WALK あばうと 日本4,000山

「新日本山岳誌」掲載の約4000山が修行の地。 めざせ山仙人!
白山美濃禅定道ゆかりの地訪問

先週は、白山越前禅定道ゆかりの地を訪問したし、今週せっかく鷲ヶ岳山麓まで行くので、Yさんたちをお誘いして美濃禅定道ゆかりの地を訪問してきました (ロ。ロ)/

まずは、禅定道の起点、美濃馬場と言われた白山中宮長滝寺。

越前馬場の白山平泉寺と同様、ここも養老元年(717年)泰澄によって創建され、同6年に十一面観音、聖観音、阿弥陀如来を安置し、白山本地中宮長滝寺と改称したと伝えられる。

美濃禅定道の馬場としての成立について、加賀馬場白山比弯声劼謀舛錣詈唇存經成立の「白山記(しらやまのき)」には、「天長九年(832年)三方の馬場を開く…三ヶの馬場は、加賀の馬場、越前の馬場、美濃乃馬場なり」と記されている。

白山中宮長滝寺は、創建当初法相宗だったのを、この時天台宗に改めている。

江戸時代には、白山嶺上の管理権を巡り、越前、加賀とともに美濃馬場も論争に巻き込まれる。

その一方、地の利もあってか、布教活動を活発に行った結果、日本全国に2,700社ほどあるという白山神社の半数以上が白山中宮長滝寺系統の白山神社となった。

 

明治に入り、美濃にも神仏分離令という名の廃仏毀釈運動の嵐は及んだけれど、「長滝白山神社」と「白山長瀧寺」に分離することで、極端な破壊活動は免れた。

明治32年(1899年)の火災で、神社・寺もろとも建物は焼失し、現在の神社の建物は大正8年、寺の建物は昭和11年の再建によるもので、長瀧寺は規模も縮小されたけれど、正面に神社、左手に寺という配置は変わっていない。

真ん中の小堂にある鎌倉時代の石灯籠や、長瀧寺寄りにある、江戸時代の大きな宝篋印塔も往年のまま。

そのうち宝篋印塔は、豪潮式と呼ばれるもので、江戸時代の名僧豪潮が大講堂再建の法要の大導師を務めた際に建立されたもの。

肥後国生まれの豪潮は、英彦山など各地に同じ型の宝篋印塔を建立している。

20180616長滝神社と長瀧寺.jpg

火災を逃れた仏像・宝物のうち、境内にある「白山龍宝殿」には、鎌倉時代の釈迦三尊像、四天王像、中国南宋時代の韋駄天像などの仏像が、道を挟んで隣接する「白山文化博物館」には宝物が、収蔵されている。

博物館では、かつての白山中宮長滝寺のジオラマが興味深かった。

確かに、「大講堂」と言われた寺院部分の規模は現在よりはるかに大きく、現存する英彦山の大講堂(今は大幣殿とされる)くらいの規模があったよう。

20180616白山中宮長滝寺.jpg

博物館にある宝物のうち、至宝ともいえるのが、古瀬戸黄釉瓶子一対。正和元年(1312年)施入の銘がある重要文化財。

陶芸も趣味のひとつのぼっちには、器の形、釉の流れの美しさ、銘文の古拙さ、たまらないものであります。

背後に見える掛け軸は、江戸時代の泰澄画像。

20180616瓶子.jpg

鉄蛭巻手鉾、鉄製斧もたいへん古いもので重要文化財。

入山の用具で、儀礼的な場で使われたらしい。

20180616斧.jpg

美濃馬場白山中宮長滝寺から、白山中居神社のある石徹白へ向かう途中にある、阿弥陀ヶ滝にも立ち寄り。

長良川源流の一つ、前谷川にあり、養老6年泰澄が発見し、長滝と名付けたと伝えられる、美濃白山禅定道有数の霊場。

その後戦国時代の天文年間、白山中宮長滝時の道雅法師が滝近くの洞窟で修業を行なっていたところ、阿弥陀如来が出現したことから、阿弥陀ヶ滝と呼ばれるようになった。

葛飾北斎も「諸国滝廻り」に描いており、日本百名滝にも選ばれている。

20180616阿弥陀ヶ滝全景.jpg

すぐ下まで歩み寄ると、夏空に滝のしぶきがまぶしい。

阿弥陀如来の出現とは、ブロッケン現象に似たものではなかったのだろうか。。

20160616阿弥陀ヶ滝部分.jpg

滝を後に、桧峠を越え、石徹白の大師堂を訪問。

神仏分離にあたり、白山中居神社あった仏像・仏具が移され、祀られている。

特に、奥州藤原氏の藤原秀衡が奉納したと伝えられる、平安末期の金銅の虚空蔵菩薩座像は岐阜県の仏像でも至高とされる。

お守りされている、地元大師講の上村さんにお願いし、鍵を開けていただいた。

まずは、清々とした境内の左手のお堂へ。

ここには、山上にあった泰澄大師三十六歳の像と二従者の像、泰澄の母伊野姫像などが安置されていた。

泰澄大師像は鎌倉期のものながら明治に修理し彩色をしたため、重要文化財になれなかったと残念そうにおっしゃっていた。

像の手にある錫杖も相当に古いものらしい。

20180616大師堂.jpg

次に石段の上にある虚空蔵菩薩像が納められていた堂の奥にあるコンクリートの収蔵庫の鍵を開けていただく。

そこには、藤原秀衡公寄進の虚空蔵菩薩像が、宝冠や光背なども含め、平安の輝きのままでおられた。

(おそれ多くて撮影しなかったので、↓白山文化博物館の画像 をご覧ください。)

 

秀衡は、元暦元年(1184年)この像を白山中居神社に奉安するにあたり、家臣のうち「上村十二人衆」という小武士集団を像のお守りのためという名目で石徹白に送り込んだ。

兄頼朝に疎んじられた源義経が文治2年(1186年)秀衡のもとに落ちのびていく時、石徹白を経由したという説もあるらしい。

奥州藤原氏は、その後数年で滅びたけれど、上村十二人衆の子孫は白山中居神社の社人として、明治の神仏分離以降は在家で800年以上も虚空蔵菩薩像を守り続けておられるという。

 

お話によると、明治初年の神仏分離〜廃仏毀釈の動きの中で、石徹白では、廃仏を目指す神道派と、下野しても泰澄の神仏習合の信仰を守ろうとした帰農派がしばらく家族兄弟も巻き込んで激しく対立したのだそう。

結果して、大師堂に泰澄の信仰は引き継がれていくことになり、数年間で対立も収束したそう。

そのくらい真剣に石徹白あげて信仰を見つめ直したということなのでしょう。

結果して、白山中居神社に伝わった貴重な文化財の多くは、大師堂に引き継がれ、現在に至る。

20180616虚空蔵菩薩.jpg

虚空蔵菩薩の前のガラスケースには、いくつもの鰐口が収められており、そのうち最大のものは織田信長が戦勝を祈願して奉納したもので、「奉寄進御鰐口白山別山大行事権現御宝前元亀二辛未年(1571年)六月吉日」の銘がある。

(これは、撮影させてもらいました。)

20180616信長の鰐口.jpg

越前と美濃の白山禅定道ゆかりの地を訪ね、古くから篤い信仰を集めてきた霊峰白山は、信仰勢力や現世権力の移り変わり波をまともに被りつつ今に至ったんだなあと実感した。

加賀禅定道も、いずれ近いうちに訪れてみたいものです。

 

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山岳展望台としては最高―鷲ヶ岳(1,671m)

鷲ヶ岳(1,671m)は、郡上市高鷲町・白鳥町と飛騨市荘川町にまたがる飛騨高地南部の山で、長良川をはさんで西側の大日ヶ岳(1,709m)と向かい合う、日本300名山。

山名は、「藤原(鷲見)頼保が、勅命によって、この近くに棲む大鷲を退治した」という伝説に由来し、その舞台となった西麓には、高鷲町をはじめその地区名である鷲見や大鷲、あるいは鷲見川など鷲に関係する地名が多い。

 

広くなだらかな山裾にはスキー場、ゴルフ場、別荘地の開発がすすみ、小屋仲間Yさんの山荘もここにある。

6月16日、Yさんの山荘で懇親会の予定あり、梅雨の合間の好天を幸いと、単独で登ってきました (ロ。ロ)/

 

鷲ヶ岳を登山の対象として見た場合、標高1,460mの一ぷく平まで林道で入れ、登りは1時間10分、さらに近年その登山道が林道に寸断されてしまった。

今回は、少しでも登山らしくしようと、桑ヶ谷林道終点の登山口から登りだすことでプラス40分を追加してみた。

鷲ヶ岳ゴルフ場の中にある、「藤原頼保公記念堂案内図」の分岐から、桑ヶ谷林道は始まる。

20180616鷲ヶ岳案内図.jpg

林道終点に愛車奥地君を待たせ、熊鈴を付けて登山開始。

20180616鷲ヶ岳登山口.jpg

スギやヒノキの植林帯の登山道に、花盛りのタニウツギが彩りを添えてくれる。

標高を稼いでいくと、びっしり生えたクマザサと、ミズナラ、ブナ、シロモジなどの二次林が登場。

20180616ウツギ.jpg

30分ほどで標高1,460mの四等三角点のある一ぷく平に出る。

地元が平成3年に建てた、藤原頼保公記念堂が霧の中に建っている。

20180616いっぷく平.jpg

しばらくで登山道はいきなり林道に分断される。

林道の生む経済効果と、観光資源としての価値の低下が、真面目に比較検討されたのかしらん。。

20181616林道.jpg

標高を上げると、ようやく霧がはれだした。

20180616鷲ヶ岳登山道.jpg

振り返ると、おお!

白山連峰が霧の上に浮かんでいる。

三ノ峰、別山、白山から、北縦走路の妙法山、野谷荘司まで一望のもと。

20180616白山遠望.jpg

急な登山道には、丸太の階段が整備されているけど、やたら段が細かく、朝露に濡れて滑りやすいので要注意。

白花のサラサドウダンが頭上に咲いている。

20180616ドウダンツツジ.jpg

一ぷく平から1時間足らずで鷲ヶ岳山頂に到着。

三等三角点と、立派な銅の円形案内板がある。

20180616鷲ヶ岳山頂.jpg

東側には、御岳、乗鞍岳から、穂高連峰、槍ヶ岳、笠ヶ岳、黒部五郎岳、薬師岳から立山、剱岳まで名山名峰が勢ぞろい。

20180616飛騨山脈.jpg

北の雲向こうには、飛騨高地のなだらかな峰々、「山地」でなく、「高地」と呼ばれるのもうなづける。

「『岐阜百名山』勝手に選定委員」としては、岐阜県の山をしっかり観察するには格好の山頂。

登山の山としては難ありでも、山岳展望台としては最高と言えましょう。

20180616飛騨高地.jpg

名残惜しく下山にかかると、一ぷく平も霧がはれ、山頂方向を望むことができる。

かつてはここに大鷲の住むような深い森があったんでしょう。

20180616いっぷく平下山.jpg

一ぷく平からの下りしばらくは、広葉樹林に包まれ、植林地に入るまでは登山らしい気分になれる。

桑ヶ谷林道終点からでも往復3時間程度なので、こちらからがお勧めです。

20180616下山道.jpg

<登山記録> (―:車、…:徒歩)

2018年6月16日(土) 霧のち快晴 単独行

自宅4:20―高鷲I.C.6:00ー桑ヶ谷登山口6:35…いっぷく平7:10…鷲ヶ岳山頂7:55〜8:15…いっぷく平8:50…桑ヶ谷登山口9:25―阿弥陀ヶ滝―石徹白大師堂(虚空蔵菩薩拝観)―白山長滝神社―Yさん山荘(泊)

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巨木に会う―日本一 太田の大栃

白峰集落の真ん中にある総湯でゆったりし、マッサージチェアで観光パンフレットを開いていたら、白峰には「太田の大栃」という日本一のトチの巨木があるという。

これはぜひとも、会いに行かねば。。

 

国道157号で勝山市方向に戻る途中、白峰クロスカントリースキー場を右手に見てすぐ、左手に大道谷という谷筋に入る林道がある。

うねうねした未舗装の道を約3辧△いなり巨木が目の前に現れる。

直径4m、周囲13m、高さ25m、推定樹齢は1,300年。

栃は成長が早く、大木が多い印象があるけれど、逆にここまで太古を思わせる樹は今までお目にかかったことがない。

木道で周りを巡ることができ、背後に回ってみると、幹には大きな空洞が。

案内板によると東西3m、南北2.5m、20人が入れる大きさだとか。

それでも樹勢は保たれ、巨木といいっていいほどの太い枝が5本ほど伸びて葉を茂らせている。

 

山深く、雪深い白峰では、米はほとんどとれず、焼畑農業が昭和30年代初頭まで行われてきたそうで、このトチの木の周りも、かつては焼畑だったという。

山地では採集も重要な生業(なりわい)、保存のきくトチの実は重要な食糧で、今も白峰では、栃餅が名物となっている。

それだけに、この樹も、大切にされてきたようで、大きな空洞がありながら、しっかり支柱を立てたりしているおかげで、雪折れの枝も見られない。

地元の何代にもわたるお世話があってこその日本一なんでしょう。

 

また白峰を訪れて、この樹を見上げられたら ―そんな願いを胸に、巨木にさよならしたのでありました。

 

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白山越前禅定道ゆかりの地 探訪(2)―白峰

白山越前禅定道ゆかりの地、次に訪れたのは、石川県白山市白峰。

2005年に同市に合併される前は、石川郡白峰村で、白山・別山・三ノ峰まで同村のエリアだった。

越前禅定道なのに、石川県? という疑問も、ごもっとも。

そこには、次のような白山登山基地としての白峰の歴史があった。

 

白峰地域に人々が住み始めたのは古く、縄文時代と考えられ、大化の改新以来は越前国に属した。

養老元年(717年)、泰澄が白山を開山したその年、現在の白峰の中心となる牛首集落が開かれたとされ、白山から無事下山した泰澄に歓喜して、村人が舞い踊ったことに始まるという「かんこ踊り」が今も伝わっている。

牛首の名は、泰澄が白山開山にあたりその守護神として牛頭天王(神仏習合のカミで、薬師如来の垂迹・スサノオの本地とされる)を祀ったことに由来すると言われる。

そして、平安時代に越前禅定道が成立すると、牛首は白山登山の基地となる。

 

戦国時代には、加藤藤兵衛という土豪がこの地を支配し、慶長6年(1601年)、越前国守(結城秀康?)より正式に白山麓十六カ村を治めるよう命じられる。

しかし、平泉寺の歴史でも触れたように、白山山頂での利権を巡り、越前・加賀の紛争が頻発したことから、幕府は寛文8年(1668年)、加賀藩領の尾添・荒谷を加えて十八カ村を天領とした。

そして、牛首の山岸十郎右衛門家が、幕命で明治維新までの約200年間、代々大庄屋(取次元)としてこの地をあずかった。

 

明治に世が変わると、同5年(1872年)白山各山頂と主要な禅定道は、白山比弯声劼僚衢とされ、これにあわせ、天領から足羽県(福井県の前身の一つ)となっていた十八ヶ村は、石川県に併合された。

 

白峰といい、岐阜県に併合された美濃禅定道の石徹白といい、旧越前国は、明治以降白山信仰の拠点を失ったことになる。

そんな、福井県にとっては残念な歴史も念頭に、白峰を訪問してみるとしましょう。

 

福井県勝山市の平泉寺から山越しで石川県白山市に向かう国道157号線を車で約50分。

白山の登山口、別当出合のある市ノ瀬に向かう県道33号線の入口に白峰の集落がある。

 

白峰は、「スノーダンプ発達史」において、その原型「白峰スノッバー」を生み出したほどの豪雪地帯。

米はほとんど取れず、白山の登山基地としての機能とともに、林業、養蚕が主産業だった。

特に養蚕は、餌となる桑の木が雪につぶされ高く伸びられず収穫しやすかったこともあり盛んで、「牛首紬」という織物も名産だった。

その集落は、山村集落・養蚕集落を代表するものとして「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。

 

ますは、十八ヶ村の大庄屋だった山岸家を訪問。

白峰の建物の特徴は、豪雪と養蚕のために三階建てになっているところと、外観の黄土色の土壁と縦長の窓が連続するところ。

山岸家は大庄屋を務めていただけに、ことに立派な構えで、蔵が3つ、お白州まであったという。

右手の二階建てになった部分は、特に古く、仏間の格天井の立派さには圧倒される。

20180609大庄屋山岸家.jpg

集落の中央には、林西寺という石垣に囲われた浄土真宗の立派な寺がある。

「国指定重文 白山下山仏」という石標があり、拝観できるらしい。これは是非拝見しなくては。。

20180609林西寺.jpg

三階建ての立派な庫裏に声を掛けると、住職が出てこられ、下山仏をおさめた「白山本地堂」を案内してくださった。

白山下山仏は、廃仏毀釈により白山の各峰にあったお堂の仏像が破却の危機にあったのを、当時の住職が引き取ったもの。

撮影禁止のため、画像でご紹介できないのが残念だけど、白山の各峰の堂に安置されていた8体の仏像と泰澄座像が並んでいる。

その多くは、江戸後期のもので、幕府の裁定で平泉寺が白山の利権を獲得した後の制作になるけれど、小柄な銅造の十一面観音菩薩立像は平安後期に遡るもので、国指定の重要文化財。

 

住職が、懇切丁寧に白山信仰と寺にまつわり、このような話をしてくださった。

・白山はもともと仏の山であり、神仏分離ではなく、仏を下山させて神に置き換えたもの

・白峰は、もともと越前の国で、私の顔も、越前の顔である

・天台宗の寺が一向一揆が押し寄せて浄土真宗(一向宗)に改宗したように言われるのはおかしく、もともと天台宗も阿弥陀如来の信仰があり違和感はなかった

・白山と水との信仰上の関わりは喧伝されるほど重要ではない

越前側・白峰側・浄土真宗側からみると、そのような認識になるのでしょう。

 

岐阜県美濃地方在住のぼっちからすれば、

・美濃禅定道の「白山中長滝」という馬場の名が象徴するように、泰澄が草創したと伝えられる白山信仰が広く受け入れられた要素に、神と仏を融合したことがあるのでは?

・水害に悩み、「長滝(阿弥陀ヶ滝)」が重要な霊場となっている美濃側からすれば、白山信仰と水は切っても切れない関係では?

と思ってしまうけど、いずれにしても、白山信仰は、越前・加賀・美濃それぞれ異なる部分も多いんだと知ることができたのも、今回の探訪の収穫だった。

 

そういえば、林西寺の庫裡に、積雪時に使う大きな梯子が立てかけてあった。

クリの大木を二つに割って作るという梯子も、白峰の集落の特徴的景観なのだそう。

20180609庫裏.jpg

 

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白山越前禅定道ゆかりの地探訪(1)―白山平泉寺

梅雨時のOFF TIME、連れ合いとのドライブを兼ね、白山越前禅定道ゆかりの地を訪ねてきました (ロ。ロ)/

まずは、白山平泉寺。

 

霊峰白山には、越前(福井県)、加賀(石川県)、美濃(岐阜県)からそれぞれ「禅定道」という信仰の道が古くから開かれていた。

禅定道の起点であり、信仰の拠点ともなるのが「馬場」で、そのうち越前禅定道の馬場だったのが平泉寺。

その歴史は、おおよそ次のとおり。

 

養老元年(717年)白山を開山した泰澄が同年開いたとの由緒を持ち、平安時代には比叡山延暦寺の勢力下に入り、明治時代までは、霊応山平泉寺という天台宗の寺院だった。

延暦寺と同じように山伏や僧兵を抱え、貴族などの荘園の寄進を受けて、信仰+軍事拠点として大きな権勢を誇り、その影響力は、例えば奥州藤原氏も、平泉寺からその拠点平泉の名をもらうほど。

越前の特徴は、そのような信仰の拠点が2か所あったことで、豊原寺(坂井市)も「豊原三千坊」といわれる一大勢力を持ち、平泉寺と競り合ってきた。

平泉寺の最盛期は室町時代後半で、六千坊・僧兵八千人を擁し、砦や堀を備え全山石垣に囲まれた巨大な宗教都市となる。

そして、さまざまな勢力と、ある時は戦い、ある時は連携する複雑な政治世界を展開。

 

・南北朝時代、南朝側の有力な勢力となったが、北朝の斯波高経に所領を安堵されると北朝に寝返り

・室町時代の天文12年(1543年)、長年加賀馬場白山比弯声劼持っていた白山山頂の管理権や入山料徴収権を奪おうと画策、以降ずっともめ続ける

・戦国時代、越前国守朝倉義景と良好な関係を保ったが、義景が従兄弟の景経に裏切られ自害した後、織田信長が越前を領国すると、平泉寺内では出し抜いて信長に取り入ろうとする勢力のクーデターが発生

・これに対し、景経に取り入って以前の体制に戻そうとした主流派が、景経が一向一揆に襲われた折かくまったため、平泉寺自体がその標的となってしまい、天正2年(1574年)全山焼失、滅亡

・天正11年(1583年)美濃に逃れていた僧顕海が再興、豊臣秀吉や江戸期は福井藩、越前勝山藩などの崇敬を受け、6坊2ヶ寺の規模で存続

・寛保3年(1743年)、加賀白山比弯声劼箸陵権争いにようやく江戸幕府寺社奉行の裁定がおり、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は美濃馬場長滝寺が管理することとされ、白山頂上本社の祭祀権を獲得

・明治初年、神仏分離令により、寺号を捨て「白山神社」となり、寺院関係の建物は解体

・それにもかかわらず、明治5年(1872年)江戸時代とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道は、白山比弯声劼僚衢とされる

 

―以上、信仰史というよりは、ほとんど権力闘争史みたいなのが、平泉寺の歴史。

加賀の白山」という石川県側のキャッチフレーズにも、このような歴史背景があったんですな。。

それでは、実際に探訪するとしましょう。

 

白山神社という石標のある鳥居をくぐると、ゆるやかな石段の参道が始まる。

この場所は、信仰の場所としては「平泉寺白山神社」、史跡としては「白山平泉寺」ということになるらしい。

かつては両脇に多くの坊舎が立ち並んでいたのだろうけど、今はほとんどが失われ、参道は苔に覆われている。

この苔の美しさが喧伝され、梅雨時の今がベストシーズンと、多くの観光客が訪れている。

20180609平泉寺参道.jpg

今は社務所となっている旧玄成院の庭園は、北陸地方で最も古いとされ名勝指定。

ただし、発掘・整備をしないと当初の作庭意図は分からないくらい苔むしている。

まあ、作庭意図より苔の美しさの方が勝るかも。

20180609玄成院庭園.jpg

参道の半ばにある御手洗池は、平清水とも呼ばれ、泰澄が池中の影向岩に、白山の女神が出現するのを感得したと伝えられる。

平泉寺の名前の由来ともなった信仰上の重要スポット。

今も、その言い伝えを体感できる不思議な静けさをたたえている。

20180609御手洗池.jpg

平泉寺の寺院としての建物はまったく失われ、今は幕末に作られた白山神社の拝殿と、1795年(寛政7年)第12代福井藩主松平重富により再建された本社・大汝社・別山社が一面苔に覆われた杉木立の中につつましく建つ。

拝殿は、かつて三十三間もあったと伝えられ、発掘調査では四十五間の規模とも推定されるそう。

20180609平泉寺拝殿.jpg

さらに奥に進むと、石段は急になって三ノ宮の祠があり、そこから越前禅定道が始まる。

20180609越前禅定道.jpg

現在ここからたどることができるのは、法恩寺山を経て白山遥拝所の伏拝という地点まで。

この山域は登っていない山も多く、いずれしっかり登りたいエリア。

膝の調子が今いちの連れ合いは、石段の途中でポケモンGOをしながら待っていてくれた。

全然ポケモンが出てこないってグチっていたけど、女神は出現してもポケモンは期待できないかも。。

20180609ポケモン.jpg

(石川県白山市白峰につづく)

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北信の雄峰 高妻山・乙妻山

翌6月4日(日)は、Tuboさん、N君と、戸隠山の北に続く高妻山・乙妻山へ。

大坐小屋から日帰りできるのに「灯台もと暗し」、高妻山には20年ぶりくらい、乙妻山は初登り。

今回は、日本百名山3山目のN君を高妻山に案内し、「北アルプスデビュー」に向け技術指導するのが一番の目的。

戸隠牧場から昨日下山に使った一不動からのルートで高妻山・乙妻山に登り、下山は新しくできた弥勒尾根新道を下る計画。

20180603高妻山登山口.jpg

大洞沢に沿う戸隠牧場から一不動までのルートは、昨日の下りでも感じたけれど、近年の大水のせいで相当荒れている印象。

難所の滑滝や帯岩が、それほど影響を受けていないのが救い。

N君にとっては、鎖場通過の訓練。

20180603帯岩.jpg

一不動の避難小屋は、昭和の時代から変わらぬ姿。最近、トイレブースができ、以前よりは清潔になった。

登山道は、十三仏信仰に基づき、一不動から、二釈迦・三文殊・四普賢・五地蔵・六弥勒・七薬師・八観音・九勢至・十阿弥陀で高妻山に至り、十一阿悶・十二大日、そして十三虚空蔵で乙妻山に至る信仰の道にも重なっている。

20180603一不動小屋.jpg

標高1,747mの小屋から北に向かう稜線に取り付く。

とりあえず、1,998mの五地蔵岳までひと息に登る。

明治時代の廃仏毀釈の影響か、十三仏の各ポイントには、石の祠はあるが飯縄山や高社山のような石仏はない。

20180603五地蔵山.jpg

五地蔵岳を過ぎると、残雪が現われ、高妻山が大きな姿をみせる。登高意欲をそそられるね。

20180603高妻山.jpg

高妻山山頂(2,353m)に到着。白馬三山など後立山連峰が近い。

N君3山目の日本百名山おめでとう。まだまだお楽しみがいっぱいあっていいねえ。。

20180603高妻山山頂.jpg

そして、いよいよ、未踏の山、乙妻山(2,318m)へ向かう。

コースタイム1時間、けっこうアップダウンが多い。

十三仏のポイントは、均等に割り付けてあるのではなく、小ピークなどにあるので、後半は間隔が広くなる。

 

20180603乙妻山.jpg

乙妻山に向かう登山道沿いも、シラネアオイが見事。

N君に、シラネアオイのほかイワカガミ、ショウジョウバカマなど、基本となる高山植物を覚えてもらう。

20180603シラネアオイ.jpg

振り返ると、高妻山のきりっと引き絞られた姿が。やはり日本百名山は、伊達じゃないなあ。。

それに続く、戸隠山、本院岳、西岳の西斜面は、荒々しい東斜面と違い比較的おだやか。

20180603高妻山と戸隠山.jpg

残雪をキックステップで登りつめるのが結構きつかったけど、無事乙妻山に到着。

Tuboさん、N君お付き合いいただきありがとう。

20180603乙妻山山頂.jpg

稜線の西の果てに位置し、高妻山より灌木などが少なく360度の展望が得られるので、眺望は抜群。

特に残雪輝く後立山連峰が間近に展開して感動・感激。

手前に地味に横たわる、東山(1,849m)も、苦労して登っただけに眺めて飽きない。

こんないい山を登り残していたなんて、もったいなかったなあ。。

20180603後ろ立山.jpg

高妻山への戻りも、ほぼ同じくらい登り返しがあるので、疲れた身にはこたえる。

N君、後ろを見たら? 妙高山も火打山も雨飾山も日本百名山だよ!

20180603乙妻山からの戻り.jpg

ここまで快調だったN君、疲れもあったのか、膝をひねって、結構しんどそう。

帰路は、六弥勒からの弥勒尾根新道を下る。ブナの中の尾根道で岩場がなく、膝へのダメージが少なくてよかった。

17時過ぎ、戸隠牧場に到着、牧場のソフトクリームにようやくありつけた。これが食べたくて、頑張ったんだよねえ。。

食堂のおじさんに「乙妻山まで行って戸隠修験は満願だから」と言われてうれしかった。

N君、お疲れさん。課題も見つかったけど、大丈夫。7月には念願の「北アルプスデビュー」が待ってるよ。

20180603戸隠牧場.jpg

<登山記録> (―:車、…:徒歩)

2018年6月3日(日) 晴

大坐小屋4:50―戸隠牧場入口(駐車)5:55…登山口6:35…一不動避難小屋7:50…五地蔵岳8:55…高妻山11:10〜11:20…乙妻山12:30〜12:45…高妻山13:30…六弥勒15:50…(弥勒尾根新道)…戸隠牧場入口17:30―(帰路)

<メモ>

・帰って調べたところ、十三仏は江戸時代に盛んになった信仰のよう。

・江戸期の乙妻山は、現在の2,318mピークではなく、その手前の今は十一阿悶のある2,297mピークで、今の乙妻山は両界山といったけれども、神仏分離で「両界」(金剛界と胎蔵界)という密教の名前はまずかろうということで山名が移動した経緯があったのだそう。一方、高妻山の別名が両界山とされ、ややこしくなっている。

・長丁場にはなるけれど、乙妻山は、静かで高妻山より好展望なので、お勧めです。

| ぼっち | 日本4000山 | 06:31 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
シラネアオイの戸隠山へ

「北信五岳」と呼ばれる、妙高山、斑尾山、黒姫山、戸隠山、飯縄山。

そのうち、最も登山の難易度が高いのは、難所「蟻の塔渡り」で知られる戸隠山。

この難峰に、長野単身赴任中に北信五岳制覇をめざすYさん、日本300名山完登をめざす高所恐怖症のTuboさん、夏に「北アルプスデビュー」をめざす若きN君をご案内、シラネアオイが見頃となる6月梅雨入り直前を狙い登ってきました (ロ。ロ)5ドメデス

 

登山口の奥社は、新緑に包まれた社叢の巨木群が見事。観光客に混じって、ヘルメットを背に進む4人組。

20180512戸隠奥社.jpg

「蟻の塔渡りは、確かに落ちると滑落でなく墜落になる難所だけど、区間は短いから、格好をかまわず岩に這いつくばっていけば何とかなる。むしろ戸隠山の難しいのは、観光地みたいな奥社から1時間半くらいで、いきなり蟻の塔渡りが始まる心理的なギャップによる恐怖心にどう打ち勝つかじゃないかな」

「百間長屋という長細い岩屋を過ぎると、いきなり鎖場が始まるから、ヘルメット被ってね」

20180602戸隠山登山道1.jpg

「戸隠山は、かつての海底火山で凝灰質集塊岩でできていてもろいから、鎖や岩を信頼しきらずに、3点支持の基本を守ってね」

皆さん、案外うまく鎖場を登ってくるので一安心。

20180502戸隠山登山道2.jpg

いよいよ、蟻の塔渡り登場。脚のすくんだ先行のおばさんのおかげで20分ほど待ちとなる。

「右側にエスケープ・ルートもあるけど、そんなに安心できるわけじゃない。難所と言ったって20mほどに過ぎないから、むしろ、細い稜線をまたいでずるずる進んだ方が安全かも。腰を引かずに、前へ前へと進んだ方がバランスが取れるよ。もうすぐそこに八方睨みのピークが見えているでしょう、あの手前の樹林帯に入れば難所はクリア―だから」

20180602蟻の塔渡り.jpg

余裕のN君、身のこなしがいいYさん、一番ベテランだけど一番表情の硬いTuboさん、難所をクリア。

「登りより、下りの方が、脚がすくむかも。前に、西岳方面から10時間くらい八方睨まで歩いた後、この下りを見下ろした時は、けっこう怖かったなあ。今回は、一不動から戸隠牧場に下るから大丈夫。ただし、一不動の下りも鎖場があるから、覚悟はしておいて」

20180602八方睨みから.jpg

八方睨みで、ようやく遅い昼食。

N君に貸してあげたヘルメットに、人懐こい(?)アゲハチョウが止まってくれた。

八方睨から南に続く、本院岳、西岳(2,053m)。

信州百名山では、佐武流山、鋸岳と並んでもっとも難易度が高い山に、また昇りたくなってしまった。

20180602西岳.jpg

標高1,900mの八方睨の少し先に、1,904mの戸隠山の山頂がある。

頂きの雲が切れて、明日登る予定の高妻山、乙妻山もしっかり観察できる。

20180602戸隠山山頂.jpg

このあたりから、名花シラネアオイが登場。

薄紫の大輪の花が、登山道脇に続くのは、なかなかお目にかかれない美景。

戸隠山というと、トガクシソウ(トガクシショウマ)も有名だけど、登山道沿いで見ることはまずできないらしい。

20180602シラネアオイ.jpg

三角点がある九頭龍山の向こうに、奥社の参道と、その先に飯縄山が見える。

同じ信仰の山といっても、海底火山が隆起した戸隠山と、約5万年前まで活動していた火山である飯縄山の成り立ちは全く違う。

20180602九頭龍山と飯縄山.jpg

一不動の避難小屋から戸隠牧場に向け下山にかかる。

途中の「氷清水」の冷たさ、うまさといったらない。

20180602氷清水.jpg

一不動からの下山道も、気を抜けない。

最後に控えている帯岩のへつりや、滑滝の滑りやすい斜面を慎重にクリアしていく。

20180602帯岩.jpg

17時過ぎ、ようやく戸隠牧場に降り立つ。

北信五岳を制覇したYさん(狙っていなかったけど実はTuboさんも)おめでとう。

牧場の中に、トチの大木や、五地蔵桜など、立派な樹木がある。

おいしいソフトクリームにようやくありつけ、充実の一日が終了。

<登山記録> (―:車、…:徒歩)

2018年6月2日(土) 晴ときどき曇 メンバー:Tubo、Y、N、botti

自宅4:30―長野(Yさん合流)―奥社駐車場(駐車)10:00…奥社11:00…(途中20分停滞)…八方睨13:05〜13:40…戸隠山山頂14:00…九頭龍山14:55…一不動避難小屋15:50…戸隠牧場(Yさん帰途)17:45…奥社駐車場18:15―大坐小屋(泊)

 

 

| ぼっち | 日本200名山 | 21:44 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
三角点踏査―高戸山(795m)、大小屋、傍示松

ぼっち地元の山の会では、5か年計画で美濃地方の国土地理院一、二、三等三角点、七百数十を全数踏査する計画がある。

「国土地理院の三角点はあって当たり前なので、ついでに、岐阜県が重要な舞台となった御料局や山林局の三角点も調べて、その全容を把握すると付加価値が付くんじゃないでしょうか」とご意見申し上げたけど、新参者の意見は簡単に却下。

「まずは、会員の読図力を高める」ことを第一目標にするんだそう。。

ということで、年間ノルマの3地点―基準点名「串原村」「大小屋」「傍示松」の三角点踏査に行ってきました (ロ。ロ)/

 

最初の踏査ポイントは「串原村」。標高794.6mで、恵那市串原町(旧恵那郡串原村)の高戸山山頂にある。

串原町は、恵那市の南端で、矢作川を挟み愛知県と接している。

地図で見る限り、北側から山頂まで道路が通じているようだけど、せっかくだから矢作川河畔から尾根通しで登山することに。

取付き点は、矢作川右岸にある「釜井小公園」。

釜井は、旧串原村にあった集落で、矢作ダム建設とともにダム湖に水没、小公園は、そのメモリアル・パークのような存在らしい。

適当に尾根に取り付くと、お堂があって、文政五年の銘のある石仏が納められていた。

さらに進むと、古い墓や石仏がまとめて並んでいた。

たぶん、かつてあった集落を見下ろす位置に墓を移したんでしょう。

さらに進むと、「釜井の大まき」という巨木が登場。

ナラ科のアベマキの木で、推定樹齢350年。

立札の由来を読むと「大まき様」と呼ばれ、釜井のシンボル・ツリーのような存在だったとのこと。

何本もの大枝が折損して落ちていたけれど、何とか長生きしてもらいたいもんです。

大まきから先は、スギやヒノキの植林帯を踏み跡を拾いながら進む。

かつて松くい虫の被害があったようで、大木が何本も倒れているのをまたいでいく。

登山中展望はほとんどなく、建設省の通信用反射板の切り開きから、山並みが少し見えただけ。

美濃三河高原の山々は、準平原のため、ほとんど同じような標高で展開。

植林帯と雑木林が混じる尾根は、かつてはかなり歩かれていたようで、溝状にえぐれたところもある。

ドングリ類が多そうだけど、それがアベマキか、コナラかなんて見分けは全くつかず、修行不足を痛感。。

歩行1時間30分弱で高戸山山頂に到達。

有線放送の共聴アンテナがあり、未舗装ながら車道も通じている。

二等三角点の標石をたわしで掃除し、記録撮影。

次なる三等三角点、「大小屋」は、恵那市明知町の林檎園の先のヒノキ林にあって、大破した小屋の傍。

「傍示松」は明智町の田沢ダムの近くの山中にあって、地形があいまいなので、地図を片手にうろうろ。

登山用GPSでは三角点を特定できず、スマートフォンのアプリ「国土地図」が役に立った。

三角点の傍には、ちゃんと松が生えておりました。

「何でもない山」に登る機会はなかなかないもの。

そんな山に分け入ると、どうなっているか1年に3か所くらいなら、それを探る経験もいいかも。

<行程> (―:車、…:徒歩)

自宅4:30―(県道20号線・矢作第一ダム通過)―釜井小公園越波集落(駐車)7:25…釜井の大マキ7:40…反射板8:15…高戸山山頂8:55〜9:05…釜井小公園10:00―「大小屋」踏査10:30〜11:20―「傍示松」踏査11:40〜12:25

| ぼっち | ひとりごと | 06:30 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
名前で損してる伊吹山地の名峰―金糞岳(1,317m)

うんこ漢字ドリル」なんてのがベストセラーになる昨今だけど―

国土地理院「電子国土Web」で「糞」の字を入れて検索すると、山として出てくるのは、馬糞森山(青森県平川市:786m)、馬糞ヶ岳(山口県岩国市:985m)、そして伊吹山地の金糞岳(1,317m)の3山だけ。

 

そのうち、金糞岳は、岐阜県揖斐川町坂内地区と滋賀県長浜市浅井地区にまたがる伊吹山地第2の高峰で、滋賀県第2の高峰。

登山初級者でも楽しめる山だからと、今回ぼっちの山の会の「お試し登山」で計画したところ、どうも食い付きが悪い。

5月19日(土)の計画段階で応募者7名、雨天順延で20日(日)にしたら3人に減ってみんなベテランばかり。。

初級者を、いきなり「糞」の付く山へ連れて行くのは難しかったのかなあ。。

まあ、気を取り直して、この名前で損をしている名峰に登るとしましょう。

 

登山口は、坂内・浅井両地区をつなぐ鳥越林道沿いにいくつか開かれ、最短の鳥越峠からなら1時間強で山頂に立つことができる。

今回は、新緑の尾根歩きを楽しむため、滋賀県側の連状口を登山口とし、展望のいい西隣の白倉岳(1,270m)まで足を延ばす計画。

なお、鳥越林道の浅井地区側起点には、高山キャンプ場があり、ここから周回することもできる。

20180520高山キャンプ場.jpg

キャンプ場への橋のたもとに立派な案内図が設置されている。(↓クリックで拡大)

鳥越林道の標高約960mの尾根の先端が連状口登山口。

琵琶湖側に大きく展望が開け、ここまでドライブに来ている奈良ナンバー、大阪ナンバーもあった。

駐車場は4、5台で、「クマ出没注意」の看板。

20180520連状口.jpg

尾根伝いの登山道は、最初はミズナラやシロモジ、次第にブナが目立ってくる。

幹の太さからして、二次林なのだろうけれど、伊吹山やブンゲンをはじめ滋賀県側は、スキー場開発や植林などで魅力を失った山域が多いから、この広葉樹林は貴重。

20180520ブナ.jpg

小ピーク小朝頭(1,081m)を過ぎると、金糞岳が顔を表す。

20180520小朝頭からの金糞山.jpg

大朝頭(1,073m)からいったん下ったところで、鳥越林道からの最短ルートに合流。

20180520鳥越峠からの合流点.jpg

健脚ぞろい3人組なので、合流点からゆっくり景色を見ながらでも40分ほどで金糞岳山頂に到着。
これだけの山なのに、山頂には三角点はない。

展望があまりきかないと聞いていたけれど、北と南のササが最近刈り払われていて、視界が結構確保できる。

20180520金草山山頂.jpg

北東方向には、蕎麦粒山、能郷白山、白山が重なり合うように見える。

20180520金糞岳山頂の展望.jpg

金糞岳を後に、二等三角点のある西側の白倉岳まで足を延ばす。

風雪がまともにぶつかる場所に位置するのか、ササばかりで樹木はなく、稜線上は見晴らしがいい。

20180520白倉山へのルート.jpg

西寄りの分、滋賀県側の展望はすばらしく、伊吹山、琵琶湖とその周辺の山々が展開。

今回来られなかった、お試し希望の方を連れてきてあげたかった。。

20180520琵琶湖側展望.jpg

金糞岳は、姉川の支流、草野川の源流で、その谷には古い鉱山跡があり、また北西山麓には金居原の地名もあることから、山名は、鉱石を溶錬するときに生じる滓=「金屎」に由来するとされる。

また、揖斐川源流部の金草岳(1,227m)も、別名は金糞ヶ岳で、北山麓に芋ヶ平(鋳物師の集落跡)があることから、鉱山と関連するとする説がある。

類似の山名では、岐阜県関市・美濃加茂市・坂祝町にまたがるカナクズ山(142m)があり、これも金屑に由来しているとの説がある。

昔から山と深く関わる職業として、杣人、山伏、マタギ、木地師などとともに、鉱山事業に従事する山師もあった。

山修行を続けていけば、山師の痕跡に、これからも出会えるかもしれない。

 

<登山記録> (―:車、…:徒歩)

2018年5月20日(日) 晴のち時々曇  メンバー:Su、H、botti

大垣駅(集合)6:55―高山キャンプ場7:55―連状口(駐車)8:25…小朝頭9:00…大朝頭9:12…鳥越峠への分岐…金糞岳山頂10:00〜10:15…白倉岳山頂10:55〜11:25…金糞岳山頂11:55…分岐12:25…小朝頭12:50…連状口13:15―関ヶ原駅(解散)

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| ぼっち | 「岐阜百名山」勝手に選定委員会 | 20:59 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
中国地方西部の山巡り(番外)−山口のOFF TIME

広島県宮島から、十種ヶ峰を経由して、山口県萩市へ。

山口県というと海のイメージが強いけれど、内陸を縦断してみると山また山だった。

目に付いたのが、黄色に塗られたガードレール。

独自の交通安全思想があるのだろうか。。

萩市内にたどり着いたのは5時近く。

藩主毛利氏の墓所がある東光寺を、何とか閉門前に訪れることができた。

黄檗宗の禅寺で、3代藩主毛利吉就が元禄4年に創建し、奇数代の藩主の菩提所となっている。

山門や大雄宝殿などが、創建当時のまま残されている。

ちなみに吉就は、元禄7年、27歳の若さで急死し、ここの墓所に葬られたそう。。

17時過ぎに萩市の宿泊先「芳和荘」に到着。

巨大な建物は、大正年間のもので、かつては遊郭だったそう。萩市重要景観建造物にも指定されている。

歴史物に目がない連れ合いは、いたく気に入ってくれた。夕食なし・朝食付で税込一泊6,100円とお値打ち。

今のご主人は、この巨大な施設を、どうやら一人で切り盛りされておられるよう。

そんな中で、掃除などできる限りの手入れを尽くされていることが、床や階段のつやからも伝わってくる。

まずは夕食を求めて、萩市内をぶらぶら。

灯台のある建物にひかれて「萩心海」という店に入ってみる。店の中央には大きな生簀。

イカの活造り定食を注文。透き通ったイカ刺しがうまい。

残った脚などは、天婦羅にしてくれた。これがまたビールに合う。

腹ごなしに、遠回りして萩の武家屋敷をぶらぶら。

明治の元勲たちの生家などが並ぶけど、それがどんな人か、あまりよく分かってないことが露呈。

翌朝、珍名の山:行者様を登り終え、8時に戻ると、ご主人が塩鮭を焼く時間まで調整してもらった朝食をおいしくいただく。

いろいろお世話になりました。

 

帰路は、ぼっちが訪れたことのない最後から2番目の県庁所在都市、山口市に立ち寄る(ラストは水戸市)。

国宝五重塔11基のうち、ぼっちが見たことのない最後の瑠璃光寺の塔を拝む。

塔の写真を撮ろうとしたら、地元のボランティアガイドの女性が塔の前で「山口は、小京都じゃなくて『西の京』なんです。この塔が建てられた当時、京都は応仁の乱で荒れ果てていたのに、山内氏の山口は貿易で京都以上に繁栄し、ザビエルがキリスト教を布教したのもここ山口だったんです。この塔は法隆寺、醍醐寺の塔と並んで『日本三名塔』と呼ばれていて…」などと熱く語り続けられ、ガイドさん抜きの画像は撮影できず。。

(個人的には、海住山寺羽黒山の五重塔が好みかも。。)

 

さあて、奥地君それでは岐阜県まで700kmあまり、安全に帰ろう。

(余談)

山口県のガードレールが黄色いのは、昭和38年の山口国体に合わせて、特産の夏ミカン色にしたからだそう。

・そういえば、萩市内は夏ミカンの花盛りで、武家屋敷にもその香りが漂っていた。

| ぼっち | OFF TIME | 20:32 | comments(0) | trackbacks(0) | にほんブログ村 アウトドアブログへ←アウトドアブログのランキングです クリックよろしく!
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