WALK あばうと 日本4,000山

「新日本山岳誌」掲載の約4,000山が修行の地。 めざせ山仙人!
12月の大坐小屋たより―根雪を前に

あちこちで雪便りが聞こえてくる季節。

飯縄山もすっかり白くなった。

根雪になる前に、大坐小屋管理人の仕事をすませなくては (ロ。ロ)/オウ
今回、一番大切な仕事は、ストーブの煙突掃除。

自分でやってみたけど、煙突が外せないし、開閉レバーも動かなくて、どうもおかしい。

そこで、2013年にお願いした煙突掃除屋さんにお願いすることに。

 

外された室内の煙突の中をのぞいても穴の向こうが見えない。どうしたことか。。

棒で突くと、木の葉や苔の塊がごっそり出てきた。

出しても出しても、まだ出てくる。結局ポリ袋軽く一杯分。

煙突掃除屋さんもこんなのは初めてと驚いておられた。

昨冬は何ともなく、自然に入り込むような量じゃないので、春〜秋の間に、小鳥が運び込んだものらしい。

一件落着。これで、何とか冬を迎えられる。

煙突掃除屋さんによると、今年の雪は早く、この火曜日から降るのが根雪になりそうとのこと。
次は、燃料の方。

一冬分の薪を小屋の中に運び込み、今年拾って乾かしておいた倒木をチェーンソーで切り、斧で薪割りして、も一つ先の冬の分として、軒下に積んでおく。

端材を鉈で割り、焚き付けも二袋分準備。

灯油も、大きなポリタンクで買い込んだ。

昨冬破裂した水道管も、寒冷地仕様のものに取り換えてあるし、これで安心して冬が迎えられる。
さあて、もう夕暮れ。

のんびりしたいところだけど、それは次回のお楽しみとして、奥地君、そろそろ帰るとしますか。

この週末で冬季休業に入る、大座法師池のそばの農産物直売所で買った、リンゴと、辛味のある「ねずみ大根」、鞍掛豆、小豆が今回のお土産。

 

 

 

 

 

 

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お山の勉強室(2)−ウエストンの虚像・実像

お山の勉強室、第2弾は、ウォルター・ウエストンについて。

彼のレリーフが上高地にあり、「近代登山の父」とか「日本アルプスの父」とか呼ばれていることは知っていたけれど、「日本アルプス」という呼称そのものに違和感のあるぼっちには、敬して遠ざける存在だった。

しかし、彼は岐阜県の山にも登っているから、「『岐阜百名山』勝手に選定委員」としては知らずには済ませられない。

それでは、一緒に勉強していくとしましょう (ロ。ロ)/オウ

 

〇ウエストンとは

まずは、前回に続き、「日本山岳会百年史」(日本山岳会、2007年)の引用から。

「日本山岳会の設立に直接的なきっかけをつくったのが、ウォルター・ウエストンである。

ウェストンは1888年(明治21年)に来日したイギリスの宣教師で、ヨーロッパ・アルプスの登山経験があり、滞在中に槍ヶ岳や赤石岳、白馬岳など日本の高山に登っている。1894年(明治27年)の帰国後、ロンドンで『日本アルプス 登山と探検(Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps)』(1896年)を発表し、1902年(明治35年)に再来日した。

翌年、岡野は偶然『日本アルプス 登山と探検』を目にし、小島(烏水)にそれを伝えるとともに横浜に住んでいたウェストンを訪ねた。その後、岡野は、小島を伴い、再び彼を訪ねている。このとき、ウェストンは2人に英国山岳会にならった団体を日本にもつくるよう勧め、様々なアドバイスをしている。」

 

このように、「近代登山の父」と呼ばれるのは、「我が国に近代的な登山意識をもたらし、日本山岳会結成のきっかけを作った」からとされ、「日本アルプスの父」と呼ばれるのは、「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」により世界に向けて「日本アルプス」を紹介したからとされている。

 

そして、1937年(昭和12年)上高地に日本山岳会によってウエストンのレリーフが建設され、1947年(昭和22年)からその前でウエストン祭が行われるようになって、ウエストンの名はより一層広まっていった。

今では、全国でウエストンのレリーフが青森県から宮崎県まで8か所、胸像が2か所、全身像が1か所、石碑が3か所に設置され、ウエストン祭が5か所、奥さんのミセスウエストン祭が1か所で行われ、さながら教祖様のようになっている。

 

それではこれから、ウエストンが「近代登山の父」「日本アルプスの父」と称されるのにふさわしいのか検証していきましょう。

(←画像クリックで拡大)

○「近代登山の父」「日本アルプスの父」に関する検証

<「近代登山」における位置付け>

現在では様々な文献が発掘され、明治前期の第1世代の英国紳士アルピニスト、ガウランド(ゴーランド)(※)、アトキンソン、サトウらの活躍が知られるようになり、ウエストンはそれに続く第2世代だったことが常識になっている。

特にガウランドは、1873年(明治6年)御岳、立山、1877年乗鞍岳、1878年槍ヶ岳、1880年爺ヶ岳、蓮華岳などに登り「日本人であれ、外国人であれ、ガウランドほど日本の山や谷を隅々まで探検した人はいない」と、「地震学の父」J・ミルンに評されている(菊池俊朗著「ウエストンが来る前から山はそこにあった―地元目線の山岳史」(信濃毎日新聞社 2014年))。ちなみにガウランドは、冶金技師として造幣局の招へいで来日し大きな成果を上げ、また古墳の研究で「考古学の父」と呼ばれている。当時は「父」だらけ。

ウエストンが登ったのは、御岳(1891年:明治24年)、乗鞍岳・槍ヶ岳(1892年)、恵那山・笠ヶ岳(1893年)、奥穂高岳(1913年)で、奥穂高岳は鵜殿正雄(1909年)より後。ウエストンの笠ヶ岳登頂については、補記参照。

ただし、第1世代は、自分たちでスポーツとしての登山を楽しんでいても、日本人にアルピニズムを伝えた形跡はない。

したがって、ウエストンが最初に日本人に登山をスポーツととらえる視点、西洋の登山の用具や技術を伝えたことは(行きがかり上にしても)事実だし、英国山岳会のような団体が日本にも必要と小島や岡野を励まし、日本山岳会の設立をサポートしたのも事実。

 

<「日本アルプス」との関わり>

「日本アルプス(Japanese Alps)」という言葉は、1881年に日本学者チェンバレンが編集した「日本についてのハンドブック(A Handbook for Travellers in Japan)」の信州の紹介部分で「信州と飛騨の境にある山脈 は『Japanese Alps』と呼ぶのにふさわしい」と記述されたのが最初で、この部分を担当したのが、山好きのガウランドであり、彼が「日本アルプス」の命名者だというのが定説になっている。ただし、ガウランドのいう「Japanese Alps」は、飛騨山脈部分を指し、固有名詞というよりは比喩的に使用したと考えるのが自然。

現在のように飛騨山脈・木曽山脈・赤石山脈を合わせた固有名詞として「日本アルプス」として紹介したのは、ウエストンの「日本アルプス 登山と探検(Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps)」が初めて。

その後、小島烏水はじめ日本山岳会が「日本アルプス」という呼称を広く喧伝し、小島は「北・中央・南アルプス」という呼称も使いだし、のちにウエストンもこの用語を使っている。

 

<ウエストンは何しに日本へ?>

ウエストンは、1888〜1895年、1902〜1905年、1911〜1915年の3度日本に来ており、実に多くの山に登っている。

ぼっちには、到底まとめきれないので、↓こちらの労作HPをご覧くだサイ。

「ウエストンの足跡を訪ねて―滞日中の主な山行(年代順リスト)」

 

ここでポイントとなるのは、初来日の当初2年間(1888〜1889年)は、登山をしていないこと。

彼は、裕福な中産階級の出身で、アイガーやマッターホルンなどアルプス登山の経験があったけど、日本に登山をしようと思って来たわけではなかった。

田中真一著「知られざる W・ウエストン」(2001年 信濃毎日新聞社刊)によると、彼は、伝道教会側が日本に派遣したいという打診を断ったうえで、大学教授の職をあてこんで日本に来たが、その確認や確約も取っておらず、結局やむなく神戸で宣教師になり、その後慶応大学の講師になったという、アバウトななりゆきだったらしい。

来日後、「日本についてのハンドブック」を読んで旅するうち、日本の山岳にのめりこんでいったらしい。

 

<「世界に『日本アルプス』を紹介した」のか?>

ウエストンの代表的な著作は次の2冊(下段は現在入手できる邦訳、ほかに双方岡村精一訳もあるが訳が古い。)

 MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS』 1896年(明治29年)

 「日本アルプスの登山と探検」( 青木枝朗訳 岩波文庫 1997年)

◆The Playground of the Far East』1918年(大正7年)

 「日本アルプス再訪」( 水野勉訳 平凡社ライブラリー 1996年)

 

「日本アルプス再訪」の「訳者あとがき」によると、「『日本アルプス―登山と探検』がロンドンで発行されたとき、『ジオグラフィック・ジャーナル(英王立地理学会の学術雑誌)』でも書評に取り上げられず、受け入れ図書の欄で簡単に紹介されただけであった。『アルパイン・ジャーナル(英国山岳会の会報)』第十九巻(1898年)には書評が載ったが、その登山の業績はあまり評価されなかった」。そのため、「(2度目の来日で挑戦した鳳凰山の)オベリスク初登攀によって、アルプス的な困難な課題を解決したとして、ヨーロッパの登山界に発表し(中略)『アルパイン・ジャーナル』第二十三巻(1906年)において、このオベリスク登攀を詳しく記述した」。

しかし、オベリスク初登攀を含む『The Playground of the Far East』が出版されるのは、その12年も後のこととなることから、その評価は推して知るべし。

結論として、「『日本アルプス』という固有名詞を英国で初めて紹介した」のはウエストンだけど、「日本の山岳を世界に広く紹介できたか」というと、そうではなかったということ。

世界的にはマイナーな「日本アルプス」という呼称を、小島烏水らが、英国人ウエストンのブランドを利用しながら、日本国内でメジャーにしたというのが実際のところ。

むしろ日本の山岳を世界に広く紹介したということでは、英国人に広く読まれ何度も版を重ねた「日本についてのハンドブック(A Handbook for Travellers in Japan)」におけるガウランドの功績が、もっと評価されていいはず。

 

<ここで疑問>

ここまで調べて、不思議なことに気付いた。

 

 MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS』が日本で「日本アルプスの登山と探検」として初めて出版されたのは、1933年(昭和8年)と、1903年に小島と岡村がウエストンのもとを訪ねてからでさえ30年も後のこと。

◆The Playground of the Far East』に至っては、1970年「極東の遊歩場」(岡村精一訳 山と渓谷社)として出版されたのは、英国で出版されてから実に52年も経ってから。

しかも、日本山岳会の会報「山岳」においても、△僚佝任蓮⊂さく扱われただけだった。

 

どうして「近代登山の父」「日本アルプスの父」と称えられてきたウエストンの代表的な著作が、長い間、邦訳出版されなかったんだろう (?_?)>

 

以下、その点を追ってみマス。

 

○ウエストンの著作の「不都合な事実」

まずはウエストンの著作を読むのが先決。

先にご紹介した、「日本アルプスの登山と探検」、「日本アルプス再訪」を熟読、とても面白く、濃い読書体験だった。

 

特に印象に残ったのは、次の5点。

1. スポーツ登山の記録らしく、アプローチも含め簡潔かつ正確に記述されていること。

  例えば、1893年(明治26年)前穂高岳に上条嘉門次のガイドで登った際、その2週間前に測量技師(館潔彦)が登っていることもきちんと記録している。

2. 当時の山岳とそこに生きる人々の姿が、飾ることなく、生き生きと描かれていること。

3. 御岳講中登山など山岳信仰についても詳しく描かれ、論考されていること。

4. ウエストンの山への執着は半端ではなく、しっかり準備し、おそろしく粘り強いこと。

  例えば、笠ヶ岳では、信仰上の理由から案内を2度断られても、3度目に登頂してしまう。

5. ものの見方がポジティブで、日本と日本人を見る目が温かいこと。

 

ひと言でいうと、「ウエストンさんは、日本の山岳と日本人を愛してくれたいい人だったんだなあ」という感想。

日本の山岳の原風景が生き生きと記録され、(一部誤解もあるにせよ)史料としてもすばらしい。

そんな人だったからこそ、上條嘉門次をはじめガイドの猟師や、外人を初めて見るような道中の人々ともうまく付き合え、それが多くの山の登頂につながったんでしょう。

 

しかし、その著作からは、「1905年(明治38年)の(小島烏水らによる)日本山岳会設立の前後から大正の初期ごろまでは『探検登山の時代』と呼ばれ、日本社会の中にアルピニズム的な登山熱が高まり、多くの登山家たちが国内の高峰を目指した。この時期、国内の高峰はほとんど登られ、『日本アルプス探検の黄金時代』とされる(日本山岳会百年史)」という時期に、実際は海外のアルピニストや測量士や宗教登山の人々が、かなり「日本アルプス」に入っていて、探検などという状態ではなかったという「不都合な事実」が浮かび上がる。

 

さらに、初代日本山岳会会長小島烏水が1904年(明治37年)雑誌「太陽」第十巻3号に発表した1900年(明治33年)の山行記録だとする「甲斐の白峰」について、小島にはこの年に白峰北岳に登った事実はなく、1902年(明治35年)北岳に登ったウエストンの「ジャパンウィークリーメイル」1902年11月号の「甲斐ケ根山の登山(The Ascent of Kaigane-san)」の文章を剽窃していることが、小島の死後、サトウの子息で第6代日本山岳会会長の武田久吉によって明らかにされている(近藤信行著「小島烏水 山の風流使者伝」(創文社 1978年)P178〜215)。

 

 MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS」(1896年)が邦訳・出版された1933年(昭和8年)は、小島烏水が日本山岳会会長を降りた年。

ウエストンの北岳登山の記録を含む、◆The Playground of the Far East」(1918年)が邦訳・出版されたのは、小島烏水の死(1948年)後の1970年。

 

ウエストンを「敬して遠ざけていた」のは、ぼっちじゃなくて、「日本アルプス」という呼称や日本山岳会の権威づけにいいように利用した小島烏水だったのじゃないかというのが、今回の結論。

そんな小島が広めた「日本アルプス」「北・中央・南アルプス」という呼称を、後生大事に使い続けるんでしょうかねえ、山を愛する皆さん。。

 

<補記>

上條嘉門次・嘉代吉親子とともに穂高連峰を初登頂し、正確な記録を残した鵜殿正雄を、小島烏水が山岳史からどのように抹消したかは、上條武著「孤高の道しるべ―穂高を初縦走した男と日本アルプス測量登山」(銀河書房 1983年)に詳しい。

同書は、抹消された歴史を掘り起こし、鵜殿の功績を日本登山史に復権させた素晴らしき労作で、やや資料過多で最初読みにくいけど、そこを突き抜けると、深い感動が待っていマス。

 

おまけデスが、上高地でウエストン祭の始まった1947年(昭和22年)、そのレリーフに碑文が日本語じゃなくてわざわざ英文で取り付けられたけど、肝心のウエストンの名前が、Walter Westonじゃなくて、Waltar Westonとなっていたんだそう(「知られざる W・ウエストン」)。画像のは、誤りが発見され、取り換えられた後のものデス。

 

もひとつおまけデスが、ウエストンがガイドを求めようとして聖なる山だからとして地元で2度まで断られた笠ヶ岳に、3度目にしてようやくガイドを得て登頂しているけれど、最近彼が登ったのは笠ヶ岳でなく抜戸岳だったのではないかとの説が出ているそうデス。

 

またまたおまけ。ウエストンの上記´△遼椶蓮¬滅鬚い鵑世韻鼻∋々英国人らしいジョークがくどいほど出てくる。その中でも、山の往き帰りに馬車を雇おうとして、とんでもない馬車や馬丁のおかげでさんざんな目に合うという話が何度も出てくる。関西人でもあるまいし、どうして同じようなベタな笑い話を繰り返すのかなあと疑問に思っていたところ、内田樹著「街場の天皇論」(東洋経済新聞社 2017年)を読んでいたら、現皇太子徳仁親王が、オックスフォード大学に留学された当時、指導教官に日本の交通史を概観するレポートを提出したところ、「なぜ日本では馬車が発達しなかったのかを少し考えるように指摘され」たという逸話が紹介されていた。イギリスと日本の交通の本質的な違いに関わるが故なんだと気付かされた次第。

 

| ぼっち | お山の勉強室 | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
お山の勉強室(1)―「アルピニズム」とは何だったのか

ぼっちが登山を始めた頃、「アルピニズム」という言葉は、近寄りがたく・憧れのかなたの言葉だった。

飛騨山脈よりは「北アルプス」、赤石山脈よりは「南アルプス」っていう方が、格段にカッコよく聞こえた。

まだ、ヒマラヤ初登頂の熱気や夢の影響を受けた先輩岳人が、がんばっていた時代でもあった。

 

しかし、山修業を重ねた今になってみると、日本の歴史ある緑豊かな山岳を「アルプス」と呼ぶのは、どうにも奇妙に感じられる。

ということで、今回の「お山の勉強室」のテーマは「『アルピニズム』とは何だったのか」でいってみマス (ロ。ロ)/

 

○本家ヨーロッパの「アルピニズム」

「アルピニズム(alpinism)」とは、19世紀後半に生まれた用語で単なる「登山 climbing」というよりは、語源がそうであるように、アルプス山脈のような高い技術を必要とする、高く、困難をともなう山の登山をいうもの、とされている。

 

ヨーロッパでは、ルネサンス期に趣味やスポーツとしての登山が一部で行われた記録はあるけども、17世紀に同種の記録は見られない。

「アルピニズム」は、18世紀後半、スイスの自然科学者ソシュールの呼びかけによるアルプス山脈最高峰モンブランの登頂に始まるとされる。

その後、19世紀に入り、アルプス山脈はスポーツとしての登山の対象となり、主にガイドを雇う金と暇のあるイギリス紳士によって主峰39座のうち31座の初登が達成され、それとともに登山技術も急速に進歩する。

1854年のヴェッターホルン初登頂から1865年マッターホルン初登頂までが「アルプス黄金時代」と呼ばれる。

 

マッターホルン登頂によりアルプスの4000m級の未登峰がなくなると、岩壁や側稜などからの登山といった、より困難なルートからの登頂や、あえて冬季の登山などが行われるようになる。「ガイドレス」「岩場登り」がこの時代の特徴ともされ、人口登攀用具も発達する。

1882年のダン・デュ・ジュアン初登頂までが「アルプス銀の時代」と呼ばれる。

 

銀の時代が終わっても登山は低迷せず、ドイツやオーストリアのクライマーによりさらに先鋭化。

ヨーロッパのアルプス以外にも目が向けられるようになり、最終的に1950年にフランスのモーリス・エルゾーグとルイ・ラシュナルがアンナプルナを初登頂してからわずか14年間でヒマラヤ山脈の14の8千m峰はすべて初登頂され、探検登山の時代は終わりを告げる。

 

その後、アルピニズムは、スポーツとして専門化し、テクニックや装備が進歩していく。

それまで登頂の手段であった「ロッククライミング」がスポーツとして独立し、安全のため確保用具は使用するけれど、それに頼ることをせず自己の技術と体力で岩を登る「フリークライミング」が1950年代のヨセミテなどを舞台に登場する。

さらに、2000年代には、その一種である、最低限の用具(シューズとチョーク)だけで登る「ボルダリング」が盛んになる。

 

1968年フランス山岳会パリ支局長ポール・ベッシェール著の「アルピニズム」では、「人工登攀の練習に通い詰めるあまり、極端な専門家になってしまって、いわゆるゲレンデ・クライマーとなるのは好ましくない。それは軽業師のやることである。」と書かれているが、2020年の東京オリンピックでは、スポーツクライミングが正式競技となる。

 

以上のような、本家ヨーロッパの登山スタイルの推移を、「登頂重視か過程重視か」を縦軸に、「冒険志向か競技志向か」を横軸に並べてみると、困難な山の登頂をめざす「アルピニズム」から、過程重視・競技志向の純粋スポーツ「クライミング」に移行していることが明確にわかる。

 

もちろん、ヨーロッパにも山登り自体を楽しむ人はいるけれども、やはりクライミングというスポーツとしてとらえることが多く、手軽に行ける山が身近にある地域も限定されるため、日本のように全国規模で老若男女問わず登山が行われている国は、ほかに韓国くらいに限られるのではないだろうか(ドイツの登山事情を参照)。

(←クリックで拡大)


 

○日本の「アルピニズム(近代登山)」

それでは、日本の「アルピニズム」とはなんだったのだろう。

 

日本では、アルピニズム(alpinism)を「近代登山」と訳している場合が多い。

それは、ヨーロッパと違い、日本では「前近代」から、山岳に親しんでいた歴史があるから。

 

日本のアルピニズムは、1874年(明治7年)いわゆる「お雇い外国人」の英国人ガウランド、アトキンソン、サトウが、ピッケルとナーゲル(鋲のある登山靴)を用いた登山を日本で初めて六甲山で行ったことに始まるとされる。

ガウランドは1881年槍ヶ岳と前穂高岳に登山し、「日本アルプス」の命名もしている。

そして外国人第二世代となる、英国人の宣教師ウォルター・ウエストンが、主だった山をほとんど制覇してしまう。

彼が、「北アルプス」「南アルプス」という用語を使い始めたとされる。 (←訂正:「北・中央・南アルプス」という呼称は小島烏水が使用し始め、ウエストンは後追いで使用。)

 

これらの活動に次いで日本人による「近代登山」が始まった経緯は、「日本山岳会百年史」(日本山岳会、2007年)では、次のように記述される。

「日本人は古くから山に接してきたが、その多くは山岳信仰による宗教登山や狩猟などを目的としたものであった。明治の初期には測量登山のほか、地質や高山植物の調査を目的とした学術登山が行われるようになったが、登山そのものを楽しむというアルピニズムが根付くまでには至らなかった。

 

そうした中、1894年(明治27年)に刊行された志賀重昂の『日本風景論』は、日本にアルピニズムの気風を起こすきっかけとなった。同書には『山、山、其の平面世界より超絶する所多々』というフレーズから始まる『登山の氣風を興作すべし』と題された文章が付録として付けられ、アルピニズム的な登山を鼓舞した。

 

これに影響を受けて高山に登るようになった一人が小島久太(小島烏水)/日本山岳会(設立当初は山岳会)初代会長である。1902年(明治35年)、小島は友人の岡野金次郎(初期に会員だったが、10年余りで退会)と槍ヶ岳に登っている。

 

日本山岳会の設立に直接的なきっかけをつくったのが、ウォルター・ウエストンである。

ウェストンは1888年(明治21年)に来日したイギリスの宣教師で、ヨーロッパ・アルプスの登山経験があり、滞在中に槍ヶ岳や赤石岳、白馬岳など日本の高山に登っている。1894年(明治27年)の帰国後、ロンドンで『日本アルプス 登山と探検(Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps)』(1896年)を発表し、1902年(明治35年)に再来日した。翌年、岡野は偶然『日本アルプス 登山と探検』を目にし、小島にそれを伝えるとともに横浜に住んでいたウェストンを訪ねた。その後、岡野は、小島を伴い、再び彼を訪ねている。このとき、ウェストンは2人に英国山岳会にならった団体を日本にもつくるよう勧め、様々なアドバイスをしている。

 

そして、1905年(明治38年)の日本山岳会設立の前後から大正の初期ごろまでは『探検登山の時代』と呼ばれ、日本社会の中にアルピニズム的な登山熱が高まり、多くの登山家たちが国内の高峰を目指した。この時期、国内の高峰はほとんど登られ、『日本アルプス探検の黄金時代』とされる。」

 

ただし、歴史というのは、見方によってずいぶん異なるもの。

「世界アルピニズム史」という視点で見れば、日本の山岳の多くも、ヨーロッパアルプスと同様、主に「ガイドを雇う金と暇のあるイギリス紳士」によって、初登頂されたということになる。

しかも、イギリス人たちにやや遅れて、参謀本部陸地測量部などの測量登山も始まり、1907年頃には主な山岳の測量が完了、ハイマツの切り開きや、山頂の測量櫓も残されていた。

その後追いで、しかも上條嘉門次などイギリス紳士や測量技師を案内した実績のある山岳ガイドに導かれた登山を、「探検登山」とか「黄金時代」などというのは、いかにも奇妙。

結局、日清戦争が勃発した年に発行された国威発揚的な(それでいてヨーロッパの文献の剽窃も多い)「日本風景論」に影響され、ヨーロッパのアルピニズム史に自分たちの活動をなぞらえた「疑似歴史」だといわれても、仕方がないのでは。

実際に日本人が世界のアルピニズムの流れと一緒になるのは、1921年(大正10年)槇有恒のアイガー東山稜初登攀あたりからなんでしょう。

 

しかし、そもそも、日本の主だった霊山は、8世紀頃には開山されているし、平安時代を中心に盛んだった回峰行は、フリークライミングとほぼ同じことをやっていたはず。乗鞍岳や槍ヶ岳も江戸期には開山されている。

仏教は、8世紀頃には先進国から輸入された最先端の宗教であり、行動哲学であったはず。

「登山そのものを楽しむ」ことだって、江戸時代の文人がやっていたし、富士山、立山、御岳などの講中登山も、旅行の制限が多かった江戸時代の「物見遊山」の方便という側面もある。

あえて言えば、それを「スポーツ」という概念で括り、登攀技術を体系化した点が新しかったのでは。

 

以上の登山スタイルの推移を、ヨーロッパと同様に並べてみると、日本では、競技志向・過程(非登頂)志向の純粋スポーツに移行する「アルピニズムからクライミングへ」の流れとともに、先行者(泰澄から深田久弥まで)の後追いをしながら登頂をめざす、登頂重視・競技(非冒険)志向の太い流れが並行していることが分かる。

純粋アルピニスト(だった人)やクライマーからすれば、「軟弱」ということになるのかもしれないけれど、この太い流れこそ、日本の登山スタイルの特徴なのは間違いなく、平成23年の統計で、日本で1年間に登山・ハイキングをした人は970万人(人口の約9%)におよぶ。

 

近代以前からの長い登山の歴史を持ち、冒険志向・登頂重視の「アルピニズム」が過去のものとなっているのに、「日本アルプス」「北・中央・南アルプス」などといまだに呼ぶのは、「疑似歴史」の遺風じゃないかなあと思ったりするのでありマス。

(←クリックで拡大)

 

 

 

 

 

 

 

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富士展望の山―高川山(976m)

毎年12月はGAN先輩と「富士展望の山」登山を恒例行事としてきたけれど、訳あってご一緒できなくなってしまった(※)

そこで今年は、連れ合いとニュー奥地君の試乗を兼ねて、高川山(976m)へ。

高川山は、「山梨百名山」のひとつで、「都留市二十一秀峰」、大月市の「秀麗富岳十二景」に選定されている、富士好展望の山で、中央線の初狩駅や、富士急行線田野倉駅、禾生(かせい)駅から約2時間で山頂に立てる手軽さから、関東では人気がある。(←岐阜県からだと登山口まで330辧。)

今回は、JR初狩駅から登り、富士急田野倉駅に下山する降りる、日本山岳会お勧めのコースを選択。

初狩駅から、見上げる高川山は、里山のたたずまい。

駅ですでに標高460mほどあるので、500mあまりの登高となる。

 

 

自徳寺という寺の前を通り、高川山林道に入り、駅から約30分で林道の終点にある登山口に。

登山者の姿を、ちらほら見かける。
スギの植林帯の道は、まず沢コースを分け、それから男坂と女坂に分かれる。

今回は、連れ合いも一緒なので女坂コースを選択。

植林帯を抜けると、アカマツやクヌギ、コナラなどの雑木林に。

「『ぎふ百名山』勝手に選定委員」の目線からすると、山麓に砕石工場もあるから、自然度は★2つ程度かな。。

沢コースと再度合流した後、男坂コースとも山上で合流。

 

 

山頂直下の尾根道は、アカマツなどの風格ある姿もあって、なかなかいい感じ。

 

 

 

 

 

 

駅から約1時間半で高川山山頂に到着。

全面刈り払われ、360度の展望が得られる。

大きめの岩が露出して、弁当を開いたり、記念撮影をする人たち多数。
肝心の、富士山は、あいにく雲に覆われ、ほんの少し顔を見せてくれただけ。

中央自動車道を走っている途中、夜明けの富士山を眺められたから、ま、よしとしよう。

いずれにしても、「山梨百名山」は、富士の好展望が重要な選定ポイントとなっていて、その山自身の山容や、植生の豊かさなどのウエイトは相対的に低いんだろうなと感じられた次第。

 

 

 

 

富士山は、雲に覆われていたけれど、ほかの方向は好展望で、滝子山、三ツ峠山など近くの山梨百名山の向こうに、雪の甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山、間ノ岳などを確認できた。
高川山山頂の、案内板。(画像クリックで拡大→)

40余り並ぶ山のうち、「まだ9しか登っていない」と言ったら、連れ合いに「御の字でしょう」と言われてしまった。。
登山者が次から次へと登ってくるので、田野倉駅をめざして下山開始。

ヒノキの植林帯と、モミやケヤキの大木もみられる樹林帯が交じり合う穏やかな登山道。こちらは十分季節を感じられるから★3つクラス。

初狩駅からのルートは、登山者が多いのに、こちらはまったく静かで、結局下山するまで誰とも会わなかった。

(タオル鉢巻の後ろ姿は、おっさん登山者じゃなくて、連れ合いデス。)。
冬空はどこまでも青く―どうして富士山だけ見えなかったのか不思議。
名残りの紅葉も見られて、実は秋〜冬山が初めての連れ合いも、「最初寂しいなと思ったけど、穏やかでいい」と申しておりマシタ。

 

 

 

無事、田野倉に下山。

高川山は、その真下をリニア実験線が走っていて、田野倉にはリニア見学センターという、山梨県の施設がある。
富士急田倉駅には11時35分、大月行きの電車が出てしまった直後に到着。

でも、おかげで、1日に2本しかない「トーマスランド号」に乗れたからよしとしよう。

ちなみに大月駅の背後にある、大岩の露出した岩殿山も、「山梨百名山」。

 

 

 

 

 

帰路は、富士の裾野を通って、太平洋側の富士市へ。

帰る前に「沼津魚がし鮨」という回転寿司店で早めの夕食。

「とろぼっち」のから揚げというメニューを、ぼっちが見逃すはずはない。

メヒカリともいう深海魚だそうで、揚げたては、とてもさっぱりほくほくして、ビールが飲めずに残念デシタ。
 

 

| ぼっち | 日本4000山 | 11:06 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
新雪の高屋山(1,136m)

ぼっちのバイブル、全国あばうと4000山が掲載された日本山岳会編著「新日本山岳誌」のうち、岐阜県の山は162山(だと思う)。

「ぎふ百山」の124山のうち、この162山に入っていない山は、11山(※)

二十五山、南沢山、ロクロ天井拝殿山唐塩山三界山槍ケ先、高屋山、越山、母袋烏帽子山、オゾウゾ山

これまでの「『岐阜百名山』勝手に選定委員」の調査登山経験から、この11山には、岐阜県を代表する山とするには何か足りないことが多い印象。

今回訪れる高屋山も、11山のひとつ。期待しすぎず・かといって予断を持たず、登ってみるとしましょう。

登山口は、本巣市根尾(旧根尾村)最奥の集落越波(おっぱ)。

近年廃村となってしまい、時間が止まったように建物だけがそこにある。

もうここで、新雪がうっすらと積もっている。

山は結構積雪がありそう。。
国道157号線から来た場合、越波の集落を行き過ぎると、大規模ながけ崩れ対策のコンクリート壁に出会う。

事前に当たったHPではこのコンクリート壁の向こう側(集落と反対側)から取り付くとあったけど、正確ではない(おかげで踏み跡も確かめられない新雪の中30分あまり右往左往)。

 

 

 

 

 

正確には、コンクリート壁を行き過ぎると、カーブミラーがあり、その先右手の小さな沢の左岸(右手)に入っていく。
すぐに、沢に赤いドラム缶が置かれているのに出会う。

ここで沢を渡り右岸の踏み跡を登っていく。
踏み跡は、ブッシュの斜面に出くわす。

夏だったらめげそうな足場の悪い茂みを突破して上部の尾根に出る。

スギの植林帯の尾根は、踏み跡があり、残置された赤テープなどもちらほら。
スギの植林帯は、標高650mあたりから放置されシカの食害で荒廃が進んでおり、倒木だらけになる。

膝くらいまでの新雪のラッセル、ルートファインデイングにも時間がかかり、心折れそうになりながら進む。

750mあたりは、岩場を右手に見ながらの急登。

 

 

 

 

標高770mあたりでスギの植林帯を抜け、広葉樹林帯に入る。

幼木が多いため、ブッシュがひどく、夏はうんざりのはず。

新雪のおかげで、踏み跡がブッシュの空白部分となって浮かび上がり、何とか迷わずたどっていける。

時折出会うブナの大木に、元気をもらう。
今回唯一背後に視界が開けたところで、目にする見事な鋭峰。

越美山地で「西の蕎麦粒、東の屏風」と並び称される屏風山だろうか。。
山頂が近づくと傾斜は緩やかになるが、ヤブにびっしり覆われている。

雪が程よく押さえてくれて、無事通過。
だらっとした山頂感のない高屋山山頂に到達。

念のため、三角点の標石を掘り出し確認。

登りは、ルートファインディングとラッセルで4時間近くかかったところ、下りは1時間45分で越波に到着。
濡れた体で凍えながら、せっかくだからと越波の集落を歩いてみる。

越波は大変古い山村で、「伏見帝正応2年(1287年)夏、地震により大きな山津波(土石流)が発生した。その山津波が川付近にあった越波集落を飲み込みそうになった。その時、突然白髪の老翁が現れて『持っている経典を水中に投げよ。』と、願養寺の寺主に忠告した。寺主はすぐに経典を水中に投げると、山津波の水量は減って人家などに全く被害はなかった。この時、中央の低い山嶺を波が越えていったことから、以後「越波村」と呼ばれている(ふるさと越波HPより)」という由緒を持つ。

現在住民は0となってしまったけど、墓に花が供えられ、8時と12時には、時報のチャイムが鳴り響く。今も雪に閉ざされていない時期は、スギ林の手入れなどのために旧住人は訪れておられるよう。

 

折越林道を国道157号線に戻る途中、紅葉の斜面の向こうに雷倉が白い台形の姿を現した。

やはり、向かい合うと、おのずとときめきや憧れが湧き起こるような山を岐阜県を代表する山としなくてはと、勝手に選定委員は改めて(勝手な)使命感に燃えたのでありマシタ。
 

<登山記録> (…:徒歩、―:車)(地図をクリックで拡大)

2017年11月25日(土) 曇時々にわか雨雪 単独行

自宅4:30―(国道157号線・黒津集落から折越林道)―越波集落6:30〜7:15(雨のやむのを待ち待機・駐車)…赤いドラム缶7:50…高屋山山頂(昼食)11:05〜11:35…越波13:20―(うすずみ温泉入湯後帰路)

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<メモ>

・ブッシュが多く、ヒルも出るため、ねらい目は晩秋か残雪期。自己責任が問われる山。

 折越林道は、冬季閉鎖となる。

・「ぎふ百山」に登りたい、探検的登山をしてみたい、という方以外には、ちょっと苦労と満足感のバランスが保証できない山。

・古い山村に関心のある方には、越波集落は訪れる価値のある場所でしょう。

 

 

 

| ぼっち | 「岐阜百名山」勝手に選定委員会 | 11:07 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
「奥地君」ありがとう/よろしく

ぼっちが日本4000山をまたに、walkabout(オーストラリア英語で「放浪生活」)できるのも、愛車あればこそ。

SUBARU OUTBACKの愛車奥地君(outbackはオーストラリア英語で「奥地」の意味)は、この8年間、そんな山馬鹿を心強く支え続けてくれた。

特に、オートキャンプで行った秋田白神山地への長いツーリングは思い出に残っている。

鉢盛山と七ケ岳では、パンクさせちゃってごめんね。。

そんな奥地君も、走行距離が20万5千kmあまりとなり、冠山・金草岳登山を最後にリタイアしてもらう日がやってきた。

本当に、今までありがとう。

ベタなジョーク付き関西弁ナビゲーションも大好きだったよ。

オーストラリアあたりでは、車を35万キロくらい乗るのは当たり前らしいから、第2の人生を本物のoutbackで過ごしてくれたらうれしいデス。

 

 

 

そして、新しい車もOUTBACK。

スバリストってことはないけど、ロングツーリングと山道走行、雪道走行を安全にとなると、選択肢は限られてしまう。

関西弁のナビが搭載されていないのが残念だけど、キミも「奥地君」でいかしてもらうから、お互い安全でいこうな。よろしく!

 

| ぼっち | ひとりごと | 11:04 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
春日村の山(2)―槍ケ先(966m)

鍋倉山を後に、車で15分ほど移動して、槍ケ先登山口へ。

槍ケ先は、「山」も「岳」も付かない珍しい山。

鍋倉山の南にあって、標高は966mと、千mにも満たないけれど、旧春日村の中では、もっとも尖った形をしている。

登山口は、旧春日村の中心地美束。

山中の古い集落ゆえ道路がすごく狭いので、駐車できるのは、六所神社前の空き地くらい。
美束の寺本というところにある閑窓寺の前を通り、右手に続く林道を進む。

道沿いの家々には空き家が目立つのが胸の痛むところ。

舗装が切れた場所から、沢の右岸(左手)を進むと大きな堰堤がある。

 

 

 

 

 

大きな堰堤横のフェンスの脇を通過したあたりから、踏み跡が明確になってくる。
大きな堰堤の先に、小さな堰がある。

その上を通過して左岸(右手)に登っていくと、踏み跡は溝のように明確になり、残置目印も多く、迷うことはない。
右手側谷にスギのまとまった植林帯もあるけれど、全体には炭焼きなどをしてきた里山らしいたたずまい。

アカマツ、コナラ、ミズナラ、ブナなどとともに、大きめの葉が鮮やかな黄色に色づくシロモジが多いことが特徴的で、黄葉がひときわ明るい。
ただし、槍、というだけあって途中からは意外に急登で、落ち葉に雨もぱらついて何度も滑りそうになる。

どうしてこんなに登りにくいのかなあと考えてみたら、登山道があれば階段状に刻みをつけるだろう急斜面も自然のままだからだと気が付いた。

 

 

 

 

 

広葉樹林に包まれた山頂に到着。

最近ぐるりと刈り払われたようで、案外に見晴らしがきく。

幸いに、さあっと雲が切れて、頭の上に青空が広がる。
西側には、国見山、虎子山、ブンゲン、貝月山などの山並みがもう頂を白くして並んでいる。(クリックで拡大→)
東を見ると、 おお! 小島山方向にくっきりと虹が架かっている。

このあたりで虹は、冬の訪れを告げるもの。
北の鍋倉山方向にも、虹の橋はかかっていいる。

西美濃地方では、冬の初めに、風が強くて、雨と晴れが入り混じった日があって、そんな日には虹が何度も現れる。

もう秋山も終わりなんだなあ。。

 

 

 

 

 

晩秋の黄金色に染まったシロモジの黄葉に出会えてこともあって、槍ケ先は個人的にとてもいい印象の山だった。

たぶん、日帰り圏内の中京地方の低山愛好家のみなさんも、十分ご満足いただけるはず。

ただし、飛騨の岳人にわざわざ登りに来てもらう価値があるかって問われたら、うーんと考えてしまう。

そのへんが案外、岐阜県の名山(あるいは、多くの人にお勧めできる山)かどうかの、ものさしになるのかもしれない。

※下山後立ち寄った六所神社は、風格ある社殿で特にスギの巨木が立ち並び、歴史を感じさせられた。

 

 

<登山記録> (…:徒歩、―:車)(地図をクリックで拡大→)

2017年11月23日(木・祝) 曇時々にわか雨 単独行

(鍋倉山から)―六所神社(駐車)12:20…(閑窓寺右の道を終点まで)…堰堤(昼食)12:35〜12:40…槍ケ先山頂13:45〜14:05…六所神社15:00―(帰路)

 

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| ぼっち | 「岐阜百名山」勝手に選定委員会 | 21:22 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
春日村の山(1)―鍋倉山(1,050m)

揖斐川マラソンや徳山ダムで知られる岐阜県揖斐郡揖斐川町は、2005年(平成17年)「平成の大合併」で、谷汲村、久瀬村、春日村、坂内村、藤橋村を合併して今の姿になった。

そのうち、旧春日村は、伊吹山地の山中、滋賀県との県境部にある。

山奥ながら、峠越しに近江や都との交流があり、例えば戦国時代に浄土真宗第11代門主教如上人を山中にかくまうなど、独自の役割を果たしてきた里人は、信仰深く、誇り高い。

村を取り囲む山には、「日本百名山」伊吹山(1,337m)をはじめ、「ぎふ百山」の虎子山(1,183m)、貝月山(1,234m)、槍ケ先(966m)、小島山(884m)、池田山(924m)、「続ぎふ百山」の鍋倉山(1,050m)等がある。

「『ぎふ百名山』勝手に選定委員会」の活動として、今回は旧春日村で登り残した鍋倉山と槍ケ先を訪問してきマシタ (ロ。ロ)/


まずは鍋倉山。

登山口は、西側の旧春日村のほか、旧久瀬村の津汲集落(東側)、日坂集落(北側)にもあり、昔は山越えの往来があった。

津汲〜日坂間は東海自然歩道になっているので、登山道(というか歩道)はよく整備されているそう。

今回は、貝月山の登山道にもなっている、旧春日村の「長者の里キャンプ場」から入山、東海自然歩道に合流する計画。
キャンプ場の少し先の車道脇の登山口の看板から入山。

ただし、ここからの入山者は多くないのか、ルートは踏み跡程度。

事前情報では途中から、‥豎ぜ然歩道の日坂方向への分岐点に出る東海自然歩道のルートと、   日坂越という古くからのルートに分かれると聞いてたけど、分岐が分からずウロウロしていたら、また車道に出てしまい、結局道の最高所にあたる東海自然歩道への入り口から鍋倉山に向かうことに。

よく整備された道なんだけど、入口に看板もなければ駐車場もない。
しばらく進むと、,瞭坂方面への分岐の標識に出て、ここからが正式な東海自然歩道のルートに入るみたい。

道幅は広く、丸太の階段や石段も整備されている。

東海自然歩道でよく見かける、プラスチック製疑似丸太の階段じゃないのが好印象。

鍋倉山の山腹には整然と手入れされたスギの植林帯もあるけど、歩道沿いは、ほぼ落葉広葉樹林帯。

晩秋なので、落ち葉して視界が開け、木の間に山頂方向がが眺められる。

夏場だと見晴らしはほとんどきかないはず。

要所要所に看板や立札も完備。

ルート△箸旅舂点、日坂越には、2体並んだ石仏があった。

ただし、△瞭擦蓮∈はあまり踏まれていない模様。
ゆるくアップダウンを繰り返す「歩道」は、山頂直下になって、ジグザグに標高を稼ぎはじめ、ようやく「登山道」らしくなる。

途中一か所だけ展望の開ける場所があり、貝月山と、その裾野の長者平を眺めることができる。
山頂が近づくと、雨交じりの風が吹きぬけ、足もとには雪も見えだす。

鍋倉山山頂は、東海自然歩道岐阜県最高点らしいけど、道の傍らに三等三角点があるといった様子で、あまり頂きに立ったという達成感はわかない。
そんな山頂のたたずまいだからか、登山者は約15分ほど先の立派な避難小屋まで足を運ぶことが多いみたい。

立派なログ造りで、中にあったノートを見ると、地元のシルバー世代が定期的に草刈りなどの手入れをされているとのこと。

愛山度は、高めデス。
帰路は、日坂への分岐から、往路うまく探せなかった,離襦璽箸貌る。

△離襦璽箸な、と思った方向へ入るべきだったと判明。

長者の里からの登山口からいったん渡渉し、その先右手の沢沿い谷を詰めるのが正解だった。ただし、渡渉点からは右手の沢は目に入りにくい。

まだまだ、地図が読めてないなあと、反省。

 

さて、次は槍ケ先に向け移動。

<登山記録> (…:徒歩、―:車)(地図をクリックで拡大→)

2017年11月23日(木・祝) 曇時々にわか雨 単独行

自宅6:45―長者の里先登山口(駐車)7:45…日坂への分岐点…日坂越…鍋倉山山頂…日坂への分岐点…登山口11:50―(槍ケ先へ)

 

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| ぼっち | 「岐阜百名山」勝手に選定委員会 | 20:32 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
京都「軟弱古書店」訪問記

山から里に秋が下りてきた。たまには骨休めと、連れ合いと京都へ小旅行。

小旅行の目的その1は、京都国立博物館の「国宝展」で、中国南宋時代の画僧牧谿の傑作「観音猿鶴図」三幅を拝むこと。

目的その2は、連れ合いが「怖いもの見たがり」なので、龍谷ミュージアムの特別展「地獄絵ワンダーランド」をのぞくこと。

そして、もひとつ大事な目的が、「軟弱古書店」を訪問すること。

 

軟弱古書店は、京都随一(というか、たぶん唯一)の山岳書専門の古書店。

先日、神田神保町の同じ分野の古書店「悠久堂」に行ったけど、関東の山岳中心だったせいか、心に響く本には出会えなかった。

京都なら、岐阜県を含めた関西地方の山の本もそろっているはずと検索して、探し当てた。

 

軟弱古書店がどのくらい「軟弱」かは、営業日が不定期で、週1日位しか開店していないことから推して知るべし。

京都大学に近い「左京区吉田二本松町4-3 白亜荘25号室」という所在地からして、ガンガン営業してるって感じじゃない。

でも、なんか敷居高そう。。

 

しかし、珍名愛好の山馬鹿としては、そんなハードルの高さに、かえってそそられてしまう。

それでは、現地に実際に行ってみるとしましょう。

あらかじめ軟弱古書店のHPで、地図を打ち出して持って行ったけど、なかなか探せない。

確か、京都大学の吉田寮の脇のようなんだけど。。
人に尋ねること4度にして、ようやく現地到着。

おお! 古き佳き時代の学生寮のたたずまい。
白亜館の入口に、背負子を流用した看板が出ているから間違いない。

 

 

 

 

白亜荘内部はこんな感じ。映画撮れそう。。

黒光りする階段を登ると、木製ドアのひとつが25号室。敷居高くて緊張。。

 

 

 

4畳半ほどの板の間ぐるりに書棚があって、古い山岳書がぎっしり。

書棚に挟まれた隅っこでパソコンにもくもく向かわれている方が、店長さんでしょう。

たぶん、ネット販売でのお客さんの方が多いのかな。。

個人のお宅の書棚をのぞくような緊張感のもとに、背表紙を見ているうちに、本の世界に吸い込まれてしまった。

やはり、京都らしく、黒部や白山などの本が多いのが特徴的。

最近読んで大変感銘した上條武著「孤高の道しるべ―穂高を初縦走した男と日本アルプス測量登山」(1983年)が置かれていたのも好印象(なんてやっているうちに、連れ合いは廊下に退去)。

奥美濃の山々を世に紹介した森本次男著「樹林の山旅」の復刻版(昭和53年)もあったので手に取ると、なんと15,000円。

付録や関係文献も収められているので入手したいけど、ちょっと手が出ないなあ。。

目下、登山史のおさらいをしているので、山口隆治著「加賀藩山廻役の研究」(1998年 桂書房)とフランスのポール・ペッシェール著「アルピニズム」(1968年 白水社)という超マイナーな本を購入。

個別の古書はネットで購入できる時代だけれど、そもそも「どんな本があるのか」は、実際の背表紙をながめないと分からない。

そういう意味で、新旧の山岳書を概観できたのは、大きな収穫。

店主の中山さん、お話ししてみると、ぜんぜん敷居が高くない感じの山好きの温厚な元ホテルマン。

今回は書店内を撮影させてください、なんて緊張しいのぼっちは言い出せなかったので、「軟弱」の由来と店内の様子はこのブログの記事をご覧くだサイ。

また京都に行く時、今度はもうちょっとゆっくり山談義なんかさせてもらえたらいいなと思いつつ、辞去したのでありマシタ。

 

| ぼっち | OFF TIME | 05:44 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
奥美濃の秘峰―千回沢山(1,246m)復路

翌14日の朝も、谷あいの狭い空に青空が広がる。よしよし。

昨日の鍋の残りで作った雑炊をかき込んで、ふたたび渓流靴を履いて出発!

ここまで比較的緩やかで明るい印象だった谷は、左に滝を見るあたりから急登に。

沢はさらにいくつかに分かれるので、Nさんはそのたびに立ち止り地図で確かめる。渡渉のルート取りなど、勉強になる。
谷が狭まり、岸へ逃れる余地が少なくなったので、へつったり、渡渉する回数が増える。

水量の少ない、岩壁になった小滝を高巻き。
標高1,000mあたりで枯れ沢になり、1,100mあたりで谷はチシマザサの中、あとは体力勝負の急斜面のヤブ漕ぎ。

目印の赤布を付けながら、ササをかき分け、またつかまりながらよじ登る。
「着いた!」というNさんの声を頼りに最後のひと頑張り。

ようやくササの上に頭を出す。

なんと、三角点から10mほどしか誤差なく登頂できた。
二等三角点、基準点名「荒谷」の標石にタッチして、万歳三唱。

Nさんのルートファインディング力に敬服。
ヤブ山ゆえ、山頂からの展望は期待していなかったけど、灌木が落ち葉していて、背伸びすれば展望は360度、意外なほど多くの山が、しかも立派に見える。

釈迦嶺に比べれば標高が70m高く、さらに東寄りに位置することと、福井県側の山から離れるためか、白山、能郷白山は、むしろ冠山などよりしっかり見える(画像では雲がかかってマスが。。)。

さらに、南側に向けて谷があり、空間が開けているため、笹ヶ峰、不動山、高丸烏帽子山蕎麦粒山五蛇池山黒津山天狗山小津権現山および花房山雷倉山など、奥美濃の渋い山々のほとんどが「その山らしく」見える。

去年の今頃だとそれらの山々は、ただの山襞に見えてたけれど、この1年頑張って登ったので、ほとんどが懐かしい山になっている。

岐阜県民に生まれて良かったあ のひととき。

(画像クリックで拡大→)
復路も長いので、気を引き締めていかねば。。

ヤブは下りの方が確実に楽だけど、沢の場合、下りの方が難しく、滑落しやすい場合もある。

そのためルート取りも、往路とは変わってくる。

Nさんに頼ってばかりでは進歩がないので、少し間を開けて、自分なりにルート取りをしてみるのも山修行。

沢の具合を確かめたりしていると、自然ピッチが落ちてしまうので、しっかりせねば。。
テント場で撤収した荷物は加わるし、下るほど瀬が深い場所も出てくるので、慎重に進む。

滔々と流れる小滝を高巻きし、2mの滝を過ぎると、もう沢の出合も近い。
長い林道歩きの後、林農園のワンちゃんたちにしっかり警戒されつつ、門入に入る。

蕎麦粒山が見下ろす門入は、縄文時代から人の住んできた場所だけあって、日当たりよく、山に守られた場所という印象。
往路は下りだったホハレ峠への道は、復路は長い登り道。

歩荷の気分でさくさく歩を進め、何とか日没前に到着。
 

千回沢山は、皆伐され大きく痛めつけられた山の多い揖斐川源流部の山の中で、「樹林の山旅」時代の奥美濃のたたずまいを色濃く残したすばらしい山だとしみじみ感じた。

ただし、この山の良さを味わうには、1日10時間程度重い荷物で歩ける体力、沢登りの技術、ルートファインディング能力プラスいざという時に助けを求めることが困難な場所のため、どこまでも自己責任を貫けることが必須となる。

しかも、この山の本当の良さが分かるのは、かなり山修行を積んでからかもしれず、一般登山者には「苦労の割に合わない山」と感じるのではないだろうか。

全ての山が、「みんなの山」になる必要もない。
「岐阜県を代表する山」というより、「深山幽谷を愛する一部登山上級者向けの山」として秘蔵するのが適当な位置付けではないかと思う次第。

 

<登山記録> (地図をクリックで拡大)
2017年11月13日(日) 快晴 メンバー:N、T、bottti (―:車、…:徒歩)
大垣市集合場所5:00―(国道417・303号線・林道)―ホハレ峠(駐車)7:05‥門入9:00…(入谷林道)…千回沢出合10:00〜10:25…カツラの樹12:45…テント場13:00

14日 晴のち時々曇

テント場6:50…千回沢山山頂9:00〜9:30…テント場(撤収)11:10〜11:45…出合13:40〜13:55…門入14:50…ホハレ峠16:45―(藤橋の湯入湯後帰路)

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| ぼっち | 「岐阜百名山」勝手に選定委員会 | 20:53 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
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