30周年の1991年、40周年の2002年に改訂

   同  年 「宮崎百山」(同上:当時東九州支部20周年記念誌 1985年に宮崎支部が独立、2000年宮崎日日新聞社より同支部編集刊

   1989年 「越後百山」(日本山岳会越後支部 新潟日報社 2008年同社から佐藤れい子著の改訂版刊

   →清水栄一は、深田久弥の信奉者で、同書が初めて都道府県版に「百名山」のタイトルを付けた。

           当時「名山」という言葉のハードルは相当高かったはずで、日本百名山を29座も擁する長野県ゆえ成立しえたのでしょう。

    日本三百名山をすべて含み、きっちり100山で、「地域版百名山」の祖型といえる。

    

 ・1990年〜1993年(中高年登山ブーム発生後・日本百名山ブーム前) 

  ☆1990年 「東北百名山」(東北写真家集団編 山と渓谷社刊 2000年10山入れ替えた新版、2010年地図帳刊 現在廃版)

   1991年 「静岡の百山」(静岡県百山研究会 朋文出版社刊 現在廃版)

  ☆1992年 「九州百名山」(山と渓谷社刊 2002年新版(廃版)2011年「九州百名山地図帳」でそれぞれ山を差し替え

  ☆1993年 「北海道百名山」(山と渓谷社刊 2003年同社より8山差し替えた「新版 北海道百名山」刊 現在廃版)

   1993年 「ぐんま百名山」(群馬県:2007年上毛新聞社から横田昭二著「ぐんま百名山 まるごとガイド」刊

  ☆1993年 「関東百名山」(山と渓谷社刊 2019年大幅な差し替えをして刊

   →「東北百名山」は、東北写真家集団が1987年に先行する白黒の写真集を刊行、

    同集団に山と渓谷社が「百名山」のフォトガイドとしての刊行を勧めたもので、同社が展開する「地方版百名山」の祖型となった。

    1993年に「続ぎふ百山」(岐阜県山岳連盟編 岐阜新聞社刊)も出たが、これは「ぎふ百山」の改訂版ではなく別の130山を掲載した続編。

 ・「日本百名山」ブーム以降(1994年「日本百名山」テレビ放映以降)

   1995年 「ひろしま百山」(広島県山岳連盟 1998年中国新聞社で「ひろしま百山ガイドブック」刊 現在廃版)

        「山口県百名山」(中島篤巳著 葦書房刊 現在廃版)   

   1997年 「山梨百名山」(山梨県 山梨日日新聞社刊 2010年同社「山梨百名山 新版」刊) 

   1998年 ☆「関西百名山」(山と渓谷社大阪支局 2010年「関西百名山地図帳」刊 現在廃版) 

        「うつくしま百名山」(福島テレビの記念事業で選定委員長は田部井淳子 1999年奥田博著で同名本が同社より刊 現在廃版)

       「ふるさと兵庫50山」(兵庫県山岳連盟創立50周年記念 神戸新聞刊 2008年60周年に「ふるさと兵庫100山」に 2013年改訂版刊)

        「広島県百名山」(中島篤巳著 葦書房刊 現在廃版)

   1999年 「あおもり110山」(東奥日報社員村上義千代が同紙に連載後同社刊 現在廃版)

        「近江百山」(近江百山之会編 ナカニシヤ出版刊)

   2000年  ☆「甲信越百名山」(山と渓谷社 現在廃版)

        ☆「中国百名山」(山と渓谷社大阪支局刊 現在廃版)

        ☆「四国百名山」(同上) 現在廃版)

        ☆ 「東海の百山」(読売新聞中部本社 山好きの編集局長伊佐早幸男中心に新聞連載されたものを出版 現在廃版)

        ☆「北海道の百名山」(北海道新聞社選定 同社の子会社道新スポーツ刊。山と渓谷社版と違い難峰も含む 現在廃版)

        「岡山県百名山」(中島篤巳著 葦書房刊 現在廃版)

   2002年 「大阪50山」(大阪府山岳連盟 ナカニシヤ出版刊)

   2003年 「なら百遊山」(奈良県健康推進課 出版なし 県のHPは現在掲載終了)

   2004年 「栃木百名山」(下野新聞社の記念事業で栃木県山岳連盟編 2013年同社より「栃木百名山ガイドブック」改訂第2版刊

   2008年 「飛騨百山」(飛騨山岳会創立百周年に自費出版 ナカニシヤ出版の働き掛けで2010年「飛騨の山―研究と案内」として刊)

   

   2010年 「新潟百名山」(新潟県山岳協会 新潟日報社刊 2017年新版刊

   2014年 「富山の百山」(富山県山岳連盟編 北日本新聞社刊「越中の百山」には入らなかった剱岳等を含む 2017年改訂版刊)      

   2017年 「やまがた百名山」(山形県環境エネルギー部みどり自然課編 みちのく書房刊)

   →こうやって並べると、山と渓谷社が中部を除く地方版日本百名山を網羅し、「百名山ブーム」をビジネスとして牽引していったのがよく分かる。

    ただし、同社は1996年に「分県登山ガイド」を発行以来改訂を重ね累計200万部と、こちらを主力にしているようで、

    「地方版百名山」は、九州と関東以外廃版状態。

    「百名山ブーム」の過熱やその弊害、ブームの去った後を見据えた堅実な戦略だなとおもう。

    また、葦書房(福岡県)が中島篤巳著で、山口・広島・岡山と立て続けに県別百名山を出しているのも目を引く。

    中島氏は、地元で有名な登山家らしいけど、百名山という言葉が乱発された象徴という観は否めないでしょう。

 

〇まとめ

 こうして、時系列に追うと、「日本百名山」が、山岳・放送・新聞・出版・登山用品業界などに長く広くインパクトを与えたか、分かっていただけると思う。

  また、「地域版百名山」の刊行は、従来「日本アルプス」や谷川連峰など、アルピニズムの対象となる特定の山にばかり向かっていた登山者の目を、地元の山にも向けさせ、登山道の整備が進むなどの効果ももたらした。

 この過熱気味だったブームも、中高年登山をけん引した「団塊の世代」が後期高齢者となる「2025年}を控え、今後急速に退潮する可能性がある。

 「百名山ブーム」は、ポイントラリーみたいな登山のあり方や、登山道のオーバーユースの問題など、批判も多い。

 しかし、いわゆる「近代登山」がいったん断ち切った、信仰登山や、谷文晁の「日本名山図会」などに代表される江戸期の文人たちの登山など、世界でも類を見ないほど長く深い日本人と山との関わりの歴史の伝統を、結果的に今に繋げた功績は大きい。

 ブランドにこだわらず、群れず、ITを駆使し個人で情報を集め、ゆとりをもって自然に親しむ若い世代に、その良い部分のエッセンスをどのようにつないでいくかが、先輩登山者としての課題でもありましょう。

 それにつけても、山馬鹿岐阜県民として言いたいのは、ただひとつ。

 「地域版百名山」で、1973年に地元新聞社から刊行以来、44年間も124山という中途半端な数のまま、見直しもせず放置しているのは岐阜県だけだということ。

 岐阜県といっても、飛騨地方は別個に立派な「飛騨百山」を選定・出版しているので、問題の中心はぼっちの住む美濃地方。

 だからこそ、非才をかえりみず、ブログ「ぼっちの『岐阜百名山』勝手に選定委員会」をやっている次第。

 

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「飛騨の山岳」について事前勉強

今年の登山テーマ「飛騨の山岳を知ろう」に取り組むにあたり、まずは「飛騨の山岳」について事前勉強。

 

1. 飛騨地方について

  岐阜県飛騨地方は、7世紀の律令制のもとに置かれ、江戸時代まで続いた旧飛騨国に重なる。

  その面積は、4,178㎢。県総面積の約40%で、石川県と徳島県の間くらいの広さ。  

  これだけの面積がありながら、「平成の大合併」後の行政区は、高山市、飛騨市、下呂市、大野郡白川村の3市1村だけ。

  そのうち高山市は、全国の市町村中面積が最大で、東京都よりも大きい。ただし人口は、わずか約8万7千人。

  飛騨地方をすべて合わせても、14万7千人あまりで、県総人口の約7%にすぎない。

  どうしてこんなに人口が少ないのか―それは、とにかく山ばかりだから。

 

  岐阜県の森林率は81%と全国2位の高さ、さらに飛騨地方に限ると93%にもおよび、高山盆地・古川盆地と川沿いくらいしか、居住・耕作できる場所がない。

  しかも、中央高地式気候のため冷涼で、特に北西部は、冬は日本海からの季節風の影響で豪雪に覆われる。

  その反面、森林資源や神岡鉱山など鉱物資源には恵まれ、それもあって、江戸幕府は、飛騨国を天領とした。

  そのため代官所の置かれた高山は、行政・商業の中核として栄え、高山祭に代表されるように文化レベルも高かった。

  ただし、大原騒動で知られる代官(郡代)による搾取も相まって、飛騨の山あいに暮らす人々の生活は厳しいものだった。

  そのような風土が、飛騨人の、粘り強い気質を作りあげた。

 

  そんな飛騨の地も、最近は、産業としての観光の重要性が高まり、豊かな観光資源(※)に恵まれた地へと変貌。

  (※)世界遺産の白川郷の合掌造り、ユネスコ無形文化遺産の高山祭・古川祭、奥飛騨温泉郷・下呂温泉などの名湯、重要伝統的建造物群に指定され、ミシュラン三ツ星の高山の街、日本百名山の槍ヶ岳・穂高岳・笠ヶ岳・黒部五郎岳・焼岳・乗鞍岳・御嶽山・白山など、岐阜県を代表する、ひいては日本を代表する山岳観光地が集中。

  さらに、交通の面でも、山また山の僻遠の地とされたのは、今は昔。

  JRの高山本線のほか、東海北陸自動車道によって東海・関西地方からは日帰りも可能となり、中央縦貫自動車道の安房トンネルの開通によって関東方面からのアプローチも格段に良くなっている。

  名古屋に近すぎて存在感の薄い美濃地方より、飛騨地方の魅力がぐっとアガッている。 

 

  

2.飛騨の山岳

  山国飛騨は、3つの山域に分かれ、それぞれ違う個性を持っている。(↓地図クリックで拡大)

 (1)飛騨山脈

  飛騨地方東部、富山・長野県境側にあり、主要な部分は、中部山岳国立公園に指定されている。

  「北アルプス」とも呼ばれ、全国の岳人の憧れの山域。

  岐阜県部分はその最南部にあたり、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳など3千m級の山が県境部に、岐阜県内に笠ヶ岳が位置する。

  日本海からはやや離れ、中央高地式気候地となるため、年間通じて降水量は少なめ。

  安房トンネル開通により、登山基地として新穂高温泉の重要性が高まっている。      

  ただし、全国から登山者が押し寄せ、あか抜け過ぎているので、「自分たちの山じゃない」と感じる飛騨岳人もあるよう。

  なお、南に続く御嶽山は、独立した火山として、飛騨山脈には含められない。

  

 (2)両白山地(加越山地)

  飛騨地方西部の石川県・福井県境側にあり、その中心となる白山連峰一帯は、白山国立公園に指定されている。

  なお、一ノ峰の南からは、美濃地方となる。

  「白山」という名が象徴するように、日本海からの季節風の影響を受け、山々は日本有数の豪雪に覆われる。

  最高峰である標高2,702mの白山は、日本最西の森林限界を超える山であり、高山植物の宝庫として知られ、また豪雪のおかげで日本有数のブナの原生林が広がる。

  京の都にもっとも近い高峰として、古くから霊山として信仰を集め、山域全体に信仰の名残りがみられる。

  なお、白山連峰の主要部は飛騨地域だけれど、泰澄が開いたとされる古い信仰の道「美濃禅定道」が、郡上市の長滝白山神社(神仏分離以前は白山中宮長滝寺)から始まることもあり、美濃と飛騨の要素が混じり合った山域ともいえる。 

  

 (3)飛騨高地

  東の飛騨山脈、西の両白山地にはさまれた部分に位置し、標高1,000~1,500mの山々が連なる。

  北は富山県、南は美濃地方に及ぶ。

  森林限界以下の地味な山が覆く、生産の場として、植林の山も多い。

  そのうち、富山県境の北部は、加越山地と同様、日本海からの季節風の影響を受け、豪雪に覆われる。

  豪雪に長い間閉ざされ、さらに山麓の人口も少ないことから、登山道がない山が多い。

  しかし、地元飛騨岳人はこのような山こそ愛おしんで、スキーやわかんで登っている。

  一方、下呂市周辺の南部の山々は、内陸性気候で降水量が少なく、初冬まで登山道が使える山もある。

  また、阿寺山地の舞台峠以北は下呂市になるが、その登山上の特徴は、飛騨高地南部と似通っている。   

3.飛騨の川

 飛騨高地の位山や鷲ヶ岳を結ぶ稜線が分水嶺となり、長良川・木曽川水系が太平洋側に、神通川・庄川水系が日本海側に流れる。

 神通川の支流高原川が、飛騨山脈と飛騨高地の境となり、庄川が飛騨高地と加越山地の境界となる。 

 飛騨地方の風土を語るうえで最も重要な水系は、神通川水系。

 そのうち、本流となる川上岳を源流とする宮川は、高山市や飛騨市の市街地をおだやかに流れる。

 一方、乗鞍岳を源流とする高原川は日本有数の急流で、途中で槍ヶ岳・穂高岳・笠ヶ岳などの水を集める蒲田川も合流する。

 しばしば水害を引き起こすが、水にえぐられた渓谷には、沢登りに好適なスポットも多い。

 この対照的な宮川と高原川は、富山県境でひとつになり、神通川と名を変え、富山湾に流れ込む。

 

〇小括

 飛騨地方は山また山で、街や集落は少なく、展望もきかない場所が多いので、全体像がつかみにくい。

 改めて今回、全体を整理してみると、水系をつかむことが、土地勘をやしなう一番の手がかりみたい。

 ➀太平洋側に流れるか・日本海側か 

 ⊃青明鄂綏呂・庄川水系か

 -1 神通川水系では宮川沿いか・高原川沿いか

 -2 庄川水系では右岸か、左岸か

 そんな順番で絞り込むと、おおよそ土地の表情が浮かんできそう。

 

 あとは、実査あるのみ (ロ。ロ)/ガンバリマス 

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
スキーの歴史を知る―野沢温泉 日本スキー博物館

ひと冬1回くらいはスキーをしたいし、温泉玉子も食べたいなと、野沢温泉スキー場へ。

足元の見えないチャレンジコース39°のカベも、行っちまいました。。

20190113野沢温泉スキー場.jpg

冬山登山に、スキーは付きもの。

今回は前から気になっていた「日本スキー博物館」を訪問、スキーの歴史について勉強してみよう (ロ。ロ)/オウ

 

博物館は、野沢温泉スキー場の名物コース「シュナイダーコース」の直下、伊勢宮ゲレンデにあり、スキーを履いたまま行ける。

オーストリア国旗とフランス国旗の掲げられた外観はこじんまりした印象。

20190113スキー博物館.jpg

実は入口部分は2階で、下にもう1階あるので、内部は想像以上に広く、ぎっしり展示が詰まっている。

それでは順路に沿って、日本のスキー史をたどっていくことにしましょう。

 

日本のスキー発祥というと、明治44年(1911年)新潟県高田でレルヒ少佐が教えたのが初めてだと思っていた。

しかし、雪上歩行にスキー状の道具を使っていた例としては、文化5年(1808年)、樺太探索をした間宮林蔵の報告書『北蝦夷図説』に、スキーに似た雪具をつけた人の図が描かれているのが、日本初のスキーに関する記述と推定されるそう。

さらに、明治23年には北海道の開拓に関わった外国人がスキーを持ち込んでいたりしたという。

このへんは、日本人にアルピニズム精神を伝えたウエストンに先行し、「日本アルプス」の名付け親でもある明治初期のお抱え外人ガウランドが自分たちの楽しみとして山に登っていたことと共通する事情があるんでしょう。

さらに、青森第5連隊が八甲田山中で大量遭難した(明治35年)の見舞として、明治42年ノルウェー国王よりスキー2台が贈られたりもしている。

 

レルヒ少佐が、高田の第13師団歩兵58連隊団長の長岡外史に招へいされ、明治44年にスキー技術を伝授したのも、その背景に八甲田の大量遭難があった。

レルヒは、翌明治45年再来日し、北海道の旭川第7師団にもスキーを教えている。この時には中佐になっていたので、北海道では彼のことを、レルヒ中佐と呼び習わしているとか。

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レルヒを招へいした、長岡外史は、1904年の日露戦争で参謀次長として活躍し、退役後は衆議院議員もなっている。

なかなかの人物だったようで、スキーを軍事技術として導入するだけでなく、生活にも役立つだろうと民間にもスキー技術を伝え、女性のスキー進出も勧めたそう。

それにしても、立派なヒゲですな。。

20190113博物館2.jpg

ただし、レルヒ少佐の伝えたのは、一本杖スキーで、雪上歩行が中心。すぐに、北海道で広まった2本杖が主流になる。

ちなみに、北海道では、今もスキー登山が盛んであります。

 

そして、スキーの技術と指導法を確立し、スポーツとして世界に広めた立役者が、オーストリア人のハンネス・シュナイダー。

1931年に「スキーの驚異」という自ら出演する映画を製作、これが世界にスキーブームを巻き起こす。

1930年には、秩父宮の招待で来日し、野沢温泉などでスキーの指導を行った。

野沢温泉スキー場が名門スキー場として今の隆盛を誇るのも、シュナイダーの功績が大きい。

博物館では、ビデオで「スキーの驚異」を流していて、その圧倒的なスキー技術には、今でもひき込まれてしまう。

20190113博物館3.jpg

そのほか、中国のスキー、モンゴルのスキーなどの展示もあった。

雪中歩行の道具として、同じような形をとっているのが面白い。

20190113博物館4.jpg

1階には、日本の雪にまつわる道具の展示もあった。

スキーのような形の板は、荷物を運ぶソリだそう。

1階には、ほかに競技スキーの歴史の展示もたくさんあったけど、山馬鹿は興味がないのでパス。

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スキー博物館の外のゲレンデには人だかりが。

その真ん中では、二組に分かれた地元の男衆が、樹を競争で引っ張っている。

15日にある、道祖神祭りに使うブナの木を山から伐り出して運んているのだとか。

20190113ブナ.jpg

スキーを片付けて温泉街に戻ると、旅館の前で祭りの男衆が、大声で「サアてば 友達良いもんだ」という道祖神の歌を歌っている。

よく見ると、町中に入ったブナは木のソリの上。

博物館で見たのとほぼ同じ姿で、今も使われているんだな。。

20190113ブナ2.jpg

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 09:32 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
お山の勉強室:「『奥美濃』の山」とは、どこの山なのか

岐阜の岳人や、京都の岳人は「奥美濃の山」という言葉を、独特の思い入れを持って使う。

しかし、奥秩父・奥多摩・奥武蔵といった地域と違い、「奥美濃」とはどこなのか、実は非常にあいまい。

ぼっちも、分かったように使いがちだけど、ここで一回おさらいしておいた方がいいのかも。

ということで、今回のお山の勉強室は、「『奥美濃』の山」とはどこの山なのかを、一緒に勉強していきましょう (ロ。ロ)/

 

1.「奥美濃」とはどこか?

 「奥飛騨」については、「岐阜県北部、神通川の支流である高原川流域をいう。高山市北東部(デジタル大辞泉)」と、辞書で明確に特定されている。

 しかし、「奥美濃」は、辞書に見当たらず、わずかに1980年刊行の角川書店「岐阜県地名大辞典」に「郡上郡(※注1) 古代〜現在の郡名・かつては奥美濃と通称した所。」という記述があるくらい。

 ※注1:郡上郡の町村が2004年に合併し、今は郡上市となっている。

 

 この「奥美濃」という言葉が、近年観光や産業振興のための地域ブランドとして広く使われるようになっている。

 しかし、その使われ方は「奥美濃=旧郡上郡(現郡上市)」とは限らず、まちまちとなっている(※注2)

 ※注2:次のとおり、旧郡上郡に限らず、さまざまな地域について「奥美濃」と呼ぶ場合がある。

  奥美濃のスキー場:郡上市を中心とするが、西は揖斐郡あたりまでを含む場合がある。

  奥美濃カレー:郡上市白鳥町(旧郡上郡白鳥村)を中心に販売されているB級グルメ。

  奥美濃古地鶏:郡上郡の地鶏と外国種を掛け合わせ、岐阜県養鶏試験場が開発したもので、岐阜県各地で飼育。

  奥美濃水力発電所:本巣市根尾上大須に所在する揚水発電所。

 

2.山岳書にみる「奥美濃の山」

 次に山岳書では「奥美濃」をどのエリアとしているか、代表的な2書で見てみましょう。

(1)「樹林の山旅(奥美濃紀行)」(1940年(昭和15年)刊 森本次男著)

 「奥美濃の山」を最初に紹介した本で、アルピニズムに背を向け日本の樹林の山に目を向けた最も早い時期の書とも言える。

 京都の岳人森本次男氏は、同書の冒頭で「奥美濃は関西の隠れた山岳地帯である」と定義し、巻末に「奥美濃概念図」という地図を載せている。

  (↓地図クリックで拡大)

 

 概念図には、伊吹山以北、大日岳以南の、岐阜・滋賀・福井県境の山地が含まれ、平地に接する里山は除かれている。

 また、旧郡上郡のうち鷲ヶ岳など県境部ではない飛騨高地の山は除外されている。

 それにしても、美濃国の不破の関から東が関東というのは常識だから、京都岳人森本氏は、よくも「関西の隠れた山岳地帯」なんて言い切ったもの。

 当時は、登山界で未知の山域だったから、言ったが勝ちだったのかな (?_?)

 

(2)「奥美濃―ヤブ山登山のすすめ」(初版1987年、三訂版2007年、高木泰夫著)

 戦後の「奥美濃の山」を紹介した本としては同書が代表的で、三訂版まで出されている。

 著者の故高木氏は、ぼっち地元の山の会の会長を長らくつとめられ、「ぎふ百山」の「奥美濃の山」の多くを執筆、また日本山岳会員として、ぼっちのバイブルあばうと日本4000山を掲載した「新日本山岳誌」の編集にあたられた大先輩であります。

 

 同書では、「北は白山から南西を俯瞰するとき、南は伊吹山から北東を展望するとき、見はるかす彼方まで重畳として(ママ)緑の山並みが続いている。それが奥美濃である。これを水系でたどれば揖斐・長良両川の水源部をいい、山系で追えば近江と美濃を境する伊吹山地、越前と美濃を分ける越美山地およびそれから派生するいくつかの小支脈を含めて奥美濃という。」と定義される。

 この定義だと、「樹林の山旅」における「奥美濃の山」の範囲とほとんど同じに受け取れる。

 高木泰夫氏は、京都岳人にして、岐阜県岳人にも多大な影響を与えた日本山岳会岐阜支部長(その後日本山岳会会長)で岐阜大学学長でもあった今西錦司氏との同行が多いので、現在はこれが多数説かもしれない。

 しかし、同書裏表紙の「『奥美濃』概念図」および本文では、養老山地、鈴鹿山脈の岐阜県部分、越美山地の里山を入れており、一部「定義」と整合性が取れておらず、さらに「樹林の山旅」と異なり、鷲ヶ岳など飛騨高地の旧郡上郡の県境以外の山も含めているなど「『奥美濃』の山」はどこの山なのか、細部では疑問が残る。

(↓地図クリックで拡大)

3.まとめ

 以上のように、「奥美濃」という言葉は流動的で、かつては旧郡上郡をさしていたものの、近年は郡上市を中心に観光や産業振興に、地域を厳密に特定することなく使われる傾向がある。

 それに対し、「『奥美濃』の山」という場合は、旧美濃国の国境部(※注3)奥山をいう場合と、国境部以外の山も含める場合とがあるが、いずれにしても、旧郡上郡の山と限定したものではない。

 ※注3:厳密にいうと、野伏岳など郡上市白鳥町石徹白地区の県境の山は、1958年に同地域が福井県から岐阜県白鳥村に編入されてから岐阜県境となったのであり、旧美濃国の国境の山ではないという、さらにややこしい事情がある。

 つまり、住民や観光客が使う「奥美濃」と、登山者が使う『奥美濃』は、違うものだというのが結論。

 「『岐阜百名山』勝手に選定委員」ぼっちとしては、「岐阜県の誇るすぐれた山を、広く一般にも伝えていく」ことも選定の目的としたいけれど、「広く一般に」という場合、地元の方々や観光客などが主な対象となる。

 その際「『奥美濃』の山」という、住民や観光客と登山者とで、意味合いが乖離した言葉を使うと、混乱を生じてしまう可能性がある。

 そのため、「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の取り組みにおいては、なるべくこの言葉は安易に使わず、例えば、「長良川源流部の山」とか「越美山地県境部の山」といった、概念にブレの少ない言葉に置き換えていくようよう努めたいと、改めて思う次第。

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
名前のない山に登る

ぼっち地元の山岳会では、5ヶ年計画で「岐阜県美濃地方の一、二、三等三角点全数を調査する」という企画をやっている。

半年3地点のノルマで踏査報告書を作成する義務があり、今回は、円原・一ツ石・神崎という三等三角点3点が割り当て。

 

2万5千分の1地形図を開いてみると、この3点はいずれも山県市にあって、円原は標高871.3m、一ツ石は684.2m、神崎は581.4mのピーク。ただし、3ヵ所とも山名の記載はなく、もちろん登山道なんかない。

先にご紹介したとおり、2万5千分の1地形図における岐阜県の「名前のある山」の数は454山。

一、二、三等三角点の数は合わせて1197点、つまり平地にある三角点を除いても、岐阜県には今回の3点のような「名前のない山」が相当ある。

ということで、今回は「名前のない山に登ってみるってどんなだろう」という視点で行ってきました (ロ〜ロ)/

 

まずは、基準点「円原」。7時20分出発。

地図で見ると山上部が極端にだらだらした地形で、どうルート取りしていいかむつかしい。

林道から、いったん小さな谷に降り、尾根らしい地形がたどれる一定の標高まで登り返し、だらだらした山上部は等高線に沿ってたどり、三角点直下から直登するルートを想定。取り付き点からの標高差は、約250m。

20181208三角点1.jpg

一帯はスギの植林帯で、地図から想像した通り、どこが高みなのかも分かりにくい地形。

磁石やGPSがないと、ヘンゼルとグレーテルのように迷ってしまいそう。

20181208登山道2.jpg

尾根状の所から取り付こうとすると、なんと林業用の踏み跡があるではないか。

一定の標高まで登ると、等高線に沿う形で西の方向へと巻いていく。

あらかじめ想定していたルートは、林業従事者も歩かれるものだったんだなと、ちょっとうれしくなる。

作業小屋も登場。

20181208登山道3.jpg

あまり明確ではない尾根をさぐりながら、山上部に出る。

微かに小雪が舞いはじめる。

20181208登山道4.jpg

8時40分、三角点円原に到達。見晴らしはなく、登頂したなあという実感は湧きにくい。

三等三角点の標石が、脇に生えたスギと相撲を取っているみたい。

20181208円原三角点.jpg

事前に想定していたルート(茶色)と、実際にたどったルート(赤色)は、ほぼ同じ。

名前のない山その1(基準点名円原)に登った感想は、「スギの畑を歩いた気分」。

20181208円原.PNG

名前のない山その2は、基準点名「一ツ石」。

円原の林道から見ると、舟伏山の手前の樹林に包まれたピークのひとつがそれらしい。

標高差が450mほどあって、円原川側から登ろうとすると、取付き部分が急斜面のため、沢から入るもくろみ。

送電線の記号があるので、もし巡視路に出会えればそれを利用と想定。

10時25分、渡渉を避けるため、今島集落外れの橋のたもとから川原に降りる。

20181208登山道5.jpg

荒れた沢に入ると、ここにも作業用の踏み跡があった。

地図で見ると上流ほど急になるので、どこから尾根に取り付くかが問題。。

20181208登山道6.jpg

予想よりも踏み跡は沢に沿って奥まで続き、最後に急斜面を尾根に向けて登っていく。

その踏み跡もだんだん薄くなって消えてしまう。踏み跡は山頂を目指すものじゃないから仕方がない。

ようやく尾根に上がったものの岩の壁が出てきたので、横に巻いて登り続ける。

地図では読めない岩に阻まれ、想定より南に出そう。

20181208登山道7.jpg

稜線が近づくほどに急傾斜となり、枝が絡まりあって進むのも楽じゃない。

また小雪も舞いだした。

20181208登山道8.jpg

三角点よりやや南の山上部に出ると、人か獣かの踏み跡があって歩きやすくなる。

視界も開け、東に見える奥の山が北山(925m)、手前が名無しの山(基準点名円原)らしい。

それなりに、独立した山なので、名前を付けてあげてもいいんじゃないかな。

ふもとの集落が円原だから、円原山でいいかも。(←想像は自由)

12時30分、ようやく一ツ石三角点に到達。

三角測量には良さそうなこじんまりしたピークだけど、稜線の先に、もっと高いピークが続いている。

名前のない山その2(基準点名一ツ石)に登った感想は、「名前がない山も舐めてはだめ」。

20181208一ツ石三角点.jpg

事前想定ルート(茶色)に比べ、踏み跡が沢の奥まで入っていたので、実際のルートはだいぶん南にそれたものとなった。

20181208一ツ石.PNG

名前のない山その3は、基準点名「神崎」。標高差は約400m。

神崎の集落の、白髭神社の背後からはじまる尾根に取り付く。

すでに時刻は14時30分、みぞれ模様となり、日暮れまでに戻れるか少し心配になってくる。

ただし、地図では素直な尾根だし、里にも近いので、うまくいけば林業用の踏み跡があるのではないだろうか。

20181208登山道9.jpg

想定通りスギ林の中の明確な尾根を登っていく。

今秋の台風であちこちの植林地が被害を受けていたので心配していたけれど、尾根上は大丈夫だった。

途中で、大きな炭焼き窯の跡にも出会う。

20181208登山道10.jpg

山上部は、雑木林となって、岩も出てくるけど、一ツ石のように壁になって遮られることはない。

足もとの灌木で、膝から下がぐっしょり濡れてしまった。

20181208登山道11.jpg

15時45分、三角点「神崎」に到着。

周りが刈られ、三角点は半分以上土に潜っていた。

さあて、日暮れまでに急いで戻らねば。

20181208神崎三角点.jpg

ここは、事前想定通りのルートを往復したように見える。

しかし、山頂からの降りだしで灌木の中に道を失い、気がつけば三角点の前に戻っていた。

まだまだ修行不足を実感した次第。

20181208神崎.PNG

16時55分、日没直前に神崎の集落に無事帰還。

1日三山、ルートファインディングしながらの累積標高は1,100mほど、なかなかの山修行だった。

 

今回の「名前のない山」を巡った感想は、「たぶん、林業従事者は、そこを植林されたスギやヒノキの区画としてみていて、山としてはとらえてはいないんだろうな」ということ。

それは、家畜に名前がないのと同じようなことなのかもしれない。

やはり、名前を持つにはそれなりの個性や畏敬すべき何かが必要なのかもしれない。

それでも、先に登った大白木山のように、地図に名前がない佳き山が岐阜県にはまだまだあって、名前を付けられるのを待っているかも、なんて考えてしまうのが、山馬鹿の山馬鹿たるゆえんかも。

20181208神崎の集落.jpg

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 06:26 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
登山時の蜂(アナフィラキシーショック)対策

先月行った剱岳北方稜線縦走では、仙人池ヒュッテ付近で蜂に刺され、ヘリコプターで搬送された方があった。

晩夏から秋にかけては蜂の活動時期、今回は、「登山における蜂対策」について、一緒に勉強してみましょう (ロ。ロ)/

 

1. 蜂刺されによる「アナフィラキシーショック」とは

蜂に刺されると、腫れてかゆみが出るのは一般的だけれど、「アナフィラキシーショック」という激しい急性のアレルギー反応が出ることがある。

「アナフィラキシー」とは、アレルギーの原因物質(アレルゲンまたは抗原)に触れたり、食べたり飲んだり、刺されたりすると、数分から数時間以内に複数の臓器や全身にあらわれる、激しい急性のアレルギー反応のこと。

血圧の低下や、意識障害などを引き起こし、ショック状態(これが「アナフィラキシーショック」)に至ると、場合によっては生命が脅かされることもある。

蕎麦などの食物や、医薬品によって引き起こされるもあるほか、蜂によるものは、死に至る事例も多い。

志望者数は、熊(年平均1人程度)や蛇(同10人程度)によるものより多い。

 

表1:日本におけるアナフィラキシーによる死亡者数

西暦(年) 2009 2010 2011 2012 2013 2014
年間死亡者数(人) 51 51 71 55 77 52
蜂関係 13 20 16 22 24 14
食 物 4 4 5 2 2 0
医薬品 26 21 32 22 37 25
血 清 1 0 0 0 1 1
詳細不明 7 6 18 9 13 12

 厚生労働省:人口動態統計より集計

 

2.蜂の被害に遭いやすい条件

(1)蜂の種類

  蜂は、巣や餌場を守るために外敵に向かっていく習性があり、人を刺すのは、スズメバチ、アシナガバチ、ミツバチの3種類。

  山林での被害はスズメバチとアシナガバチによることが多く、特に大型で攻撃性が強いスズメバチは要注意。

  日本には、スズメバチ属7種、クロスズメバチ属5種、ホナガスズメバチ属4種の、計3属16種が生息している。

(2)被害に遭いやすい時期

  活動の活発になる夏から秋に被害が多く、8月をピークとして、7月〜10月に集中する。

(3)被害に遭いやすい者 

  蜂毒アレルギーの患者の約50%は、蜂刺されのリスクが高い林野事業関係者、電気設備業者、養蜂業・農業従事者。

  そのほか、スポーツやレジャーなどで山間部に出かける場合も、蜂毒によるアナフィラキシーのリスクは高くなる。

  職業との関係もあるだろうけど、被害者は女性より男性、年齢は40歳以上が多いという。

 

3.蜂によるアナフィラキシーショックの特徴

(1)発症までが短い

 蜂毒に特有なのは反応時間が短い点で、蜂に刺されてからその多くは約15分以内に症状が出てくる。

 症状が早くあらわれるほど重症になることが多く、場合によってはアナフィラキシーショックを起こす。

 さらに、アナフィラキシーの症状が出てから心停止までの時間は15分という報告があり、速やかな治療が必要になる。

(2)症 状

 蜂に刺された場合、蜂毒にアレルギーがなければ、刺された箇所に痛みやかゆみ、腫れなどの局所症状が起き、数日程度で消えていく。

 しかし、約10%~20%の人には蜂毒へのアレルギーがあって、全身のじんましんなどの皮膚症状・嘔吐・浮腫・呼吸困難などが起こるアナフィラキシーを引き起こすといわれている。

 さらに、そのうち数%は、意識障害や急な血圧低下のアナフィラキシーショックを起こすとされ、命に危険がおよぶ確率が高くなる。

(3)1回目でも発症することがある

 アレルギー症状の多くは、体内にアレルギー物質が入り抗体ができた後、2回目以降に物質が入ったとき、もともと身体の中に存在する主にヒスタミンという物質の作用によって、全身症状が引き起こされ、蜂毒も多くの場合はそのようなパターン。

 しかし、蜂毒にもこのヒスタミンが少量含まれていることから、多量の蜂毒が同時に体内に入った場合、初めての蜂刺されでもアレルギー様の症状を起こすこともある。

 蜂刺されで死に至るのは、複数回刺された場合よりも、初めて刺されたケースの方が多いとの報告もある。

 

4.事前対策

〇事前対策が重要

 山の中で蜂刺されにあった場合は、救急車の到着までに時間がかかることが多く、アナフィラキシーショックにより命を落とすリスクがさらに高まるため、事前の対策が重要。

(1)基本は、「近付かない」「触らない」

 蜂が相手を襲うのは、巣が攻撃されて危険を感じたとき。また一部は好戦的な性格であるため、攻撃目的で刺してくることもある。

 巣や縄張りから10m以内に近づくと警戒行動をとり接近者の周囲を飛び回る。 

 基本は、蜂に刺されないためには、「蜂に近づかない」、「巣に近づかない」、「蜂や巣に触れない」を守ること。

 →ただし、登山というのは、蜂の活動圏に入っていくことでもあるから、基本を守り切れないのが難点。

(2)攻撃されやすい服装などを避ける

 蜂は黒っぽい色に向かって攻撃したり、甘い匂いに誘われたりする習性がある。

 服、バッグ、カメラなど黒っぽいものを持たないようにし、香水や整髪料も避けたい。

 また、顔や首、腕、足など、露出した部分が真っ先にねらわれるので、なるべく肌を覆う服装を心がける。

(3)身の守り方

 蜂が向かってきた時に、手でふり払ったり大声をあげたりすると、かえって蜂を刺激する。

 攻撃を受けた瞬間は、目を閉じて、顔を下向き加減にし、身を低くしてじっとしている。

 興奮した蜂に刺激されて、他の蜂が集団で襲ってくる場合もある。走らないよう、速やかに、その場から離れる。

 →目を閉じるのは、黒い瞳を狙ってくる習性があるから。蜂は上下の運動が苦手なので身を低くする。

(4)対策の装備

 ➀防虫ネット

  山道具店やホームセンターに、コンパクトで携帯できるものが売っている。蚊やアブの対策にもなる。

 ▲櫂ぅ坤鵐螢燹璽弌

  毒を吸い出す道具で、アブなどにも有効なので、これも必携。

  特に、蜂の場合、急激に発症するのですぐ取り出せる場所に入れておきたい。

  

5.刺された場合の対処法

(1)まずはその場を離れる

 近くに巣がありスズメバチの毒液のにおいに誘引されて仲間の蜂も集まってくる危険性があるので、まずはその場所から離れる。
(2)応急処置

 ・医師から処方を受けるなどの方法で事前に自己注射薬のアドレナリン製剤(エピペンなど)を入手している場合は、これを用いることによって一時的にアナフィラキシーショックの症状を緩和することができる。

  ただし、これも補助的な役割を果たすだけに過ぎない。

 ・傷口を強く絞ったりポイズンリムーバーを用いる方法で毒液を体内から外に出す。

  この際、口で毒液を吸い出してはならない(口に傷があった場合、そこから毒が染み込む可能性がある)。

 ・傷口を流水ですすぐ(患部の冷却と毒液の排出のため)。

  →そのために、飲料用とかねて水を持っているとよい。特に目を刺された場合失明の恐れもあるのですぐに対処する。

 ・抗ヒスタミン剤やステロイド系抗炎症剤を含む軟膏があればこれを塗るのもよい。

(3)病院に行く

 次のような場合は、ただちに病院に搬送する。

 山の中で救急車を呼ぶのは難しい場合、119番で通報すると、ドクターヘリをお願いできる場合がある。

 ・発疹、頭痛、気分が悪い、吐き気などの症状が数十分以内に症状が出た場合。

 ・顔がほてり、目が痒く、涙が出て目がイガイガして呼吸が苦しくなる場合。

 ・目を刺された場合。

 ・以前ハチに刺され、発疹や吐き気等の症状が出た者が再度刺された場合。

 ・沢山刺された場合(首、頭、顔、心臓に近い所は特に注意)。

 ・刺された部分以外の皮膚に痒い赤み、ミミズ腫れが出る場合。

 

6.番外編(病院に行ってみた)

・大袈裟かもしれないけれど、ぼっちの場合、林業従事者並みに蜂との遭遇リスクが高いし、単独行で携帯もつながらない山中で刺されたら、手遅れになることも心配。

 応急処置に使う「エピペン」(アナフィラキシー補助治療剤)が入手できないか調べたところ、医師による処方が必要とのことだったので、次のとおり実際に病院に行ってみることにした。

 

(1)アナフィラキシーの相談ができる病院を探す

 アナフィラキシーの相談ができ、「エピペン」(マイランEPD合同会社の製品)を処方できる病院は次のHPで検索↓

 https://allergy72.jp/search/

(2)まずは、抗体があるか血液検査を受ける

 →食物アレルギーで検査を受ける人がほとんどなので、蜂の抗体検査ができるか、事前に確認しておく必要がある。

(3)検査の結果、アナフィラキシー症状の程度に応じて、内服薬や自己注射剤(エピペン)を処方してもらう

 →名古屋の耳鼻科で検査を受け、10日ほどで、その結果が出たところ、蜂毒のアレルギーはないという結果だった。

  アレルギーがあれば、保険でエピペンを処方してもらえるので、安心と残念が半々の気分。

  それでも、上記3の(3)のとおり初回刺された場合でもリスクはあるし、グループ登山の時救急用品に加えておけば安心なので、医師に相談したところ、自己負担でよければ、処方箋は書きますとのことだったので、お願いして、薬局でエピペンを購入。

  高かったけど、クマ避けスプレーも1万円以上するし、単独行の保険とおもえばまあやむを得ない。

  ただし、有効期限が約2年と短い。

  ぼっちの場合、その有効期限内に「『岐阜百名山』勝手に選定委員会」の選定登山を完了させるつもり。

  何とか安全登山に心掛けたいもんです (ロ。ロ)/

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 09:39 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
白山比弯声卷問記

霊山白山をめざす古い信仰の道、「越前禅定道」「加賀禅定道」「美濃禅定道」。

そのうち、越前と美濃の禅定道ゆかりの地は訪問したので、残る加賀禅定道の起点、白山比弯声劼帽圓辰突茲泙靴 (ロ。ロ)/

 

白山比弯声辧覆靴蕕笋泙劼瓩犬鵑犬磧砲蓮∪仞邯白山市(旧鶴来町)にある加賀の一ノ宮で、白山を源とする手取川の畔に鎮座している。

社伝によると、舟岡山(崇神天皇7年(紀元前91年))に「まつりのにわ」が祀られたことに始まり、手取川の十八講河原(応神天皇28年(297年))に下ろしたところ、たびたび洪水に見舞われたことから、元正天皇の霊亀2年(716年)に河原から少し上がった安久濤の森(現在の「古宮公園」のある森)に移転して社殿が造立されたという。

少なくとも、泰澄が白山に登頂し、開山したと伝わる養老元年(717年)より以前から神社は存在し、その信仰には金沢平野の重要な水源であり、かつては「石川」と呼ばれたほどの暴れ川でもあった手取川が深く関わっていたらしい。

室町時代に入り、越前国から加賀国に一向一揆勢力が入り、文明12年(1480年)白山本宮・白山寺は全焼・破壊され、末社であった三ノ宮に避難し、その位置のまま加賀藩主前田家の手で再建され現在に至る。

そのため、所在地の地名は、白山市三ノ宮町となっている。

それでは、いざ訪問。

20180909手取川.jpg

鬱蒼とした木立と苔に包まれた越前馬場平泉寺、神仏習合の姿を今にとどめる美濃馬場長滝神社および長瀧寺と比べてしまうせいか、白山比弯声劼蓮大駐車場を備えた、現代の大きな・しかし普通の神社という印象。

駐車場の脇に、一・二・三の鳥居を通る杉木立の表参道もあるけど、ほとんどの人は省略して駐車場に接する真新しい大鳥居をくぐり、手水舎から本殿に向かっていく。

手水舎横の宝物殿も気になるけど、まずは杉木立の先の、神門をくぐって本殿に向かおう。

20180909神社手前.jpg

幣拝殿は修理中で、白いテントに覆われていた。

この奥にある本殿は、明和7年(1770年)、加賀藩10代藩主前田重教の寄進によって造営されたもの。

社殿は西向きで、南南東に位置する白山を向いているわけではなく、参拝する時は西の手取川に背を向る形となり、自然との関わりを特に意識した配置にはなっていないみたい。

20180909神社.jpg

幣拝殿を行き過ぎた場所に、「白山奥宮遥拝所」があり、こちらは白山の方を向いている。

ただし木立があって、実際にここから白山が遙拝できそうもない。

20180909奥宮遙拝所.jpg

平安時代から室町時代前期まで白山宗徒のもとに隆盛した加賀禅定道は、一向一揆で宗徒がほぼ全滅し廃道化した。

昭和62年(1987年)一里野から四塚山までの区間が復活したものの、山中の一里野から白山比弯声劼泙任25kmほども離れているし、そもそも仏教思想に基づいた「禅定道」と神仏分離後の白山比弯声劼蓮関わりがない。

そんな来歴・そんな場所ということもあって、白山比弯声劼卜っても、白山と直接つながっているという感覚は持てないのかもしれない。

社殿を後にし、お札売り場で目に付いたのは、白い大漁旗を売っているところ。

海(航海・漁業)の関係が深いのも、加賀の白山信仰の特徴でしょう。

20180909大漁旗.jpg

帰路、宝物殿に立ち寄る。代表的な宝物は次のとおりで、現物は大半拝めない。

・国宝:剣 銘「吉光」(鎌倉時代:石川県立美術館に寄託中で写真のみ)

 →鎌倉時代からずっと神社に伝来したのかと思ったら、徳川家光の養女が加賀藩4代藩主に嫁いだ際の持参品なんだそう。

・重要文化財:「白山縁起(白山之記)」(室町時代)をはじめとする古文書類(模本を展示)

 →白山縁起は平安時代に成立した原本を室町時代に写したもので、三馬場成立などを記した白山信仰の最も古い記録。

  いずれにしても、古文書類はいずれも室町以降のもの。

・同:「絹本着色白山三社神像」(鎌倉時代:写真のみ)

 →御前峰・大汝山・別山を三神として表し、それぞれの頭上に本地仏の種子(仏を象徴する梵字)を描いたもの。

  神仏習合の歴史をしのばせる数少ない伝来品。

 

複製品中心の展示の中で、宝物館のハイライトと言っていいのが、二対の大ぶりな木造の狛犬で、いずれも重要文化財。

古様なこちらは、平安時代末のもので、藤原秀衡奉納の「獅子狛犬」と伝えられている。

秀衡は白山中居神社にも虚空蔵菩薩を奉納しているし、奥州藤原氏と白山との関わりの深さがさらに印象付けられた。

筋骨たくましく堂々としたこちらは、鎌倉時代の「狛犬」。

社殿もすべて焼失・移転し、古文書も鎌倉まで遡るようなものは残されていないのに、どうして古い狛犬だけが伝えられたのか不思議な感じがする。

しかし、考えてみれば、東北地方では獅子舞のことを権現舞と言って、獅子頭に熊野権現を勧請して舞い、悪魔払いをしてきた。

白山比弯声劼里△訥疝茲任癲◆屬曚Δ蕕ず廚蝓廚濃盪夘颪奉納され、同地は獅子頭製作が盛ん。

獅子・狛犬は、単なる神社の番犬みたいな存在ではなく、神の存在を具象的に示す重要な存在だったのだろう。

・かつて白山山上にあった仏像などは、明治初期の廃仏毀釈で白峰(旧石川郡白峰村)の林西寺に移されており、宝物殿には白山寺にあったであろう遺物は一切展示されていない。

 平安期に遡る異物としては、近年白山山上で発掘された銅鏡や、朽ちた仏像だけ。

 いずれにしても神社の宝物館なので、仏教色の強かった白山信仰を体系的に理解するような展示は期待しちゃ無理かも。

 

・ほかに展示としては、加賀藩主前田家の歴代藩主の文書が目立った。

 室町時代にほぼ壊滅状態だった白山本宮と白山寺を、初代藩主前田利家が三ノ宮の地に再興し、歴代藩主がその経営にあたってきたためで、かつて天台宗延暦寺とのかかわりの深かった白山寺は、珠姫(前田利常の正室で、徳川家康の内孫)の菩提寺高野山天徳院の関係で、真言宗に転じている。

・加賀藩の領民はというと、相変わらず一向宗(浄土真宗)を信仰しており、江戸後期に白山信仰が全国の民衆に広まったのは、主に美濃禅定道の拠点である石徹白の御師の布教活動によるものだったらしい。

 

・辛口のいい方をすれば、明治維新後は、廃仏毀釈の流れに乗って優勢だった仏教勢力を退け、幕府の裁定で越前馬場白山中宮平泉寺が握っていた山頂の管理権を手に入れ、越前国だった白山山頂は石川県に併合され戦後山頂が社有地となり、さらに石徹白の御師が中心に広めた全国2千余の白山神社の「総本宮」の位置を得た、白山比弯声劼痢崙箸蠑,繊廚辰討いΥ兇検

 「加賀の白山」というキャッチフレーズは、その勝利宣言じゃないかと、山馬鹿岐阜県民のぼっちは、ややひがみがちに思うのでありました。

 

・とはいうものの、石川県が白山を大事にし、自然保護活動や、歴史研究に大きな成果を上げ、われわれ登山者もその恩恵をこうむっているのも事実。

 「白山自然保護センター」のHPは、白山の情報満載で、ありがたく拝見しております。

 

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白山美濃禅定道ゆかりの地訪問

先週は、白山越前禅定道ゆかりの地を訪問したし、今週せっかく鷲ヶ岳山麓まで行くので、Yさんたちをお誘いして美濃禅定道ゆかりの地を訪問してきました (ロ。ロ)/

まずは、禅定道の起点、美濃馬場と言われた白山中宮長滝寺。

越前馬場の白山平泉寺と同様、ここも養老元年(717年)泰澄によって創建され、同6年に十一面観音、聖観音、阿弥陀如来を安置し、白山本地中宮長滝寺と改称したと伝えられる。

美濃禅定道の馬場としての成立について、加賀馬場白山比弯声劼謀舛錣詈唇存經成立の「白山記(しらやまのき)」には、「天長九年(832年)三方の馬場を開く…三ヶの馬場は、加賀の馬場、越前の馬場、美濃乃馬場なり」と記されている。

白山中宮長滝寺は、創建当初法相宗だったのを、この時天台宗に改めている。

江戸時代には、白山嶺上の管理権を巡り、越前、加賀とともに美濃馬場も論争に巻き込まれる。

その一方、地の利もあってか、布教活動を活発に行った結果、日本全国に2,700社ほどあるという白山神社の半数以上が白山中宮長滝寺系統の白山神社となった。

 

明治に入り、美濃にも神仏分離令という名の廃仏毀釈運動の嵐は及んだけれど、「長滝白山神社」と「白山長瀧寺」に分離することで、極端な破壊活動は免れた。

明治32年(1899年)の火災で、神社・寺もろとも建物は焼失し、現在の神社の建物は大正8年、寺の建物は昭和11年の再建によるもので、長瀧寺は規模も縮小されたけれど、正面に神社、左手に寺という配置は変わっていない。

真ん中の小堂にある鎌倉時代の石灯籠や、長瀧寺寄りにある、江戸時代の大きな宝篋印塔も往年のまま。

そのうち宝篋印塔は、豪潮式と呼ばれるもので、江戸時代の名僧豪潮が大講堂再建の法要の大導師を務めた際に建立されたもの。

肥後国生まれの豪潮は、英彦山など各地に同じ型の宝篋印塔を建立している。

20180616長滝神社と長瀧寺.jpg

火災を逃れた仏像・宝物のうち、境内にある「白山龍宝殿」には、鎌倉時代の釈迦三尊像、四天王像、中国南宋時代の韋駄天像などの仏像が、道を挟んで隣接する「白山文化博物館」には宝物が、収蔵されている。

博物館では、かつての白山中宮長滝寺のジオラマが興味深かった。

確かに、「大講堂」と言われた寺院部分の規模は現在よりはるかに大きく、現存する英彦山の大講堂(今は大幣殿とされる)くらいの規模があったよう。

20180616白山中宮長滝寺.jpg

博物館にある宝物のうち、至宝ともいえるのが、古瀬戸黄釉瓶子一対。正和元年(1312年)施入の銘がある重要文化財。

陶芸も趣味のひとつのぼっちには、器の形、釉の流れの美しさ、銘文の古拙さ、たまらないものであります。

背後に見える掛け軸は、江戸時代の泰澄画像。

20180616瓶子.jpg

鉄蛭巻手鉾、鉄製斧もたいへん古いもので重要文化財。

入山の用具で、儀礼的な場で使われたらしい。

20180616斧.jpg

美濃馬場白山中宮長滝寺から、白山中居神社のある石徹白へ向かう途中にある、阿弥陀ヶ滝にも立ち寄り。

長良川源流の一つ、前谷川にあり、養老6年泰澄が発見し、長滝と名付けたと伝えられる、美濃白山禅定道有数の霊場。

その後戦国時代の天文年間、白山中宮長滝時の道雅法師が滝近くの洞窟で修業を行なっていたところ、阿弥陀如来が出現したことから、阿弥陀ヶ滝と呼ばれるようになった。

葛飾北斎も「諸国滝廻り」に描いており、日本百名滝にも選ばれている。

20180616阿弥陀ヶ滝全景.jpg

すぐ下まで歩み寄ると、夏空に滝のしぶきがまぶしい。

阿弥陀如来の出現とは、ブロッケン現象に似たものではなかったのだろうか。。

20160616阿弥陀ヶ滝部分.jpg

滝を後に、桧峠を越え、石徹白の大師堂を訪問。

神仏分離にあたり、白山中居神社あった仏像・仏具が移され、祀られている。

特に、奥州藤原氏の藤原秀衡が奉納したと伝えられる、平安末期の金銅の虚空蔵菩薩座像は岐阜県の仏像でも至高とされる。

お守りされている、地元大師講の上村さんにお願いし、鍵を開けていただいた。

まずは、清々とした境内の左手のお堂へ。

ここには、山上にあった泰澄大師三十六歳の像と二従者の像、泰澄の母伊野姫像などが安置されていた。

泰澄大師像は鎌倉期のものながら明治に修理し彩色をしたため、重要文化財になれなかったと残念そうにおっしゃっていた。

像の手にある錫杖も相当に古いものらしい。

20180616大師堂.jpg

次に石段の上にある虚空蔵菩薩像が納められていた堂の奥にあるコンクリートの収蔵庫の鍵を開けていただく。

そこには、藤原秀衡公寄進の虚空蔵菩薩像が、宝冠や光背なども含め、平安の輝きのままでおられた。

(おそれ多くて撮影しなかったので、↓白山文化博物館の画像 をご覧ください。)

 

秀衡は、元暦元年(1184年)この像を白山中居神社に奉安するにあたり、家臣のうち「上村十二人衆」という小武士集団を像のお守りのためという名目で石徹白に送り込んだ。

兄頼朝に疎んじられた源義経が文治2年(1186年)秀衡のもとに落ちのびていく時、石徹白を経由したという説もあるらしい。

奥州藤原氏は、その後数年で滅びたけれど、上村十二人衆の子孫は白山中居神社の社人として、明治の神仏分離以降は在家で800年以上も虚空蔵菩薩像を守り続けておられるという。

 

お話によると、明治初年の神仏分離〜廃仏毀釈の動きの中で、石徹白では、神道を志向し廃仏を目指す社人派と、下野しても泰澄の神仏習合の信仰を守ろうとした帰農派がしばらく家族兄弟も巻き込んで激しく対立したのだそう(「神葬祭騒動」)。

結果して、大師堂に泰澄の信仰は引き継がれていくことになり、数年間で対立も収束したそう。

そのくらい真剣に石徹白あげて信仰を見つめ直したということなのでしょう。

結果して、白山中居神社に伝わった貴重な文化財の多くは、大師堂に引き継がれ、現在に至る。

20180616虚空蔵菩薩.jpg

虚空蔵菩薩の前のガラスケースには、いくつもの鰐口が収められており、そのうち最大のものは織田信長が戦勝を祈願して奉納したもので、「奉寄進御鰐口白山別山大行事権現御宝前元亀二辛未年(1571年)六月吉日」の銘がある。

(これは、撮影させてもらいました。)

20180616信長の鰐口.jpg

越前と美濃の白山禅定道ゆかりの地を訪ね、古くから篤い信仰を集めてきた霊峰白山は、信仰勢力や現世権力の移り変わり波をまともに被りつつ今に至ったんだなあと実感した。

加賀禅定道も、いずれ近いうちに訪れてみたいものです。

 

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白山越前禅定道ゆかりの地 探訪(2)―白峰

白山越前禅定道ゆかりの地、次に訪れたのは、石川県白山市白峰。

2005年に同市に合併される前は、石川郡白峰村で、白山・別山・三ノ峰まで同村のエリアだった。

越前禅定道なのに、石川県? という疑問も、ごもっとも。

そこには、次のような白山登山基地としての白峰の歴史があった。

 

白峰地域に人々が住み始めたのは古く、縄文時代と考えられ、大化の改新以来は越前国に属した。

養老元年(717年)、泰澄が白山を開山したその年、現在の白峰の中心となる牛首集落が開かれたとされ、白山から無事下山した泰澄に歓喜して、村人が舞い踊ったことに始まるという「かんこ踊り」が今も伝わっている。

牛首の名は、泰澄が白山開山にあたりその守護神として牛頭天王(神仏習合のカミで、薬師如来の垂迹・スサノオの本地とされる)を祀ったことに由来すると言われる。

そして、平安時代に越前禅定道が成立すると、牛首は白山登山の基地となる。

 

戦国時代には、加藤藤兵衛という土豪がこの地を支配し、慶長6年(1601年)、越前国守(結城秀康?)より正式に白山麓十六カ村を治めるよう命じられる。

しかし、平泉寺の歴史でも触れたように、白山山頂での利権を巡り、越前・加賀の紛争が頻発したことから、幕府は寛文8年(1668年)、加賀藩領の尾添・荒谷を加えて十八カ村を天領とした。

そして、牛首の山岸十郎右衛門家が、幕命で明治維新までの約200年間、代々大庄屋(取次元)としてこの地をあずかった。

 

明治に世が変わると、同5年(1872年)白山各山頂と主要な禅定道は、白山比弯声劼僚衢とされ、これにあわせ、天領から足羽県(福井県の前身の一つ)となっていた十八ヶ村は、石川県に併合された。

 

白峰といい、岐阜県に併合された美濃禅定道の石徹白といい、旧越前国は、明治以降白山信仰の拠点を失ったことになる。

そんな、福井県にとっては残念な歴史も念頭に、白峰を訪問してみるとしましょう。

 

福井県勝山市の平泉寺から山越しで石川県白山市に向かう国道157号線を車で約50分。

白山の登山口、別当出合のある市ノ瀬に向かう県道33号線の入口に白峰の集落がある。

 

白峰は、「スノーダンプ発達史」において、その原型「白峰スノッバー」を生み出したほどの豪雪地帯。

米はほとんど取れず、白山の登山基地としての機能とともに、林業、養蚕が主産業だった。

特に養蚕は、餌となる桑の木が雪につぶされ高く伸びられず収穫しやすかったこともあり盛んで、「牛首紬」という織物も名産だった。

その集落は、山村集落・養蚕集落を代表するものとして「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。

 

ますは、十八ヶ村の大庄屋だった山岸家を訪問。

白峰の建物の特徴は、豪雪と養蚕のために三階建てになっているところと、外観の黄土色の土壁と縦長の窓が連続するところ。

山岸家は大庄屋を務めていただけに、ことに立派な構えで、蔵が3つ、お白州まであったという。

右手の二階建てになった部分は、特に古く、仏間の格天井の立派さには圧倒される。

20180609大庄屋山岸家.jpg

集落の中央には、林西寺という石垣に囲われた浄土真宗の立派な寺がある。

「国指定重文 白山下山仏」という石標があり、拝観できるらしい。これは是非拝見しなくては。。

20180609林西寺.jpg

三階建ての立派な庫裏に声を掛けると、住職が出てこられ、下山仏をおさめた「白山本地堂」を案内してくださった。

白山下山仏は、廃仏毀釈により白山の各峰にあったお堂の仏像が破却の危機にあったのを、当時の住職が引き取ったもの。

撮影禁止のため、画像でご紹介できないのが残念だけど、白山の各峰の堂に安置されていた8体の仏像と泰澄座像が並んでいる。

その多くは、江戸後期のもので、幕府の裁定で平泉寺が白山の利権を獲得した後の制作になるけれど、小柄な銅造の十一面観音菩薩立像は平安後期に遡るもので、国指定の重要文化財。

 

住職が、懇切丁寧に白山信仰と寺にまつわり、このような話をしてくださった。

・白山はもともと仏の山であり、神仏分離ではなく、仏を下山させて神に置き換えたもの

・白峰は、もともと越前の国で、私の顔も、越前の顔である

・天台宗の寺が一向一揆が押し寄せて浄土真宗(一向宗)に改宗したように言われるのはおかしく、もともと天台宗も阿弥陀如来の信仰があり違和感はなかった

・白山と水との信仰上の関わりは喧伝されるほど重要ではない

越前側・白峰側・浄土真宗側からみると、そのような認識になるのでしょう。

 

岐阜県美濃地方在住のぼっちからすれば、

・美濃禅定道の「白山中長滝」という馬場の名が象徴するように、泰澄が草創したと伝えられる白山信仰が広く受け入れられた要素に、神と仏を融合したことがあるのでは?

・水害に悩み、「長滝(阿弥陀ヶ滝)」が重要な霊場となっている美濃側からすれば、白山信仰と水は切っても切れない関係では?

と思ってしまうけど、いずれにしても、白山信仰は、越前・加賀・美濃それぞれ異なる部分も多いんだと知ることができたのも、今回の探訪の収穫だった。

 

そういえば、林西寺の庫裡に、積雪時に使う大きな梯子が立てかけてあった。

クリの大木を二つに割って作るという梯子も、白峰の集落の特徴的景観なのだそう。

20180609庫裏.jpg

 

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